第10話 ユネスコ道徳教育研究所

 人形らが目の前から謎の現象で消えてから、同僚女性はその直前の記憶を思い出していた。


『それでは美来様。ごきげんよう!』


 人形は笑っていた。穏やかに笑った。それも仲良く会話していた時に見せたものと同じ類のものであった。


 茫然ぼうぜんとしていたところにISEからスタッフが駆けつけてきた。爆音に異常事態を察してのことだった。駆けつけるスタッフを見て同僚女性はわれに返った。


「で、でんわ、そうよ、連絡」


 ぼそぼそと声を出した。頭はすぐに回らなかったが声に出してみる体温がめぐり始めた。


「……だめ、つながらない」


 青年と人形に電話をかけたが女性の自動案内音声が聞こえるだけだった。数人のスタッフが駆けつけたが特にめぼしい被害は見受けられなかった。同僚女性が汗をびっしょりかいていること以外は。

 一人のスタッフが大きな音を聞いて確認しに来たことを伝えた。


「研究対象が消えたわ」


 その言葉を聞いたスタッフ全員が顔に焦りの色をうかべた。


「とりあえず、何の被害もないけど、とりあえず上司に状況を伝えるわ」


 同僚女性はここで寒気を感じた。ある程度の理性を取り戻し、汗が体温を奪っていることに気づいた。スタッフの一人にタオルを取ってきてもらうよう命令してエントランスホールに引き返した。

 彼女の上司、もといISEの上層部は二駅離れた場所のビルにいる。連絡を取るときはいつも電話だった。コール音を鳴らしながら同僚女性は南西に延びる棟にあるキッチンに入った。


「もしもし、お疲れさまです。美来です」


「あぁ、おつかれさま、どうかした?」


 男の声が聞こえてきた。喉にたまった脂肪が声をせき止めているかのような響きを持っていた。同僚女性は目の前で起こった信じられない出来事を見たままの印象で伝えた。


「……そうか、あれはそんなこともできたのか」


「……スマートフォンは持たせているので、もしかしたら居場所は分かるかもしれません」


「そんなことをしなくてもおおかた、京都にでもいるのだろう」


「……」


 同僚女性は何となく違和感を感じた。上司の余裕な態度は球体関節人形がそもそもしゃべれることからくる一種の現実逃避なのか。あるいはと思い彼女は聞いた。


「失礼とは存じますが、ご存じだったのですか?その、超能力じみたことを」


「知らなかったよ、今回のことはね」


 同僚女性は腹が立った。こういう上に立つ人間特有の右も左もはっきりしない物言いが嫌いだった。左デジャブをくらわして、右ストレートを叩き込み、まずは左右の違いを教えてやりたいと思った。


「そもそも美来君、人形が会話できる時点でおかしな状況ではないか。突如としてパリに現れ、世界遺産を巡りたいなどと意味不明なことを言う。おまけに向こうで一年過ごす間、地面から植物を生やし、その人しか知りえないことを話し、はてはスタッフの恋の手助けをすると言い出してゴムを持ち出したり、なんでもありさ」


 同僚女性の推察は二つとも当たっていた。人形には特異な力がある。そして自身が到底到達しえない高みのものに唾を吐くようなルサンチマンを感じた。


「美来君は今素晴らしい仕事についている。人形の謎を解き明し、人類の役に立ててくれたまえ」


「……かしこまりました。しかしなぜ教えてくださらなかったのですか?本部から送られてきた資料にも、あなたからもお伝えになられてないのですが」


「あれの近くにいる者には警戒してほしくないのだよ。有益な情報を落としてもらうにはまずは信用からだ。パリではスタッフ全員が萎縮してしまったがために人形は読書にふけってしまった。それにね、間接的にだが君らに伝わるようにと思考を凝らして用意したものがあったのだよ。あの放蕩ほうとう男は気付かなくても美来君なら気付いてくれると思ったんだがね」


「用意したもの?なんですかそれは」


「その建物、そのものさ」


「そうっすか、気付いてましたよ、私はてっきりしゃべる人形だからだと思ってましたけどね」


 同僚女性はしゃくさわる話しぶりに、口調が乱れはじめた。

 ユネスコ道徳教育研究所Institute for Spiritual Educationの道徳部分だろうと同僚女性は思った。道徳を英語にするならモラルmoralである。人形の魂を指したスピリチュアルを尊重したとしても、本部の内密にという意向をくんで道徳などとあてがったのだろうと考えていた。内密にしたいならスピリチュアルなんて厄介な解釈が入る言葉を使うなと思っていた。

 道徳spiritualから先のような超常現象を連想しろなど、飛躍しすぎだと彼女は唇をかんだ。


『きっとこの名前を付けた連中は女をベッドではべらせ、ドラッグでもキメながら考えたんだわ』


 電話の向こうでそう思われているとも知らずに上司は続けた。


「ハッハッハ!さすがだね、まあ、そういうわけだ。よろしく頼むよ。予定通り美来君はそこから支援するわけだし、おそらく人形が人に危害を加えることはなさそうだから、そこは安心してくれたまえ。優秀だから、無茶はしないでくれよ」


「かしこまりました。いただいたアドバイスに従って引き続き監視していきます。……っは、はい……はい……はい、それでは失礼します」


 最後の方は上司の下心が見える話だった。それは聞き流し通話の終了ボタンを押しつぶした。同僚女性は青年のことを考えていた。『君は』の部分が別の誰かを意識した言葉だったのは明白である。


「アドバイスか……確かに大事なアドバイスだったな」


 彼女の口調は小学校から続けてきた空手の道場にいるときのものになっていた。


「『有益な情報を落としてもらうにはまずは信用からだ』か。従うさ、薄らハゲなりに学んだことなんだろう?ならきっと真実だ。大いに活用してやるよ」


 同僚女性は冷蔵庫から水が入ったペットボトルを取り出した。以前、青年が頑張って買いに行って飲まれなかったものだ。一口に半分は飲み切るとキッチンを出た。エントランスホールからタオルを持ったスタッフが駆けつけた。


「ありがとう。これから、研究対象に起こったことを皆さんに説明します。北棟一階の一番大きい会議室にスタッフを集めてきてください。」


「はい!」


「……やっぱり、投げ技で右左に転がしたほうがいいかしら」


「はい?どうしました」


「ん?ん~や、なんでもない!」

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