今だけを生きる人

フォレイスタ

第1話完結(短編小説)

人間の苦悩は気体の塊のようなもの。ある空間に注入された一定量の気体のようなものだ。空間の大きさにかかわらず、気体は均一にいきわたる。それと同じように、苦悩は大きくても小さくても人間の魂に、人間の意識にいきわたる。

ヴィクトール・E・フランクル. 夜と霧 新版. 株式会社 みすず書房.


 一人の家出している少年が神社の本殿の階段で泣いていた。神社は小さく、表に建っている鳥居も必要最低限の大きさだった。また、山の上にあり参拝客はほとんどいない。お賽銭箱に大したお金も入っていないし、お守りや絵馬を売る小さな売店のシャッターも閉まりきっている。しかし、境内に植えてある松の木や灌木はきれいに整えられている。足元にある石畳も丁寧に掃かれていて、数枚の落ち葉さえ浮いて見える。そんな綺麗でこぢんまりとした神社の本殿の階段で少年はひとり泣いていた。

 そこに一人の身なりの汚い男がやってきた。男はその静かで人がほとんど現われない神社を気に入っていて、ここしばらく休憩場所として使っていた。男は一度少年を無視して塀の陰に寝転がった。そして起き上がって少年の所にやって来た。

 「どうしたんだ」男は言った。

 その男は道ばたで暮らしている身で他人の心配なんてできる立場じゃないし、何も持っていないのだから少年にしてあげられることなんてほとんど何もなかった。着ている服も靴も少年の方が綺麗でまともな物を身につけている。体も長い間風呂に入っていないその男に比べれば清潔だ。少年はきっと彼ほど飢えている訳でもいない。男には余裕のよの字もなく、明らかにその男に必要なものの方が多かった。

 「うるさい、おじさんなんかに分かるもんか」少年は顔を上げて言った。そして僕から離れるように階段の端に寄って再び顔を下に向けた。

 「お腹、空いてんだろう。これでも食べなさい」僕は久しぶりに手に入れた消費期限切れをしていないおにぎりを少年に差し出した。

 「それ、おじさんのご飯じゃないの?」

 「僕はいいよ。辛いときはなんか食ったら元気が出るぞ。だからまずこれでも食べて泣きやみな」

 少年は僕を疑う目で見たが、まあいいやと目元の筋肉を緩めた。

 「いいよ。おじさんが食べなよ」

 「毒が入っているのか不安なのか。なんなら先に僕が半分食べてみせてやろうか?」と男が言うと、そういうんじゃないよ、と言って少年はおにぎりを手に取って半分に分けた。

 「おじさんのぶん」少年はそう言って片方を男に差し出した。

 「ありがとう」一拍おいて彼は言った。

 僕と少年はおにぎりを食べている間は話さなかった。2人とも黙ったまま食べていた。少年はその間さっきよりも涙を流していた。

 男は誰かと一緒に飯を食らうのが久しぶりだったせいか、心がなんだかぽかぽかとしていた。心の電源はとっくの前に壊れてしまったと思っていた。もう電源の入らない壊れた心をどこかに捨ててしまっていたと思っていた。でもまだ心は生きていてそれは男の胸にちゃんと残っていた。

 しかしその時感じた温かみは心が力を振り絞って発した最後の熱だったのかもしれない。その後、心の電源が入ることはなく、過去の記憶もどこか手の届かないところに置いてきてしまった。あるいは、それは電源の抜かれた心の中に眠っているのかもしれない。



 僕は今日も朝早くからゴミ箱の蓋を開けて中を確認していた。早朝は人の目が少なく、警察に通報される心配もない。この時間帯の内に金になるものや弁当の売れ残りや食べ残しを探す。金になりそうなものは金品回収屋という怪しげな組織が運営している店に持って行き十円硬貨1,2枚と換えてもらう。ゴミ箱に捨てられた食べ物がまだ食べられるかはニオイを嗅げば大体の判断はつく。分からないときは一旦舌の上に置いて確かめてみる。それでもお腹を壊したことはない。

 まともな食事をとっていないと栄養が不足して、身体がもたないと思われるかもしれない。だが人の体は不思議なもので1日に食べるものが2口ほどのパン切れと水だけの日が何日か続いても簡単に死にはしない。むしろ肌には張りがあったし、血色も健康的な人とさほど変わらなかった。

 しかし、一日一日を生きているのがやっとで常に金と食べ物のことを考えていた。一度こんな生活を始めるともう二度と元の生活には戻れない。戻りたいと考えることすらなくなってしまうからだ。その変わり未来に不安を抱くことも過去のことを後悔することもなくなる。今この瞬間に起きていることしか感じることができなくなっていく。

 そうして男はいつの間にか自分が誰なのかも分からなくなっていた。名前を聞かれても出てこない。

 僕は誰だろう。僕はいつからこんな生活をしていたんだろう。僕はどこからやってきたのだろう____。

 ゴミ箱の中身を大方あさり終えると、ボクは地面に降りた。一瞬体と目に映る世界にいつもと違う感じがした。しかしそれらはすぐに目が自然と焦点を合わせるようにすーっといつもの慣れた感覚に戻っていった。少し立ちくらみをしただけみたいだ。

 路地から顔を出すと通学する子供や通勤する大人が道を歩いていた。ボクは路地に戻り、塀を上って裏道に出ることにした。そのままできるだけ人が通る道を避けて歩いていくと、雑草が茂っている小さな公園に着いた。これまで寝る場所を求めて町のいたる所を歩き回ってきたがこんな公園を見たのは初めてだった。青いプラスチック製のベンチと滑り台だけが置いてある。ベンチは日に焼けて白くなっていて、滑り台は塗装が剥げた部分が真っ黒に錆びている。

 ボクはベンチに飛び乗って腰を下ろした。

 この場所だけが人の世界から隔離されているみたいだ。ここでは車の音も人の声や気配も全くしない。

 しばらくその場所でくつろいでいた。秋の日差しは温かくて気持ちがよく、横から吹く柔らかい風が肌をなでる。ウトウトしてそのままボクは眠りに落ちた。

 「ほれ、起きなさい」ボクはそのしわの生えた声で目が覚めた。

 寝ている邪魔をするな、と顔を上げると、ボクは隣にいた生き物の威圧感に押されて一歩後ずさりした。そこには1匹の大きな老猫が立っていた。このボクと変わらないほどの大きさだ。人と同じサイズの猫なんて存在するのか。

 「お前さん、こんなところで暢気に昼寝なんてしてて良いのかい?」大きな猫は薄く開いた瞼の隙間からボクを見ていた。

 「どこで寝てようと勝手だろう。ここはお前の土地だとでもいいのか?」そう言いながらボクははっとした。「あんた、人の言葉話せるのか?」

 老猫はゆっくりと瞼を閉じて、開いて言った。「まだ何も分かってないみたいじゃな」

 言葉を話す大きな老猫をまじまじと見つめていると、その老猫は続けた。

 「自分の手を見てみなさい」

 自分の手?僕は手を目の前に持ってきた。目にしているものは確かに自分の手だ。それは至極当然で自分の手以外のなにものでもなかった。老猫はボクをからかっているのだろうか。

 「手を見てどうしろって言うんだ」

 「何も気づかないのかね。ただ見るだけじゃなく、もっと頭を使ってよ~く見てみなさい」

 「ボクを馬鹿にしているのか。そもそもボクは人間だぞ。猫が人間に向かって頭を使えだなんておかしいだろう」

 「いいから見て何かに気づきいたらどうなんじゃ」

 ボクはしばらく自分の手を眺めたが、やはり気づくことなどなにもない。そこにあるのはやはり自分の手だ。5本の指があって、手のひらに肉がついていて、出し入れできる爪がある。

 「やっぱりあんたはボクを馬鹿にしているな。気持ち良く昼寝しているところを起こしておいて訳の分からない老猫の相手なんてしたくないね」

 ボクは立ち上がってベンチから降りて公園から出ようとした。

 「最後にもう一つだけ質問じゃ。お前は人間か、猫か、どっちじゃ?」

 「人間に決まっているだろ。だからボクはこうやって2本足で立っているんだ」

 そう言ったボクは、_______4本足で立っていた。

 その時ボクは気づいた。ボクがいつの間にか猫になっていたことに。そしてそのことに気づきもせず、違和感も感じていなかったことに。老猫が人のサイズなのではなく、ボクが猫になって体も小さくなっていたのか。

 「どうなってるんだ」ボクは早口になって言った。

 「お前さんは見たとおり、猫になってしまっておるんじゃよ」

 「いつの間に、ボクはいつの間に猫になんてなっていたんだ」

 「それは、正確には分からんが、しっぽを見ればまだそんなに時間は経っていないじゃろうなあ」

 自分のお尻を見ると、そこにはまだ生えかけのしっぽが生えていた。老猫によると猫になってから時間が経つごとにそのしっぽは伸びていくそうだ。だいたいの目安で半日、12時間くらい経ってしまうと完全に伸びきってしまう。そして完全に生えきってしまったら、もう二度と人に戻れなくなってしまうそうだ。

 ボクのしっぽはまだ半分も生えていなかった。まだ少しの猶予がある。でもどうしてボクは猫になってしまったんだ。どうすれば人間に戻れるんだ。

 人間に戻りたい。

 「あんた何か知っているんだろう、知っていることがあるんなら言ってくれよ。人間に戻るにはどうすればいいんだ」ボクは言った。

 老猫はしばらく空に掛かる切れ目ない雲を眺めた。

 ボクが焦れったくなり口を開こうとすると、老猫は話し始めた。

 「お前さんはどうして人間に戻りたいんじゃ?」

 「どうしてって。そりゃあ元々人間だったんだから元の姿に戻りたいに決まっているじゃないか」

 「お前さんのこれまでの生活はきっとわしら野良猫と変わらん生活をしておったんじゃないのかのう」老猫は言った。

 確かにボクはずっと長く野良猫みたいな生活をしていたのかもしれない。もう5年以上孤独に野良人として過ごしていた。家も金も持たず、人間社会から毎日隠れるようにして生きてきた。初めは辛かった。でも時が経つにつれて次第にそんな生活には慣れていった。

 「人なのに人としての権利を使わないのなら、人に戻っても戻らなくても大した問題はないじゃろう。お前さんは人であるときにある権利を放棄していたんじゃ。人間であることで持てる権利をお前さんは放棄したものだから、お前さんは猫になってしまったんじゃ。人間である必要がなくて、猫で十分だということじゃ。当然と言えば当然じゃないのかのう」

 老猫は続けてボクに人と猫の違いを語った。

 野良猫というのはその時々の欲望に従って現在だけを生きている。獲物を見つけたら追いかける。眠たくなったら眠る。反対に、人間は今だけを見て生きてることはいない。過去を振り返りそこから遠い未来も見通すことができる。つまり人間は過去と未来を持っている。逆を言えば、過去と未来を持っているから人間なのだ。人間でありつづけるためには左手で過去を掴み、右手で未来を掴んでおく必要がある。それがおろそかになれば人から猫におっこちてしまう。

 その説明を聞いてボクは自分が受けたこの仕打ちに腹が立ってきた。ボクはなにもその日暮らしをしたくてしていた訳じゃないんだ。

 過去も未来も捨てたくて捨てていた訳じゃないんだ。

 毎日毎日がやっとで生きていたんだ。

 そんなことを考える余裕なんてなかったし、考えれば絶望するだけだった。

 それなのにボクは人間である権利さえも奪われることになるなんて。

 「それはあんまりじゃないか」ボクは言った。

 「踏んだり蹴ったりじゃなあ」老人は頷いた。「じゃが、きっとこれはお前さんが助かるための機会だとも捉えられる。人であるから辛いということもある。鼻から現在だけしか見れなくしていたら余計な苦痛を味わわなくても済むんじゃからな」

 目を閉じてよく考えてみなさい、と言って老猫は一息ついた。

 ボクは目を閉じた。このまま猫として生きるか、人に戻って人として生きるかをしばらく考えてみた。想像してみると猫として暮らすも悪くないという気がした。

 でも、ボクは人間に戻りたい。戻らないといけない。

 今しか考えられないなんて虚しくないだろうか。過去の思い出を懐かしむことも、未来に希望を抱くこともできないなんて悲しくないだろうか。

 それじゃあ生きていることで得られる本当の価値を味わえないじゃないか。

 本当の価値_____。

 本当の価値っていったいなんだろう。

 目を開けるとさっきまでいた老猫はいなくなっていた。あまりに自然で違和感を残さずに姿だけが消えていた。後から記憶を上書きされたような、先のやりとりが自分の妄想であるような気さえした。しかしベンチの上には老猫から抜けたであろう白い毛が数本落ちていた。

 その毛をつまもうとすると風が吹いた。毛は浮かび上がり、どこかに飛んでいってしまった。もうそこには何も残っていなかった。


 結局人に戻る方法は分からないまま、街に出て他の猫に聞いてみることにした。

 猫の身体というのは小さく柔らかく、どんな狭い場所もするりと通り抜けることができた。そうして、人目のつきにくい建物の隙間や陰を歩いた。人間だったときよりもずいぶんと移動しやすかった。

 猫になって気づいたが、街には野良猫が至るところにいた。人の目線には入らない所をすばやく行き来していた。しかし彼らは声を掛けてもボクに反応することなくどこかへ行って見えなくなる。みんな自分以外の他のことには関心がないのだろう。

 昼はとっくに過ぎていて、ボクのしっぽはもう半分まで生えていた。ボクは歩く足を速めた。

 大きな道路に沿って古い建物がずらりと並んでいる道を歩いていた。そこに一匹の三毛猫がシャッターの閉まっているスナック店の植木鉢の陰から顔を出していた。道路側を眺めながら、あまり落ち着きのない様子で座ったり立ったりを繰り返していた。

 「聞きたいことがあるんだけどいいかな?」ボクは三毛猫に近づいて言った。

 「なんだ、オレはいま忙しいんだ」三毛猫はボクをちらっと見て再び道路側に目をやった。

 「何をしてるんだ?」ボクは聞いた。

 「道路の反対側に戻るチャンスをうかがってるんだよ。さっき道路を横切ってこっちまで来れたんだけど、今度また向こうに戻ろうと思っても戻れなくなってしまったんだよ。でかい物体がぶんぶんこの道を通り過ぎるから一向に戻れないんだよ」

 「この道の先に信号機か横断歩道があるはずだからそこで渡ればいいんじゃないか」

 「オレの家はこの道路を挟んで奥に見える公園なんだ。あそこに行くにはここから真っ直ぐの方が近いに決まっているだろう。どうして遠回りしないといけないんだ」

 この三毛猫には何を言っても無駄な気がした。そんなことより、ボクは人に戻る方法を探す必要がある。ボクは三毛猫にそのことを聞いてみたが、知らないという答えが返ってきた。

 「人になる方法なんてあるのか。なれるならオレも人になってみたいね。そしたら飯がいっぱい食えるじゃないか。オレはいつも腹ぺこで死にそうだ」

 三毛猫は何も入っていない口をくちゃくちゃと鳴らして噛み始めた。噛む動作をすると少しだけ空腹感が紛れるのかもしれない。

 ボクもお腹が空いていた。今日は朝から飯にありつけずに何も口にしていなかったし、昼寝の後ボクはずっと歩き続けて疲れていた。

 「お、あれはネズミか?」三毛猫は顔を前に突き出して言った。三毛猫が向く方向に目をやると反対側の歩道の排水口の近くでネズミが顔を出していた。

 三毛猫は立ち上がった。目つきが変わり、よだれをだらだらと垂らし始めた。そして視線をしっかりと獲物に定めて、クラウチングスタートを切るかのような構えをした。

 「おい、危ないぞ。まだ車が走ってるぞ」ボクは三毛猫を止めよう言った。

 しかし、三毛猫は全力で地面を蹴って道路に飛び出した。

 次の瞬間、ゴンッという音をたてて車が三毛猫を轢き飛ばした。三毛猫はぐるぐると回転しながら宙に飛ばされ、地面に無残に叩きつけられた。反対側の歩道に目をやると、ネズミは猫の姿を見て逃げ出していた。

 ボクは数秒の黙とうをさっきまで話していた三毛猫に捧げて、その場所をあとにした。

 しっぽはもう8割くらい伸びきっていた。日はだいぶ傾いて、ボクの陰は細長くなっていた。

 ボクは走った。

 早く人に戻る方法を見つけないと。ボクは時間を気にしながら、また別の野良猫数匹に話を聞いて回った。しかし、やっぱり返ってくる答えはみな同じだった。だれもそんな方法を知らないし、聞いたこともなかった。

 ボクはやみくもに野良猫に聞き回るのをやめて、自分がよく通っていた道や休憩に使っていた場所を見て回った。公園、橋の下、ゴミ置き場、廃校、高架下、など。


 太陽は西の山に沈み始めていた。もうすぐ日が暮れる。

 街の中や近く周辺はもう全て見終わった。ボクは最後に山のふもとに向かって歩いた。その場所は、むかしこの場所に来た初めの頃、昼寝する休憩場所として使っていたと思う。そんな気がするだけでその場所に何があったのかは覚えていない。それでも居心地が良かったことだけはよく覚えている。

 感覚だけを頼りに坂道を上ってたどり着いたそこには小さな神社があった。辺りはもう暗くなっていた。境内の立灯籠の明かりが入り口から覗き見えた。小ぶりな鳥居をくぐって境内に入ると綺麗に整えられた庭があり、その先に本殿が建っていた。後ろを振り返ると夜の町が広がっているのが見えた。町は無数の明かりで輝いていて、その先にある海のところは暗くて黒い。その暗い海の向こうにある遠い町の明かりもよく見えた。

 きっとこの身体ではもう向こうの町に行くことなんて二度とできないだろう。

 結局ボクはなにも見つけられなかった。しっぽはもうほとんど完全に生えきっている。これからはずっと過去も未来も持たないで、現在にだけ目を向けて生きることになる。ふと車にはねられた猫を思い出して胸がゾッとした。あの猫も元々は人間だったのかもしれない。

 太陽が完全沈み、夜になった。

 人間だった頃の記憶がなくなっていくような気がした。夜の闇がボクの人間だった記憶を奪い去っていく。誰か助けてくれる者はいないか。辺りを見渡したが、人も猫もいない。耳を澄ませても、神社を覆っている浅い森林の木々が風に揺れる音と、鈴虫の鳴く音だけしか聞こえない。

 記憶がどんどん夜の闇の中に消えていく。ここで失えばもう二度と取り返すことができないことを予感した。ボクは呼吸が荒くなり、変な汗が額から流れてきた。ボクは境内の隅に行って土を掘り始めた。ひたすら土を掘った。自分の体が収まるくらいの大きさの穴を掘ろうとした。しかし手が小さくてなかなか土を掘り出すことができない。

 ボクは手を動かし続けた。夜が明けるまで穴の中に身を隠し、闇にボクが人間だったという記憶を奪われないようにしたかった。

 少し深くまで掘れたところで、ボクの爪はギシリと硬い石をひっかく音を立てた。大きな硬い石が下に埋まっていて、ボクはもうこれ以上深くは掘れなかった。穴はボクの体の半分の大きさもなかった。

 ボクは本殿に釣られた灯籠の明かりの下まで行った。少しでもこの深い闇を体から払い落としたかった。空はぶ厚い雲に覆われていた。

 ボクは空に向かって泣いた。ひどくみっともなく泣いた。

 ずいぶん時間が経っていたと思う。ボクは泣き疲れてぐったりとしていた。辺りが少し明るくなっている気がした。見上げると空は上空で吹く風が分厚い雲を押し出して、明るい月が姿を見せ始めていた。

 見上げた顔を下ろすと、一人の参拝客が来ていた。その参拝客はちょうどボクがいる本殿に向かって歩いていた。近くまで来て、まだ若い青年だということが分かった。彼はだいたい高校生か大学生くらいの年頃の青年に見えた。その青年は本殿の階段の上に座っているボクに気がついた。

 「お、夜中に黒猫か。縁起がいいですね」にっこり笑って彼は階段を上りきり、手をあわせて数秒拝んだあとボクの隣に座った。青年はボクに親しみを持っている様子で、ボクもこの青年を警戒しなかった。

 「ひとりぼっちで寂しくないですか?」青年はボクに言った。

 ボクはミャーとだけ反応した。

 「そうですか」青年はそう言ってボクの背中を撫でた。

 空に浮かぶ雲は完全に風に流されて、月が完全に姿を現していた。今日は満月だった。

 それからボクと青年は一緒に月を眺めた。一緒に静かな涼しい夜の空気を吸って、心が安らぐのを感じた。ボクが少年のマネをしている訳でもないし、青年がボクのマネをしている訳でもない。この居心地いい場所にいると、きっと誰しもがそうするだろうと思った。美味しいものを食べるときや、心地良い音楽を聴くときに自然と目を閉じるように。無意識にボクと青年は同じことをしていた。

 「僕もね、野良として生きていたときが何年か前にあったんです。ただの家出なんだけどね」青年はにこりと笑って言った。

 「僕は家族に嫌われていて、全く相手にしてもらえませんでした。必要としてくれなくて、愛してくれなくて、そのまま家を出て行きました。きっと親たちも僕が早く家を出て行くことを望んでいました。僕もあんな家、早く出て行きたかったので自分から出て行きました」

 ボクは時折うなずきながら、青年の言葉を黙って聞いていた。

 「でもね」青年は続けた。「本当は探しに来て欲しかったんです。2週間近く自分が住んでいた町とは違う町で一人で野宿していました。一人でいるあいだ僕はずっと世界から僕だけが見放されていると感じて酷く悲しい気持ちになりました。胸が真空になったみたいでした。そして僕はこの神社のこの階段で泣いていました。今考えれば馬鹿な話ですね、自分から出て行っておいて」少年は笑った。

 僕がミャーミャーと言って答えると、青年はありがとうと言った。

 「そういえば、お腹空いてない?」そういうと青年は神社の外にあるコンビニまで行って魚肉ソーセージを2本僕に買ってきてくれた。

 ボクは夢中になってそれをむしゃむしゃと食べた。2本目も食べ終える頃にはボクは嬉しくて目から涙が溢れていた。

 「お腹、膨れましたか?」

 ボクはミャーと返事をすると、青年は「良かったです」と言ってにっこり笑った。

 「実はボクもここで泣いていたときに、全く知らない人に食べ物を分けてもらったことがあります。その人にはとても感謝しています。彼のおかげで今日の僕があると言っても過言ではありません。そのときもらった食べ物は確か____、おにぎりでした」


 僕とおじさんはおにぎりを食べ終わりました。僕は家出してから初めて人に親切にしてもらって泣いてしまっていました。おじさんは優しく背中をさすってくれました。

 「それで、どうしたんだ?何か辛いことでもあったのか?」おじさんは僕に寄り添って聞いてくれました。僕はおじさんに家族から疎まれていること、家で孤独感を味わっていたこと、それで家出してきたことなどを全て打ち明けました。

 おじさんはその話を聞いて泣いてくれました。

 「ちきしょーー、お前も辛いことがあったんだなあ」おじさんは目元をこすりました。

 僕はおじさんが泣いている理由が分かりませんでした。そのときの僕は今日会ったばかりのおじさんが僕の気持ちを理解して泣いてくれるなんて思わなかったからです。今日ここで会わなければこの先ずっと会うことがなかったかもしれません。ただ、それでもおじさんの涙が嘘ではないことは確かでした。僕もおじさんのために泣いてあげたいと思いました。

 今度は僕がおじさんの話を聞かせてもらいました。もともとおじさんは仕事も家も持っていて、家族もいたそうです。ですが、彼は酷い冤罪をかけられて社会的に居場所を失ってしまいました。家族は彼を庇ってくれていました。しかし、近隣住民からの冷たい視線や集団無視を受けるなど、大きな負担を背負わせてしまっていたせいで妻は毎晩泣いていました。「いつになったら、あなたが無罪だって証明されるの?」「本当にあなたはなにもしていないんだよね?」奥さんは毎晩彼にそう言っていたそうです。奥さんはどんどん痩せ細っていきました。冤罪は晴れないまま時間が経ち、彼は職を失ってしまいました。そしてとうとう拘束されそうになったところで離婚届だけを家に残して、その町から出て行くことにしたそうです。

 「おじさんは僕より大変なことがあったんだね」

 僕は難しいことは分かりませんでしたが、とにかくおじさんが理不尽で辛い目に遭っていたことは分かりました。それから僕はおじさんに大切なことを教わりました。

 「人の不幸には色んな種類がある」彼は言った。「大きさも大小それぞれある。でもな、不幸ってのは気体みたいなものなんだ」

 気体?と僕が言うと彼は頷きました。

 「そうだ。気体はどんな大きさの空間にも均一にいきわたるだろう。大きな不幸も小さな不幸も心全体にいきわたるんだ。だから誰か困っている人に寄り添う時に、自分が経験した不幸の大きさも種類もどうだっていいんだ。

 たとえ自分が世界から見放されていると思っても、そんなことはない。同じ苦しみを経験している人もいれば、もっと酷く苦しんでいる人だってたくさんいる。でも君はその人たちと繋がることができる。君は一人じゃない。」

 僕はいかにも自分より大変そうな暮らしをしている彼に世界とはなんたるかを教えてもらいました。僕は一人じゃありませんでした。世界は広く、同じようにひとりぼっちで周囲の人から見放されている人がいることを教えてもらいました。



 「僕はあの時実は死んでしまおうと思っていました。でもおじさんに元気をもらってそんなことはしませんでした。おかげで今僕はとても元気に生きています」青年は胸をポンッと叩いて言った。「あのおじさん、今どこにいるんだろう____。ボクはもう何度もこの神社を訪れているんだけど、全く会うことができません。」

 ボクは青年の話を聞いて、鼓動が早くなっていた。呼吸の回数も増えている。理由は分からない。だけど心臓はドクドク音を立てて鳴っている。

 「もうとっくにどこか遠くの町に出て行ってしまっているのかなあ」青年は首をかしげてつぶやいた。そして、早く家族の元に戻ってあげないといけないのに、と口にした。ボクの心臓がドキンと跳ね上がった。

 「ニャー」ボクは大きい声で鳴いた。

 「ん?どうしてって聞いてるのですか?」

 「ニャー」僕は再び大きい声で鳴いた。

 「それは彼の冤罪が晴れたからです。半年以上も前なんですが、ある人の冤罪が晴れたというニュースを目にしました。その冤罪の内容を見ると、それはあの時彼が言っていた内容とそっくりだったんです。」その後青年は実際に男の家族の元を訪ねて確かめたそうだ。そして男から聞いた話をその家の奥さんに話すと彼がまさにこの奥さんの主人だというとが分かったそうだ。

 ボクは身体がものすごく熱くなるのを感じた。そして周りの酸素が薄くなったような息苦しさを感じた。ボクの身体に何か変化が起きていた。

 「もう家を離れる必要も隠れて暮らすこともないんですよ」青年の言葉は僕の頭を強く揺らす。「彼の奥さんは今も彼の帰りを待っています」ボクは意識が飛びそうになる。その男の名前はなんだ。その男は誰なんだ。

 「男の名前は?」ボクは聞いた。

 彼の名前は___。彼がそう言ったあと自分に何が起こったのか自分も覚えていない。その日の僕の記憶はその時点で途絶えていた。


 僕は二人の子供と妻と食卓を囲みながらこの過去に体験した話をしていた。

 「えー嘘だ!」長男が声を上げた。

 その長男の横でまだ話の内容を理解できる歳になっていない長女が座っている。長女は食卓に並んでいるまだ口に入れたことのない美味しそうな料理をじーっと見ていた。

 「あなたのその話はいつ聞いても面白いわね」妻は微笑んで言った。

 ボクが猫になった話なんて家族は信じてくれない。

 僕が仮に誰かから同じ話をされても信じないだろう。それはあまりに非現実的すぎる。それに、僕は今こんなにも幸せな家庭で暮らしているのだから。

 膝元を見ると家で飼っている白い猫が眠たそうにあくびをして、後ろ足で首をポリポリとかいていた。僕が優しくなでてあげると、そのまますやすやと眠ってしまった。

 

 「悪いね。猫の君に僕の長話に付き合わせてしまって。誰かにこのことを話す機会なんて今までなかったからつい」青年は頭をかきながら、にこりと笑って猫の方を見た。しかしそこには猫はもう居なかった。そこには小さなつむじ風が砂埃を舞い上げていた。

 「あれそういえばさっきあの猫しゃべらなかったっけ?」青年は思い出してみたがそんなことがあるのだろうかと悩む表情をした。

 青年はまあいいやと言って立ち上がり、下に広がる町の明かりを眺めて言った。

 「家に帰れるといいな、おじさん」

 

 おしまい。

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