第三話 一方的でも良いですか


 突然だが、先生はしっかり者だ。

 まず、同じミスは絶対にしない。意地でもしない。まるで同じミスをしないのは当然だと言いたげに、反省しない私に冷たい視線を送る。

 いえ、訂正。

 反省はしています。


 ——と、先生を尊敬してやまない私はほたる

 先生の小説と先生が大好きな、使用人兼生徒として、忙しい毎日を送りたいと思っているいやしい女でもある。


 つい先日も、先生に不相応な態度を取ってしまった。

 だからだろうか。


「おやすみなさい、先生」


「うん」


 今日は昨日に続いて、朝と夜に挨拶を二言だけ。先生が口にしたのは夕餉ゆうげだけ。

 そんな一日がもう終わる。


 風呂を終え、仕事を終え、午前零時に先生はとこについた。


「はぁ、今日も話せませんでした……」


 続いて私も寝ようと寝巻きに着替えるが、溜め息は止まらない。


 一昨昨日あれ以来、先生は私が少しおどけてからかっても、完全に無視をする。しまいには「たかが接吻せっぷんで誰が恥じるか」とか「むしろ私はお前が望むならしてやらんでもない」とか「興味がないよ」と鼻で笑うようになった。加えて、私と距離を置いている気がする。


 一体先生は何が好きツボなんでしょうか。


 私が失言悪いことをしたのは事実だが、それで先生と距離感が生まれるのは辛い。だから、明日は先生が喜ぶことをしようと思う。

 そう思って、私は目を閉じた。





*****





 まずは朝。

 先生はとにかく朝に弱い。自力で起きるのは週に一回程度で、それ以外は私が起こしている。


 私的には「頼られてる」と思えて嬉しいことの一つです。


 今日は着物の着付けと食事の下準備をなるべく早く終わらせた。そしてすぐ忍び足で寝室に戻り、布団を頭まで被った先生に身体を寄せた。


「……先生は本当に謎です」


 私は夜のうちに、寝室に布団を二つ並べる。大抵先生は書斎で寝落ちしまうから、掛布団をかぶせて、しっかり寝付いているのを確認した後に私は寝ている。なのに、先生はいつのまにか寝室に移動しているのだ。


 朝、目を覚ますと先生のお体が近くにあるので、それはもう心臓に悪い。最近は慣れてきたけれど、つい一ヶ月前までは毎朝悲鳴(と言うより歓声)をあげていたのが懐かしい。


 私の隣で寝たいのかと自惚うぬぼれた時期もありました。私が恋しいんだと納得した時期もありました。なので理由が「書斎は寒くて耐えられない」だった時は自信がぽっきり折れたのを覚えてます。


 私は思い出し笑いならぬ思い出し涙を呑み込みつつ、先生の身体を揺らした。


「先生。朝ですよ」


「…………おぉ」


 先生は身体を起こし、ぼんやりと私の顔を見つめる。数回欠伸あくびをし、しばらくして眼鏡を手探てさぐりでかけると、


「……あぁ、起こしてくれてありがとう」


「おはようございます、先生」


「うん、うん……うん」


 こくりこくりと首を縦に振ってから先生は立ち上がった。

 朝が弱いにも関わらず、寝起きが良くて本当に可愛いんです。いえ、寝起き以外も充分可愛らしいんですけれど。毎朝想ってしまうくらいですけれど。


 私は惚れ惚れして先生を見上げた。寝ぼけてはいるが、徐々に冷たい目つきを取り戻してゆく先生。伶俐れいりとらがたい瞳は、私の心を満たす不思議な魅力があった。


 ——ああ、やっぱり好きです先生。


 大好きな先生はぐっと伸びをした後、癖っ毛の短髪をいた。

 一挙一動、素敵な仕草です。


「……うん、おはよう」


「はい、おはようございます。朝餉あさげの用意ができてますが、いかがなさいますか?」


「……いや、今日も良い。執筆に集中したい」


 改めて挨拶を交わすと、先生は眠そうに目を擦りながら廊下へ姿を消した。

 いつもならここで先生を見送って終わりだが、今日の私は一味違う。さっさと布団を畳み、朝餉あさげ蠅帳はえちょうかぶせて、私は先生の後をけた。先生はまだ廊下を歩いている。


「先生」


 先生を呼ぶが、振り向いてくれない。


「せ、先生!」


 次は声を張るが、先生は見向きもしない。

 私は少しヤケになって、先生の着物をむんずと掴んだ。


「先生、あの」


 すると先生はびっくりすることなく、むしろ気怠けだるげに振り返った。


「朝からやかましいな、お前は。なんだ。また何か言いたいことがあるのか?」


「いえ、そういうわけではございません」


「なら、なんだ。また抱き締めたいだの接吻せっぷんしたいだの、私に高望みするのか?お前もとうとう色恋に興味が——」


「ち、ちがっ、違います!」


 色恋や恋愛に興味があるのは違いませんが、今肯定するとややこしそうです。


 慌てて遮り、私はこほんと咳払いした。


「先生の仕事姿を拝見してもよろしいですか?」


「はぁ?当然、不許可だ」


「え?」


「許可しないと言っている。私はお前に小説のノウハウを教えるとも、執筆を見せるとも言っていない。助言は……今日は気分じゃない。製本されたもので勝手に学べば良いだろう?」


「うぅ、まぁ、そうなんですけど」


 ぐうの音も出ない。

 たしかに私は彼を先生と呼んでいるが、小説のことを教えてもらったことはない。というよりも、先生は教えようとして、いつも直前で渋る。

 理由は分かりませんが、これでも進展した方なんです。初めのうちは「先生」と呼ばれることさえ嫌がっていたんですから。


 今はもう妥協して、否定もなさいませんが。


「で、でしたら覗くだけでも」


阿呆あほうか」


「じゃあ。えっと、今日は気分転換に、私と一緒に散歩してください」


「気分転換?いやいや、まだ次回分の原稿を終わらせていない私にはそんな資格ないよ」先生は会話に飽きたのか、歩幅を大きくして私から距離を取ろうとした。「いつも言っているだろう、自分を甘やかしてはいけないって」


「先生、少しで良いんです」


「無理だ」


「本当、ほんの少しだけで良いですので」


「はぁ」


 先生は心底呆れた目で私を見下ろし、口をへの字に曲げた。機嫌の悪い先生が浮かべがちな表情。


 でも、ここで引き下がりません。

 昨日と一昨日みたいに、一言二言しか交わせないのは辛いんです。


「……しつこいな。今日のお前はどうしたんだ。いつものようにしとやかにしていれば良いだろう?」


「でも先生、最近私の話を聞いてくださらないじゃないですか」


「それは——」


 先生が初めて動揺を見せた。ちらりと書斎に視線を遣ってから、困ったように目を伏せて、迷ったように腕を組む。

 眉間に皺を寄せた先生は「……嗚呼、もう分かった」と肩をすくめた。


「分かった、分かったよ。無茶振りでもなんでも良いから言ってみろ。今ならなんでも聞いてやるから」


 先生があまり話さなかったのは、執筆がとどこおっているからなのか。書斎を気にする様子から見てほぼ間違いないが、二、三日も不機嫌なのは珍しい。

 ……やっぱり、進まないのは私の失言が原因では?


 考えて考えて、何をして差し上げるのが正解なのかを考えて——私は、一つひらめいた。


「でしたら、先生の好きな食べものを教えてください」


 ここずっと、先生は食事を充分にっていない。

 なら胃袋を掴むのが正解でしょう!腹が減っては戦ができぬ、とも言いますし!


「好きな食べもの?」


 先生の瞳が心なしか輝いた気がした。

 確かな手応えを感じて、私は先生に詰め寄る。


「はい!先生の好きなものでしたら、なんでも。なんでもお作り致します」


「お、おお。近いな」押され気味だった先生は苦笑し、一歩後退した。「そうか、好きな食べものか。うーん」


 でも、先生は顎に手を添えて真剣に考えている。

 三食しっかりらないし、好みも苦手も何も言ってこないから、先生は食事に無関心だと思っていた。悩むなんて意外だ。

 ……先生でも食に興味があるんですね、と思ってしまうくらい。


「は?」


「はい?」


「…………」


「えっと、先生?」


 目を細める先生を見て、私はハッとした。


 もしかして私、口に出してしまいましたか……!?


「まぁ良い。うん、私は何も聞かなかった。お前の健気さに免じて聞かなかったことにしてやる」


「お、恐れ入ります……なんなりとお申し付けください」


「ははは。じゃあ、私は餡子あんこ所望しょもうしよう」


 先生が口にしたのは、聞き慣れない洒落しゃれた食べ物だった。てっきり甘いのが苦手だと思っていた私は首を傾げる。


「あんこ、ですか」


「いちいち聞き返すな。一度聞けば分かるだろう?私は餡子あんこが食べたいんだ。それもとびきり甘くて、豆が残っているものが好ましい」


 餡子あんこは確か、小豆を煮て練った甘味だ。作り方も、多分分かる。

 美味しく作れる保証はないが、先生の「甘いもの好き」という意外な一面を垣間見かいまみることができたのが嬉しくて、つい私は勢いで頷いた。


餡子あんこにございますね、承知しました。不肖ふしょう蛍、先生の舌をうならせるような餡子あんこ作りに努めてまいります!」


 「うん、頼んだぞ」と私の肩に手を置いて、先生は呼び止める間も無く書斎に駆け込んだ。

 まるで逃げるような早足だったが、目的が達成できた以上、私は先生の邪魔をするつもりはない。先生が不調なのは気になるが、今は料理に集中しなければ。


 私は拳を握りしめ、台所に急いだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る