第二話 おはよう、私の先生
私は足音を忍ばせて先生の書斎へ向かった。
先生はいつものように机の前で屈んでいた。腰が悪くなると伝えたのに、あいも変わらず背の低い机で執筆に励んでいる。床に散らばる原稿用紙を見る限り、今日の先生は作業が
例によって食事は要らないだろう。
そう思いながらも、私は丸まった背中に見惚れていた。
先生の服は常に和服で変わらない。
しかし今は新聞配達の方から聞いた話によると、世間では洋服が流行っているようだった。加えて着物と洋服を合わせたような
かくいう配達員さんも、書生服なる
先生はお
私は自身の
お
並んで歩く姿は容易に想像できた。
「素敵……——ええ、素敵、ですけれど」
——きっと叶わないんでしょうね。
先生が滅多に出歩かないからか、はたまた私が敷地外に出たことがないからか、想像通りにならないことがなんとなく分かった。
それでも口にするのは自身の勘を認めた気がして、ですけれど、で言葉を呑み込む。
「……失礼します」
不意に物寂しくなり、私は苦悩する先生の背中を満足するまで眺めてから、ゆっくりと
が、すぐにぴしゃん!と勢いよく開く。
「ひゃっ!せ、先生!?」
肩を揺らして振り返ると、先生が腕を組んで私を見下ろしていた。
どきどきと鼓動が速くなる。
身体が熱くなるのを感じ、感情に任せて先生の足にしがみついた。
「お、驚かさないでください!」
「別にそのつもりは
「いたずら……!?そ、それも驚かすって言うんです!」
「はっはっはっ。まあ、気にするな」
「気にします……ええ、気にします!今ので私の寿命が十年縮みました!なので先生は……」
私を褒めてくださらないと、と言いかけて口を押さえた。
危うく願望が飛び出るところだった。
そんな図々しいこと、言えるはずがない。
眉を寄せた先生を見て、慌てて取り繕う。
「い、いえ。その、ご無理はなさらずに……と言いますか、先生は無理なさらないように、ですね」
「はぁ」
「…………ぁ、えっと」
一体私は何を言っているのだろう。泣きたくなる。
案の定先生は眉を寄せて「理解不能」と言わんばかりの表情を
足りない頭で全力で考えるが、私の思考は『逃亡』の一色に染まる。
「あ、お、お邪魔しました。私はまだ掃除が済んでおりませんので、この辺りで失礼致します。私のことは、お気になさらず」
早く逃げ出したい。と言うか、逃げよう。
脳内会議が一瞬で結論を出し、私は行動に移ろうとした。しかし、先生に「待て」と呼び止められて身体がぴたりと止まる。
私の身体は都合が良いから、先生関連を一番に優先してしまうのだった。
まぁ、止まって後悔はありませんけど。
先生と話せるのが、今の私の一番の楽しみですから。
「は、はい」
強気に考えながらも、私は先生の方を振り向く。先生は首を傾げてからしゃがみ、私に顔を近づけた。
ずいっ、と寄せられる先生の端麗なお顔。
緊張で息が詰まった。
それに、これは……あの、せっぷんとやらができてしまう距離では……!?
「せ、せんせ?」
「……待て、動くな」
先生はあくまで真剣な顔で、じっと私を見つめている——それこそ、穴が空きそうなくらい。
私が我慢できずに目を逸らしたところで、先生が身を引いた。
「よし、取れた」
「え、っと。取れた……?」
「ほら」
先生が少しだけ手のひらを開くと、小さな蛾が手の中で羽ばたいているのが見えた。
先生は得意げに口角を上げる。
「お前の背中から飛び立ったんでな。早く逃がすには捕まえた方が手っ取り早いから引き留めた。すまんな」
「いえ、いえいえいえ……」
私が動揺してるのに、当の先生は全く気にせず立ち上がった。
……先生にとって、私との触れ合いはお遊びなんでしょうか。そもそも、私には魅力がないんでしょうか。
きっと先生は鈍感なだけ。でも、もしも私に好意をお持ちじゃないなら——そう思うと居ても立っても居られず「あの」と私は先生の袖口を引っ張った。
「わ、私、てっきり先生が私に、その……あの、私に……」
自分から言うなんて恥ずかしい。
はっきり言わなきゃ、と思えば思うほど体温が上がる。
でも、私があまりに渋るから、先生は不満そうに口を曲げる。一度は私に向けた温かな視線が、冷たくなっていった。
「何が言いたいんだ、お前は。はっきりと言え」
「は、はい。わ、私っ。失礼ながら先生に、せ、せせ、せっぷんなるものをされるかと思い、つい身構えてしまいましたっ」
「な……」
よしっ、勢い任せに吐き出せました!
謎の達成感を味わうも、徐々に興奮と羞恥に呑み込まれる。
顔が熱い。とても熱くて、茹で蛸になってしまいそう。でもとりあえずは先生の反応が怖くて、ちらりと目線を上げた。
「お前、それは……——」
「もっ、申し訳ございません。言われずとも自覚しております……大変、申し訳ございません。私は下品な女です……」
絶句する先生を見て、私は不相応な己の失態を恥じ、頭を下げる。
先生に今以上に失望されるかもしれない。
もしかしたら、私は不必要と切り捨てられるかもしれない。
「…………先生?」
しかし、数分経っても先生からの反応はない。
恐る恐る顔を上げると、先生は片手で顔を覆い、呆れたように首を振っていた。
「……はぁ、もう良い、今はもう良い。さっさと向こうへ行け。顔も見たくない」
深い溜め息を吐き、蛾を掴んだ手でしっしっと私を追い払う先生。
雷が落ちたようなショックに私は項垂れるが、斜め下から先生の隠した顔がチラリと見えた。
お顔は少し赤くて、目が泳いでいる。歯痒そうに口元を引き締めてもいる。
まさか……!
「——!」
私は声にならない歓声をあげた。
初めて見た、先生の表情。
これは。
————まさか照れているのでは?
あの、先生が。恋愛に
……私の言葉で照れているのでは……?
確証はないが、それは不思議で、ふわふわとした感覚だった。これが「浮かれる」気持ちかもしれない。
ですが……もし先生が照れているなら、私は——。
呆然と先生を眺めていると、先生は私をきっと睨み、
「ほら、さっさと行け!」
そして強い口調で言い放つなり、先生は
まるで照れ隠しみたいじゃないですか。
と、言うことはもちろんできず、私は先生の書斎を後にした。
でも、私はご機嫌に口笛を吹く。意外な先生の姿があまりにも素敵だったから。
「やっぱり可愛いです、先生」
……口には絶対できませんけど。
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