常世のかみさま

辰ノ

第一話 箱入り娘と小説家



「せんせ」


 私は彼の形の良い耳に、そっと息を吹きかける。彼は少しだけ身をよじると、薄い毛布を頭まで被った。

 まるで睡眠の邪魔をするな、と言いたげに。


「せーんせ」


 でも私は意地悪ですから、やめませんよ?

 つんつん。

 つんつん。

 多分彼の頬辺り。私はそこに狙いを定め、人差し指でいたずらにつつく。


「せんせ。せーんせ。朝ですよー」


「んぅ……あと、あと数寸……」


「何格好つけてるんですか」


 やっぱり反応が可愛らしい。

 もちろんそれ以外も可愛いが、寝ぼけている時が一番と言って良いほど反応が面白い。

 このまま、このやりとりを続けたい。


「せんせ。せんせっ。せーんせっ」


「んん」


「うふふふ」


 一人できゃあきゃあ盛り上がっている間に、ようやく彼が身を起こした。

 慌てて指を引っ込める。


 ……バレていないだろうか。


 彼は頭をゆっくりと振って、それから私の瞳を見つめて微笑んだ。

 どき、と胸が高鳴り不安が吹き飛ぶ。

 でも目を逸らすのはもったいない気がして、火照った顔をぴたりと静止させた。そして精一杯の笑顔も返す。


「嗚呼、もう朝なのか……おはよう、ほたる


「ぁ……は、はい。おはようございます、先生」


 滅多に呼ばない私の名を躊躇ちゅうちょなく呼ぶ先生。

 柔らかな声色に、ぼさぼさの髪。

 眼鏡のない、珍しい素顔。


 彼の全てに動揺して、挨拶さえ詰まってしまう。意味がないと分かっていながらも、鼓動を抑えようと胸の前で手を交差し、私は続けた。


「先生。朝餉あさげの用意、出来てますよ。いかがなさいますか?」


 先生はちらりと卓上の時計を見る。時間は午前八時。いつもより三時間も遅い起床だった。

 予想通り先生は目をぎょっと丸めて、枕元の眼鏡を手繰たぐり寄せる。


「要らん。寝過ぎた」


「でも、食べないとお身体に触りますよ?」


「余計な世話だ。片付けておけ」

 

 先生は思い出したかのようにいつもの素っ気なさを取り戻すと、眼鏡をかけて寝室を飛び出した。

 ふすまが悲鳴をあげると同時に、先生の忙しない足音が遠去かってゆく。

 相変わらず先生は物に当たる力が強い。


「もうっ」


 乱れた布団を横目に、私は溜め息を吐いた。

 出会った頃からちっとも変わらない。

 私は立ち上がり、換気のために障子を開けた。瞬間、涼しい風と独特な竹の匂いが私の鼻をくすぐる。




 人が寄り付かない小さな山の中腹。

 山道から逸れておよそ三町三百メートル

 村の外れの、深い竹林の中に先生の屋敷はぽつんと佇んでいる。古い屋敷だから至る所が雨漏りしていて、床が抜けそうで、お台所も使いにくくて、正直住みづらい。

 文句なんて死んでも言いませんが。


 そんな辺鄙へんぴなところに住む、変わり者の彼は小説家。そんなに有名ではなく、かと言って無名でもない平々凡々な小説家——という名乗り。

 でも、本当はもっと人気が出ることを私は知っている。

 先生は成功作や自信作を書斎に放置し、失敗作を世に売り出すのだ。だからいつも先生の小説を受け取りに来る男性は「所詮こんなものか」と妥協した表情で帰ってゆく。


 本当にもったいない。

 先生の才能を見せてあげたいです。

 でも深い事情があるような気がして、私はまだ先生に理由を聞けてません。

 

 私が先生と敬愛する彼のお名前はかくりみやび。これは彼の筆名ペンネームで、本当のお名前を私は知らない。

 お名前が聞けないのは残念ですが、気になりません。これっぽっちも。

 捨てられた私を拾ってくださった、という事実だけで充分ですから。


「さて、と」


 昔を振り返っていたら、恩人の布団を干し終えてしまった。考え込むと時間を忘れるのは、私の悪い癖だ。

 ぐっと腰を伸ばし、今度は食事が置きっぱなしの居間に急ぐ。


「早く片付けましょうか。駄目にしちゃ、もったいないですから」


「——遅かったな」


 慌てて居間に入った私を迎えてくれたのは、正座で朝餉あさげを頬張る先生だった。

 どうして居間ここに?


「えっ、と」


 驚きながら机に視線を送る。お茶とお味噌汁と漬物を残して、空の器が並んでいた。用意した魚は丁寧に身をかれ、茶碗にはご飯粒一つ付いていない。

 先生が朝餉あさげを食べるなんて、いつぶりだろうか。


「せ、先生。どうして?」


 意外過ぎてつい尋ねるが、言葉を出した後にハッとする。

 先生は私の予想通り眉を寄せ、はしを机に置いた。


「腹が減ったから食べたまで。何か文句があるのか?」


「いえ……いえいえいえ!滅相めっそうも御座いません……!」


 当然の答えに首を振る。

 分かりきったことを訊くと、先生は不機嫌になるのだった。

 失言に落ち込みつつ、私はふすまに手を掛ける。


「では、私はこれで……」


「待て」


 何か気にでも触ったのでしょうか。


 いつもと違って、朝から会話が確実に多い。

 私は立ち止まって「はい」と小声で返事をした。小声なのは怯えたからではなくて、呼び止めた先生の素っ気ない声にときめいてしまったからで……って、誰に弁明してるんですか、私。


「お前は食べないのか?」


「へっ?」


「いや、私の前のこれらはお前のじゃないのか?」


 先生が顎をしゃくって目の前の食器を指した。

 無論私の食事である。だが先生と一緒の空間で、加えて向き合って食べるなんて破廉恥はずかし過ぎる。


 そもそも朝に食事を共にしたこと、数え切れるほどしかないでしょうに。


「後ほど頂きます。今は、ええと、お洗濯を……」


「そんなもの後回しで良い。先に食べろ。こんな時間まで待たせたのだから、お前も腹が減ってるんだろう?」


 そう言われると、確かに。

 腹の虫がぐぅと鳴いた。


「で、では、お言葉に甘えて……失礼します」


 抜き足差し足で近付き、私は先生の前に座る。

 先生のお顔を正面から合法的に見つめることができる位置。いつもは机にしか向かない漆黒の双眸が、今私の前にある。


「……いただきます」


 嬉しさをこらえて、白米を一口。

 ——味がしない。

 次いでお茶を一口。

 ——味がしない。

 今度は魚の身をほぐして一口。

 ——味がしない。


 まさか今回に限って失敗しているのでは。

 あまりの無味無臭さに、私は目を泳がせる。そして無表情かつ無言で漬物を食す先生を見上げた。私が見ても目は合わず、表情はピクリとも動かないから、美味しいのか不味いのかが判断できない。

 もしお口に合わなかったら、と私は思い切って先生に声を掛けた。


「あ、あの」


「ん?」


「今日のお食事……無味、ではないですか?」


「はぁ」


 先生は心底面倒臭そうにお椀を手に取る。

 ずずず、と味噌汁をすすり、


「……普通の味噌汁だな」


「普通、にございますか」


「……………………美味しい、と思うが」


 私も慌てて味噌汁をすする。

 すると今まで味がしなかったのが嘘みたいに、味噌の風味が口いっぱいに広がった。暖かい味噌汁が口内を刺激し、その温もりを保ったまま喉をゆっくりと下る。

 空腹の身体が、ようやく食べ物を認識したようだった。


「ぁ、美味し……」


「なんなんだお前は」


 呆れたように呟くと、先生はお茶を飲み干してさっさと居間を出て行ってしまった。


 さすが先生。呼び止める隙もない。


 私は一人放置されても、黙々と箸を進めた。味噌汁を飲んでからはしっかりと味覚が働き、美味しく食事を済ますことができた。


「ごちそうさまでした」


 ぱん、と両手を合わせて一礼。

 もちろん誰かしらの反応はない。


「……さぁ、お片付けしますか」


 自分を鼓舞しようと頬を叩き、私は机の食器をまとめて台所に走った。水場に食器を置き、着物のすそをたくし上げる。

 先生との食事はとても美味しかった気がする。久しぶりというのが、良い調味料になったのかもしれない。

 口に残る味噌の後味を楽しみつつ、私は先生の言葉を反芻はんすうしていた。


 ——美味しいと思うが。


 ——美味しいと思うが。


 ——美味しいと——……。


「……はぁ……っ」


 ——完っっ全に心を掴まれました。


 立ち眩むほどの嬉しさに、私は顔を覆って座り込む。


 目を合わせたあの一瞬。

 眼鏡越しに放たれた氷の如き鋭い視線とは真逆の優しいお言葉。

 あまのじゃくな先生から私(の料理)への褒め言葉なんて、いつぶりだろうか。願わくばもう一度、あと一度だけで良いから褒めてほしい。

 それで十年は寿命が延びるというもの。


 私は頬を緩めたまま洗い物と洗濯を終わらせた。褒められてから身体が軽くて、手持ち無沙汰ぶさただとうずうずした。先生に何かしてあげたくてたまらない。

 だけど執筆中の先生を刺激するとお叱りを受ける。

 私は悩みに悩んで、家中の掃除をしようと思いついた。大晦日ではないが、綺麗にする分には文句を言われないだろう。

 善は急げ、だ。


「さぁ、まずは草むしりを……」


 ぐいっと直毛の黒髪を持ち上げる。先生は癖のない美しい髪だと褒めてくれた——今思えば、褒めてくれたのが珍しい——が、掃除の時は邪魔で仕方ない。

 せめて髪留めがあればと一瞬思うが、いやいやと首を振る。


 贅沢言い過ぎですよ、私。


 気を取り直し、自慢の髪を簡単にゆわえて私は屋敷を駆け回った。草むしりから床掃除、ほつれた布団の裁縫や昼餉ひるげの用意まで、手早く終わらせる。


 家事しごとが早いのが、私の自慢ですので!


 誰にともなく胸を張り、ふと時計を見遣ると時間は午後一時を指していた。


 もう昼時。

 道理でお腹が空くはずです。

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