第6話 母なる樹

 ――どうにも格好がつかない。


 暗い山道の地面を見つめて、エイダンは思う。


 仕方のない事態ではある。オークと人間では、歩幅が大人と子供程も違う上、オークは山道でも崖でも、全力で駆け巡れるような脚の構造をしているのだ。更に、夜目も利く。

 彼らが、エイダンの歩みに合わせて夜の山道を登っていたら、普段の三倍は時間がかかるだろう。


 そうは言っても、この歳で肩車をされて運搬されるのは、やはりあまりにも小っ恥ずかしい。


「ほれ、癒やし手。着いたがいぜ」


 エイダンを肩に乗せて歩くノッバが、弾んだ声を上げた。

 せり出した枝にぶつからないよう、頭を下げていたエイダンは、そこでようやく前方を見る。


 夜の闇の中、空の色を映して、黒々とした水面がいでいた。

 泉――とオーク達は呼んだが、正確には、広い川のふちである。滝のような勢いで山の斜面を落ちてきた小川の水が、棚状になったその淵で勢いを緩め、岩にせき止められて溜まっている。


 ……いや、岩ではない。

 淵を形成する、その自然のせきの全貌を確認して、エイダンは我知らず感嘆の声を上げた。


「うわぁ、こら、ごうげな……!」


 巨大で、硬質な木の根。化石化した古木こぼくだ。珪化木けいかぼくと呼ばれるものだろう。根元近くから折れて、横倒しになっているが、幹の太さだけで、二階建ての家屋程度の高さはある。


 地面に下ろされたエイダンは、珪化木に近寄ってみた。


「何千……いんや、何万年も昔の木なんじゃな、きっと。これが、『母なる樹』?」


 岸辺に立って、ディクスドゥがどこか誇らしげに頷く。


「そうだ。遥か昔、『母なる樹』のうろより、この地で最初のオーク達が生まれた。以来、この山の老いた木々は、しばしばオークを生み出すようになり、やがて我らの先祖は、『母なる樹』の根の下に村を築いた……」


 エイダンは、複雑な形状のまま化石化した根の合間から、山のふもとを見下ろした。ほのかに、明かりが見える。

 『母なる樹』が堰となり、急流の進路を変えたその真下に、オーク達の集落が広がっていた。暗くてよく見えないが、この淵から村まで、水路を引いているのだろう。

 まさに、何重もの意味で『母なる樹』だ。


「グェンラーナは?」

「こちらに! 容態は変わっとらんちゃ」


 担架に乗せられ、毛布に包まれたグェンラーナが、オーク達に運ばれてきた。


「この泉を、風呂にすればええんですね?」


 エイダンは、淵を見渡した。ちょっとした湖くらいはある。この全域を温泉化しようものなら、瞬く間に魔力が尽きてしまうだろう。

 だが幸い、オーク達の何人かが、板材を持ってきてくれている。


「じゃあそこの、ちょい浅いくぼみになっとる辺りを、板で区切ってもろうて」

「グェンラーナ様を、ここに寝かせればええんけ?」

「いんや、先に水を浄化して、丁度ええ所まで温めます」


 言うなり、エイダンは靴を脱ぎ、服の両袖をまくって、水の中に飛び込んだ。


「うぅ、結構水がやい」


「おお……。夜の山の上ちゃ、人間にはつらいがいぜ」

「根性あるな、癒やし手」


 変な所で、オークに感心されてしまった。

 しかしどうあれ、この水にいきなり患者を放り込まなかったのは、正解だ。今回は特に、微妙な湯温調整が必要だから、エイダンも一緒に浸かっておくのが一番手っ取り早い。


 魔力を伝導させて、水中の汚れを祓い清め、水温を徐々に、上げていく。

 その途中、何の気なしに、エイダンは呟いた。


ぬるめにしときますね。あまり温度を急に上げ下げすると、妊婦さんにはうないって、うちのばあちゃんが言うとりましたけん。蒸し風呂も、それが心配で」

?」

「え?」


 オーク達が――ディクスドゥまでも、揃ってきょとんとするので、エイダンもまた、目を瞠る羽目になった。


 ……グェンラーナは、どう見ても妊娠中だ。

 それも、人間でいえば恐らく、七、八ヶ月にはなっている。


 エイダンは両親を早くに亡くしたため、一人っ子だが、故郷の村では、当然のように複数の赤ん坊を見てきた。

 特に、隣人で親友でもあるキアランの、妹と弟が生まれた時は、祖母と共にあれこれ手伝いに奔走したので、一通りの知識は備わっている。


 先程、テントの中で容態を診ようとして、グェンラーナが妊婦だと気づいた時には、子供が呪術の影響を受けてはいないかと、ひやりとした。が、腹部には体温が残っていたし、触れた時、微かに体内で動いたような気配があった。

 どういう理屈なのかは、勉強不足で分からないが、あの呪術は胎児には影響しないらしい。


 しかし、オーク達は、彼女の妊娠に気づいていないのだろうか?


 母体から生まれるオークは、滅多にいないとノッバは言っていたが……それについての知識がすっかり失われる程に、稀な現象なのか。


「変な事を訊ねますけど……ディクスドゥさん、妹さんが生まれた時の事は、覚えとんさります?」


「我が妹と俺の生まれには、一年の差しかない。我らは、人間よりは成長が早いのだろうが、流石に一歳の頃の記憶は持ち合わせていないぞ」

「あー……他に、オークのお母さんから生まれた人は……」

「グェンラーナは、母の末子となった。我が妹以降、オークからオークが生まれた事例は、この村においてはない」


 これは、思ったよりも一大事だ。


「……。とりあえず、ええ湯加減になりましたけん、グェンラーナさんを」


 エイダンが告げると、オーク達はいぶかしげな顔をしながらも、彼に従い、ぬるま湯となった即席の湯船に、グェンラーナを浸けた。


 長杖を水中に打ち立て、エイダンは呪文詠唱を開始する。


 子供に、過剰な治癒術の影響が出るとまずい。患部の呪術だけを、的確に解呪しなければならない。


(温度を上げ過ぎんな……でも水を濁らせるな……呪い部分に効果を集中……集中……)


 精霊の力を借りる構文を紡ぎ上げ、魔力を一点に放出する。


「……『火精の吐息フレイム・ブレス』!」


 傷口にまとわりつく、氷が融解し始めた。それと共に、およそ人の物とは思えない、多量の魔力が解呪に抵抗し、再び患部にとりこうとする。


(やり直しはきかん、魔力を浴び過ぎると赤ちゃんが危のうなる。この一発で押し切る!)


 実際の経過時間はものの数秒、しかし術士にとっては数日がかりの城攻めにも等しい、過酷なせめぎ合いの末、エイダンの治癒術は、氷の呪術の抵抗に押し勝った。

 グェンラーナの半身に広がっていた呪術が、収縮し、最初の姿――氷の刃の断片へと変容する。

 そして、その破片もけ消え、肩口には、単なる創傷の痕跡だけが残った。


「やった!」


 エイダンは思わず叫ぶ。

 同時に、魔力消耗に耐えきれず、水中に尻餅をついた。水深が案外深く、うっかり溺れかけて、慌てて岸に這い上がる。


「おい、大丈夫か癒やし手!」

「グェンラーナ様は……!?」

「な、治せた……はずじゃが」


 荒い息をついて、エイダンはグェンラーナの方を振り返る。オーク達が、彼女の身体を引き上げにかかっていた。


「……? グェンラーナ様の体温が! 戻ってきとるがいぜ!」

「肩の傷も塞がっとる! まんで、大したもんちゃあお前!」


 にわかに沸き起こる歓声に応じるように、グェンラーナが微かに、身動きをした。


「グェンラーナ……!」


 ディクスドゥが彼女に駆け寄り、指先でその頬に触れる。

 いよいよ、周囲のオーク達は喜びに盛り上がった。エイダンまで、びしょ濡れの乱れた髪を、余計にくしゃくしゃにされる。


「よくやってくれた、癒やし手。お前には感謝と敬意を捧げねば」


 見上げるような身長のディクスドゥが、エイダンの前でこうべを垂れてみせた。


「妹さん、助かって良かったです」


 率直に、エイダンは言った。それから、ふと顔を曇らせる。


「でも……ちょい、心配なんは」

「どうした?」

「妹さんにかかってた呪術。あんなんが使える人間は、やっぱりそうそうはおらんように思います。……何か、えらいもんに狙われたんだとしたら」


 そこまで口にしたところで、エイダンの言葉は、思いがけない方向からの大声にかき消された。


「感動を邪魔しちまって悪いがな、オーク共!」


 聞き覚えのある声だ。

 一体どこから、とエイダンが闇の中を見回していると、ノッバが慌てふためいて、『母なる樹』の方角を指差した。


「あいつ! テレンス・ワットモアっちゃあ!」


 目を凝らせば、確かに薄らと、夜の山を背景に、人影が浮かび上がって見える。化石化した巨木の上だ。


「母なる樹の上に、人間が土足で――」

「なんちゅう不敬か! 捕らえられま!」


 怒りに駆られたオークが数名、テレンスの立つ場へ向けて殺到したが、彼らは一瞬ののちに、硬直せざるを得なくなった。


 エイダンの目には、何が起きたのかよく分からない。

 テレンスの手元から、閃光がほとばしり、オーク達の進行方向にあった木が一本、真っ二つに引き裂かれて倒れたのだ。


「なっ、何だ!?」

「今のは――加護剣アミュレットソードの力!?」


 瞠目するディクスドゥの横で、エイダンが口走る。

 火属性雷電特化の魔術を封じた、本来市場に出回るはずもない程に強力な、加護剣アミュレットソード。野営地で眠らされる前に、テレンスが自慢してみせた物だ。


「はっ――エイダンもオーク共も、面白いくらいに筋書きどおり動いてくれたもんだ!」


 古木の上で、テレンスがせせら笑う。


「戦士長ディクスドゥ! あんたをこの場所に呼び出す必要があったんだ。俺に何が出来るか……これから何をするのか、しっかり見届けさせるためにな」

「どういう事だ!」


「オークの木偶頭でくあたまでも理解出来るよう、手っ取り早く言ってやる。この山から出ていけ! 留まるつもりなら、今すぐ『母なる樹』を破壊して、村を川底に沈める!」

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