第2話 風呂屋
翌朝、陽の昇る直前の薄明かりの中、エイダンは旅人達のマーケット、蚤の市通りを目指し、荷車を
荷車には、水の入った大樽が二つばかり乗っている。
冒険者稼業以外にも、彼には副業があった。いや、こちらを本業と呼ぶべきか。
今日は冒険者としての仕事が入っていないので、副業の店開きのために、早朝から準備を進めているのだ。
近道を抜けようと、路地裏に入った所で、エイダンは前方にうずくまる人影を見つけた。
酔っ払いだろうか、とそっと近づく。こちらには荷車があるから、このまま無理に通り抜けて、うっかり足でも
「あのう……」
声をかけた所で、気づいた。
彼は、昨日『跳ねる仔狐亭』で見かけた、テレンスだ。
食器で殴られて負った頭の傷は、きちんと手当てをしていないらしい。乱暴に布が巻かれただけで、布には乾いた血がこびりついている。
うずくまって眠っているテレンスの膝の上には、本が広げられていた。
魔術の、それも治癒術の基礎教本だ、とエイダンは驚いた。どこかで拾ったのか、古本を買ったのか、大分ぼろぼろになっている。
テレンスが、はっと目を醒まし、飛び起きた。警戒の表情でエイダンを睨みつけ、それから、何かに気づいた様子で片眉を跳ね上げる。
「お前……昨日、『仔狐亭』で見た顔だな」
「えっ、覚えとんさる?」
エイダンは面食らった。彼の席は、テレンスとは離れていたし、会話も交わしていないはずだが。
「やけに田舎臭え、新入りっぽい若いのがいるな、と思ったんだよ。そのくせ、綺麗なねーちゃんなんか
「はべらし……?」
思わぬ罵倒と言いがかりに、エイダンは目を白黒させた。シェーナが聞いたら、烈火のごとく怒るに違いない。
「あの、それより、その怪我大丈夫なんですか?」
「あ? 怪我? これか。お前には関係ねえだろ」
「いんや……俺、一応
「治癒術士だと?」
頭の布に手を当てて、テレンスは問い返す。
「はい。火属性の治癒術士、エイダン・フォーリーです。丁度これから、朝の風呂屋を開くところだったけん……ああ、俺の治癒術、風呂がないと使えんのです」
「……はぁ!?」
何から何まで意味不明、とばかりに、混乱しきってテレンスは声を上げた。
◇
蚤の市通りの一角に、エイダンはすのこ板と排水用の板、
水を入れた大樽を二つ、テント内に運び入れ、布で脱衣所を仕切り、入口に、番台となるカウンター代わりの木箱を置く。
風呂屋の完成だ。
「出来ました! どうぞ」
「いや、どうぞって……」
テレンスは胡散臭そうに、エイダンとテントを見比べた。
「薪も窯もねえ、水風呂じゃねえか」
「さっき、火の魔力を伝導させといたけん、温まっとりますよ」
「火の魔力?」
テレンスはテントを潜り――靴を脱いで! とエイダンに注意され――樽の中の水に触れた。
「……湯になってる」
「ここに治癒術をかけて、怪我人を治しとるんです」
「待て待て、火属性つったら、普通呪術だろう? 生命力を奪う、攻撃性の高い属性のはずだ。火属性で温められた湯なんかに浸かったら、死んじまうんじゃねえか」
魔術には様々な系統が存在するが、シルヴァミスト国内の大まかな分類では、二種に分けられる。
鎮魂と葬送の儀式から生まれた、生命力を奪う特性を持つ『呪術』。豊穣祈願の祭祀から生まれた、生命力を活性化させる『治癒術』である。
そして、魔術を行使するには、自然界の均衡を司る精霊の加護が必要となる。
この精霊の加護には、地・水・火・風・光・闇の、六つの属性がある。
治癒術の適性を持ちながら、火の加護属性を与えられた魔術士は、極めて
「珍しいみたぁなですけど……火の治癒術なんです」
エイダンとしては、そう答える他ない。
テレンスは、なおもじろじろとエイダンを観察していたが、
「治癒術……治癒術か。くそ、
などと、ぼそぼそ呟いた上で、唐突に上着を脱いだ。
「ええい、入りゃいいんだな! この風呂に!」
「こっちの樽が、かけ湯です。まずかけ湯で体を洗ってから」
「ルール厳しいな! 怪我人に対して!」
公共の場であり、しかも衛生問題が関わるのだから、仕方ない。
とにかく文句を言いつつも、テレンスは体を洗い終え、樽を改造して作られた湯船に身を沈めた。
「ほんなら、治癒術かけますね」
一旦、外に出ていたエイダンは、杖を手にして再び風呂場に立った。
故郷イニシュカ島で切り出された、ハンノキ製の長杖。
エイダンの口から、呪文が紡がれる。火の初級呪術をアレンジした、オリジナルの治癒術だ。
「……『
ふわりと、周囲に湯気が立ち昇る。湯が浄化され、透明なさざ波が湯面に広がり、微かに上昇した温度から、皮膚と血流への治癒効果が発揮される。
「……? うわ!? 本当に治ってる!」
テレンスは、頭の傷に触れて仰天した。
「よし、大体治せたかいな。痛みとかはどがぁですか?」
「ほぼ、消えた……」
半ば呆然と、テレンスは答える。
「お前っ……本当に、風呂の治癒術士なんだな! しかも相当な腕前の……!」
「風呂じゃなぁて、火……まぁええわ。あとは、ゆっくり浸かりんさって下さい」
風呂屋には、怪我人や病人ではない、元気な朝風呂の客も来る。開店の準備をしておかなければならない。
エイダンが番台に戻ろうとすると、そこにテレンスが追い縋ってきた。
「待ってくれ!」
「え? あの、脱衣所の外に出るんは服着てから」
「治癒術士……エイダンっつったか? お前を見込んで頼みがある! 礼はする! 助けたい奴がいるんだよ!」
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