評価と報酬・2

「それは……大変でしたねぇ」

 やがて僕の話が途切れたタイミングを見計らって、百井がこぼした。


「ふっ。なんだそれ。コメントはそれだけ?」


「だって、本当に面倒そうだなぁって。特にその森下さんって方とか」


「まぁね」


「でも、なんとか、そのデータが出てきてよかったですねぇ。それで香月さんもプロジェクトを降りずにいてくれるんでしょう?」


「……まぁ、そうだ」


「どこか含みのある言い方ですね?」

 どうして彼女は、こうまで気付いてしまうのか。


「色々話した今のうちに、全部話してしまった方が楽だと思いますが」

 とはいえ、僕もここへ至って今さら何かを隠せると思っているわけでもなく。


「実は、そのデータ、ここ数日で僕が必死になって取り直したんだ。そのためにサンプルと細胞までもらって。森下さんは結局何も出してくれなかった」

 大きなため息と共に、深く椅子に体重を預けて言った。


 え、と百井がきょとんと口を開けていた。理解が追い付かなかったようだ。


「きっと森下さんは、僕らが欲しかったデータなんて、香月さんの予想どおり持ってないよ。それで、香月さんから妥協を引き出すのはまず不可能だ。GMの方は事の音便な収束を願ってるし、なら、急造でもなんでも、僕がデータを出すしかない」

 急造とはいえ、データ偽造の類は一切行っていないからなと、念のため補足しておく。森下さんが、M2のサンプルと細胞株まで多量にストックしてくれていたことが、幸いした。


「え、じゃあ、どうしてそれを香月さんにもGMさんにも話してないんですか。そんなの、秋葉さんの気づかい損じゃないですか」


「データが僕から出たんじゃ、結局香月さんは、森下さんに不満を抱いたままだろ? それじゃ結局、これから先のコラボがうまくいかない。GMに話せば、結局ウチのタスクだけが増えた形だから、あまり良く思われない可能性もある。町田さんは、限られたマンパワーを上手くやりくりしてチームとしての成果を出さないといけない立場の人だから」

 なにやら、考え込んでいる様子の百井を見て僕は続ける。


「秘密裏に何かを進めるとき、それを知ってる人間は少ない方がリスクも低い。今回は幸い新たに予算がかかるような案件でもなかったから」


「それで、森下さんは? こんなになってること理解できてるんですか?」


「森下さんとは、今少し気まずいから何も話せてないよ。多分、一週間のうちに何度もしつこく催促のメールを送ったのがよくなかった。それに、勝手にデータを作って提出したことを知ったら、森下さんはいい気分ではなくなると思う」

 恐らく、このプロジェクトを終えるころ、森下さんと今までのようにお酒を飲むことはなくなっているだろう。苦笑いしながら、僕は正しい選択枝を選んで進めているだろうかと考える。やはり年次が上がっていくごとに、気さくに話せる人物が減っていくというのは事実のようだ。


「……と思います」

 その時百が蚊の鳴くような声で何かを口からもらした。


「え?」

 その意図を汲めず聞き返す。。


「成果は、正当に、評価されるべきだと思います!」

 今度は唐突に立ち上がって、彼女にしては珍しい大きな声を出したものだから、僕はびくりと身体を震わせた。


 驚いて視線を上げると、百井はそのあどけない顔一杯で不満を表現していた。


 僕が黙っていると、百井がもう一度繰り返す。

「成果は正当に評価されるべきだと思います」


「それは分かったけど……」


「秋葉さんは今のままでいいんですか」


「いいも何も、今回はまぁ、仕方がない。長く仕事してるとこんなこともある」

 じっと、強い瞳で見つめる百井に、僕が諦めたように笑うと、彼女は一瞬、悲しそうな表情を見せた。

 

「秋葉さんがそんな調子じゃ、私が不満を言っても仕方ないですが」

 すっと腰を下ろしはしたものの、百井は未だになにやら思案顔であった。そして数秒視線を宙にさまよさせた後、続けた。

「ちょっと、下を向いてみてください」


「下?」


「はい、下です」


「こう?」

 はい、という柔らかい声音と同時に、百井が静かに少しだけ腰を浮かせたのを、椅子の音と、気配で悟った。


 視線の先で、白い机に移った僕の影に、細長い影が迫っているのだけが見て取れる。そうしてすぐに、僕の頭に百井の手が重ねられているのだと気が付いた。体温はあまり感じられないけれど、自分のものなどよりは、よほど柔らかいのだろうということだけは明らかだ。


 そのまま、その手が、二度、三度と上下している。


「これは?」


「成果は、正当に評価されるべきなんです……」


「もしかして、これが正当に評価された結果?」


「……はい。誰も秋葉さんの頑張りを知らないのであれば、せめて私が」

 こんなの、一文の得にもなりませんが、と百井はつぶやく。


 僕はふと、中学生のころの光景を思い出していた。当時から僕は身長が高くて、でもそんな図体で柄にもなく、ピアニストだった母親に言われるがままピアノを習っていて。大事なコンクールで入賞して、よくやった、と母親は僕の頭を撫でてくれた。


 その手を確か僕は、衝動に駆られるまま払い落としたことがあった。


 間違いなく、今の僕を構成するきっかけになった、忘れられない出来事。その時の母親の顔を、けれど僕は覚えていない。


「どんな、気分ですか?」

 いつもより柔らかい百井の声音で、僕は状況を思い出した。


「どうと言われても……はずかしい」

 言葉ではそんな風に言いながら、僕は大人しく頭を差し出し続けていた。百井の手と、あの日の母の手は何が違うのだろうか。


「でも、悪くない、かも」

 感想を聞いた後にも黙っている百井は、それだけではないでしょう、と僕を促しているようで。思わず言葉を足してしまう。


 すると、くすくすと百井が笑う。少しだけ、あくまでほんの少しだけ、波立っていた心がいつものように凪いでいく感覚だった。普通なら、眠りにつく前に、自分自身で行うはずの、精神のリセット作業。これが、もしこんなものが、成果に対する正当な報酬であるというのであれば。


 僕はもう少し、自らの成果を誰かに認めてほしいと思えるようになるかもしれない。


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二月編の完結となります。

このような形でのんびり十二月編までとうこうできればと。一応物語の大枠は完成していますので、おそらくエタることはありません。佳境は十月編ごろからでしょうか。もしよろしければのんびりお付き合いいただければと思います。

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