評価と報酬・1
十五階まで登るためのエレベーターの中で、既に売店の営業時間の終わりが近づいていることに気付いた。腕時計はしていないけれど、スマートフォンを確認すると、二十時まであと二分を切っていた。
ここ三日程、毎日完全消灯ぎりぎりまで実験に終始していたために、今日は早めの帰宅を計画していたのだが、やはり無理だった。そもそも取り組んでいたのは臨時の案件で。やむを得ずこっそり進行していた上に、僕が普段から抱えていた通常業務は一切消化できていないのだから、そういう意味では消費した時間に反比例して進捗はむしろ遅れていた。ようやくそれを取り返しつつあるといった具合だ。
二十五歳を過ぎるまでは夕食をとらずに日付が変わるころまで粘れたものだが、最近は作業効率の低下が自覚できる程に顕著だから、せめて糖分だけでも今のうちに摂取しておきたい。
間に合わなければ仕方ないが、砂糖を大量に投下した紅茶を、パントリーで淹れるしかないだろう。
「「あ」」
などと不摂生な思考に脳のリソースを割いていたものだから、予想外の人物と出くわして、間の抜けた声が重なった。売店のビニール袋を左手にぶら下げた百井が、開いたエレベーター扉の前に立っていた。
「おつかれ」
「はい。お疲れ様です」
ひとつふたつ、言葉を交わそうかと思ったが、今は閉店直前の売店に滑り込む方が優先事項だと気づいて、彼女の横を通り抜けようとする。彼女も彼女で、扉が閉まる前にエレベーターに乗り込む必要があるはずだった。
「あの、もう売店閉まっちゃいましたよ」
しかし、数歩進んだところで、背中から声をかけられた。
「え」
ドアが閉まりますと綺麗な英語で機械が告げて、エレベーターも行ってしまう。
「チョコレートありますけど、どうですか?」
対照的にその場に留まった、百井はにこと口角を上げていた。
「秋葉さんとはいつも、遅い時間にお会いしますね」
僕が頷くのを確認して、彼女が言った。数秒迷った挙句、けっこうなボリュームのチョコレートバーを有難く受け取ることにして、僕たち二人は誰もいない社員食堂の隅の席に腰を下ろす。
「まぁ」
「お忙しいんですか?」
「まぁまぁ」
「へぇ。最近は何が?」
「諸々が、色々と」
「あっはは。それじゃ、全然分かりません」
含んだところなど、全くないような笑い声を聞いて。ここ一週間の出来事など、全部彼女相手に吐き出してしましたいという感情が、ふっと頭を過る。仕事で関わりの薄い人物だからこそ話しやすいということもある。
「君、有名人だったんだな」
しかし、ここで、洗いざらい心中を吐露してしまうなど、あまりにも滑稽で僕らしくない。普通の人間にそういう行為が必要だったとしても、僕にはそれは必要ない。そうやって今日まで仕事をこなしてきた。唐突に百井の話を持ち出したのは、そんな心中の現れだった。
「有名人、ですか?」
自分で購入したチョコレートをかじりながら、百井ははたと、首を傾げる。
「総務の受付窓口が、今年から天使になったって」
聞いて百井は、苦虫を噛み潰したようになっていた。
「その話、もう収まったと思ってたんですが」
やがて、拗ねたように告げる。
「噂ってのは、大抵、本人の知らないところで語られてるもんだ」
笑いながら僕が答えると、むっと、百井が唇を尖らせた。やっぱりひどく男受けしそうな仕草だと思う。
「どこかの、メイドさんの噂みたいに?」
今度はうっと、僕が言葉を詰まらせた。
「それはもう呼ばない約束だ」
してやったりと、彼女がクスクス笑う。百井は笑顔を何種類も持っている。つられて僕も笑って、チョコレートバーに一口かじりついた。
「それで、最近は何が忙しいんですか?」
笑いがひとしきり収まって、もぐもぐとチョコレートを咀嚼して。二口目を口にしようとしたところで、唐突に百井が言った。
かじりかけたチョコレートを口の前で止めて、僕が何も答えられずにいると、百井は補足するように口を開く。
「先ほど、諸々、が色々、大変だと」
「大変とまでは、言ってない」
それはつい先刻、僕がせっかく終わらせたはずの話の続きだ。
「そうですか? でも、」
百井が、こてんと首を傾げながら続ける。
「表情はとても疲れているように見えますよ」
こういうのはあまり外さない自負があります、と百井がいつだったか自慢気に話していたのを思い出した。
正面から見据えられて、僕はどうにもむずがゆくなって視線を反らす。
どうして彼女にはこうまで、自分を見透かされているように感じるのか。
どうして彼女はこんなにも簡単に、僕が引いた線の内側に入ってこようとするのか。
「私は多分、何の力にもなりませんが、話すだけですっとすることってありません?」
その一言だったか、あるいは表情だったか。とにかくその時僕は少しだけ彼女を理解できたような気がした。
百井ははとても真っすぐな人物だ。
その行動に、言動に、あるいは動機に、打算、計略、下心の類は一切含まれていないのではなかろうか。僕みたいな人種が、彼女の為人を理解するのに、時間もかかるはずだ。
安心した、というより観念した、という表現が近いけれど、僕はゆっくり口を開く。
「ちょっと、ここ最近、やってられないなって案件が降ってわいて」
ぺらぺらと自分でも驚くほどに滑らかにここ一週間の出来事が言葉になる。なんの冗談も挟まずに話している自分を、もう一人の僕があざ笑っている気がした。それは単に、ただの苦労話で、現状への不満で、先輩への愚痴で、なんのストーリー性もない取り留めのない、雑感だった。
それを、同期の女友達でもなく、気になっている男性社員でもなく、ただ数日前に会っただけの先輩に聞かされるのだから、百井にしてみればひどくつまらない時間のはずだ。
理解していながら、僕は話を続けて。百井は、楽しそうにも、つまらなそうにもせずに、ただただ黙って、チョコレートを片手に聞いてくれた。
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