優先順位

「定刻も過ぎたことですし、そろそろ始めたいのですが」

 予定開始時刻を十分ほど過ぎたところで、とうとう香月さんが口を開いた。この場で最も年配の町田さんは無言でキーボードをたたいており、抗体医薬グループのGMはすっかり静観を決め込んでいるようで、目を伏せたままこちらを向かない。


「どなたか代理で説明できる方は」

 香月さんは、まだ三〇代後半であるとはいえ、そろそろベテランの部類に数えられようかという基礎探索グループの女性研究員だ。国立大学の博士課程をストレートで修了し、鳴り物入りで研究所に配属されただけあって、非常に頼りになる。深い有機合成の知識とあらゆる事象に対して鋭い切り口で考察を巡らせる能力を併せ持った人物だと思う。


 だが僕の口から、強いて一つ欠点を上げるとするなら、それは、怖いことだ。どのくらい怖いのかというと、予算の関係で消耗品の消費をセーブしてほしいという連絡を町田さんが毎回僕を介して行うくらいだ。


「ああ、その、僕はちょっとね。もう現場を離れて長いし……」

 そんな調子だから、香月さんに鋭い視線を向けられた抗体医薬グループのGMはしどろもどろになっていた。もしかすると、いやもしかしなくとも、GMというのは大した貧乏くじかもしれない。


「では、日を改めましょうか」

 言うが早いか、香月さんがPCを折りたたもうとしたところで、ようやく今日の打ち合わせの主要メンバーが入室した。


「えらいすんません。前の予定が長引きまして」

 入室早々、僕と町田さん、香月さんに手刀をきった森下さんは、対面の抗体医薬GMの隣の席に腰を下ろす。


「ええと、早速始めさしてもろて、よろしいやろか」

 いそいそとプロジェクタをつなぎながら、森下さんは伺うような視線を向けてくる。


「定刻を十分以上過ぎています。不足のない範囲で、手短に」

 応えたのはやはり香月さんだった。


「おお、こわ。ほしたら、始めさしてもらいます」

 こうして、抗体医薬グループとの初の合同会議は、やや重苦しい雰囲気で幕をあけた。


「まず、今回集まってもらったんは、新規化合物、ああ、我々はM2(エムツー)と呼称しとりますが、この実験データを基礎探索の方らにも共有するためです」

 皆が頷いているのを見て森下さんは続ける。

「そもそもM2は、細胞の抗体産生を賦活する候補化合物として、抗体医薬グループで自分が主体になって、2年ほど前から検証を進めてとりました。それが昨年ようやくその有効性が確認され始めたということで、いよいよ本格的に予算をとって、抗体製造の現場に組み込もうという意見が出始め、人員補充のために、今回基礎探索のお二人に手伝いをお願いしとります」


 なるほどと僕は頷く。


 森下さんは研究の進捗が芳しくないと思われていることを知らされていない様子だ。頼りないように見えて、そこはやはり役付きにまで出世したこのGMの手練手管といったところなのだろうか。


「私がプロジェクトリーダの森下で、こっちがGMの臼井です。よろしくお願いします」

 全員が軽く会釈をする。


「お願いします。香月です。概要は理解しました。先を続けてください」

 香月さんが短く返す。彼女がいると会議は淡々と消化される。


「わかりました。そしたら、ここからは子細なデータも交えながら今後のプランについて説明していこうと思います。どの辺りを手伝ってもらうかはまた後日ということで」

 町田さんと臼井さんの合意が得られたのを見て、森下さんがスクリーンを操作した。言葉通り、子細な数字と図表がスクリーン上には示されていた。


 森下さんの説明は、適宜香月さんと僕が質問を挟みながらの進行だったため、僕たちが概要を把握するのにおおよそ一時間を要した。カタカタとメモを残していたファイルから一旦視線を反らして、左手で目頭を揉んでやる。集中していた疲れが、どっと押し寄せてくるのを感じた。


 ちらと隣の香月さんに視線を向けると、なにやら彼女は手持ちのボールペンでこめかみのあたりをいじくりまわし、ただでさえ鋭い目つきをさらに厳しくして、小さくかぶりをふっていた。


 まずいと思う。あれは彼女が気に入らないものに向き合うときの仕草だ。香月さんが何かを言い出す前に、反射的に僕は口を開いた。


「あの、香月さん。今後の進め方を相談したいので、後程お時間いただいても?」


「ああ?」

 怖さがにじみ出てますよという台詞を喉元に留める。


「お時間いただいても?」


「それより先に、まぁ、聞くことがあるでしょうに」

 僕を見ながら、くいと、顎で、香月さんは森下さんを指した。森下さんは、GMと何か相談を進めているようで、こちらのやり取りには気付いていない。


 こうなってしまっては仕方がない。これは研究員の誰にでもいえることかもしれないけれど、とりわけ香月さんは信頼性の薄いデータを表に出すのを忌避するタイプだ。森下さんの収集したデータは僕から見てもやや厚みに欠けるものだった。彼を気使って当たり障りのない質疑を行えば、香月さんは僕の評価をやや下げるだろう。


「何か質問があれば何でも」

 GMとの相談を終えたらしい森下さんがこちらを見回す。もう一度、香月さんに、行け、という視線を送られて僕は仕方なく口を開いた。


「ええ、M2がB細胞の受容体を介して、抗体産生を賦活する可能性があることはよくわかりました。それで、その効果の、濃度依存性はどうなっていますか?」


 香月さんは確かに怖いが、気に入らない相手に罵声を浴びせたり、嫌がらせを繰り返したりするようなつまらない人間ではない。失望した相手にはただ、冷めた視線を向けるだけだ。もし僕がその対象となれば、僕はこの優秀な研究員から何かを教えてもらうことは二度とできないだろう。森下さんの機嫌を損なう以上に、それは僕にとって一番のデメリットだった。


「ああ、濃度依存。たしかどうなっとたかなぁ、なんかで取った気が……。ああ、あっちかな。そこについては、後で探してデータを送っときます」

 ふっと、香月さんが鼻から息を漏らしたのが僕にだけに聞こえた。


 もしかするとこのプロジェクトは既に成功の目を失っているかもしれない。妙に冷めた思考でそんなことを考える。


「他に何か?」

 町田さんはそもそもデータに関する質問はしないし、香月さんは先程の質疑の後から興味を失ったかのように目を伏せている。


「ない、みたいですね」


「わかりました。ほんなら初回はこの辺で、」

 しかし、もうダメかもしれないと思っていても、自分になんとかできる分だけは、精いっぱいあがいてみるしかない。それが会社という場所だと、僕は割り切っている。


 急いで思考を巡らせて、一言だけ添える。


「先ほどのデータと一緒に、もし余りがあれば、M2のサンプルと使用していたB細胞の株を少し分けていただいても? こちらの培養室でも生育に問題がないか確かめておきたいので」


「ええ、確かM2もB細胞株もまだストックがあったから、ええよ。秋葉くん、やる気やなぁ」


「ええ、まぁ」

 繕った笑顔を見せながら、曖昧に頷いた。僕は町田さんにも、香月さんにも内緒で、その日ひっそり残業することを決意した。

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