遅延と催促
「私はプロジェクトを降ります」
町田さんは左手で顔の半分を覆った。僕は彼からの視線を感じたが、明後日の方向を向いて、気付かないふりをした。
「理由は?」
香月さんが設定した、新規化合物M2に関するミーティングの席での出来事。
「そもそも、一度、他グループと合同という時点で、私は積極的にはなれないというお話をしていたはずですが」
「それは聞いている。君のようなドク卒に関しては、極力ゼロからのプロジェクトの主要メンバーとして働けるように仕事を振ってきてもいたしね。でも、ここはアカデミアじゃないんだから、どうしても避けられない案件というのも出てくるもんだ」
町田さんにしては思い切った言葉だった。僕たちのような超基礎段階の研究開発の人間は、比較的上司の縛りが緩い環境で仕事をすることが多い。必然的に、自由な研究環境を求めるハイキャリアな研究員が集まりやすいが、その分、てこ入れが必要な際の上司は苦労することが常だ。
「それは理解しているつもりです。ですから最初は引き受けました。ですが、引継ぎのデータが来ません。あれから既に一週間が経過しています」
視線が威圧的なのと、口調が淡々としているので誤解されがちだが、香月さんは決して自由気まま、アンコントローラブルな研究員ではない。
「データというと、この間のミーティングで最後に話した濃度依存性のものだね」
「はい」
「何度か催促はしてみたの?」
「もちろんです」
そう。確かに催促した。正確には、『君あの森下という社員とは顔見知りのようですね』と香月さんに詰め寄られた僕が催促した。一週間の間に四回催促した。最後の方はもうどうにでもなれと思っていた。
「で、森下くんからの返答は?」
「要約すると、今データが少しまとまりに欠けるので、まとめてからお渡ししますと」
「……じゃあ、もう少し待ってみてもいいんじゃない」
町田さんは苦笑しながら言った。立場上仕方ない発言といったところか。
僕も、まさか森下さんがここまで事を厄介にするような人物だとは思っていなかった。何か意図でもあるのだろうか。
「まとめは必要ないから、ローデータが欲しいと言いました。変に編集されているより解釈が楽だから、余計な事考えずに、あるものは全部出せと」
「あ、あくまで要約すると、ですよ」
町田さんの目が一瞬強張ったので、僕が一言だけ添える。因みに、四回目に催促のメールを送れと言った時の香月さんの言葉は、今の発言ほぼそのままであった。
溜息をついてから、町田さんが口を開いた。
「まあ、とりあえず今週末までは待ってみようじゃないか。それでだめなら、僕が直接むこうのGMに掛け合おう。それでも出てこないようなら、こちらとしても手の出しようがないから、この案件はうちでは引き受けない。それで手を打ってもらえないかな」
今週末と言うが今日はもう水曜日だ。
「……それ以上の引き延ばしは、誰の得にもなりませんよ」
数秒の沈黙の後、香月さんはそれだけ言い残して、会議室を後にした。
「どうにからんかねぇ?」
香月さん足音が遠ざかっていくのを聞きながら、町田さんが僕に視線を向けた。酷く、おどけた調子だった。
「無茶言わないでくださいよ」
「ですよねぇ」
背もたれ付きの椅子に、町田さんは深く身を預けて目を瞑っている。おどけた調子とは対照的に、ひどく疲労を感じさせる仕草だった。
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