暗雲

「これは?」

 四人以下の小規模な打ち合わせ用に設置された小さな会議室で、差し出された小包に視線を落として僕は訪ねた。基礎探索グループのリーダーを務める、町田さんとの一対一面談の席、そのオープニングトークでの一幕だ。


「ああ、チョコレートだよ」

 余談だけれど、この研究所ではグループリーダーのことをグループマネージャー;GMと呼称している。僕たちの場合であれば町田GMだ。少しかっこいい。GMなんて言葉は入社前まで、野球チームの偉い人という認識しかなかった。もっともあちらは、ゼネラルマネージャーの略称だから、僕たちの言うGMとは似て非なるものだろう。閑話休題。


「どうしてチョコレートが?」


「ああ、バレンタインで毎年恒例のやつね」

 バレンタインというワードに僕は眉根を寄せた。


「と、いうことは女性社員のみなさまから?」


「そうなるね」

 町田さんの言葉が終わるとほぼ同時に盛大な溜息をつく。


「一応確認しておきますが、」


「まぁ、君しかいないよねぇ」

 僕が言葉を並べる前に、町田さんは意図を察したようだった。女性社員皆からバレンタインのプレゼントを頂いたということは、来る三月十四日には男性社員から返礼の品を用意する必要がある。つまりは、その準備を誰が進めるのかという話だ。


 町田さんが基礎探索グループのGMに就任して3年、もうこのやりとりも3回目になるものだから、会話に面倒な確認作業は必要がなく。渋々頷く僕を横目に、彼は包みの一つを開いて、まるいチョコレートを口に運んだ。


「時間はたっぷり1カ月あるから、今日はそろそろ本題に移ろうか」

 口の中のものを飲み込んで、やすもんだなこれは、などと呟いてから町田さんがすっと真面目な顔をつくる。

 

「お願いします。年度の方針面談ですよね」

 ここで文句を垂れても何かが変わるわけではないことを知っている僕は、ばれない程度の溜息を一つだけつくに留める。


 こんなやりとりをしているところを恵さんなどに見られれば、ひどい叱責を受けるかもしれないが、毎回毎回、正解のない返礼品を業務時間外に探し回る羽目になる人物のことも少しは考えてほしい。


 グループ単位での返礼には賛成しかねるという僕の後ろにいるGMの意図を察知しかねる浅慮な輩は論外だし、品物に対する並々ならぬ拘りを2時間喋り倒した挙句、全く予算に収まらない候補品をリスト化してくれる親切心も正直無用の長物である。

 

「そう。そっちが本題。年次業務目標シートの記入はどう?」

 年次業務目標シートとは、年度末までに出すべき成果を一年の初めにリスト化するためのテンプレートだ。僕たち社員はフォーマットに従って二つ以上の目標となる成果を設定し、それぞれにどの程度注力するかをパーセンテージで記入する。


「ある程度は埋めました。昨年から引き続きのプロジェクトが4項目ほど既に進行中ですので、それぞれへのマンパワー配分は10~30%といったところです」

 ディスプレイに移された僕のPC画面を眺めながら町田さんはふむふむと頷く。年度末には、全ての項目の達成度合いが4段階で評価され、注力した割合に応じた補正がかかった上で、各社員の成績がつく仕組みになっている。


「うん。まあ、秋葉くんは毎回無難に書いてくれて助かるよ。概ねこのとおりで問題ない」


「分かりました」

 僕は、ひとまずほっと息をついた。年初めのこの面談で、進行中のプロジェクトを外されたり、新たなプロジェクトへの加入が複数にわたる場合、異動や島流しも視野に入ってきて、その一年は非常にややこしいことになると聞いている。


「だけど、ちょっと一件ウチで新しい案件を受け持つことになってね」

 しかし、安心したのもつかの間。


「それに、君も加入してほしいんだよねぇ」

 前談から予想したとおりの言葉を町田さんは告げた。


「ええと、それは構いませんが、新規というのは何の?」

 僕は、表情を崩さないことを意識して訪ねた。新しいプロジェクトに一つ加入するということは、場合によっては今計画している年間プランを維持することが出来なくなる。とはいえここであからさまに顔をひきつらせては、僕の僕らしさが損なわれてしまうように思う。表情が読みにくいことが僕のアイデンティティだと、自負しているくらいだ。


「今回は他グループからのヘルプ案件でね。去年までは生体情報部の抗体医薬が主担当だった」


「へぇ。珍しいですね。引継ぎなんて」

 超初期段階の研究開発を行う僕たちは、ゼロからグループ内で立ち上げられたプロジェクトに従事することが多く、ある程度の段階で企画を製品開発系に受け渡すことはあっても、引き受けることはあまり多くない。


「ああ、まぁ正直進捗があまり芳しくない企画だからということで、あまり受けたくはなかったんだけど」

 我々のマネージャーは代表者らしからぬ歯切れの悪い口調で続ける。

「最近、推進されてるグループ間コラボレーションのことを話題に出されると、ばっさり断るというのも難しくてね」


 僕の方はというと、進捗が芳しくないという部分から徐々に心中の不安を膨らませていた。

「進みがいまいちということですが、今はどなたが主担当なんですか」


 研究開発において進捗が思うようにいっていない場合、メンバーの得意分野が、現在進行中のステージと相性が悪いという可能性が一番高い。基礎探索は僕のような生物学系と化学系の研究員が主な構成メンバーだから、それ以外の分野からのヘルプコールだろうと当たりをつけて、僕は聞いた。


「ああ、確か、森下とか言ってたよ。君の四、五年くらい先輩じゃないかな」

 しかし町田さんの口から告げられたのは、予想外の、僕も知っている人物の名だった。

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