コネクション

「すみません、遅れました」

 引き戸を開ける。中は掘りごたつのテーブル席だった。席についた七人の参加者の前には、お通しと思われる小鉢と、まだあまり減っていないグラスが並んでいる。一瞬全員の目がこちらを注視し、僕はいそいそとコートを脱いだ。


「ああ、ええよ、ええよ。とりあえず飲みもんたのみ?」


「ああ、さっきビールをお願しました。」


「さすが。いっつも、けっこう飲むよな」


「ええ、人並みには」

 お! いいね、と知らない顔の男が僕に笑顔をむけてから、飲みの席は再び先刻の喧噪を取り戻した。


 森下さんは、いつも、誰が聞いてもそれと分かる関西弁で話しかけてくる。彼が築くコミュニティのメンバーは大概が気のいい雰囲気で、初対面の相手が含まれるからといって、飲み会がおつやになる心配はない。


 僕は一番入り口近くにぽっかり空いた、角の席に腰を下ろす。と、同時に、左の脇腹に鈍い衝撃を受けた。面くらって目を向けると、恵さんが明後日の方向を向いて音の出ない口笛を吹いていた。


 そちらは一旦諦めて、店員さんがたった今運んできたビールを受け取る。すると、直後にポケットで社用携帯が振動したのを感じた。それを引っ張り出して、机の下で確認すると、画面ロックを外すまでもなく、ディスプレイに『お そ い (`Д´)』のメッセージが躍っていた。


「なんやねん、もしかしてまだ仕事引きずっとんのか?」


「いえ、すみません。大した用では」

 横で恵さんに、きっ、と一瞬にらまれた気がするが、受け取ったグラスを少し上げる。

 

 「冗談、冗談。ほしたら、秋葉くん来てみんなそろったとこやし、改めて」

 広い人間関係を気付いていくことの苦手な僕にとって、こんな風に場を取り持ってくれる森下さんの好意はやはりありがたいものだ。飲み会が疲れることはさておいて。


 乾杯! お疲れさん! という声が常識的な範囲で部屋に響く。かちん、とグラスが合わさる音を合図に、テーブルは三度、喧騒につつまれた。


 初対面の相手に一通り自己紹介を終えて、皆にある程度酔いが回って、話題に新鮮味が尽きはじめると、意図せずこういった席での会話は、身近な社員の噂話へと移行する。あいつとあれが最近付き合い始めただとか、あの上司はデリカシーがないだとか、所長も昔はやんちゃだったらしいだとか、そういえば五年目に時期部門長候補の期待の新人がいるらしいだとか。……僕は特に気にしていないが、やっぱり垣内はどこへ行っても有名人。たいへんすばらしいことだ。閑話休題。


 そして大概、付随するエピソードは、語り手の主観によって、面白おかしくアレンジされていく。その中には研究員らしく、実験失敗談なんかも含まれていて、学びがないこともない。


「まぁ、うちにも何人かデータサイエンティストみたいな研究員がおるけど、ドライの解析頼むなら、やっぱり大畑さんやろなぁ」

 僕が研究員としてマスデータ等の取扱いもこれから勉強したいという話をしたところ、森下さんが口を開いた。


「大畑さん。僕は聞いたことがないですね」

 

「今の5年目以下の社員はそうかもなぁ。今はひっそり、会社の利益は度外視で自分のやりたい研究だけをやらはってるみたいやから。そういう人は出世はしにくいでなぁ」


「でも、話を聞くなら役付きじゃない方の方がゆっくりできそうですね」


「そうかもなぁ、最近はマイクロバイオームとか興味あるみたいやからきいてみたらええ」

 と、いった風に。まだ5年目の僕の体感であるが、会社では年次を重ねれば重ねるほど、気を使わなければならない、軋轢のある相手というものが増えている気がする。私的な付き合いでは問題なくとも、いっしょに仕事をするということはそういうことなのだろう。


 とにかく今は、森下さんも、今名前を知った大畑さんもあまり気を使わずに話ができる貴重な研究員だ。そういった人物は多いにこしたことはないという程度の分別はつく。疲れるといっても、やはりこういったコミュニケーションから得ているものもあるのだと、僕は自分を納得させた。


「でも、ビボの実験は絶対聞いたらあかん。ロクなことにならん。たしか前に、めちゃくちゃ苦労して合成した貴重な化合物を、これまためちゃくちゃ労力とかねかけてつくった遺伝子組み換えマウスにまちごうて経口投与して、大量毒殺するちゅう事故をおこしとったからなぁ」

 はははははと、酔いの回ったやや大きめの笑いが広がる。それ総額いくらっすか? 多分一千万は下らん、などという所長に聞かれると冷や汗モノな会話の応酬に発展する。


 オチのエピソードまでしっかり見据えているあたり、本人に教育の意図は全くなかったのだろう。

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