黄色のバラ

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黄色のバラ

 結婚記念日がいつなのか、毎年忘れてしまうのは何故なのだろう?

 去年も忘れていたし、一昨年もそうだった。今年も例年に漏れなく思い出せない。

 毎年、十月の末頃になるとソワソワするのだ。来月は結婚記念日の月だということに。

 いや、全く忘れている訳ではなく、月までは覚えていて、日にちが覚えられないのだ。確か二十四日だった様な、ん?二十七日か?いやいや去年もそう思って、どちらも違ったんじゃなかったっけ?だから、二十八日なんだって。

 ?本当か?

 いやいや、実は二十九日で、そっか、月末の一日前ね、って言わなかったっけ?

 二十日以降で、勤労感謝の日の二十三日でないことは分かっているのだ。(因みに十一月二十三日は、遠い昔、初めてお付き合いをした女の子の誕生日だった。それは何故だかしっかり覚えている)

 さて、今年はどうしたものか。

 毎年のことなのだが、仕事を終えて家に帰ると、その「日」は食卓にはいつもと違う雰囲気の料理が並び、シャンパーニュか赤ワインが準備されており、それを見て初めて『そうか、今日だったか』と気付く。去年もそうだった。

 そして前の週から準備しておいた結婚記念のプレゼントを、如何にも『今日のことは勿論覚えてましたよ』と謂わんばかりに鞄から取り出して、「結婚記念日、おめでとう。これからも宜しく」と言いながら、妻に手渡すのだ。

「ありがとうっ。ちゃんと覚えていてくれたのねっ。嬉しいっ」

 何の疑いも無く喜ぶ妻に「当たり前じゃないか」、口ではそう言いながら、心の中では『セーフ。今年も凌いだぁ』と小さく情けないガッツポーズを決めているのだ。

「あら、可愛いブローチ。ちょうどこんなの欲しかったんだ。ありがとう」

「そう?それは良かった。じゃあ、先にシャワー浴びてくるよ」

「うん、あたしはその間にグラタン、オーブンで焼いておくね」

 シャワーから上がって、一応新しいワイシャツとスラックスに着替え、カーディガンを羽織り食卓に着いて・・・。

 そう、去年は確かそんな流れだった気がする。

 ところで、今年の結婚記念日は、結婚十周年の区切りの年だ(「錫婚式」と言うらしい)。

 テレビコマーシャルでは一時期「スイート・テン・ダイヤモンド」なるものを猛烈プッシュしていた時期があったが、今頃はどうなったのだろう。そんなものはとんと見かけなくなってしまった。

 折角の十周年だ。「物」としてのプレゼントも良いのだけれど、何かサプライズのようなことをやってみたい。

 しかし、哀しいかな、それを十一月の何日に行えば良いのかが分からない・・・。

 そうなのだ、十月の最終週からソワソワし始めて、リビングの壁掛けカレンダーをめくり十一月の予定を確かめたが、まだどの日にも○印は付いていなかった。

 妻に気付かれないようにそれとなく、遠回しに、如何にも当たり前のように、「そう言えば、今年の結婚記念日って、何曜日だっけ?」と訊いてみるか?いや、それも何だかワザとらしい。然も私は極度の緊張シィだ。演技が下手で、絶対に勘繰られてしまう。サプライズがしたいのに、そんなことじゃ勘の良い妻のことだ、先に見破られてしまうに違いない。

 こういうのはどうだろう?

 兎に角二十某かの日に、サプライズを慣行してしまう。そして妻の反応を見る。

 妻が

「ありがとう。ちゃんと覚えていてくれたのね」

 そう言ったなら、「当たり前だよ」と返せばいいし、

「あれ、ちょっと早い結婚記念日だけど、嬉しい」

 そう言えば、「うん、この日しか予定が立たなくって」と言い訳気味に切り返せるだろう。

 いや、待てよ。このシミュレーションでは記念日以前じゃないと成立しない。一日でも遅れると台無しなプランだ。

 やはりどうにかしてその「日」を探り当てるべきだ。

 親に訊いてみるのは?

 いやいや、ダメに決まっている。

 特に妻の両親には絶対に訊けない。何故なら妻の両親宅はうちのマンションから歩いて数分の場所にあり、今でも妻は週に二~三回は実家に顔を出している。

 私が電話したことなんて、直ぐにバレてしまうこと請け合いだ。

 自分の親にしたって同じだ。

 何事にも気ぃ遣いの妻は、結婚十年にもなるのに、未だに週に一度以上は必ず私の実家に電話を入れて近況報告を欠かさずにいる。

 そもそも自分たちの両親に、

「俺達の結婚式って、十一月の何日だったっけ?」

 そんな質問出来る訳がない。

 うーん、困った。

 この際、先にサプライズの内容から決めてしまおうか。

 しかし、その「日」が分からないという根本問題がある限り、サプライズを仕掛けようにも、かなり計画の幅が狭められてしまう。

 先ず、例えばレストランやホテル、それに何かしらのイベントやアトラクションの予約が取れない。

 ならば、そういった事前予約の必要が無い計画を立てれば良いのだが、それがそう簡単に思い付かない。

 ドライブではあまりサプライズにはならないし、お店やイベントの予約が出来ない以上、そういった方面の計画は無しだ。

 せめて一週間前にその「日」が判明すれば良いのだが、それを過ぎてしまうと計画自体が考える間もなく、なし崩しになってしまう気がする。

 では、どうすれば良いのだろうか。今から計画して、ギリギリにその「日」が判明しても問題無く計画を実行できるプランとは・・・・?

「!」

 こういうのはどうだろう?

 その日、妻をうまいこと理由を付けて外出させ、私は会社を早退して家に帰る。それから半日ほどかけて、料理から部屋の片付けまで、そして少し雰囲気のある装飾を行って、何も知らずに帰宅する妻を迎える。

 そう、いつもの逆だ。

 確かにそれならば、例えその「日」が三日前に判明したとしても、時間的には充分だろう。

 うん、それならば行けそうな気がする。然も、私が料理をしたり部屋の片づけをしたりなど、妻は想像したことも無いに違いない。

これはある意味、本当のサプライズになり得る。

 それじゃあ、その「日」会社は、早退と云わず、妻には内緒で有給休暇を取って休んでしまおう。勿論朝はいつものように会社に出掛けるフリをして、妻が家を出た頃を見計らって戻れば良いのだ。

 そう、そして花束を注文しよう。街の花屋の配達サービスなら、前日予約でも時間指定で届けてくれるに違いない。そこは妻の帰宅時間を予測して配達時間を依頼する他ないが、妻の帰宅と同時ならば言うことはないし、もし遅れたとしても、帰宅後一~二時間以内であれば、それはそれでちょうど食事中のサプライズプレゼントにもなる。

 指輪かネックレスもプレゼントしようと思っているが、それについては事前に買えるので問題ない。

 料理は今から考えて、食材も調味料もどこで買えるか調べておけば、当日に買って帰れば良い。

 少しワクワクしてきた。

 今夜はyoutubeチャンネルで、私でも作れるコース料理のレシピでも検討しながら休むとしよう。

 今日も書斎で寝れば、妻に気付かれることもないだろう。


 翌日から、私は毎日妻の目を盗んでは、家じゅうのカレンダーを、壁掛けと言わずスタンドと言わずこっそりとチェックするのだが、十一月十日を過ぎても、どのカレンダーにもそれらしき印が追記されることは無かった。

 そうか、彼女の中ではある意味当たり前に覚えていることであって、特に記さなくても良いことなのかもしれないな。

 しかし、私にとってはそうも言っていられない。

 何とかしてその「日」を探り当てなければならないという焦りが、胸の内で日増しに大きな部分を占めて来ていた。

 こうなったら、やはり直接聞き出すしかないか。

 しかし、どうやって気付かれないほどに遠回しな質問をすれば良いのだろうか。

 ふと、妻の携帯電話のスケジュールアプリを覗くのはどうだろう?家中のカレンダーには何の印も付いていないが、彼女はよく携帯電話のスケジュールアプリを見ながら、週の予定やその日の帰宅時間を私に訊ねている。きっとそちらには書き込んでいるのではなかろうか。

そんなことが頭に思い浮かんだが、直ぐに胸で打ち消した。

 いくら夫婦でも、それはダメに決まっている。

 逆に私の携帯電話を勝手に覗かれると、それはやはり気持ちの良いものではないではないだろう。但し、私の携帯電話は覗かれたところで、別にどうということはないのだが・・・・。

 まだあと一週間は猶予がある。それまでに何とか探り出せるかも知れない。

 そう思いながら、時間だけが過ぎて行った。


 恐らく、この一週間、妻にとって私の行動、言動は何かと可笑しなテンションに映ったことだろう。

 何しろ私は演技力ゼロだ。

 結婚記念日の正確な日付を訊き出したくて訊けない、無理に何事も無いような素振りを大袈裟に行う、「あっ、そういえばさ・・・いや、何でもない・・・」なんてことを一日に何度も言う。

 そしてとうとう気付けば十一月十八日になっていた。

 午後十時過ぎ、仕事から帰宅し、風呂に入り、用意された夕飯を済ませると、いつものように書斎に入った。

 書斎に入ったのが十一時半を少し回ったところで、私は部屋の照明を消し、如何にも寝床に就いたかのように息を潜めてリビングの様子を伺っていた。

 暫くすると、キッチンから戻って来た妻の足音がして、その足音は一度私の書斎の隣の寝室へと向かい、その後もう一度リビングを通って、そして消えた。

 少し間をおいて、わたしは静かに書斎を出ると、浴室方向に耳を澄ます。

 シャワーの流れる音が聞こえてくる。

 私はその音を確かめると、今度は自分の書斎には戻らずに、隣の寝室の扉を静かに開けた。

 そういえば、もう随分とこの寝室を私は使っていない。

 別に何が可笑しいということはないのだが、一瞬苦笑にも似た皮肉な笑いが右頬の筋肉を引きらせる感覚があった。

 そんなことより・・・。

 私は寝室をぐるっと見回し、直ぐにベッドの脇のナイトテーブル上にある目的のものを発見した。

 勿論、妻の携帯電話だ。

 私はナイトテーブルに近付き、恐る恐る携帯電話を手に取った。今この瞬間にメールなり某かの着信があったなら、私は驚いて携帯電話を床に落としてしまったことだろう。

 ごめん、もうこれしか方法が思い付かない。本当にこれっきりだから。

 心の中で呪文のように「ごめん」という言葉を唱えながら、指先で画面をタップする。暗証番号画面が開示され、そこに指先を宛てようとして、ふと気付いた。

 ナイトテーブルの引き出しが少しばかり開いていて、そこから何やらシステム手帳のようなものが顔を覗かせている。

 ひょっとして、スケジュール帖か?

 私はゆっくりと引き出しを開け、そっとそれを取り出してみる。

 不用心だな。でも、そうか、私だって別に部屋に置いているパソコンもいつだって開きっ放しだし、携帯電話だって見られてもどうということはないものな。

 家の中に居るのは夫婦二人きりだものな、現金や預金通帳、クレジットカードでもあるまいし、そんなに気にすることでもないか・・・・。

 手に取った感じ、どうやらスケジュール帖っぽい。

 何とはなしに表紙扉を開けてみると、2019年1月の記載があり、どうやらビンゴらしい。スケジュール帖だ。

 私は逸(はや)る気持ちを抑えながら、先ずはゆっくりと手に持っていた携帯電話を元あった場所に戻し、それから丁寧にスケジュール帖を両手に持ち替えた。

 そして、大凡で十一月頃であろう辺りを、息を止めてゆっくりと開く・・・・。

 あった!

 見開きで十一月の三十日分がカレンダー方式に表示されたそのページに、有ったのだ、日付の下に♡マークが。

 26日💕、27日♡、28日♡・・・・。

 探り当てた以上、長居は無用だ。

 私はスケジュール帖を元の引き出しに戻し、引き出しは元の通りに少し開いたままにして、寝室を後にする。

 リビングに戻ると、まだシャワーの音は聞こえている。私はそのまま自分の書斎に戻った。

 よしっ、分かった。二十六日で間違いない。

 然も、携帯電話の覗き見をしなくて済んだことは、私にとって心の負担をうんと軽くしてくれた。

 良かった。幾ら妻とはいえ、流石に人の携帯電話を勝手に開くのは気が引けたので、それをせずに済んだということは、この先罪悪感にさいなまれることも無いということだ。

 さぁ、それでは、今後はどうやって二十六日、結婚記念日当日に、妻を朝から夕刻まで外出させるか、だ。

 しかし、それは粗略ほぼほぼ計画は立ててあった。

 二十六日の午前中に車の保険料引き落とし分を、銀行口座に預け入れし忘れたことにして妻に入金をお願いする。そして、上野の国立西洋美術館のチケットを二枚渡すのだ。

「たまたま、仕事関係の人から貰ったんだ。お義母さんでも誘って、行ってきなよ」

 妻の母親、つまり私にとっての義理の母親は、西洋絵画に造詣が深く(本人弁に因る)、娘が絵画展に誘えば、必ず喜んで同行するはずだ。

「本当は俺も行きたかったんだけど、やっぱり仕事は休めなくてさ」

 色々と嘘だ。それでもそれくらいの嘘は結婚記念日サプライズの為だ。上手に嘘を吐こうではないか。

 うん、イケる。これでイケそうな気がしてきた。

 あとは食材の買い出しのメモを書き出そう。


 二十五日、午後九時に帰宅。

「ただいまぁ」

 返事はない。

 少し間があって、私が靴を脱ぎ、室内用スリッパに履き替えたタイミングで、慌てたようにリビングの方から「お帰りなさい」と声がした。

 再度「ただいま」と言いながらリビングのドアを開けると、妻は今しがた寝室から出てきたのか、それともソファーから立ち上がったのか、そんな体(てい)の棒立ち状態で、少し驚いた様な表情をしている。

「あれ、今日は随分早かったじゃない。お風呂?お食事?」

 そう訊ねてきた妻に、私はそこから、昨晩まで散々シミュレーションを重ねた嘘を吐き始める。

「うん、風呂にするけど・・・。あ、ああ、そうそう」

 私の声は震えていないだろうか?少し自信が無い。

「そう、今日さ、実は取引先の部長さんからさ、チケット貰っちゃってさ・・・」

 私は如何にもという感じで、胸の内ポケットから封筒を取り出し、それを妻に差出した。

「何かね、その部長さんも、勿論自分が行く予定でチケット購入したらしいんだけど、急用が出来ちゃって行けなくなったらしいのよ。そんで、何気なくだけど、そう言えばうちの妻と妻の母親が西洋絵画すきなんですよぉ、なんて話になって・・・」

 私は少し上目遣いで妻の反応を伺う。

「あら、そうなの」

 封筒からチケットを取り出しながらの妻の声は、何となく気のない返事に聞こえた。

 それからちょっとばかり眉間に皺を寄せた曇り気味の表情になる。

「上野、かぁ・・・明日、なのね・・・」

「そ、そうなんだよ。明日限定のチケットでさ。ほら、お義母さん暇してないかな?もしあれだったら、お義母さん誘って行ってきなよ。ほ、本当は俺も行きたかったんだけど、明日の仕事のスケジュール見たらさ、どうしても休めなくってさ」

 ほんの少しの間、妻は考える風をして、それから「分かった」と答える。

 私は胸の内でホッとしながら、一気に続けた。

「あ、それとさ、うん、それとなんだけどさ。俺、今日、引き落としの口座、そう、車の保険料の引き落とし口座にお金入れるの忘れちゃってて、明日の午前中までに預け入れしとかないといけないんだけど、お願いして良いかな?午前中なんだけど・・・」

 私は探り探り、下手にお願いをする体(てい)だ。

「ええ、良いわよ」

 おや、案外すんなり了承してくれた。

 私の嘘は果たして見破られずにすんなりと受け入れられたのか?

 ひょっとしたら、嘘と分かってそれに乗った可能性もあるか・・・。

 しかしまぁ、私が有給休暇を取って、その先に何を計画しているか迄は知る由もないだろう。うん、それで良いのだ。それくらいで上出来だ。

 私は風呂に入って、食事を終えると、そそくさと書斎に引っ込んだ。

 これ以上、あまり色々と喋り過ぎるとボロが出そうだから。

 ん?色々と喋り過ぎると・・・?

 ・・・そういえば、いつの頃からだろうか、妻とあまり会話らしい会話をしていないかもしれない・・・。

 まぁいいさ、明日は存分に喜んでもらうとしよう。

 私は遠足を翌日に控えた小学生のような気分で、書斎のカウチベッドに潜り込んだ。


 朝、『いつものように、いつものように』と心の中で唱えるように、出来る限り自然な振舞いを心掛けて家を出た。

 大体そんなことを考えていること自体が、既に自然な訳がないのだが、そんなことは自分自身が一番よく分かっている。

 家を出て、先ず向かったのは駅前のタリーズだ。いつもは店の前を素通りするだけなのだが、今日はここで妻が出掛けるであろう時間まで、暇潰しをすることにした。

 久しぶりにコーヒーの良い香りを嗅いだような気がする。

 私は駅までの道すがらに寄ったコンビニで購入したスポーツ新聞を広げて、あまり面白くもない芸能ゴシップ記事を意味も無く読んでいた。

 記事が面白かろうがつまらなかろうが、それはあまり問題ではないのだ。それよりも、朝の通勤ラッシュの時間帯に、こうやってコーヒーを飲んでいることが、何とも不思議な感じで、随分昔に忘れてしまった何かを思い出しそうな気分なのだ。

 それは心地好いが半分で、もう半分は何だかもどかしさにも似た心持なのだが、決して悪い気分ではない。その「忘れてしまった何か」が何なのかは、一向に思い出せずにいたのだが・・・。

 それでも私は、いつになくのんびりと一時間ほどをタリーズで過ごし、いつの間にか時計の針は八時四十五分を指していた。

 そろそろ良いかな。

 私は席を立ち、通りに出る。駅前通りのイチョウ並木が実に綺麗に色付いて、その先に広がる空は、爽やかに晴れ渡っている。

 こんなに清々しい気分になったのは、一体どれくらい振りだろう。

 そんなことを考えながら、私は上着のポケットからメモ用紙を取り出して、本日の買い物リストに目を通す。

 ええっと、三軒の店を回って、都合十三品の食材と調味料が必要、っと。

 いかんいかん、それにシャンパーニュを一本だった。そこ大事。

 私は居ても経ってもいられなくなり、急ぎ足で買い物に向かうのだった。


 買い物を終え、マンションに戻るとエントランスで、妻が確実に出掛けていることを確かめる為に、503号室の呼び鈴を押し、インターホンのカメラに映らないところまで身体を引いて反応を待つ。

 反応は無し。よし、間違いなく妻は出掛けている。

 時刻は既に午後0時を少し回っていた。

 私はロックの掛かった自動ドアの解除の為にキーを差し込み、自動ドアを開け、自宅に向かった。

 玄関ドアを開けて室内に入ると、いつもと何も変わらないはずの我が家なのだが、やけに小ざっぱりした空気が漂っていたのは、気のせいか?

 しかしそれも然程(さほど)気になることは無く、私は早速リビングとキッチンの片付けに取り掛かろうとして、再度感じる。

 私が片付けることも無いくらい、整理整頓されている。

 やることないな。それならば、リビングとキッチンのテーブル、ソファー、椅子の配置換えと、テーブルクロスとクッションの交換をしよう。

 そう思い、私は玄関脇のウォークインクローゼット兼物置に足を運ぶ。

 扉を開けて、ここでも感じる。

 おや、まただ。何なのだろう、この違和感は・・・?

 それでも何かに思い当たったり、気付くまでには至らず、私はクリーニング済みの袋を被ったソファー用の置きクッションとダイニングテーブル用のテーブルクロスを手にしてリビングに戻った。

 どうせ考えたところで何も答えは見出せそうにない。私は出来るだけ何も考えずに作業に没頭しようと自らに暗示を掛けて、既存のクッションを取り除き、新しいテーブルクロスを広げる。

 先ずはキッチンのダイニングテーブルのテーブルクロスを赤のギンガムチェックからモスグリーンと赤の二枚重ねのクリスマスカラーでセットする。十二月は目の前だ。

 うん、なかなか季節感が在るかもな。

 次はリビングのソファーだが、先ずは現在の玄関入り口から見て正面の長ソファーを横向きにして、短い一人掛けを入れ替えることにする。特に意味はない。気分転換だ。

 一人で行う作業は、床を傷付けないよう、引きずることは極力避け、少しずつ移動させるのだが、それは思った以上の大掛かりな作業になった。

作業をしながら、やはり集中しきれない自分が居ることは否めず、何処かしら気もそぞろというか、不安感というか・・・・。

ソファーの配置が換わり、新しいクッションを配置し、私はソファーから少し離れて、リビング全体を見渡して思う。うん、これも上出来だ。

いいや、そう思ったのではなく、無理矢理にそう思おうとしているのだ。

何なのだろう、帰宅してからずっと感じている、この違和感は・・・?

瞬間、私は慌ててウォークインクローゼットに飛び込み、そして、分かった。

スーツケースが無いのだ。

クローゼットの空間内を何度も見渡す。

無い。やはり無い。

私はクローゼットを飛び出し、今度は妻の寝室に転がり込むように飛び込んでいた。

そして、今日は確りと閉じられたナイトテーブルの引き出しを勢いよく引き出す。

無い。

先日までそこに在ったはずのスケジュール帖は、姿を消していた。

・・・・・・・・・・・・・・。・・・・・・・・・・・・・・・。

何が起こっている?

・・・・・・・・・・・・・・。・・・・・・・・・・・・・・・。

私は考えるのを止めることにする。

それからキッチンに戻り、徐(おもむろ)に料理を始めることにした。

きっと、何かの間違いなんだ。

きっと、私の杞憂である。

きっと、当初の予定通り、そして私の予測通り、妻は午後五時頃には帰宅するだろう。

そしてきっと、帰宅した妻は部屋を見て目を丸くして・・・。

きっと、テーブルに並んだ料理を見て驚いて・・・・。

きっと、・・・・。


薄々は私だって分かってはいるのだ。

それでも包丁でトマトのへたをカットするし、それでもアボガドとヨーグルトをミキサーにかけるのだ。

カモ肉の皮の部分が思ったより少し焦げてしまったが、それでも私はフライパンに多目に入れた油をカモ肉にゆっくりと回し掛けてコンフィを作るし、ケールとクレソンをちぎってサラダボウルに散らすのだ。

それでも、それでも、それでも、それでも・・・・。


ルルルルルルッ、ルルルルルルッ、ルルルルルルッ


けたたましく固定電話が鳴り響く。

 勿論私は出ない。

 カチャコンッ。

「タダイマ、デカケテオリマス。ゴヨウノカタハ、ピィ、トイウ、ハッシンオンノアトニ、ゴヨウケンヲ、オハナシクダサイ・・・。ピィ」

「あ、もしもし、お母さんだけど、晶子、今日はチケット、ありがとうね。急だったからびっくりしちゃったけど、お父さんと久しぶりに良いお出掛けが出来ました。今度また落ち着いたら、祐一さんと一緒に遊びにいらっしゃい。じゃ、またね。ありがとうね」

 ガチャ。

 ツーッ、ツーッ、ツーッ

「ピィ、ゴゴヨジサンジュウロップン、イッケンデス、ピィ」


 そっか、美術館にはお義父さんとお義母さんで行ったんだな・・・。

 それでも私は裏漉(うらご)ししたジャガイモに生クリームとミルクを加えて混ぜるのだ。

 オレンジに生ハムを巻き、真鯛を薄切りにして更に並べるし、オリーブオイルにバルサミコ酢と塩コショウを加えるし、何ならかき混ぜるさ。

 自棄(やけ)を起こしている訳ではない。

 自己否定も肯定もしない。

 ただそこに現実が在るだけだ。

 私は冷蔵庫を開け、一番最初に作ったフルーツのゼリー寄せの固まり具合を確かめた。

 そうだな、丁度いい具合に、そして丁度いい時間に固まりそうだ。

 固まる・・・か。

 雨降って、地固まる・・・。そんな諺もあったけれど、それはもう起こり得ないということも理解しているし、特に望みもしていない。

 寧ろ、今の私には、覆水盆に返らず、その方が言い当てている。

自虐でも何でもない。そこには反省も後悔もしないし、考えることが億劫(おっくう)な私が居るだけ。

ピンポーンッ。

エントランスからの呼び鈴が鳴った。

モニターに映る配達業者らしき男性の手には、花束が抱えられている。

約束の時間より少し早いな。早すぎると言った方が正確かもしれない。

まぁ、いいや。もう、それで何がどうなるという話ではない。私は返事もしないまま、エントランスの自動ドアのロックを解除した。


 届いた花束は、私が注文したものではなかった。

 差出しは妻晶子、そして宛名は祐一、そう、私だ。

 受け取ったのは黄色いバラの花束。

 その両手に抱えた花束を、思いっきり床に投げつけたいという衝動も在るには在るのだ。無いといえば嘘になる。

 それでも私は、意地でもそれを阻止する。そして、先ほど用意しておいたダイニングキッチンのカウンターの花瓶に、丁寧にそれを飾った。

 コトッと小さく何かが床に落ちる音がした。

 メッセージカードだった。

 私はゆっくりとそれを拾い上げ、特に慌てるでもなく、それを開いた。もう何の感情も湧きあがって来はしない。

『ごめんなさい。

 でも、もう、無理なの。

 寝室のナイトテーブルの引き出しに、書類、入っています。

 私のサインと捺印は済ませてあります。

 どうか、なにも聞かないで下さい。

 後日、弁護士の方から、連絡があると思います。

 さようなら』

 そうか・・・・。そういうことだよな・・・・。

 ・・・どうして、今日なのだろう・・・、いや、敢て今日だったのだろうな・・・、分かるよ、そういうの・・・。

 私はフラフラと寝室に向かい、ナイトテーブルの引き出しを開ける。

 先ほどは気付かなかったが、引き出し奥には白い封筒が在り、中には「離婚届」が入っていた。

 そういえば、今思い出した。

 確か、妻のスケジュール帖には「26日💕、27日♡、28日♡」、三日間、三個のハートマークが印されていた。

 しかし、それも今となってはどうだって良いことのように思えた。


 ピンポーン。


 再び呼び鈴が鳴った。


 私が注文した花が届いたのだろうな・・・。


 私はゆっくりとインターホンへ向かった。



 



 おしまい。

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