ニルト <Ⅰ>
――
美しい名だと思う。
天に密やかに輝く蒼い細月を幻視する。
その名が自らに相応しいとは思えなくとも。
炎が何かを焼く香りがした。
目を開ける、慌てる事なく、声も立てず。
状況を把握しようと薄目を開けて周囲を観察する。
室内。
やや埃っぽく、人の手が長く入らなかった建物に思える。
自身はどうやら寝台に寝かされている。
人の気配は2つ、1つは自分。
もう1つは。
視線を向ける。
壁際の机の上には小さな炉。
薬師が使っているのを見たことがある。
椅子にはこちらに背を向けて座る男が一人。
その背中には覚えがあった。
自らの状態を確認する。
右腕、なし。
左手、感覚なし。
両足を切り飛ばされたのもはっきりと記憶している。
残っているのは命と。
わずかに響く鈍痛だけ。
気配を殺していたつもりだったが、思い出したようにぶり返す鈍痛に。
思わず身じろぎする。
「——ん、
目が覚めたのかい?」
振り返った男はやはり見覚えがあった。
ふざけた名前を名乗ったあの男。
寝たふりをしようかとも思ったが、やめた。
この状態ではこいつの情にすがるほかなく。
ああ、生きてはいる。
だが生きているだけだ。
手も足もなく、命だけを拾って。
あとはこの男の情に縋り肉孔としてでも生きるほかないのか。
「……俺をどうする気」
「ふむ。三日も寝てた割には元気があってよろしい。
まず状況確認、かな。
きみの身体に刻まれていた自壊術理の印はもう焼いてある。
とりあえず死ぬことも、傷口から砕ける事もない」
男の言葉に、そういえばそんなものも刻まれていたのだったと思い出す。
だが術理印を焼く、とはどういうことだろう。
無効化したという意味だろうことは想像がつく。
だがそんなことが簡単にできるのだろうか。
あの組織の連中が易々と無効化できるようなものを使うのだろうか。
一山いくらの殺し者にはそんな粗雑なものでもいいくらいに考えているのか。
ありそうではある。
「あんたは術理師なのか?」
「そうだともいえるし、違うともいえる。
俺は俺の目的のために必要な技術を修めていて、その中には理術も含まれる。
——さて、きみの手足だが」
その先はあまり聞きたくなかった。
多少の傷ならともかく、欠損した手足を修復できる理術など聞いたこともない。
かろうじてなんとかなりそうな気配があるのは左腕のみ。
それも治療したところで以前のようには動かないだろう。
「俺なら、きみの手足をなんとかできる」
思わず、身じろぎする。
首を曲げて男を見ようとすると男は手を振ってやめろ、と示した。
「無理にこっちを見なくていい。
その状態じゃ疲れるだろう?
こっちから行くからそのままそのまま」
男は椅子を引きずって寝台の横まで来ると、そこに座った。
「さて、きみの手足だが。
俺にはなんとかする
とはいえきみも無条件では気兼ねするだろう、だから取引をしよう」
取引。
まあ、わざわざ暗殺者の命を救った時点でそう来るだろうとは思っていた。
「依頼人の名前は聞かない。
きみの背後関係もどうでも、はよくないが言わなくていい」
「……?」
「そんな理由ならもっといろいろやり方はあるさ。
俺の出す条件はもっと別」
先手を取ってそう言った男は楽しそうに笑い、そして続ける。
「俺の弟子にならないか、
「——は?」
思わず態度に警戒が出る、こいつは何を言っているんだ。
「俺は
ああ、まあだからっていきなり弟子になれとは言わん。
最終的になってくれたらいいな、くらいだよ。
ひとまずはそうだな、身の回りの世話とか。
読み書きも覚えて欲しいな、計算とかも。
まーなんだ、雑用係あたりからが妥当かね?」
「俺はあんたを殺そうと、」
「別に心底から殺したかったわけじゃあるまい?
そういう指示だっただけだろう。
生きるために殺す、そうする必要があっただけだ。
多かれ少なかれ生き物というのはそうあるものさ。
生きるために殺す、食事だって広く言えばそういう話。
それをいちいちどうこう言う気はない」
男は笑いながらそう言って、そして真顔で言い足した。
――第一、俺はまだ生きている。
「……俺がその条件を飲んだとして、俺の飼い主はどうする」
「元飼い主は俺がなんとかする。
本格的な返事はそこらが片付いてからでもいいよ。
まずはきみにその気があるかないかだ」
それがなにより重要なことだ、と男は笑う。
「なんとかなるなら、してくれ。
この様じゃ死んだ方がマシだ」
素直に、認める。
認めざるを得ない。
組織に戻ったところで命はないだろう。
せいぜいが死ぬまで肉孔にされるくらいしか思い浮かばない。
「OK、交渉成立だな。
そうなればまずは体力を戻さないとな。
モルフェ」
男が呼ぶと同時、
ぎょっとして警戒態勢を取ろうにも動きは取れない。
というかおーけーとはなんだ?
「はい、
何をすれば?」
「お粥作ってあるから食べさせたげて。
薬とか入ってるから味は保証しかねるけどね。
まあ害のあるものではないから我慢してくれ」
男は卓上の炉を示し、女は頷きもせずそれを取りに行く。
「今、そいつどこから、」
「
ようは人からそこらの石ころみたいに扱われるようになる術。
彼女はずっとこの部屋にいたよ、気づかなかったろ?」
そういえばあの夜、あの宿でも突然現れた記憶がある。
聞いたことのない術理だ。
一般的なものなら暗殺者である彼と、その組織が知らぬはずがない。
だとすればこの男が独自に開発したものなのだろうが。
「あんた一体」
「ま、その辺はおいおい」
「失礼します」
女、モルフェと呼ばれたそいつが寝台の
手足がないとはいえ軽々しく持ち上げられることに驚く。
護衛かなにかなのか、見た目よりも大した腕力だと警戒を強める。
「モルフェ・ヒーガンディースです。
お世話をさせて戴きます、
「
「はい、では
母親がそうするように
居心地が悪いが抵抗の余地はなかった。
女は片手で
目の前に突き出される匙、ええいままよと口を開けて粥を待つ。
「——熱ッ?!」
「モルフェ、ふーふーしたげなさい、ふーふー」
「失礼しました
ふー、ふー」
「やっ、め、驚いただけだ!
普通にいいから! 普通に!」
そうですか?と女は首を傾げ、だがふーふーと粥を吹き冷ますのはやめない。
「おい、やめろって」
完全な子ども扱い。
居心地が悪いとかいう話ではなかった。
「
止める気はないらしい。
あきらめて、食べやすい温度になった粥を受け入れる。
味もなにもわかったものではないが、もうどうでもいい。
「ではそのまま聞いてくれ。
きみの手足を治すのにはこいつを使う」
言いながら男は外套のポケットから革袋を取り出す。
そこから取り出した丸いものを手のひらにのせて示して見せた。
一見すると植物の種のように見える。
「こいつは森でとれる寄生樹の種だ。
動物の体内に入ると発芽し、根をおろして血管と神経に食いつく」
血管はわかる。
暗殺者である
「シンケイ?」
「あー、まずそこからか。
人の意識は脳、脳じゃわからんか。
人の意識は頭にある。
そこから手足を動かす命令が出て、手足に伝わる。
その命令を伝えるのが神経だ」
「なんで根がそんなもんに食いつく?」
粥をのせて口元に寄って来る匙の合間を縫って
男は手のひらの上で、寄生樹とやらの種を転がしながら応えた。
「神経は動かす命令を伝えるのとは逆の働きも持ってる。
手足の先から何かに触れた、熱い、痛いとかの感覚を頭に伝えるわけだ。
寄生樹の根が神経に繋がると、」
男の言葉の先に
「ああ、引き千切ったりすると痛い、ってこと?」
「——頭の回転が速くて助かるね。
そう、引き千切られたり抜かれたりしないように、だろうな。
寄生樹はそうやって宿主にとりつくわけだ」
つまり
「なんとなくわかってきたぞ。
それを使えば手足の感覚が戻るのか」
「頭いいんだな、きみ。
そういうこと。
義手、義足くらいは
暗殺者のなかには手足を欠損してそこに作り物の手足をはめているやつもいた。
というより、武器や暗器を仕込むためにあえてそうする事があった。
「……すごいな。
ほんとうにそんなことが?」
「できるよ。
まあ手間も時間もかかるし、肉に根を下ろされるから熱も出る。
その後も思い通りに動かすには訓練が必要だしね。
だが、この方法を使えば生身とほぼ変わらない手足を取り戻せる」
男の説明は筋が通っていてわかりやすい。
なるほど、そんなものがあるなら手足を取り戻すのも夢物語ではなさそうだ。
だがそんな医術も術理も
「……あんた一体、ほんとに何者だ?」
「さてね?
まあそれはおいおい、な。
まずは体力を戻さんとこいつは使えん、今はゆっくり休んでくれ。
たまにじたばたするのもいい、適度な運動は回復にいいからな」
会話の間に木椀一杯の粥は
と、腹が満ちると別の問題が思い起こされる。
「——おい、俺便所とかは、」
「モルフェに言いなさい」
「え、いや、それは」
「今更ですね。
この三日垂れ流しになっていないのは何故だと?」
絶句する。
だが
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五日が過ぎた。
動くこともかなわない身の上では退屈するかと思ったがそうはならなかった。
男の知識はそれを優に超えていた。
そこらの医者よりもはるかに人体について深く知悉していることが会話の端々からわかる。
血、肉、骨。
肺、脳、神経。
聞いたこともない、意識したこともない臓腑の知識。
病のこと、その発生過程やどうすれば自衛できるのか、その
まるで遠い国から来たかのよう。
この国に果たして何人、男と同じだけの英知を持った人間がいるだろうか。
警戒心はいつの間にか消えていた。
ある種の尊敬の念すら今では抱いている。
何より。
この男は
見下すのでも馬鹿にするのでもなく。
「なあ、なんであんた
答えを期待していたわけではない。
ふざけた偽名を使うからには本名を名乗れない理由があろうのだろう。
だがそれでも気になった。
この男が
男は困ったように笑い、だがそれでも誤魔化す事なく
「——ここには俺の名前を理解できるやつがいないからな。
俺はただの
誤魔化しだったのかもしれない。
だがその横顔をよぎった影には深いなにかが籠っていた。
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七日が過ぎた。
朝、
1年は11の月に区切られる。
1月は月の巡りに合わせて30日。
10日を1巡りと呼ぶ事はあっても7で区切ることはない。
たまに
どこか遠くから来たのだろうという思いは、その度に強くなる。
「さて
施術の前にきみに頼みがある」
男の言葉に
命令でも指示でも、条件でもなく、頼みとはなんだろう。
この期に及んで何か頼むとしたら、自分であって男ではないように思える。
視線を転じるとモルフェは過熱術理の炉で大鍋に湯を沸かしている。
この七日の間に
左手は治療可能だと言われたが思い切って切り落として貰った。
だから両手両足の4つが今あの鍋では煮られている事になる。
寄生樹の種を植える前に殺菌しているのだろうとは想像がつく。
意識を戻す、男が自分に頼みとはなんだろうか。
想像もつかない。
「なんだよ、頼みって。
俺があんたにじゃなくてか?」
「俺がきみに、だ。
命令でもない。
だから頼みだ」
ほとんど常にへらへらと笑っている
「なんだよ。
無茶な事じゃなきゃ聞くけど」
「殺すな」
男は端的にそう告げる。
理解が及ばず困惑する。
言っている意味はわかるのだが。
暗殺者の、元暗殺者の自分に。
殺すしか能のない
よりによって殺すなと来た。
「——なんで?」
「取り返せないからだ。
もちろん、暴力も殺人も必要な場面は常にある。
……意味のない、不可避の殺人がないなどとは言わない。
だからこれは俺からきみへの願いだ。
なるべく、殺さないでくれ」
「……」
納得はしかねた。
彼の存在価値は
だが――。
「……わかった。
なるべく、そうする。
それでいいか?」
「ああ。
ありがとう」
感謝の言葉はくすぐったかった。
納得はまるでできない。
自分の過去のすべてを否定されたかのような忌避感すらある。
だが、同時に。
この男に付き従い、弟子となったなら。
殺す以外のなにかが、自分にもできるかもしれない。
そう思ったからだ。
「では施術を始める」
男はそう宣言する。
モルフェが盆にのせて細い刃物を持ってくる。
大鍋で新たな彼の四肢と共に煮沸消毒されていた刃。
手足の断面に刃が潜り込み浅くはない傷を開く。
寄生樹の種が埋め込まれ、異物感に強い嫌悪が湧くが奥歯を噛みしめ耐えた。
接合面に薬を塗った、茹で上がったばかりの熱を帯びた義手義足が継ぎ合わされる。
ラスは真剣な面持ちであらかじめ消毒を済ませた包帯を巻きつけ、息を吐いた。
時間にすれば1刻にも満たない施術。
モルフェが薬湯の入った盃を
「——さあ、今のうちにおとなしく寝ておいてくれ。
今夜はおそらく熱が出る、そうなるとおちおち寝ていられないぞ」
++++++++++++++++++++++++++++++++++++
その夜、男の言葉通り
低くはない熱、おそらく生涯でも一番の高熱だったように思う。
それでも苦しくはなかった。
うなされながら彼が見た夢は、天に密やかに輝く蒼い細月の夢だった。
死地華戦記 アオイ・M・M @kkym_aoi
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