湿った私は今日も行く

おくとりょう

お寝坊さんさんおはようさん

 …五月蝿い。

 スマートフォンの激しい振動で目が醒めた。久々のスッキリバッチリした朝だった。

 埋め込み窓にはとても鮮やか青。あぁ、良い天気だ。青空の明るさに、全身をぶわっと血が駆け巡るのが分かった。すぅっと皮膚の側の温度が下がるような感覚を覚え、祈るようにゆっくり時計へと視線を向ける。

 見慣れぬ数を指す短針。深く息を吐いて、鳴り続ける電話に出た。


「…おはようございます。

 すみません。…寝坊しました」

 起き立ちの声は酷くかすれて、2オクターブほど低かった。私のがらがら声に応える同僚の明るい声は、部屋の温度を2℃ほど下げた。


 …こういうときこそ、冷静になろう。。ベッドから降り、時計を眺めながら、首を傾げる。

 さて、朝食をとるべきか、抜くべきか To eat or not to eat that is the question. 

 私にとっては大問題だ。元々、燃費が悪い上に、冷や汗をかいた分、エネルギーを消費している。お腹はペコペコ。それもペンペコリンのペンだ。このまま通勤すれば、階段で足を滑らし、コロコロコロリン、スッテンテンなことになるかもしれない。

 少し迷ってから、とっくに炊きあがったお釜を炊飯器から取り出し、ラップにひっくり返す。まるごとおにぎりにすることにした。


 白米はアッツアツだった。炊飯器の保温機能はバッチリである。

 ひぃひぃ言って握っているうちに、四半刻しはんとき(30分)も過ぎてしまった。海苔は袋の半分なくなった。慌てて使いすぎた。

 …大丈夫、大丈夫だ。今から急げば、駅まで走れば、まだ昼前には会社に着く。

 いつもより強く照りつける太陽を背に駅へ向かって走り出す。

 遠い空の端に山はなく、薄く霞みがかっている。武蔵野の突き抜けるような大空は未だ慣れない。


 私の地元は三方が山に囲まれた盆地だった。そのため、湿気も熱気も冷気も溜まりやすく、夏は蒸し暑く、冬もよく冷える。要は、空気の淀んだ陰気な場所だった。それが嫌で飛び出してきたのだが…。

 こちらの空の広さには驚いた。湿気も嫉妬も吹き飛ばされるような広い空。でも、窪地で育った私には何だか少し心細くて…。


 迷子になることも多い。というか、現在進行形で迷子になった。

 …焦って近道をするつもりが迷ってしまった。というのも、地元は三方が山なので、山を探せば方角が分かったのだが、武蔵野台地は広く、山は見えない。困ってモタモタしていると、鞄の中から振動音が聴こえた。

 火照った顔から血の気が引いて、気持ちの悪い汗が全身から吹き出す。

『…今日はもう休んでいいよ』

 いつの間にやら、太陽は南中を過ぎていた。走り疲れた身体へ更に日射しが降り注ぎ、私は全身びちょびちょだった。

 …そうか。お日さまの方角を見ればよかったのか。

 わけのわからない反省をしながら、ふらふらと近くの河辺に腰を下ろす。鞄を開けると視界に飛び込む特大おにぎり。手持ち無沙汰で、まだホカホカのそれを取り出す。大量の海苔に包まれた白米は空きっ腹に染みた。しょっぱいような甘いようなそれを噛みしめていると、近くから聴こえる電車の音。

 もう今日は乗る必要のなくなったそれへ、顔を向けると、その先に大きな白い頂。日本一の山、富士山だ。首都圏からでも見えるのか!そびえるそれは遠くにあるはずなのに、地元で見たどの山よりも大きく見えた。


 風がぶわっと吹き抜ける。

 同時に太陽が雲に隠れ、すぅっと身体と頭が冷えた。何だか山が手に届きそうで、雲も空も側にあるようで、頬が緩む。

 特大おにぎりをガブリと頬張った。海苔の香りが鼻を抜ける。…今度は梅干しを入れよう。川のせせらぎを耳にして、ひとりごちた。

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湿った私は今日も行く おくとりょう @n8osoeuta

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