2.俺にとってのナナちゃん
家に着いて、部屋の中に招き入れると、俺はナナちゃんをソファに座らせて、コップに水を入れて出した。ナナちゃんの涙は少しは止まったみたいだった。
「大丈夫? 落ち着いた?」
俺はソファには座らずにナナちゃんに対面するようにして床に座り、ナナちゃんの顔を見上げた。
「だ、大丈夫、少し落ち着いた。ありがとう……」
そう言って、俺のハンカチを膝に置くと、目の前の机の上に置いてあるコップの水を少し飲んだ。
「ごめんね、迷惑かけて」
「ううん、全然迷惑じゃないよ。あんな状態で一人で帰せないし……でも、すぐに男の家に入ったのは感心しないな」
「え?」
「ナナちゃん、俺たちは昔からの友達だけど、俺は男だよ。昔は知らなかったけど、俺たち、もう大学生なんだよ? 男と二人きりになったら万が一のことがあるかもしれないのは分かるよね?」
「え、でも、コウちゃんだから」
「俺だから、なんて思って安心しちゃだめだよ」
「え、コウ、ちゃ」
真剣な顔で訴える俺にナナちゃんは声が出ないくらい恐怖しているようだった。
「俺は何もしない、ナナちゃん。でも、安易に入っちゃだめだと言ってるんだよ。危険だろ? 俺は心配してるんだよ。友達のくせにって思うかもしれないけど、昔から知っているナナちゃんだからこそ、ナナちゃんにそういうことがあったら嫌なんだよ」
「わ、分かった。気を付ける」
ナナちゃんは一瞬俺が今すぐにでもその行為をするように思ったのだろう、だがそれをしないことが分かると安堵したようだった。
「ごめん、急に」
「ううん、心配してくれてありがとう」
「話、戻るけど……あれは本当にミクさんだったの?」
「うん、間違いないと思う」
「じゃあ、隣の男の人は本当に彼氏さん?」
「そうだと、思う……。ミクは一人っ子で男の子の兄弟もいないし……」
ナナちゃんは俺のハンカチをぎゅっと握りしめながら、うつむいてしまっている。
「ナナちゃんってさ、」
「うん?」
「ミクさんのことが好きだよね?」
「それってどういう意、」
「やっぱりそうだ」
その瞬間、ナナちゃんは「しまった」という風に慌てて口に手を当てた。
「ナナちゃんって、恋愛的な意味でミクさんのことが好きなんだよね?」
「ど、どうして、分かったの……?」
「今の反応もそうだけど、質問の意味を俺に聞いたからそうなのかなって。ごめんね、探るようなことしちゃって。でも、ミクさんの彼氏さんを見たときの反応からして、ナナちゃんがミクさんに抱いている「好き」という感情は友達程度のものじゃないのかもって思った。ナナちゃんが俺に質問したのは、「好き」が友達としてなのか、恋愛的になのか、どっちの意味で聞いているのかと思ったからでしょ?」
「……」
「ナナちゃん、誤解してもらいたくないから言うね。俺はナナちゃんがミクさんを恋愛的に好きだとしても引いたり嫌悪したりしない」
「ありがとう……」
「ちょっと聞いてくれる?」
「うん……」
「俺ね、そら最初は男は女を好きになって、女は男を好きになると思っていたよ。言い訳じゃないけどそうやって学校で習ったし。でもさ、こんな多様な時代になって、人間を性別で二つのグループに分けることは難しくなりつつあるんじゃないかって思った。一人一人が個性を持っているんだから、二つのグループに分けるんじゃなくて、一人一人を例えばABCDに分けるでしょ? ABが男で、CDが女。A-C、A-D、B-C、B-Dがあって、でもA-B、C-Dがないとは言えないでしょ? だから、俺は同性同士が愛し合うことに抵抗も否定感情もない。むしろ、それが普通なんじゃないかって思ってる」
「うん……」
「今で納得してもらえたかは分からないけど、ナナちゃん、少なくとも俺がナナちゃんに対してそんな感情がないことは理解してくれる……?」
「う、うん、ありがとう、コウちゃん、う、ひっく、うぅ……」
「ナナちゃん、どうしたの!?」
ナナちゃんはまた泣き出してしまった。
「ご、ごめん! お、俺、何か傷つけるようなこと言った……?」
「違うの……私、今まで誰も理解してくれないと思っていたから嬉しくて、ありがとう……」
「ナナちゃん……」
ナナちゃんはそう言うと、ハンカチを握りしめながら俺に勢いよく抱き着いてきた。
「ナ、ナナちゃん、だから俺は男で!」
「分かってる。でも、ごめん……」
ナナちゃんの涙が俺の胸を濡らしていた。実はナナちゃんはそうじゃないかとずっと思っていた。いつから、ナナちゃんがそのように思うようになったのかは定かではないが、昔からナナちゃんは女の子とよく一緒にいてたし、彼氏が出来たことも聞いたことがなかった。ナナちゃんはきっとずっと今まで辛かった。ミクさんに自分の気持ちを伝えようかどうかもきっとずっと悩んでいたに違いない。友達でいられなくなるくらいなら、自分の気持ちを一生伝えないことだって考えていたのかもしれない。それでも、今日、ミクさんが彼氏さんと一緒にいるのを見て、自分には振り向いてくれないことを悟った。ミクさんは男の人が好きだからって。
小刻みに震えているナナちゃんの肩を見ると、俺はぎゅっと抱きしめ返したくなった。だけど、そうすると俺のナナちゃんへの思いが暴走しそうで、俺は身を任せるだけだった。
「ごめん、コウちゃん、服濡らしちゃった……」
「いいよ、これくらい。いつでも俺の胸、貸すよ」
「ふふ、ありがとう」
しばらく、泣き続けた後、ナナちゃんは俺から離れてそう言った。目元を真っ赤にして少し笑った顔は、ミクさんのことを諦めたと決めたような表情だった。
「ナナちゃん、あったかい飲み物淹れてくるね。ソファ座ってて」
「うん、ありがとう」
俺はナナちゃんにもう一度ソファに座るように催促すると、キッチンへ行って温かいココアを作った。
「ナナちゃん、ココアだけど、」
呼び掛けても返事はなかった。ナナちゃんはソファで寝ていた。俺は二人分のココアを机に置くと、再びナナちゃんの方を向いて床に座った。傍には携帯が置かれている。その時、ちょうど通知が来て俺の目に飛び込んできた。
「いつか紹介するね!」
相手はミクさんからだった。
「言うの遅くなってごめんね! そうそう、あの人は彼氏だよ!」
一つ前に来た返信。多分、ナナちゃんは今日見かけたことを俺がココアを作っている間にミクさんに言ったのだろう。それで彼は彼氏さんなのかって。それは、ナナちゃんの気持ちをまったく考慮していない内容だった。いつもと違ってすぐに来た返信は残酷なものだった。沢山送った文章はその数回だけの返信で終わる。ナナちゃんが寝ていて良かったような気がした。この文章を見たら、きっとナナちゃんはまた泣いてしまう。紹介なんてされたくないはずだ。二人の幸せな姿なんて二度と見たくないはずだ。
俺は腹が立った。その文章を消したかった。傍で眠るナナちゃんの頬は涙で濡れていた。手は俺のハンカチを握っていた。
「ナナちゃん……」
胸がきゅうとしめつけられた。ナナちゃんは俺の呼びかけに起きなかった。ナナちゃんは多分、また泣いていた。でも俺に迷惑をかけないように静かに。それできっと疲れて寝てしまった。ナナちゃんの涙を手で拭いたかった。だけど、俺はハンカチをそっと抜き取ると、それでナナちゃんの涙を拭った。思いが暴走しそうで本当はナナちゃんに触れたくなかったが、ソファで寝かし続けることは嫌だった。俺は、右手をナナちゃんの首の下に、左手を膝の下にそっと入れると、そのまま持ち上げた。ナナちゃんはまだ寝ていて起きる気配はない。
「ごめんね、運ぶだけだから……」
疲れ切ってしまったナナちゃんは軽かった。多分、痩せたのだと思う。今日、会った時からそう思っていた。原因は明確には分からないけれど、きっとミクさんのことで悩んでいたからだろう。ナナちゃんをベッドにそっと寝かせると、ソファからナナちゃんの携帯を持ってきて、ベッドの傍の机に置いた。俺は再びナナちゃんを見た。暗い中で寝ているナナちゃんがその闇に押しつぶされてしまうように見えた。俺は怖くなった。
「……ごめん、ナナちゃん」
俺は我慢が出来なかった。こちらを向いて寝ているナナちゃんに向き合うようにして傍でそっと横になると、布団を胸の位置までかけた。俺はナナちゃんには決して触れなかった。ただ傍にいた。本当は我慢していたけど、どうしても傍にいたかった。手をナナちゃんの傍に触れないように置いた。すぐに届く距離だったけど、絶対に触れなかった。
「ナナちゃん……俺も辛いよ……」
男なのに情けないけど、俺も泣きそうになった。ナナちゃんを見ているのが辛い。悲しんでいる、苦しんでいる、泣いているナナちゃんを見るのが辛い。いつものあのお日様のような笑顔で笑っていてほしい。それもこれも全部はミクさ……あの女が悪かった。あの女が彼氏を作らないで、ちゃんとナナちゃんにすぐに返信をしていたらこんなことにはならなかった。たとえ、俺の思いを犠牲にしても、ナナちゃんが幸せだったら良かった。けど、もう無理だ。許せない。これ以上ナナちゃんには悲しい辛い思いをしてほしくない。たとえ、あの女があの男と別れて、またナナちゃんに遊ぼうと誘ってきても俺が許さない。ナナちゃんを会わせたくない。
ナナちゃんを起こさないように静かに俺は泣いた。俺とナナちゃんはしばらくの間眠った。
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