7.ゼーレ

  1.


 某日。

 出立前の挨拶にとフラーメン家の屋敷を訪れたミスティルを、フィークス・フラーメン婦人は驚きの表情で出迎えた。

「まぁ、まぁまぁ! ティルちゃんどうしたの?! そんなに髪を切っちゃって!!」

 フィークス婦人が驚くのも仕方ない。腰に届くほどに長かったミスティルの髪が、肩に僅かに触れるだけの短さになってしまっていたからだ。

 今までは毛先と前髪を揃える程度の散髪しかしたことがなく、こんなにバッサリと髪を短く切ったことなど一度も無い。それ故に、驚きすぎて悲鳴にも近い声を上げるフィークス婦人に、ミスティルは苦笑いで答えた。

「えぇっとその……これから行く調査のことも考えて、気持ちを改めようと思ったのですけれど……や、やっぱり変ですか?」

「いいえ、いいえ、とっても似合っているわよティルちゃん! 可愛くなりすぎちゃってびっくりしたわ! でも、それだと髪を結えないからせっかくの可愛いお顔が隠れちゃうわね。少し待ってて、ちょうど良い髪留めがあるの」

 ミスティルが止める間もなくパタパタとフィークス婦人は慌ただしく奥へと行ってしまう。そんな婦人と入れ替わりに、奥の方からマーネ・メモリアが出てきた。

「ミスティルさん! あぁ良かった、お見送りできないところでした」

「マーネさん……そんなに慌てなくて大丈夫よ、ちゃんと後で挨拶に向かうつもりだったのだから。ほら、ルークス君もびっくりしちゃってるわ」

 マーネの腕には赤子が抱かれていた。

 赤子は母親を見上げてふにゃふにゃと声を上げた後、ミスティルへと小さな手を伸ばす。

「あら、いつもは大泣きするのに、今日はお利口さんなのね」

「いいえ、さっきまではよく泣いて大変だったんですよ。それがピタリと泣き止んで……きっとミスティルさんが来たのがわかったのですよ。ね、ルークス」

 小指を差し出してみれば、赤子はきゅっと握って笑顔を見せてくれる。

 まだ生まれて三ヶ月のこの子には、かねてからマーネが希望していた通り、『ルークス』と名付けられた。

 予想通りの男の子だ。産後も母子共に問題はなく、よく泣いてはよく寝てと、すくすくと育っている。きっと将来は優しい子になることだろう。待望の我が子を優しく抱きしめるマーネを見て、ミスティルはそんなことを思う。

「マーネさん、事務所のことを頼みはしましたけれど、どうか無理はしないで下さいね。時々窓を開けて風を通しておいてほしいってだけなのだし、ルークス君を最優先してください。マーネさん自身もお体に気をつけて」

「はい、わかっています。ミスティルさんも、どうかお気を付けて。必ず……必ず、帰ってきて下さい」

 切実なマーネの言葉に、ミスティルは笑顔で頷く。

 と、タイミング良くフィークス婦人が戻ってきた。大事そうに両手で持ってきて見せてくれたのは、アンティーク調のバレッタである。

「これはね、元々は妹の物なの。嫁ぐ際にわたくしにくれたのよ」

「妹さん……ということは」

「ふふ、レオウ君には内緒よ。ティルちゃんが無事に戻ってこられるように、祈りを込めておいたの。きっと、ロサも貴女のことを守ってくれるわ」

 ミスティルに後ろを向かせ、婦人は手櫛で丁寧にバレッタを差し止める。ミスティルも自身の髪に留められたバレッタに触れ、改めて深々と頭を下げた。

「ありがとうございます、おば様。それに、マーネさんも。暫く街を離れますが、その間、どうかお二人ともお元気で」

「事務所のことは任せてちょうだい。マーネだけじゃなくて、わたくしもちゃんと管理しますからね。でも……ティルちゃん、本当に、大丈夫なの?」


×××


「御嬢、本当に大丈夫なのですか?」

「なによレオウ、貴方まで。私のことなら大丈夫って何度も言ったでしょう?」

 街を出立してすぐ。フィークス婦人と同じ質問をしてきたレオウ・レントゥスに、ミスティルは呆れた声を上げた。

 対するレオウは苦笑するも、表情は晴れない。旅の荷物を背負いながら、隣を歩くミスティルを心配そうに見下ろす。

「場所が場所な上に、調査、ですからな……これがただの旅行であれば、私とてこれほど不安にはなりませぬよ」

「それはそうだけれども。その調査依頼だって、お願いされたから仕方なくじゃなくて、私から是非やらせてくださいと快諾した依頼なのよ? それに」

 と。

 ミスティルは一度、息を吐く。

「……結局、よく思い出せないままだもの。もう一度、ちゃんと目に焼き付けておきたいの。私の生まれ故郷を」


 ゼーレ国跡地での事件から、半年が過ぎた。

 あの事件により、廃墟になっていたゼーレ国は完全に崩壊。辛うじて残っていた建物も全て崩れ去り、さらには地盤沈下も発生し、国であった当時の面影は完全に無くなってしまった。

 ――あの後。

 レオウは廃墟内へと戻ろうとしたのだが、応急処置として足の傷を覆っていたエテルニアが夜明けと共に砕けてしまい、撤退を余儀なくされた。

 意識が朦朧としているミスティルを背負い、記憶がないという男に支えてもらいながらなんとか森を抜ければ、放棄されていた荷馬車の周りに男達が数人。同じく記憶がなく混乱しているということで、彼らを引き連れて荷馬車を動かし、人通りがある道へと向かい。そこで救助隊に遭遇することができ、無事に全員救出されることになった。

 聞けば、拘置所で唯一解放されたクーストース・オアシスが自力で事務所にまで戻り、マーネとフィークス婦人へ助けを呼んでくれたのだという。フィークス婦人の人望によって結成された救助隊はレオウとミスティルを保護した後、ゼーレ国跡地の周辺を捜索。そうして事件の首謀者にして犯人であるオールドー・ルベルを、森の中で発見して逮捕することに成功した。

 オールドーは森の中の、あの奴隷市があった場所で一人、震えて蹲っていたという。発言は全て支離滅裂、ずっと何かに怯えている様子で事情聴取もままならず、今も病院で治療を受けている状態らしい。ただ辛うじて聞き取れた情報により、ゼーレ国跡地には調査隊が入ることになった。それが二ヶ月前のことである。

 調査隊の報告によると、オールドーの聴取やレオウの目撃談の通り、城の地下に空洞があることが確認された。しかし入り口は地盤沈下により塞がれ、地上に空いた穴から中を探るも足場が悪く調査は非常に困難な状態。さらに、肝心のエテルニア鉱石は一つも発見できなかったそうだ。ゼーレ国に関する資料は国そのものが焼けたことにより僅かにしか残っていないため、文献からエテルニアへ繋げる仮説を立てるのも難しく。

 そういうことで、この調査の続きをして欲しいとミスティルへ直々に依頼された、ということである。


「確かに、資料も文献も何も残っていない我が国だもの。あの事件で何が起こったのかを見聞きしたはずの私が、忘れてしまった記憶を取り戻して真相を解明する。それが一番手っ取り早いのよね」

「ですが、御嬢……御嬢は、まだフォーゲルのことも……」

 レオウが言い淀む。

 ミスティルは前を向いたまま頷いた。

「うん……まだ、ね。彼のことも、まだちゃんと、思い出せていない」

 ――フォーゲル・フライハイト。

 自分の意志で保護し、自分が名前を与えた少年のことを、ミスティル自身は未だに思い出すことができていない。

 事務所に残していた資料やメモや写真から、どういった少年だったのかはわかる。が、あくまでそれはデータ上で読み取れるだけの情報だ。少年と一緒に過ごしたはずの一年半の記憶は、事件から半年が過ぎた今になっても、戻ってくることはなかった。ミスティルと同じように少年に関する記憶を一部無くしていた者たち――マーネやカピレ村の子供達は、ちゃんと思い出せたというのに。

「……でも、まぁ、あの事件がきっかけで忘れちゃったのだとしたら、今回の調査で思い出すかもしれないのだし。今のところ、私自身はそんなに悲観的にはなっていないわ」

「その記憶が辛いものだったとしても、ですか」

「それは、うん……それでも、よ。たとえそれが目を背きたい内容であったとしても、私はそれを背負わなければいけないのだと思う。あの国の、生き残りとして」


 言い切って、一息吐いたところで。

 ミスティルはふと、何かを見つけたように足を止めた。

 つられてレオウも足を止める。

「御嬢? どうされましたか」

「あそこ。あれ……アハートじゃないかしら」

 ミスティルが指を差す。

 前方の方向。道端に自生している一本の木の枝に、小さな鷹が止まっているのが確かに見えた。

 アハートは半年前、事件があった翌日に入院していた専門病院で突如大暴れし、ゲージを破って逃げ出してしまっている。獣医や病院関係者、それにレオウも松葉杖を使いながら捜索したところ、元の住処である森でアハートらしき個体が目撃された。

 アハートの種であるヒスイコタカという鳥は、本来ならば人には懐かず警戒心が強い鳥だ。縄張り意識が高く、生息範囲を広げようとはしないために希少種とされている。

 そのような性質を持つ種であるアハートが、そもそもフォーゲルに懐いていたのが異例だったのだ。フォーゲルがいなくなった今、無理に人の傍に近寄らせることもないだろう。

 そう、レオウとミスティルは話し合い、そのままそっと見守るだけにすると決めていたのだが。

 背負っていた荷物から望遠鏡を取り出し、レオウが注意深く鷹を観察する。

「……確かに、逃げ出した際につけたままになっていた識別タグが足についています。よくぞあれがアハートだとわかりましたな、御嬢」

「視線を感じたというか、ほぼ直感だったのだけれど。でも変ね、どうしてあんなところにいるのかしら。あの子の住処はこっちじゃなくて、街の方の森なのに」

 気にはなるものの、手を出さずに見守ると決めた今のミスティルとレオウでは、どうすることもできない。

 そのまま通り過ぎて、数刻。何度も後ろや上を見るミスティルは、困ったように傍らのレオウの服を引っ張った。

「困ったわレオウ……あの子、ついて来るみたい」

「その様ですな……」

 街から離れれば住処へと帰るだろうと思っていたというのに、アハートはずっと二人の後ろを、または上空を、近すぎず遠すぎず絶妙な距離感でついて来ている。 

 もう街へと引き返すにも日が暮れてしまう距離にまで来てしまっている。それに、今回の調査は事前に調査費料も貰っているのだ。まだ目的地にすらついていないというのに、調査を切り上げて街へ引き返すということも難しく。

「……日が暮れたら、あの子、迷子になっちゃわないかしら……」

「それは流石に大丈夫では……と思いたいですが……」


×××


「それで結局つれて来ちゃったの?!」

 思わず大声を出したクーストースに、二人は何も言い返せずにただ頷いた。

 時刻は夕方。レオウが背負っている荷物の上に、アハートは我が物顔で停まっている。 

 クーストースがいる村に着くまでに日を跨いでいるのだが、その間、アハートはずっと二人の周りを飛び回り、日が暮れると当たり前のようにレオウの荷物に停まりに来た。まったく帰る素振りを見せないアハートに、二人は悩んだ末、その日は宿に泊まる予定だったのを変更し、道の脇で野宿をしたのだった。宿内に野生動物を連れ込むわけにもいかず、朝になって他の鳥や宿近辺の住民に追い払われてしまわないようにする為だ。

 朝になれば帰巣本能に従って帰るかもしれないと淡く期待をしていたのだが、やはりというか、そんなことはなかった。二人が無理に追い払おうとしないことを理解した為か、アハートはますます二人の近くをずっと飛び続け、たまにレオウの背の荷物に停まって翼を休め、結局そのまま着いてきてしまったのだった。

「そういうわけだからクース君、貴方の家の軒下をお借りしてもいい? この子を中に入れるわけにもいかないし、ここなら下手に動物や人間に追い立てられることもないだろうから」

「それは別にいいけど……おーいアハート、僕のこと覚えてる? おーい」

 クーストースの呼びかけに、アハートは一声鳴いて返事をする。

 そして軒下にある植え込みに目をつけるとバサバサと飛んで着地し、そこに居座った。まるで今夜の寝床はここに決めたと言わんばかりのアハートの行動に、クーストースはへぇ、と声を上げる。

「やっぱりアハートは賢いんだなぁ……と、上がってよ二人とも。歓迎するよ」


 クーストースとは事件後、何度か手紙でやり取りはしていたが実際に会うのは実に半年振りになる。今回、ゼーレ国跡地へ調査へ行くことを事前に一報を入れたのだが、その際に「だったらうちで一泊して行ってよ」と返事を貰えたことにより、二人はありがたく本日の宿として招待を受けることにした。

「頼まれてた馬車、ちゃんと手配できてるよ。僕も一緒に乗せてもらえることになったから、馬車がいけるギリギリのところまで見送るね」

「ありがとうクース君。途中で馬車を置いていかないといけないことを考えると、下手にこちらで馬車を手配するわけにもいかなくて……それに、現地で何が起こるかわからないから、経費もできるだけ少なくしたかったし……」

「お姉さん達には随分世話になってるし、これぐらいどうってことないよ。それに、あの事件の調査だっていうのなら僕もできるだけ協力したいんだ。その……フォーゲルがどうなったのか、僕も知りたいから……」

 最後は小声になりながら、クーストースは心配そうにミスティルの顔を窺うように見つめる。

 唐突に注目を浴び、ミスティルは思わずたじろいた。

 視線を彷徨わせ、言葉に悩み。曖昧に笑って、場を濁す。

「そう……そうよね。私も……彼のこと、ちゃんと思い出したい……」


 皆に気を遣わせてしまっている。

 宛てられた部屋の中で、ベッドに横になりながらミスティルは溜め息を吐いた。

 ミスティルがフォーゲルのことを全て忘れてしまったと知って、周りの人たちは極力フォーゲルの話をしないようになった。事件直後、身も心も衰弱し、空いた記憶の穴に半ば錯乱状態に陥っていたということもある。できるだけ触れないようにし、ミスティルが自身で記憶を取り戻すまで見守ろう、と思うのは当然のことであり。

 それはそれでミスティルとしても有り難くはあったが、同時に、申し訳なくもあった。

 フィークス婦人も、マーネも、クーストースも……そしてレオウも。ミスティルの前では話題に出さないようにしているが、フォーゲルがいなくなったことに心を痛め続けていることをミスティルは知っている。

(特にレオウは、今回の調査をもし私が拒否していたとしても、一人でもゼーレに向かうつもりだったのだと思う。私を置いて……私の記憶が戻れば、レオウを少しでも安心させられるというのに……)

 駄目だ。

 と、ごろりと寝返りをして顔を枕に押し付ける。

 どうしても周りの人たちへ気を遣わせてしまっていることばかりに気が取られてしまう。

 こんなことで本当に、自分は彼のことを思い出したいのだろうか。思い出したいと願っているのか。

 何故、皆がこんなにも悲しんでいる彼のことを、自分は忘れてしまったのか。

(資料を読んで彼のことを知っても、写真を見て彼の顔を知っても……私の記憶から、彼の声が聞こえない。彼の表情を、どうしても思い出せない……)

 目を瞑る。

 意識はすぐに睡魔に溶けていく。

 空が酷く青い。

 いつもの空の色ではない。空全体を覆い尽くすような、青い何か。

 あぁ夢を見ている。ぼんやりと思っていると、視界が下を向く。

 どこの砂浜だろう。

 波打ち際に、誰かが立っている。

「   」

 声はやっぱり聞こえなかった。




  2.


 翌朝は良い天候に恵まれた出立になった。

 もはや当然のように馬車の屋根に停まったアハートにそれぞれ苦笑しながら、クーストースと共に馬車に乗り込んで目的地へと向かう。先に調査隊が通った道でもあるため、ある程度の舗装はされていたが、馬車が通るにしてはやはり道は悪いままだ。馬車が大きく揺れる度にクーストースが「わぁっ」と声を上げ、車内はずいぶんと賑やかだった。

 そのおかげか、調査へ向けた緊張感はだいぶ解れた状態でそこに着くことができた。馬車を降り、レオウとミスティルはそれぞれの荷物を確認して背負う。

「クース君、ここまで見送ってくれてありがとう。食料もこんなに貰っちゃって、村の方々へ改めてお礼を言いたいわ」

「調査頑張ってね。良かったら帰りも村へ寄ってよ。いろいろ話を聞かせてほしいんだ」

「クース殿も、帰りの道中お気を付けて」

 言葉を交わし、クーストースを乗せた馬車は来た道を戻っていった。

 馬車が見えなくなったところで、ミスティルとレオウはうなずき合って森へと入る。ここも調査隊のおかげでただの獣道だったところが踏み固められ、多少歩きやすくなっていた。道を見失うこともなく奴隷市場跡地を横切り、森を抜ける。


 まだ日が高い内に見下ろす故郷は、半年の間に植物が茶色く枯れ果て、覆い尽くされていたはずの瓦礫が表面に見え始めていた。

 ミスティルは息を呑む。廃墟の中央、城があった部分に、巨大な穴が空いている。

「レオウ……あそこが……?」

「はい。エテルニアに埋め尽くされた空洞があった場所です……とはいえ、私も明るい状態で見るのは、初めてですから……」

 隣を見上げれば、レオウも表情を固くしていた。

 きっと自分も同じように強ばった表情をしているのだろう。記憶が欠けた影響で事件当時のことを曖昧にしか覚えていないミスティルでも、これを見ればいかに自分たちが危険な状態に陥っていたのかがよくわかる。

 と、言葉を失う二人の前に、唐突にバサバサと大きな音をたてながらアハートが降りてくる。そうして一声、鋭く鳴いた。

「アハート……ちゃんとついて来れたのね。ごめんなさい、ぼぅっとしちゃって」

 腕を差し出してみればアハートは飛び乗ってよじ登り、ミスティルの肩で落ち着く。

 深呼吸して、改めて故郷を見下ろした。

「……行きましょう。明るいうちに何か手かがりを見つけなくちゃ」


×××


 調査隊の報告書によれば、廃墟の中央に空いた巨大な穴は、ちょうど城があった敷地と同じぐらいであるらしい。

 空洞の上にあった城の残骸がすべて落ちてしまったため、空洞内部は瓦礫で埋まってしまっている。おまけに、調査隊が引き上げてから僅か一ヶ月の間に、穴は規模を広げていた。どうやら空洞の天井を這っていた蔦植物が枯れたことにより、植物の根で吊り上げられていた部分が時間差で崩れていっているようだ。ということは天井が残っている部分へ迂闊に入ってしまうと生き埋めになることも予測される。調査隊が「調査困難」と報告書に書くのも納得だ。

 穴の淵にはいくつか調査隊が残していった梯子が架けられたままになっているが、調査隊と違ってミスティルとレオウは二人きりである。すぐに助けを求められる場所でもない為、足場が崩れそうな危険な場所は避けて穴の淵を眺めながらぐるりと迂回し、かつては城の裏手だった場所へと辿り着く。

「御嬢、具合はいかがですか?」

「今のところは何ともないわ。頭痛もないし」

「私としましても、あの日感じた息苦しさはありませぬな……」

 かつてのゼーレ国内でエテルニアの影響を受けて体調を崩す者がいた、という情報は、オールドーの取り調べで得られている。事実、事件当時のレオウは息苦しさを感じ、ミスティルは衰弱するほどの頭痛を訴えていた。それらの不調が今はまったく無いとなると。

「やっぱり、もうここにエテルニアはないのかしら……」

 慎重に、穴の淵から下を覗く。空洞を埋めた瓦礫の間を確認するが、エテルニア特有のあの青い光は一つも見えない。

「御嬢、ここからならば下へと降りられそうです。先に私が降りて下を確認しますので、御嬢はその後について来て下さい」

「わかった。レオウも足元に気をつけて」

 アハートに荷物番を任せ、お互いに注意喚起をしながら空洞内へと降り立つ。

 瓦礫が避けられて空洞の地面が見えている部分は、調査隊が掘り起こしたものだ。その調査後を覗き込めば、空洞の地面近くには砂が体積しているのがわかる。

「エテルニアが砕けた跡よね、これ」

「この砂全てが元はエテルニアだったと考えると、かなりの量ですな……かつての我々は、そんなところで生活していたということですか……」

 今も尚その規模を拡大していっている穴を思うと、空洞の元の大きさは計り知れない。そんな空洞の上に城があり、国があったのだと思うと。

 ゾッとする想像をミスティルは頭を振って払い退け、辺りを見渡す。そして「あ」と声を上げた。

「レオウ見て、あそこ。梯子が落ちちゃってる」

「どうやら梯子を架けた部分が崩れてしまったようですね。ふむ……あちらの方は、あれ以上崩れる心配はなさそうですな」

「あっちから風が吹いてきてる……確認してみない?」

 落ちた梯子を跨いで奥を覗けば、空洞の壁に切れ目のような隙間が続いている。

 一人分の幅の隙間だ。隙間の下は僅かに浸水している。

「潮の匂いがする……海水かしら」

「海水ですか……国を囲っている崖の向こう側には海が広がっていますが、もしやそこに繋がっているのでは」

「……少しだけ様子を見てくるわ。レオウ、命綱をお願い」

 腰にロープを巻いて、身軽なミスティルが隙間の下へとおそるおそる降りてみる。

 潮が引いている時間帯である為、浸水している海水は足首程度の深さだった。おそらく満潮時には腰ぐらいにまで水位が上がるのだろう。肩で揺れる自身の髪を抑えつつ、風が吹いてくる方向を注意深く見る。

(微かにだけれど光が見える……この方角と距離だと、城の裏手にある崖の向こう側、ってところかしら……レオウだと大変そうだけれど、私ぐらいなら通れそう……)

 長居は無用だ。潮が満ちてこない内に目測だけしてレオウに引き上げて貰おう。

 と、考えた矢先に、視界に入ったものがあった。

「御嬢? どうされましたか」

「ちょっと待って……取れた! いいわよレオウ、引っ張って」

 隙間から抜けだし、梯子の上にまで戻る。

 先に目測である程度の距離と方向をレオウへ伝えつつ、ミスティルは隙間の下から引き上げられる直前に拾ったものを見せた。

 一本のナイフだ。海水に浸からない位置の岩肌に不自然に引っかかっているのを見つけたのだ。吹き込む潮風と海水の飛沫によってか、だいぶ錆が浮かんでいるが、そう古いものではなさそうだ。錆が浮いていてもナイフの刃の状態を見るに、比較的新しいもののように見える。

「調査隊の落とし物かしら。でも……報告書にあの隙間のことは書かれていなかったし、梯子が落ちていたことも考えると、その時はまだ天井が残っていて崩落する可能性がある状態だったのだろうから、あそこにまで入り込むとは思えないし……」

「それは――」

 首を傾げるミスティルとは違い。

 レオウは何かに気付いたかのように、息を呑んでナイフを見つめた。不自然なレオウの反応に、ミスティルは従者の顔を見上げる。

「レオウ?」

「――あぁ……いえ、その……確証はないのですが……」

 言葉を濁らせ、僅かに表情を強ばらせた後。

 悩みながらもレオウは口にした。

「見間違いやもしれませぬが……フォーゲルが、最後に持っていたナイフに、似ていると思いまして」

「フォーゲルが?」

 驚いて、ミスティルもナイフを見下ろす。

 あの事件当時、レオウの腕を縛っていた縄をフォーゲルが切ってくれたのだが、その時に使用したナイフによく似ているのだと、レオウは言う。縄を切った後もレオウの手当や道中の蔦を切るのに使っているのを見ていた為、最後までフォーゲルがナイフを所持していたのは間違いがない。

「意識がない御嬢を発見した時も、御嬢の腕を縛っていた縄はありませんでした。おそらくですが、フォーゲルがナイフで縄を切ったのではありませんか?」

「それは……うん、確かに……」

 ミスティルもぼんやりと思い出す。ミスティルの意識が戻ったのは廃墟を出てからだが、その時にはすでに腕は自由になっていた。

 仮に、これが本当にフォーゲルが使っていたナイフだったとして。

 どうしてこのナイフが、あんな場所に引っかかっていたのか。

 ミスティルとレオウはお互いに目を合わせ、頷く。次の行動は決まった。すぐに廃墟内から抜けだし、ゼーレ国跡地を囲っている崖の更に外周を目指す。


 ゼーレの土地は、元々は空から飛来した隕石によってできたクレーターの中にある。海岸線に落ちた隕石は大地に穴をあけると同時に崖を隆起させ、天然の防壁を作り上げた。地図に描き出せば、ゼーレの土地はクレーターの手前半分は森に、奥半分は海に面している形になる。

 その海に面している側の外周は、細い磯場が続いている。この磯は潮が満ちれば殆どが海水に浸かってしまう為、安全を優先し、森の淵から望遠鏡で該当の場所を観察した。

「ここからだとよく見えないけれど、洞窟みたいになっているところがあるわ。あそこかしら」

「方向としても大方合ってますな……潮が引くのを待てば渡れないことはない、か……」

 隣で同じように望遠鏡を覗くレオウが、小さく呟く。

 それはまるで祈っているかのような声だった。望遠鏡から目を離し、ミスティルはレオウを見上げる。

 レオウの横顔は真剣そのものだ。必死に推測を立て、それが実現できることを、願っている顔である。

(フォーゲルを探しているのだわ……レオウは彼が生きていると、確信している……)

 あの空洞の崩落具合を見れば、生存は難しいように思える。実際、自分たちを助けに来てくれた救助隊も、その後に来た調査隊も、あの少年の生存については一様に首を横に振っていたのだ。

 それでもレオウは、諦めていない。

 自身が一番信頼している従者のそんな横顔に、ミスティルは気付かれないように息を吐き出した。


 この表現しようのない、漠然とした不安は、一体なんなのか。

 レオウを見ればフォーゲル・フライハイトという少年の人と成りは信用できる人物だとわかるのに。生きている可能性が出てきた今、自分も喜ばなければいけないというのに。

 なぜ、こんなにも心がざわめくのか。

(私にとっての、彼、とは……)

 一人抱えた疑問に、答えられる者はいなかった。


×××


 ゼーレ国跡地の周辺には、当然ながら街灯なんてものは無い。

 日が沈み始めればあっという間に暗くなってしまう。手元が見える内に野営の準備をし、早々にこの日は休息を取ることになった。

 野営地として選んだのは、ゼーレ国跡地が眺められる森の出入り口付近だ。明日はここを拠点として周辺の探索を行う予定である。

「彼もここにいたのかしら」

 焚き火の音がよく聞けるぐらいの静けさの中、ミスティルの呟きは思いの外よく響いた。

 装備の点検をしていたレオウが顔を上げる。

「ここにいた、とは?」

「フォーゲルは元々奴隷だったのでしょう? だったら、彼もここにいたことがあったのかもと思って」

「ああ、あの奴隷市に、ですか……どうでしょうな。あやつは生まれ持つはずの名前が無かった故に調べようもありませんでしたし、エテルニアを所持した影響によって情報を得ていたはずのオールドーも、今はあの状態です。ですが……そうですな、フォーゲルはあの日、確かに森の中を迷わずに進んでいました」

 思い出すように森の奥を見つめながら、レオウは答える。

 森の中で迷わなかったということは、フォーゲルは道を知っていたということだ。それにあの事件当時、エテルニアの影響によりフォーゲルの記憶が混じっていたのであろうオールドーの証言からも、フォーゲルがあの奴隷市にいたかもしれないという推測を立てることは出来る。未だ錯乱状態にあるオールドーの証言にどこまで信憑性があるのかは不明だが。

 ミスティルはすっかり暗くなった森の中を見つめる。

「……レオウは、あそこに奴隷市があることを知っていたのよね」

「はい、知っておりました。当時の騎士団にとっては、奴隷市は見えているのに手が出せない、膿のような場所でしたな……騎士団と奴隷市の間で、何度か言い争いになったこともあります。民の中には不安がって騎士へ相談する者もいましたから、その度に騎士団長へ報告したり、時には陛下へ直訴したり……あぁ、いえ、今のは戯れ言です。忘れて下さい」

 慌てたようにレオウが訂正するが、ミスティルはふるふると首を横に振った。

 レオウにとっての陛下、当時のゼーレ国王。その娘であるミスティルは、茶の入ったカップを両手で持ち、その揺れる水面へと視線を落とす。

「……お父様のこと。良い王だったとは、私も言えないわ。国の人々へ不安を与えて、不信感を募らせて……私に、何も教えてはくれなかった」


 ミスティル・A・ゼーレは何も知らない。

 国のこと、民のこと、国の外のこと。

 王である父親のことも、今にして思えば、何も知ってはいなかった。

 そして何も知らないままに、彼らは燃えて亡くなってしまったのだ。


「当時の御嬢はまだ十二歳でした。ようやく国政について学び始めるという時期でした故、知らないというのも仕方ないことだと思われますが……」

「いいえ、それでも私は、知っておくべきだったのだと思う。エテルニアのことだって、城の地下にあんな空洞があることなんて、私はちっとも知らなかった。お父様は何も教えてくれなかったし、私も、知ろうと、しなかった」

「御嬢……」

「私のことをミスティル・A・ゼーレとしてではなく、ただのミスティルとして接してくれるレオウ達のこと、すごく有り難いことだと思ってる。でも時々……それに今、ここに居ると余計に……私は自分の本名を名乗ることに、酷く抵抗を感じてしまっている。自分の国のことを何も知らないのに、ゼーレを名乗る資格なんて、私にはない……」

 俯くミスティルに。

 ふいに一声、甲高い泣き声が静かな森に響き渡る。

 アハートの声だ。こちらを見下ろしながら停まっている小枝を揺らすアハートに、ミスティルは小さく笑う。

「……アハートに怒られちゃったわ。弱音を言っちゃってごめんなさい。私、もう寝るわね」

 カップの中身を飲みきって、ミスティルは立ち上がると寝袋の準備を始める。

 その後ろ姿に、レオウは声をかけた。

「御嬢は私にとって今でも大事な姫様であられますが、それはゼーレの罪を背負わせる為ではございません。ゼーレの罪は、このレオウの罪でもあります。どうか、お一人だけで全てを償おうなどと、ご無理をなさらぬよう。私は貴女様の従者であります故」

「レオウ……うん、ありがとう。おやすみなさい」

「はい。おやすみなさいませ」


 無意識に張っていた気が、少しだけ抜けたような気がする。

 寝袋に潜り込んで一息吐けば、疲れからか、すぐにミスティルは眠りについた。

 ――空が酷く青い。

 あぁ、また夢を見ている、とぼんやりと思った。

 不自然なほどの青色は、空の色ではない。これは、確か。

 下を向けば、また波打ち際に誰かが立っている。

 声は聞こえない。

 けれど口の動きで、なんとなく、何を言っているのかはわかった。


「来るな」


×××


「砂浜、ですか」

「えぇ。その……ただの寄り道になっちゃうのかもしれないのだけれど……」

 翌朝も晴天に恵まれた。

 目が覚めて早々、空を見上げたミスティルが唐突に砂浜を見たいと言い出したのだった。朝食の用意をしていた手を止め、レオウは荷物の中から地図を引っ張り出す。

「砂浜ですと……この辺りは岩場になっている磯が続いていますので、それを辿っていけば岬のところに砂浜がありますね。ですが結構な距離を歩くことになるかと」

「そう……そんなところまで捜索範囲を広げることはできないわよね。ごめんなさい、変なこと言って」

「いえ、行ってみましょう。今からであれば昼過ぎには到着できそうです」

 そうと決まれば、と言わんばかりにレオウはテキパキと朝食を準備し始める。

 慌てたのはミスティルの方である。スープが入ったカップを受け取りつつ、ミスティルは焦った声を上げた。

「い、いいの?! 本当に何もないかもしれないし、私の勘に何の確証もないのに……」

「御嬢の勘は良く当たると、このレオウは存じております。それに、調査隊が調べ尽くしたところをもう一度探すよりは、別の場所を探索した方が、新たな発見をすることもありましょう」


 結局、手早く朝食を終えてすぐに出発することになった。

 昨日とは違って四方が崖に囲まれていない為、時折海からの潮風が吹き付ける。森と海岸線の間を辿り、適度に休憩も挟みつつひたすら歩けば、レオウの推測通りに昼過ぎには目的の岬が見えてきた。

「どうやら砂浜は岬の先端部分にあるようですな。御嬢、体力の方はどうですか」

「大丈夫よ。私よりもレオウは平気なの? 私よりも荷物を多めに持って貰っているのだから」

「なに、これぐらいはまだまだ行けますぞ。とはいえ、岬に着いたら探索の前に一息入れましょう。場合によっては今晩の野営地についても考えなければ」

「そうね。今日も日が沈み始めたら、すぐに真っ暗になりそうだし……アハート? どうしたの?」

 ふいに、上空を飛んでいたはずのアハートが急降下し、ミスティルの前に降りてくる。そしてミスティルへ向けてひと声、鳴き声を上げるとすぐに飛び上がった。

 それはまるで、ついて来い、と言わんばかりで。

「レオウ、私ちょっとアハートを追いかけるわ。レオウはゆっくりでいいから追いついて」

「わかりました。岬で落ち合いましょう」

 走るには邪魔になる背負っている分の荷物だけをレオウに託し、駆け足でアハートを追いかける。

 アハートはゆっくりと誘導するようにミスティルの前を飛ぶ。そんなアハートを見失わないように追いかければ、やがて目的地にしていた岬の先端に辿り着く。

 そこはレオウの言う通りに砂浜になっていた。その手前で一旦足を止めて息を整え、顔を上げたミスティルは、息を呑んだ。


 夢にみた風景とまるで同じだった。違うのは、空が普通の色をしているのと、そこに立つ人影がいないこと。

 思わず立ち尽くすミスティルの前を、アハートは滑空して横切っていく。目だけでその姿を追えば、アハートは砂浜の端、岩場が波打ち際へとせり出しているところに着地する。

 否。

 人影はそこにいた。

 纏っている襤褸布が、潮風を受けてはためいている。顔はこちらからだと見えないが、一つに括っている長い黒髪が、布と一緒に風に遊ばれている。

 砂地に降り立ったアハートが、呼びかけるように声を発する。それに応えるように、ゆっくりと、こちらを振り向いた。


 見たことがある。

 見覚えがある。

 知っている。

 けれど、違う。瞬時に、ミスティルは自分でもわからないままに、そう思考した。

 だから呼べなかった。

 その名を、呼ぶことができなかった。

 振り向いた彼の、その深紅色の瞳に、青い光が宿っていたから。


「……来るな、と言ったはずなんだがなぁ」


 ソレが声を発する。

 ゆったりとした動作で岩場から降り、こちらへと歩いてきたソレは、ミスティルの数歩前で立ち止まる。

「よう、ゼーレの姫さん。残念だったな、フォーゲルじゃなくて」


 フォーゲル・フライハイトの姿をした『彼』が、そこに立っていた。




  7.ゼーレ 完

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る