6.フォーゲル・フライハイト

  1.


「クース兄ちゃん、こっち! こっち!」

「えぇー待ってよ君たち、本当に見たの?」

「ほんとうだよぉ! ルーナがまちがいないって言ってるもん!」

 そんなやりとりをしながら、クーストース・オアシスは村の子供達に引っ張られていた。

 空は夕暮れが近く、徐々に暗くなっていく時間帯だ。普段ならば自分より幼い子供達に早く帰るように促しているところなのだが、子供達が「たいへん、たいへん!」と慌てた様子でクーストースを呼びに来たので、仕方なく子供達について行っている。

 なんでも、前にこの村へやってきていた人を見かけた、と子供達は言うのだ。

(僕が村に連れてきた、リーベルタースの皆のことを言ってるんだと思うんだけど……)

 何かの依頼でこちらにまで来ているのだろうか。手紙をやり取りしている兄貴分(と、クーストース自身は勝手に思っている)からは何も連絡がなかったはずだが。

 子供達に手を引かれた先には、村の女の子がいた。ルーナである。子供達と一緒に声をかければ、ルーナは今にも泣きそうな顔で振り返った。

「ルーナ? 一体どうしたの?」

「クース兄ちゃん、あの、あの、あの人、あそこ……!」

 ルーナが指差す方向を見る。

 今クーストース達がいる場所は小さな崖になっているのだが、指差している方向はその崖下。言われるままにクーストースが崖下を覗き込めば、そこには一人の少年が。

「……って、フォーゲル?! えっ、なんでそんなところに?!」

 今ちょうど頭の中で思い浮かべていた兄貴分こと、フォーゲル・フライハイトが、崖下で倒れていたのだった。

 この崖は子供達には高くて危ないが、クーストースならば下に降りてもギリギリで身長が届く。子供達にはその場で待機してもらい、慌てて崖下へと飛び降りた。

「フォーゲル、フォーゲル! だいじょう……ぶ、って……ね、寝てる?」

 俯せになっていたのを慌てて転がしてみると、心配とは裏腹に、フォーゲルはすやすやと安定した寝息をたてていた。

 見たところ大きな怪我も無し。とりあえず崖上で待たせている子供達へ「大丈夫そう」とだけ伝えて落ち着かせ、フォーゲルの頬をぺちぺちと叩いてみる。

「フォーゲルー、ねぇ、起きてよー」

「……ぅ……?」

 意外にすんなりと目を醒ました。寝起き状態のぽやぽやとした様子でクーストースへと目をやると、不思議そうに口を開く。

「……クース? なんで、ここに?」

「それはこっちのセリフ! こんなところで寝ないでよ、びっくりしたじゃんか!!」

「? ……ここどこ?」

「僕の村の裏手にある山の前!! というか……本当に大丈夫なの? 起き上がれる? さすがに僕、フォーゲルを担げる自信はないんだけど」

「……ん……」

 クーストースに言われるままに、フォーゲルはむくりと体を起こした。その動作におかしな挙動はなく、怪我もなければ具合も悪くはなさそうだ。

 先にフォーゲルに押し上げて貰いながらクーストースが崖上へとよじ登り、子供達と協力してフォーゲルを引っ張り上げる。そうして子供達と一緒に手を引っ張ったり背中を押したりして、うつらうつらと眠そうに船を漕ぐフォーゲルを村にまで連れて行く。

 あの事件以降、カピレ村には元の活気が戻りつつある。様子のおかしかった大人達は全員正気を取り戻し、村の周りの植物にも生気が戻ったおかげで田畑も元通りだ。ただ、クーストースの家でもある領主の館は、外壁をびっしりと覆っていた蔦が一気に枯れてしまって、随分と見た目が残念なことになっている。とはいえ、根が完全に枯れるのを待ってから蔦を取り除こうと村の大人達と話し合ってはいるので、もう少しの辛抱だ。

 そんな自宅に到着したところで、子供達には帰ってもらうことにした。もうだいぶ空も暗い。家の者たちが心配してはいけないので玄関先から子供達を見送り、クーストースはふらふらしている兄貴分を大部屋の長椅子へ座らせた。

「ねぇフォーゲル、改めて聞くけど、本当に大丈夫なの? っていうか、他の皆は?」

「ん……ねむい……」

「駄目だこりゃ」

 どうやら睡魔が強すぎてろくに思考が回っていない様子だ。話を聞き出す前にずるずると長椅子に横になって眠り初めてしまった兄貴分を見て、クーストースは呆れて肩を落とす。

 まぁ、ひとまずはこのまま寝かせておいて、目が覚めてから改めて聞くことにしよう。そう考え直して、風邪をひかないように毛布でも取ってきてあげようかとクーストースは部屋を出た。


 ぱたん、と扉が閉まる音と同時に、『彼』はうっすらと目を開ける。

 そして横になったままの態勢で、腕だけを持ち上げる。

 袖口から、僅かに青い結晶が見えていた。

「……限界が近い、か」

 誰もいない部屋でボソリと呟いて、『彼』は溜め息を吐いた。


×××


 その少年は、この世に生まれ出でた瞬間から奴隷という身分であった。

 見せ物小屋の娼婦がうっかり妊娠して産んだのが、彼だったらしい。父親と呼べる存在はいるはずもなく、育てるための環境も資金もない娼婦は、見せ物小屋である程度育つのを待ってから早々に我が子を手放した。

 それから少年はその身を商品として売買され続けた。ある時は暴力をしたいだけの主人に買われて殴られるだけの生活を強いられたり、ある時は怪しげな薬の実験台にされて一日中苦しんでいるのを観察されたりもした。そうやって少年が十の年を数える頃には、少年から人間らしい感情は未成熟のままに放棄されてしまっていた。

 固く心を閉ざし、苦痛に鈍感になり、何事にも無反応になり。面白がって少年を買う者もいたが、すぐに不気味がっては手放された。そんなことを繰り返している内、少年に噂が立てられるようになる。どこに買われても短期間で奴隷市へと売り戻されるこの少年には、何か悪いモノが憑いているのではないか、と。

 そうこうしている内に、徐々に少年に買い手がつかなくなっていった。金にもならない少年は奴隷市の片隅に放置されるようになり、そのまま人知れず野垂れ死ぬはずだったところを、一人の男が、買い取った。

 それがオールドー・ルベルであった。


「しかし、アレが奴隷市から我が屋敷へと運ばれている最中に、運搬していた馬車の行方がわからなくなった。どうやら落石事故に巻き込まれたようで、捜索の結果、落下地点は判明したのだが肝心の商品がない。辺りを探索させたところ、名すらない小さな集落を発見し、そこで保護されていた商品をようやく捕獲した」

「それが……フォーゲル、ですか」

 ガラス越しに聞かされる男の話に、ミスティルは眉をひそめた。

 オールドー・ルベルは現在、先の発砲事件により逮捕され、この拘置所に収監されている。そんな男から「ゼーレ嬢にならば全てを話してもよい」と供述があったという知らせにより、ミスティルはこうして男と対面している。

 男の口から語られるのは、少年の痛々しい過去と、その経緯。後に「フォーゲル・フライハイト」になる彼が、どのようにして人生を歩んできたのかを、男は嘲笑いながらに明かしていく。

「その集落にて私は驚くべき発見をした。青く輝く鉱石の存在と、その特性。そして、人の体を借りることでようやく認識できる、あの存在……それはゼーレ嬢も会ったことがあるでしょう」

「……『彼』は、その頃から?」

「ええ。『彼』はその当時から存在していた。今と違うのは、宝飾に加工されたエテルニア石を首に提げた者が、交代制で『彼』へと体を貸し出していた、という現象ぐらいですか。馬車が行方を眩ましてからの短期間の間で、アレもその地位を得ていた。おまけに、アレとエテルニア石は相性が良すぎたようで、アレが僅かに蓄積していた記憶と感情をエテルニア結晶として生成するという副産物まで発生していた。それを見た時に――使える、と私は思ったのだ」

 男が薄く笑みを浮かべる。

 分厚いガラス越し、囚人という身分でありながら、オールドーはさも楽しげに告げる。

「一目でエテルニアに凄まじい力が宿っていることは見抜いていた。だから私はそれらの回収を命じた。しかし、ただの欠片ごときでは満足できない。私にはもっと膨大な力が必要だった……見れば、アレは少しばかり人間らしい感情が育っていたようだった。短期間ながら、集落の住民達に情けをかけてもらったからだろう。故に、私はそれを、利用した」

「……やめてください」

「まず、集落の子供達を全員捕らえた。その上でアレに『彼』が宿っているらしいエテルニア石を持たせ、従わなければ一人ずつ殺していくと伝えた。面白いほどに動揺していたよ、アレは。恐怖を与え、感情を揺さぶれば揺さぶるほどにエテルニアを生成すると、その時に理解した。ならばアレとエテルニアは常に一緒にしていた方が生産的だ。そう考えた私は、アレにエテルニア石を飲み込むように指示をした。もちろん、人質に悲鳴を上げされて促しながら……ハッ、その頃にはすでに、一人目が声も上げられないほどに衰弱していたのだったか」

「やめてください!!」

 ミスティルの叫びにも似た声に、男はようやく口元から笑みを消す。

 と同時に、ミスティルは立ち上がって踵を返すと、部屋の扉へと手をかけた。

「まだ話は終わっていませんよ、ゼーレ嬢。まだ半分も終わっていない」

「……頭を冷やしてきます。今はこれ以上、貴方の顔を見たくない」

「なるほど。ならば待っていますよ。いつまでもね」

 バタン、と後ろ手に扉を閉めた。逃げるように扉から離れ、廊下に設置されているベンチへと座り込む。

 喉元にまで迫り上がってきていた怒りを飲み込み、意識しながら息を細く長く吐き出す。それでもすぐに煮えたぎった思考を鎮めるのは難しく、余計な雑念を追い払うように彼女は頭を振った。

 と、廊下の向こう側からバタバタと足音が響いた。

「御嬢! 申し訳ございません、席を外していました」

「レオウ……うぅん、大丈夫。頭を冷やしたかったから、ちょうど良かったぐらいよ」

 努めて声の調子を上げながら答えたつもりだったが、レオウから見て彼女の顔色は優れなかったのだろう。顔を引き締め、視線を合わせるためにレオウはその場で片膝をつく。

「それほどに厳しい内容だったのですか、あの男の話は」

「えぇ、まぁ……でもまだ全てを聞き出せたわけではないから、詳細は後で話すわ。それより、レオウも何かあったの? 遠くまで席を外していたようだけど……」

 そう訊ねながら、先程レオウが駆けてきた方向を見やる。そちらからパタパタと、今度は軽い足音が響いてきていた。

「あっ、いた! お姉さん!!」

「貴方……クース君? どうしてここに?」

 小走りで姿を見せたのはクーストース・オアシスだった。

 どうやらレオウはこの少年を迎えに行くために席を外していたらしい。というのも。

「事務所にクース殿が来ていると、マーネ殿から連絡がありましてな。急ぎ伝えたいことがあるということだったので、こちらにお連れしたというわけです」

「マーネさんが? 彼女、出歩いて大丈夫なの?」

「体調が悪いというわけではないそうでしたので……念のため、屋敷へと帰るようにと促してはおきましたが」


 マーネ・メモリアはあの日――フォーゲルがいなくなったあの日、フィークス婦人の屋敷へとふらふらとした足取りで帰り、暫く寝込んだという。それからすぐに彼女は目を醒ましたが、出かけ先からどうやって屋敷へと戻ったのか、その部分だけ記憶が抜け落ちてしまっていた。事務所で簡単な家事手伝いをし終えた後、散歩がてらに公園へ立ち寄ってから屋敷へ帰ろう、と考えていたことまでは思い出せたようだが。

 マーネは一時期、記憶を喪失したことがある。その症状が再発したのかと案じたフィークス婦人につれられて診療所で検診したそうだが、特に異常はなかったようだ。ただただ、公園へ立ち寄ってから後の記憶だけが、どうしても思い出せないのだという。

 もしも本当に公園へ立ち寄っていたのであれば、あの時のフォーゲルに会っているはずなのだが……


 しかし、今はここにいないマーネを案じるより先に、クーストースの突然の訪問について説明を受けるべきだろう。頭を振って思考を切り替えたミスティルは、クーストースと目を合わせる。

「マーネお姉さんからちょっとだけ話は聞いたよ。フォーゲル、全然帰ってきてないって」

「えぇ。もう五日目よ」

「やっぱり……えっとね、僕のところに三日前、フォーゲルが来たんだよ。あ、いや、来たというか拾ったというか……」

 クーストースは三日前に見た様子を話す。

 カピレ村の近くでフォーゲルを発見したこと、怪我等はしていないがどうにも様子がおかしかったこと。

 そして、少し目を外した隙に、いつの間にかいなくなってしまっていたことを。

「本当に気が付いたらいなくなってて……廊下の窓が開いてたから、そこから出て行っちゃったのかな。なんとか話を聞けないかなって何度か話かけてたんだけど、ずっと眠そうにしてたから会話にもなんなくて」

「そう……それじゃぁ、彼の行方については何も?」

「うん、何も。村の皆にも目撃情報がないか聞いて回ったんだけどね。何でかわからないけれど、最初にフォーゲルを見つけたはずの子供達が、フォーゲルのことを何も覚えていなかったんだ。見つけた時は慌てて僕に報告に来てくれたってのに、フォーゲルがいなくなった後はそんな人見たことない、って言い出しちゃって」

「覚えていない? 彼のことを?」

 ミスティルとレオウは顔を見合わせる。

 前日に会ったはずのフォーゲルに関する記憶が消えている――それは、先日のマーネと同じ症状ではないのか。

「どういうことかしら……その子供達、前に記憶喪失になったことがあるってわけでもないのよね?」

「きおくそうしつ? そういうのではないと思うけど……あの事件の時に父さんと同じようにおかしくなっちゃった家の子達なんだよ。あ、でも、ルーナだけはちゃんとフォーゲルのこと覚えてた」

 ルーナとは、クーストースが家出をするきっかけになったあの事件の際、カピレ村の異常な状態を知らせてくれた女の子だ。

 実は今回クーストースがわざわざ街にまで出向いてきたのも、あの事件との関連性を見出したからであるという。忘れてしまった子供達の様子が、どうにも自身の父親の症状に酷似していると感じたからだ。

 まだあの石が村のどこかにあり、それのせいで子供達がおかしくなってしまったのではないかと危惧したようだが。

「村中探しても、あの青色の石はどこにもなかったんだよ。ただその……言いにくいんだけど……」

「今は少しでも情報が欲しいから、教えて。どんなことでもいいから」

「じゃぁ、その、僕の見間違いかもしれないけど……フォーゲルの手首のところから、青い光が見えた気がしたんだ。前にフォーゲルから送ってくれた手紙には、もう治った、って書いてあったんだけど……」

「それはそうなのだけれど、先日にもいろいろあってね。けれど、手首ね……それは右腕だった?」

「え、えーと、ううん。左腕だったと思う」

 ミスティルの記憶が正しければ、フォーゲルが行方不明になる直前、エテルニアが発生したのは右手の甲だったはずである。

 フォーゲルが昏睡状態から回復し現在に至るまでの間に、ミスティルが確認しているのは今回を合わせて4度目。その内の2回は、彼がエテルニアに触れて破壊した時に。そして残り2回は彼自身が傷を負った時に、それぞれ発生している。

(公爵の取り調べで、フォーゲルが暴行を受けていたのはわかっているけれど……傷から発生した場合のものはすぐに砕けて消えていたのよね……)

 そう考えるも、今回についてはいろいろと例外が多すぎる。オールドー公爵の行動に、『彼』の出現、そして、フォーゲルの失踪。クーストースの話が本当なのだとしたら、彼に一体何が起こっているのか。

 全てを推測するには、まだ情報が少なすぎる。

 ミスティルは頭を振って、立ち上がった。

「……私、もう少しあの人の話を聞いてくるわ」

「ですが、御嬢」

「大丈夫よレオウ。情報を得るためだもの、不愉快な話でも我慢するわ。クース君も、有力な情報を教えに来てくれてありがとう……そういえば貴方、事務所からここまではレオウの案内だったのだろうけれど、この街まではどうやって?」

 ふと疑問を口にしたミスティルに、クーストースはそういえば、と苦笑いを浮かべる。

「前回と同じだよ。勢いで村を飛び出して、道すがらに行商人の馬車に乗せてもらったんだ。早く帰らないと村の子達がまた泣いちゃうかも」


×××


 深呼吸をして心を落ち着かせた後、再びミスティルは面会室へと足を踏み入れた。

 オールドーは宣言通りにまだそこで待っていた。男の顔を見た途端に先日撃たれた右足が思い出したようにジクジクと痛み出したが、ミスティルはそれを顔に出さないようにしながらガラス板を挟んだ対面席へと座る。

 先に口を開いたのは男の方だった。

「待つ、とは言いましたが、流石に待ちくたびれましたよゼーレ嬢。よほど念入りに頭を冷やしていたと見られる」

「……それは、大変お待たせしました。せっかくの面会時間が少なくなってしまいましたね」

「ああ、それについては気にしなくても良いでしょう。貴女はすでに我が手の内だ。時間などいくらでもある」

 男の口元が弧を描く。

 ゾクリとした悪寒を感じ、ミスティルは僅かに身を引きながらも問いかけた。

「どういう意味ですか」

「貴女がぐずぐずとしている間に、こちらの準備が整ってしまった、という意味ですよ」

 男が浮かべた笑みに、身の危険を感じてミスティルは立ち上がる。

 その時、面会室の外から悲鳴のような声が聞こえ、ハッとしてミスティルは背後の扉を振り返る。

「――なんだよお前ら! 離せ! 離せったら!!」

 クーストースの声だ。先程レオウに事務所まで送り届けるよう頼んだはずなのに。

 痛む足を引き摺りながら面会室の扉を開け放ったミスティルの目に、大人達に捕まり手足をじたばたとさせているクーストースの姿と。

 そして数人にのし掛かられ床に這いつくばっている、レオウの姿が。

「御嬢!!」

 必死に顔を上げながら、レオウが警告を発する。

 が、すでに遅かった。虚ろな目をした男達が、あっという間にミスティルへと詰め寄る。

「っ?! や、やめ――」

 抵抗しようとするが、少女の細腕では大の大人に叶うはずもなく。

 叫ぼうとした口を布で覆われ、羽交い締めにされてしまう。

(っ、これ、薬品の臭い……)

 瞬時にそう思考するも、急速に意識が遠退いていく。

 面会室の方から男の笑い声が聞こえた気がした。




  2.


 大きく揺さぶられ、ミスティルの意識は覚醒した。

「御嬢、目が覚めましたか」

 すぐ傍でひそひそとした声が聞こえる。なぜか上手く動かせない体で、なんとか頭だけを持ち上げた。

「……レオウ……? ここは」

「荷馬車の中です。我々はどこかへ運ばれているようです……御嬢、お体は大丈夫ですか」

 と、再び大きく揺さぶられる。

 どうやら荷馬車は悪路を進んでいるようだ。揺られながらなんとか体を起こそうとして、ようやくミスティルは自分の両手が自由に動かせないことに気付く。

 両腕は背中で縛られていた。と同時に、自分の身に何が起こったのかを思い出す。薬によって霞かがっていた思考が一気に晴れ、ミスティルは慌てて辺りを見渡す。

「っ、クース君は?!」

「落ち着いてください御嬢。クース殿は一緒ではありません。御嬢が気を失い、私も抵抗を諦めたところでクース殿は解放されました……うまく事務所に戻って、助けを呼んでくれていると良いのですが……」

「そ、そう、良かった……レオウは? 貴方は大丈夫なの?」

「大丈夫です、と、言いたいところではあるのですが」

 レオウは己の左足を見やる。

 つられて視線を向ければ、暗い荷馬車の中でもわかるほどの怪我を負っているのが見て取れた。刃物に斬りつけられたのか、傷口の血はまだ乾ききってもいない。

「ひどい……」

「クース殿を人質にされていたとはいえ、不覚を取りました。元騎士として情けないことです」

 悔しげにしながらも、レオウはひそひそと小声で経緯を話し始めた。

 レオウ曰く、面会室の前でミスティルと別れた後、クーストースと共に拘置所を出たところで男達に取り囲まれたのだという。

 レオウだけならばまだ対処できた。が、男達は真っ先にクーストースの捕獲を行い、レオウの動きを鈍らせた。男達の動きには一切の迷いがなく、統一されていたという。

 そこまで説明を終えたところで、レオウは荷馬車の外に聞こえないように声を更に潜める。

「御嬢、もし逃げ出せるような隙を見つけたならば、私には構わずにお逃げ下さい」

「そんな……駄目よそんなの、レオウを置いてなんていけないわ」

「いいえ。私の足を潰したのはあの男の策なのでしょう。オールドーという男は、人の弱みを掌握するのが得意なようです。私の場合ならばクース殿を、御嬢の場合ならば私を。おそらく……フォーゲルの場合が御嬢だったのです。あの時、あの男はまったくの躊躇すらなく御嬢の足を撃ちました。それがフォーゲルに恐怖を与え、従わせるのに効率が良いと知っていたからです」

 レオウの推測に、ミスティルはぐっと声を詰まらせる。確かに面会室で聞いた話の中でも、オールドー自身が似たようなことを言っていた。フォーゲルを従わせるために子供を人質にした、と。

 現状でもそうだ。レオウが不本意ながらも従うことを条件にクーストースは解放されたが、今度はレオウがミスティルの足枷になるように仕向けられている。そして、ミスティルが捕らえられているこの状況は。

「……私を使って、フォーゲルを捕らえようとしているってこと?」

「御嬢が眠っている間、荷馬車の行き先を探っていました。フォーゲルの行方がわからない場合、おびき出す為の人質は地の利がある自身の屋敷なりに閉じ込めて誘い出し、罠を仕掛けるはず。ですがこの荷馬車は止まらずにこんな悪路を走り続けている。ということは、あの男はフォーゲルの行方を知っていて、そこへ我々を運んでいるということではないでしょうか。今度こそフォーゲルを従わせるために」

 レオウの冷静な言葉に、ミスティルは顔色を青くする。

 確かに、オールドーの屋敷へと向かっているのであれば、こんな荷馬車が揺れるような道は通らないはずである。それに、こうしてミスティルとレオウを人質として捕らえたからには、まずは従わせたい標的に人質の存在を知らせなければいけない。もしもレオウの推測通りに、オールドーがフォーゲルの行方を知っているのであれば。そこへ向かい、フォーゲルへと直接、人質の存在を見せつけた方が効率が良いのは明白で。

 あの男が何故ここまでしてフォーゲルを、否、正しくは『彼』を、執拗なまでに手に入れようとするのか。暴力と恐怖で塗り固められたこの方法を見る限り、もはや恐ろしいことが起きてしまう可能性しか浮かばない。

 レオウもそう危険視しているのだろう。それはミスティルも同じではある。が。

「でも……私は、もうこれ以上……」

 言い淀んでいる内に、荷馬車は一際大きく揺れて停車した。

 思わず息を飲んで硬直するミスティルの視線の先で、荷馬車の扉が無情にも開かれる。

「――ほう、目が覚めていましたか」

 扉の先にはあの男、オールドー・ルベルが、薄く笑みを浮かべながら立っていた。

 レオウが牽制するように男を睨むが、オールドーは怪我人には興味無いとばかりに余裕の表情で口を開く。

「ここから先は馬車では進めないようでしてね。私と一緒に来て頂きますよ、ゼーレ嬢」

 一方的な言葉はそのまま命令となる。オールドーが従えている男達がわらわらと集まってきたかと思えば、抵抗も虚しくミスティルは無理矢理に荷馬車から引き摺り下ろされてしまう。

 レオウはどうなるのかと慌てて荷馬車を振り返れば、銃を持っている数人の男達に取り囲まれていた。全身から血の気が引き、ミスティルは声を荒上げる。

「レオウをどうするつもりですか!?」

「どうするもなにも、彼は貴女の人質ですよ。貴女が大人しく私に従うのであれば何もしません……まぁ、貴女の態度にもよりますが」

 つまりは、従わなければ命は保証しない、ということか。

 ミスティルはぐっと叫び声を飲み込んだ。わかりやすい脅しではあるがそれがただの見せかけの嘘ではないということは、男の目を見れば一目瞭然であったからだ。


 荷馬車の先はより道が険しくなっており、確かに馬車では通れそうにない。もはや獣道としか言えないような細い道を、ミスティルは両腕を縛られたままに歩かされる。

 ミスティルの後ろには銃を持った男が見張り役としてついてきている。そして、前方にはあの男。足元と背後を警戒しながらも、ミスティルは慎重にオールドーへと問いかける。

「……私をどこへ連れて行くつもりなのですか」

「そういえば話が途中のままでしたね、ゼーレ嬢」

 こちらの質問には答えずに、オールドーは唐突に語り出す。

 面会室で聞かされていた話の続きか。有無を言わせないような態度に、ミスティルは仕方なしに口を閉ざす。

「さきに昔話をしましょうか。今でこそ公爵家として栄えている我がルベル家ですが、数年前まではそこまでの地位はなく、小さな家でした。おまけに先代は病弱で子供がおらず、跡取りのいない家は没落する運命にありました。本来ならば」

 日が暮れ始めて静けさが増してくる森にオールドーの声だけが響く。

 嫌でも耳に入ってくる男の一人語りに、ミスティルは僅かに眉を顰めながらも辺りへと目を配る。今歩いている場所は、かつては何かの施設だったのか。朽ち果てた建物が木々の間から見える。

「昔、この辺りには奴隷市場がありました。どこからか子供を攫ってきては、奴隷として売買する。中には産んだ親が直接売りに来ることもあったそうですが。実を言うと、私はこの市場にいたことがあったのですよ。訳もわからずにこんなところへと売られ、理不尽な人生を強制され……ハハッ、まったく、酷く惨めな昔話ですよ。たまたま通りかかったルベル夫妻に買われなければ、今頃どうなっていたことやら」

 徐々にミスティルの顔色は悪くなっていった。夕日でぼんやりと見える景色が、どうしてこんなにも既視感があるのか。背中を銃口で押されながら歩くミスティルの視界に、朽ちた建物の壁に刻まれてた紋章が映り込む。

 それを見た瞬間、ミスティルは目を見開いた。

「まさか、ここは――」

「あの時に私は誓ったのだ。私をこのような目に遭わせた者を、否、あの国を、許しはしない。このような奴隷市場を公認で放置しているあの国に、必ずや復讐してやる、とね」


 唐突に森を抜けた。

 目前に、四方を切り立った山々に囲まれた廃墟が現れる。

 どうして気付かなかったのか。もっと早くに気付くべきだった。いや、無意識に脳が気付きたくないと拒絶していたのか。

 男は嫌な笑みを浮かべながらに少女を振り返る。

「ようこそ、お帰りなさいませ。ミスティル・A・ゼーレ姫」


 廃墟と化したゼーレ国が、夕日に照らされていた。


×××


 その頃、レオウは荷馬車の中で一人、息を潜めていた。

 荷馬車の外を取り囲んでいる気配は一向に動く気配がない。せめて時刻だけでも確認したいところではあるが、荷馬車には小窓すらないためにそれすらも叶わない。

 しかし、ミスティルが連れ出されてしまった一瞬に見えた景色。あの景色を、レオウは知っている。なぜならば五年前、この道を通ってレオウはミスティルを連れ、燃える国から逃げ出したのだから。

(おそらく御嬢はゼーレ王国の廃墟へと連れて行かれたに違いない。しかし……あそこにはもう何もないはずなのだが……)

 と、ふいに荷馬車の外で何かが弾ける音が聞こえてきた。ハッと顔を上げたレオウの耳に、外からガチャガチャと何かが落ちたり倒れたりするような音が立て続けに聞こえ、続いて扉の鍵が外れる音。

 扉を開けたのは外にいた男達ではなく――まったく変わらない無表情で、それでも不思議そうに小首を傾げている、フォーゲル・フライハイトがそこにいた。

「レオウ? なんで、ここに?」

 当たり前のように声をかけてくるフォーゲルに、レオウは呆気にとられて閉口する。

 が、すぐに我に返った。慌てて口を開けば、大声になった。

「それはこちらの台詞だ馬鹿者! っ、く、ぅ」

 自分の大声が傷に響く。思わず顔を顰めれば、フォーゲルは軽い足取りで荷馬車の中へと入ってくるとレオウをまじまじと見下ろした。

「レオウ、怪我してる?」

「ああ……いや、私のことよりも――」

「駄目だ。レオウも、大事」

 そういうとフォーゲルは一度荷馬車を降り、どこからか小さなナイフを持ってくるとレオウの腕を縛っている縄を断ち切る。そして肩を貸し、レオウを荷馬車の外へと連れ出した。

 荷馬車の外では数人の男達が倒れていた。思わず言葉を失うレオウを地面に座らせ、フォーゲルは倒れている男達の持ち物を物色しだす。どうやら先程のナイフもそうやって入手したようだ。

「これは……フォーゲルがやったのか?」

「エテルニア、持ってたから、返してもらっただけ。暫く起きないと思うから、大丈夫」

 見れば男達の周りにバラバラになった銃らしき部品が飛び散っている。さきほど聞こえてきた音の正体はこれのようだ。ということは、ここで倒れている男達は全員、エテルニアの影響を受けていたということであり。

「まさか、本当に……オールドーはエテルニアで人を操ることができるのか……?」

 これはレオウだけではなく、ミスティルとも話し合っていた内容だ。

 フォーゲルがいなくなったあの日にオールドーが従えていた者たちにも、同じようにエテルニアの影響が見て取れた。それにオールドーには、エテルニア鉱石をばら撒き各地で事件を引き起こしていたのではないか、という疑惑も浮上している。エテルニアの知られていない特性や活用法を知っていて、悪用していたとしても不思議ではない。

 そんなレオウの独り言はフォーゲルにも聞こえていたようだ。物色を終えて布やら添え木になりそうな板やらを持ってきたフォーゲルは、ほんの少し困ったように言葉を濁らせながらに言う。

「ちょっと違うって、ハカセが言ってる」

「ハカセ? それに違うとは」

「俺だと、うまく説明できないけど……あの人も、影響うけてる。エテルニアの」

 フォーゲルができる説明はそれだけのようだった。それ以上の言葉をうまく表現できないようで、暫く待てば情報は得られたかもしれないが、レオウとしても今は時間が惜しい。物を持ってきたのはいいが手当の仕方が覚束無いフォーゲルに的確な指示を出し、重傷だった左足を応急手当する。

「歩けそう?」

「だいぶ痛むが、なんとかな。きちんと止血してから動きたいところではあるが、そうも言ってられん」

 フォーゲルに拾ってきてもらった杖代わりの枝を支えに、よろりと立ち上がる。フォーゲルにはそう言ったが、左足を庇いながらの歩行はこの先の獣道では苦行になりそうだ。

 急いでミスティルを助けに行かなければいけない。が、果たしてこの状態であの男に対抗できるのか。迷いが生じるレオウに、フォーゲルは自身の胸元に手をやると、ほんの少し目を伏せる。

「ん……血が止まって、痛くなければ、大丈夫?」

 ふいにフォーゲルがしゃがみ込み、手当したレオウの左足に触れる。

 動作はそれだけだった。一瞬の間に、青い石が傷口に覆い被さっていた。

「フォーゲル?! これは、一体」

「えっと……応用、編? これぐらいなら、影響はないし、これ以上傷口が広がらないから、大丈夫だと思う。でも、あくまでも応急処置だから……って、ハカセが」

 再びフォーゲルの口から発せられた呼び名に、今度こそレオウは眉を寄せる。

 フォーゲルに時折現れる別人格のことは、ミスティルから聞いていた。レオウ自身も先日目撃したばかりである。どうやらフォーゲルには自身の人格とは別に、『彼』とミスティルが呼んでいる別の人格が潜んでいるようだ、と。

 おそらくその別人格のことを「ハカセ」と呼んでいるのだろう、と流石にレオウにもわかる、が。

「そのハカセというのは何者なのだ?」

「えぇと……」

 レオウの言葉にすぐ答えられないのは、フォーゲルに言語化能力が不足しているからか。

 再び胸元に手をあてたフォーゲルは、今度こそ眉を下げて困った表情を見せる。

「んん……なんかハカセ、レオウとは話したくないって、言ってる……」

「そ、そうか……しかし、その、なんだ。そのハカセという者は我々の邪魔をするのではなく、助けてくれている、という認識で良いのか?」

「うん」

「ならば今はお前を信じてそれに感謝し、追求はしないでおこう。しかし御嬢を助け出した後には、少しずつでも良い、説明をしてくれるか」

「……うん」

 少しだけ安堵したように。

 少年は表情を緩ませながら頷いた。



 日が落ちきってしまった森の中を急ぐ。

 五年の間に人の往来がなくなった道は酷く荒れ果て、植物が我が物顔で侵食している。フォーゲルによる応急処置がなければ、怪我を負ったレオウの足では歩くことすら困難だっただろう。

 この森の中に何があったのか、レオウは知っている。知っているからこそ、今は辺りを見ることなく先を急いだ。フォーゲルもただ黙ってレオウの前を歩き、時々後ろを振り返ってはレオウの歩幅に合わせている。

 その歩みに迷いはない。レオウと同等か、それ以上にこの道を知っているかのような足取りだ。この道がどこに繋がっているのか、少年はわかっているようだ。

「フォーゲルよ、お前はゼーレ国の廃墟へと向かっていたのか?」

 その後ろ姿へ問いかける。

 暗がりの中、少年は「うん」と声と共に頭を縦に動かした。

「何故一人で行こうとしたのだ。我々には言えぬことだったのか?」

 続けて問いを投げかける。

 今度はすぐには答えなかった。やや時間を置いてから、少年は言い辛そうにしながらも口を開く。

「巻き込みたく、なかったし……レオウとミスティルは、知らない方がいいかと、思って」

 フォーゲルは嘘がつけない。故に、本気でそう考えたのだろう。

 こちらを窺うように少年は振り向く。そのまま立ち止まってレオウが追いつくのを見計らった後、フォーゲルは言葉を探す。

「えっと……クースの家と、同じ」

「クース殿の家? というと」

「エテルニアは、植物に一番、影響がでる、から」

 だから、えっと。

 と、少年は口篭もりながら再び歩き出す。

 森の出口はすぐ傍にまで来ていた。

「エテルニアがあるところは、植物が異常に成長したり、枯れたりする。だから」


 森を抜ける。

 目前に、四方を切り立った山々に囲まれた廃墟が現れる。 

 その光景を、レオウは先に来たミスティルとは違う衝撃を受けながら見下ろす。

 月夜に照らされる廃墟には、廃墟全体を覆い被さるような蔦植物によって埋め尽くされている。

 そう、それは、蔦に覆われたクーストースの屋敷のように。


「だから、俺は、この国を……もう一度、壊さないといけない」


 決意を込めた少年の目に、青色の光が宿った。




  3.



 かつて国であったそこは、国であった痕跡すらも覆い隠すような緑に侵食されていた。

「顔色が悪いようですね。ゼーレ嬢」

 脅威的な植物の群生の中で、さらに凶悪な笑みを浮かべながらオールドーはこちらを振り向く。

 確かに、この廃墟へと足を踏み入れてからずっと、悪寒が止まらない。あちらから見れば顔色が悪く見えても仕方ないだろうと、ミスティルはもはや嫌悪感を隠せずに睨み付けた。

「誰のせいだとお思いですか」

「失礼。それもそうですね。先を急ぎましょう」

 もうそれなりの距離を歩いているというのに、オールドーはさらに奥へと進むようだ。後ろをぴったりとついてくる銃持ちの男に銃口で促され、ミスティルは黙って足を動かす。

 奥へと進むにつれて、辺りの植物はさらに緑を深めていく。と同時に、頭がくらくらとしてくる。こんな場所を歩いて前を行くオールドーは平気なのか、と顔を上げた時、ふいに視界が開けたことにミスティルは気が付いた。

 小さな広場だったのか。植物が伝い上るための壁がない為、ここだけ見通しが良い。

「この場所は……」

 ミスティルには既視感があった。広場の周りにあったはずの建築物が焼け落ちてしまっていたので気付けなかったが、ここはすでに国の中心。ゼーレの城の敷地内だ。

 それはつまりミスティルが幼少期を過ごした場所でもあり。鮮明に覚えているはずの生まれ故郷は、あまりに崩れ落ちていて、どこにも面影が見当たらない。その事実を目の当たりにされ、こみ上げる吐き気を必死に飲み込む。

(ここは……初めてフォーゲルを、いいえ、『彼』を見た、中庭だわ……)

 あの白昼夢のような光景を思い出す。

 そういえば、どうしてあの時、『彼』はここにいたのか。

 悪寒と頭痛と吐き気で、うまく思考することができない。

 そんなミスティルの思考をさらに混ぜ返すように、オールドーの声が響く。

「懐かしいですね。私はここで貴女と出会ったのだった」

「え……」

 違う。

 ここで会ったのは、『彼』のはずだ。

 そう否定したいのに、今のミスティルは声を出すのも辛く、ただ促されるままにフラフラと足を動かすしかない。


 ギィ、という重い何かを動かす音。

 気付けばミスティルの目の前に、地下へと続いているらしい黒々とした穴が現れていた。

 城の敷地内に、地下へと続く階段なんてあっただろうか。

「さぁ、行きましょうか」

 オールドーが促してくる。

 この階段を降りてはいけない。

 本能がそう警告しているというのに、少女の足は、階段の下から漏れ出している青色の光に引き寄せられるように、段に足をかけていた。


×××


「レオウ、大丈夫?」

「あ、あぁ……しかし、これは……」

 振り返るフォーゲルに、レオウは息を切らしながらも返事をする。

 時を同じくして、少年と従者も廃墟の中へと足を踏み入れていた。しかし廃墟の中へと入った途端に、レオウの足が鈍くなる。

 足に絡みつくような蔦のせいもあるだろうが、それよりも。

(息が苦しく感じるのは……血を長く流しすぎた為か……?)

 肺が圧迫されるようなこの苦しさは、一体何なのか。

 思わず胸に手をやるレオウに、先を歩いていたフォーゲルがこちらに戻ってきてしまう。レオウの顔色を心配するように見つめているが、このままではますます時間が掛かってしまうだろう。

 レオウはその場に膝をつくと、フォーゲルを見上げた。

「フォーゲルよ、先へ行け」

「でも」

「今は御嬢を助け出すことの方が重大だ。しかし私の足では間に合わないかもしれない……必ず追いつく。だから先へ」

 フォーゲルは戸惑いを見せたが、すぐに頷いた。

 レオウは想いを託すようにフォーゲルの手を強く握る。

「御嬢を……姫様を、頼んだぞ」

「うん」


 頷いて、すっと手を離す。そして前を向き直り、後ろを振り返ることなく走り出す。

 かつては城へと続く大きな道だった場所を駆け抜け、朽ちて原型がない城門を横目に、破壊され尽くした城内を進む。

 見える景色全てが朽ち果て崩れて植物の侵食を受けている。後から来るレオウが道に迷わなければいいが。

『あのおっさんだって、元はこの国の騎士だったって話なんだろ。そう心配すんな』

「ハカセ」

『そら、足を動かせ。本当に間に合わなくなるぞ』

 言われた通りに足を動かす。

 小さなアーチ状になっている回廊を走る。そこを駆け抜けた先には、中庭がある。

 そうだ、確かここだったような気がする。彼女を初めて見たのは。

 まだよく思い出せない。

『……チッ。奴め、先に辿り着いたか。おい急げ』

 警告と共に聞こえてきたギィという音に、少年は止まりかけていた足を再び動かす。

 中庭をさらに抜けた先、そこでようやく人影を見つけ、フォーゲルは咄嗟に片腕を前に突き出した。

 軽い破裂音。そしてガチャンと金属が壊れて落ちる音が響き、人影が倒れ込む。

 その向こうに。

「ミスティル!」

 彼女の金色の髪が一瞬見え、暗闇へと消える。

 その一瞬だけ見えた彼女の後ろ姿だけで、『彼』は理解したらしい。

『まずいな、だいぶ影響を受け始めていやがる。変われ、ここから先は『俺』が行く』

「でも」

『この先にはアイツもいるだろうが。いいから変われ。『俺』としてもアイツには言ってやらないといけないことがある』

 そう頭の中で言われるや否や、フォーゲルの意識は切り離されていた。

 少々強引な切り替わりであった為、思わず「ハカセ」と呼びかけようとする。が、自身の口は別の動きをしていた。

「荷馬車を見つけてからこっち、ずっと休み無しだっただろ。肝心なところでお前に倒れられちゃあ困る。今のうちに少しでも眠ってろ」

 深紅色の瞳にユラリと青色の光が宿る。

 頭の中での返答は無い。どうやら言っている内に気力が尽きたようだ。この宿主は自身が無理していることについて鈍感なことにまだ気付いていないようだ。

 やれやれと息を吐き、『彼』は前方に広がる暗闇を見つめる。

「さて……さっさと終わらせるか」

 そうして『彼』も、段に足をかけた。


×××


 城の地下は、青い光で満たされていた。

 階段を降りた先にあったのは広い空間であり、地面からは結晶や石柱が、天井からもまるで氷柱のように鉱石が垂れ下がっている。そして、それら全てが淡く青い光を放っていた。

 ここにある全てがエテルニア鉱石だった。朦朧とする意識の中で、ミスティルは跪く。

「……貴方が、見せたかったのは……これ、ですか……」

 掠れた声で問いかける。

 オールドーは少女を見下しながら笑った。

「ええ、そうですよゼーレ嬢。私が復讐したいのは貴女の国であり、奴隷を生み出し売買することによって国政を成り立たせよう等と考えた腐った王家であり……そして、その生き残りである貴女も、私の復讐対象だ」

「復讐……対象……」

 酷い頭痛を堪えながら、ミスティルは男を見上げる。

 オールドーはそんなミスティルにはお構いなしに、得意げに語り出した。

「エテルニア鉱石の出所は長年の間、謎のままになっていました。それもそのはず、エテルニアという石はここ、ゼーレ国の地下に大切に隠されていたのですよ。ただの小さな国だったゼーレが大国になる過程において、この石が大変役に立ったそうですが、王家は次第にこの石の存在を隠すようになっていった。そしてゼーレ最後の王、つまり貴女の父親の代になると、完全にエテルニアという存在は歴史から抹消された……『彼』という、人の身を借りて移動できる存在を除いて」


 そうしてゼーレ王国は、歴史から葬ったはずの力によって、滅ぼされた。

 一人の少年の、記憶と感情、そして人としての尊厳や存在理由の全てを犠牲にして造られた、大量の兵器によって。


 頭痛はさらに酷くなる。もう頭を上げることも難しく、ミスティルはその場に力なく倒れ込んだ。

 男の冷たい笑い声が痛む頭に響く。

「ゼーレ国がエテルニアを隠した理由として、王家の者がエテルニアに対して拒絶反応を起こす者が現れるようになったのが原因でした。それは王家だけにとどまらず、次第に国民にまで症状が見られるようになった為、地下へと続く入り口を封印して歴史から抹消したのです。えぇ……貴女を連れてきて正解でしたよ。おかげで苦労することなく入り口を見つけることができた」

 だからしつこい程にこちらの顔色を確かめていたのかと、ようやくミスティルは自身が連れてこられた理由を知る。

 けれど、まだわからないことがある。

 霧散しそうな意識をかき集め、少女は声を振り絞る。

「貴方の、目的は何ですか……貴方が恨んだ国は、もうありません……復讐対象である私も、今はこの有様……だというのに、今も尚、これほどのエテルニアを、求める理由は? さらにはこれ以上の……『彼』すらも手に入れようとする、その目的とは、何なのですか?」

 目だけを動かして、男を見上げる。

 辛うじて見えた男の目は、どこか虚ろに淀んでいるように見えた。

「私は全てを壊したいのですよ。国だけではなく、この世界そのものを」

「世界、ですか……それはまた……いきなり壮大な話に、なりましたね……っ、それは、本当に、貴方自身がそう願っていると、お思いなのですか」

「当然でしょう。何を言いたいのですか?」

「貴方の話は、嫌に現実味が過ぎていて、なのに矛盾が過ぎると、言っているのです」

 ミスティルは声に力を込める。

「貴方の話は、本当のことなのでしょう。あれほど謎であったエテルニアの出所も、ゼーレの歴史も、私のこの頭痛も……貴方の話が本当だとすれば、納得がいく。けれど、貴方はどうして、そのことを知っているのですか。この国の、王家の生き残りである私ですら知らなかったことを、どうして貴方は、語ることができるのですか。元々は奴隷市にいて、隣国のルベル家の養子となったという貴方が、なぜ……まるで見てきたかのように、私の国を語れるのですか」

 問いかけながらも、ミスティルにはわかっていた。

 エテルニアという石は人の記憶と感情によって生成される、そう言っていたのはオールドー本人である。

 そして、そういった経緯で造られたエテルニアを所持した者たちに、どのような症状が現れていたか。ミスティルは知っている。

「貴方は今、エテルニアを隠し持っているのではないですか。そしてエテルニアの影響を受け、別の者の記憶が混じっている状態ではないのですか……貴方が語ったその記憶は、意志は……全て自分自身のものであると、本当に言い切れますか」

 男の顔から、表情が消える。

 ゆっくりと両手を見下ろし、オールドーは口を動かす。

「……違う……これは、私の記憶であるはず……」

「貴方は先程、あの中庭で私と出会った、と言っていましたよね。それは間違いです。私はあそこで、貴方とは会っていない」

「違う! そんなはずは……そんな、はず……」

 見下ろしていた両手を、自身の頭へと宛がう。

 先程まで笑みを浮かべていた男の顔は、今は焦燥で歪んでいる。

 そんな男に追い打ちをかけるように。

 別の足音が、空間に響く。

「――姫さんに言いたいことをほとんど言われちまったなぁ。ま、いちいち説明するのも面倒だったから、良しとするか」

 少年の体と声と顔をした『彼』だった。

 カツ、カツ、と足音をたてながら、『彼』はゆっくりと歩いてくる。『彼』がこちらへ近づいてくるにつれて、辺りの鉱石がより一層輝き出す。それと共に頭痛が酷くなるようで、ミスティルは小さく呻いてぎゅっと瞼を閉じた。

 そんな彼女の呻き声が聞こえたのか。

 溜め息の音が一つ。足音が止む。

「オールドー・ルベル。貴様の記憶については、そこの姫さんが言ったことが全てだ。貴様が抱えているゼーレへの恨みも、この世界への破壊衝動も、全てが全て、貴様の勘違いだ」

 容赦なく、冷徹に、『彼』は突き放す。

 呆れすらも含んだその声音に、男は動揺を隠せずに声を荒あげた。

「勘違い……勘違いだと……?! 違う、私の恨みは、この感情は本物だ! 私の悲願はまだ達成されていない、私は、私はこの世界を」

「仮に貴様の恨みが本物だとしても、それはゼーレが崩壊した五年前に決着がついている。それ以上は余計だ。貴様には関係のない感情だ。貴様がぐねぐねと、うだうだと、やかましく騒ぎ立てているその悲願とやらは、『俺』達――貴様らがエテルニアと呼ぶソレの、最終目的がそれなだけだ。貴様は『俺』達の餌にすぎない」

「餌……だと……」

「エテルニアの生成方法は人の記憶と感情だと、貴様はよく知っているだろうが。しかし、どうやら『俺』達は人の感情の中でも、特に、恨みや憎しみが好物のようでな」

 『彼』の言葉が終わった直後。

 ヒッと男の小さな悲鳴が聞こえ、ミスティルはうっすらと瞼を持ち上げる。かろうじて見えたのは男の足元だけだったが、それだけで現状の把握は十分だった。

 男の足は、地面へと縫い付けるかのように青い鉱石が覆い尽くし、更に上へと、男の体を伝ってゆっくりと侵食し始めていた。

「なん、だ……なんだ、これは……っ?!」

「だから餌だと言っただろう。貴様は自ら望んでここへと辿り着いたと思っているんだろうが、貴様はただ、『俺』達に呼ばれて餌になるために仕向けられただけにすぎない。さてと……さっき、姫さんにも指摘されていたよな。貴様には宿主の――フォーゲル・フライハイトの記憶が混じっている。そう、中庭の記憶のことだ」

 再び足音が響き、ミスティルの視界を少年の姿をした『彼』が横切る。

 気力を使い果たした彼女は動くこともできず、ただ事の顛末を見守るのみ。

 『彼』は男の目の前に立つ。

「それは貴様の記憶ではないし、姫さんへのその想いも、元より貴様のものではない。貴様がいくら姫さんを想おうと、いくら姫さんに願おうと……貴様はフォーゲルにはなれない」

 言葉を無くし、青く輝く鉱石に侵食され立ち尽くす男へと、手を伸ばす。

 いつの間にか少年の目から、青い光が消えていた。

「返せ」

 『彼』ではなく、少年が。

 フォーゲル・フライハイトが、声を発する。


「返せ。それは、俺の記憶と感情だ」


 バンッ、と大きな破裂音が響き渡った。

 それと同時に、男がバランスを崩して地面に腰を打ち付ける。男の体を侵食していたエテルニアは砕けて砂になっており、地に手をついた男の服の裾からも砂がこぼれ落ちる。どうやらそこにエテルニアを隠し持っていたのだろう。

「あ、あぁあ……私は……私は……」

 震える声で男は呟く。

 そんな男を、フォーゲルは冷めた目で見下ろす。

「貴方のことは、殺さない」

 フォーゲルから男へと、はっきりと告げる。


「でも、許さない」


 この一言で、オールドー・ルベルは完全に発狂した。

 奇声を上げ、地を這いつくばるように駆け出し、暗闇に飲み込まれるように去って行く。

 その後ろ姿を見送った後、フォーゲルはそっと地に膝をつくと少女の顔を覗き込んだ。

「ミスティル」

「……フォーゲル……」

「腕の縄を切るから、動かないで」

 荷馬車で拝借したまま持ってきたナイフを取り出して、少女の腕を縛り付けていた縄を断ち切る。長時間縛られたままだった彼女の腕はすっかり痺れて感覚が無いようで、冷たくなった手を握って温めた。

「レオウがすぐ近くにまで来てるはずだから、ミスティルはレオウと一緒に帰って」

「……フォーゲルは……?」

 答えずに、彼女を抱き上げる。

 この場所は彼女にとっては毒だ。抱え上げた彼女を落とさないように慎重に、ゆっくりと階段へと向かう。

「……ねぇ……フォーゲル……聞きたいことがあるの……」

「うん」

「貴方は……世界を、恨んでいるの……?」

 少女は掠れた声で問う。

 フォーゲルは地上へ続く階段に足をかける。

「さっき……『あの人』が言っていたこと……エテルニアは、恨みが好物だ、って……」

「うん」

「……貴方に……エテルニアが、付き纏うのは……世界を、恨んでいるから……?」

 階段を上りながら、フォーゲルは過去を思い出す。

 あの中庭で。初めて彼女を見た。

 そうだった。

 その時に、漠然と、彼女に願っていたのだ。

「貴方は……あの時……死にたかったの……?」

 小さく掠れた言葉と共に、呆気なく階段は終わる。

 そのまま中庭へと足を運び、そこで少女を下ろした。

 先に行けと言っていたあの従者は、もうそこにまで追いついてきているはずだ。すぐに彼女を見つけてくれるだろう。

「……フォーゲル……」

 立ち上がろうとしたところを、弱い力で手を引かれる。

 酷く消耗して疲れ果てている彼女の瞳は、今にも泣き出しそうで。

 少し、思考して。

 彼女と目を合わせるべく、フォーゲルはその場に膝をついた。

「ミスティルは、まだ、俺のことを、殺したいと想うことある?」

 以前にも聞いた問いかけを、再度、口にする。

 少女は首を横に振った。

 何度も。

 何度も。

 何度も、首を振り続ける少女の頬に触れ、上を向かせて。

「――っ!」

 口を口で塞いだ。

 驚いて見開かれた彼女の蒼い瞳と、ようやく目が合う。

 エテルニアの光なんかよりもずっとずっと綺麗な、湖のように蒼い瞳が、ユラリと揺れて、急速に虚ろになって瞼が閉じられる。

 口を離した時には意識は無く、くたりと脱力する彼女の体を一度だけ、抱きしめた。

「……あの時は、まだ知らなかったんだ。ミスティル……俺を、生かしてくれて、ありがとう」

 囁いた言葉は、きっと届いていない。

 それでいい。

 それでよかった。

 少女をその場に横たわらせて、フォーゲルは立ち上がった。


×××


 絡みつく蔦に苦戦しながらも足元を照らす月明かりを頼りにし、ようやくレオウはそこに辿り着いた。

「ここは……っ、城の、中庭か」

 息を切らしながらも辺りを見渡し、すぐに奥で倒れている人影を見つける。

「御嬢!」

 見間違うはずも無く、身を案じていた主の姿だった。

 慌てて駆け寄り、少女の頬に触れる。体温は低いが呼吸はしている。手首に触れて脈も測るが、今は安定しているようだ。ぐったりとして目を醒ます様子はないが、ひとまずは無事であるらしい。ホッと息を吐き出して胸をなで下ろす。

「そうだ、フォーゲルは……」

 改めて辺りを見渡す。

 崩れた建物と植物に阻まれ、月明かりだけでは全体を確認することができない。が、少し離れたところでぼんやりと座り込む男を見つけた。意識のない少女をひとまずそのままにし、レオウは男へと声をかける。

「そこのお前、何をしているのだ」

「あ……あんたは……? ここはどこだ? 俺はどうしてここに」

「? 覚えていないのか」

「お、おぅ……目が覚めたら、何故かここに居て……」

 困惑している男の傍には壊れた銃が転がっている。エテルニア仕様の銃に違いないが、壊れているということは、ここをフォーゲルが通っていったということか。

 レオウは落ち着かせるために男の肩を掴む。

「説明は後でする。少年を見なかったか? 黒い髪を結っている少年なのだが」

「少年……? いいや……何か叫びながら走って行った男なら、目が覚めてすぐの時に見たんだが」

「っ、オールドーか! そやつはどこへ、いや、どこから出てきたか覚えているか?」

「えぇっと……あっちの方角からだったような……」

 指差す方向を見れば、大きな扉が開かれていた。近づいてみればその先は階段になっており、下の方からうっすらと青い光が漏れ出ている。

 混乱している男へこのまま待機するように言いつけ、慎重に階段を降りる。下へと行くにつれ青い光は強くなり、やがて全てが青一色の空洞へと出た。

 城の地下にこんな空間があったとは。思わず息を呑み、奥へと目を凝らしたレオウは、あっと声を上げる。

「フォーゲル!」

 この空洞内で一番大きいであろう青色の石柱の傍。

 石柱に手をついた少年が、ゆっくりと振り向いて、レオウを見る。

 そして、こちらが何かを言う前に。

「レオウ。ミスティルのこと、頼んだ」

 告げたのはそれだけだった。

 刹那、石柱が一瞬にして砕け散った。

 青い光がふっと消え、暗闇に包まれたは空洞は、支えをなくして震え出す。

「まさか……崩れるのか?! フォーゲル! フォーゲル、どこだ!!」

 レオウの叫びは、鳴りだした地響きによって掻き消されてしまう。

 パラパラと落ち始めた天井は次第に大きな破片を落とし出す。少年を待つ余裕もなく、レオウは階段へと追い詰められ、ぐっと歯を食いしばって階段を駆け上る。

 地上では急に揺れ出した地面に慌てふためいている男が叫び声を上げていた。すぐに男へと後ろをついてくるように指示を出し、中庭で意識のない少女を担いで背負い、来た道を走って戻る。

 背後では地面が陥没していく。すでに廃墟だった城と街はさらに崩れ、植物の絨毯へと落ちていく。

 それからずっと走り続け、足を止めることができたのは、廃墟を抜けた先の高台を登り切った後だった。息を切らしながらも、レオウは国の跡地を振り返る。

 月も沈み、明るくなり始めた空の下。さらなる崩壊を終えた国は、辛うじて残っていた建物の残骸すらも無くなり、地面に大きく穴が開いている。

「フォーゲル……」

 もはや何も言えなかった。呆然と立ち尽くすしかなく、朝焼けに照らされる跡地をただ眺める。

 と、背中でくぐもった小さな声を聞く。

「ぅ……ん……」

「御嬢……! 目が覚めたのですか」

 背負ったままになっていた少女を、そっと地面に下ろす。

 少女は額に手をやり、眉を顰めていた。様子を窺えば「頭が痛いの」と小さな声で返事をする。

「レオウ……ここは……?」

「ゼーレ国の跡地を抜けたところです。御嬢、ここで待っていてもらえませぬか。私はこれからフォーゲルを探してこなければなりません」

 レオウ自身も含めて落ち着かせるため、言い聞かすように少女へと言う。

 が、少女の反応は薄い。ぼんやりと、痛む頭を抑えながら、少女は弱々しい声で言う。

「フォーゲル……?」

「そうです、フォーゲルです。あやつがまだ中に――」

「フォーゲルって……誰のこと……?」


 今度こそ、レオウは言葉を失った。

 目を醒ました少女には、フォーゲル・フライハイトという少年の記憶が、全て欠落してしまっていたのだった。




  6.フォーゲル・フライハイト 完

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