最終話 砂城に夕立ち(2)



「次があるって言ったじゃないですか」


「律希、木曜日の6限は何も取ってないだろ、知ってんだぞ」


「なにそれ、ストーカーですか」


噛み締めた奥歯から尖った鉄の味がして、冬だと言うのに冷たいスポーツドリンクを飲み干したくなる。


もう何もかもやめてしまいたいと思うのに、必死で悪態をついてみせるのに、そんなことはお構いなしに引き止めるあなたが、もはやどうしようもなかった。ぼくがそうであったように、あなたもぼくのことを同じように知っていた事実が容赦なく胸を締め上げてくる。


あなたがこんな去り際に納得しないことくらいわかっていた。しかし引き止めてほしくて腰をあげたのかは自分でもわからない。鋭敏になりすぎた意識で遠視のように手元が見づらく、ただあなたが少し傷ついたような顔をしたことが嬉しいと思ってしまう。


何もかもぐちゃぐちゃで、みっともなくて、あなたの手が熱すぎて、そういう愛がほしいと喚き出しそうだった。


「ダメですよ、引き止めたりしたら、」


同時に叩き割るような甲高い警告音が心臓を刺して、ぼくはあなたの手を振りほどいた。


これ以上、望ませないで。


「だって、ぼくのことなんて好きじゃないでしょう」


「それは、」


「わかるんですよ、だってずっと見てたんだから。馬鹿にしないで」


向かい側の人が訝しげにこちらを見た気がしたけど、もはやそれすらも気にならなかった。


万にひとつもあなたと付き合えた可能性を想像しなかったわけじゃない。あなたは優しいから、本気で望めばただの後輩のぼくを受け入れてくれるかもしれない。


だけどあなたがくれる言葉も、触れ合いも、そのすべてが慈悲めいたものだとわかったら、きっとぼくは狂ってしまう。


人がまばらになった構内は段々と闇に飲まれていく。戻っても、進んでも、苦しいなんて。このまま真っ暗になって、全部なかったことになればいいのに。


「馬鹿になんてしてない、」


崩れそうになった瞬間、仄明るいものに包まれた気がした。あなたの発光した熱が首筋に触れている。恵介よりも体温が高いのだなと頭の隅で考えて、それ以外のことが静かに渦を巻いて混乱していた。あなたの声だけに鼓膜が震える。


「逃げてるのはお前のほうじゃないの」


「そんなこと、」


「嫌だって言うなら、おとなしく引くから」


あなたの顔が見たくて肩を押すけど、思いがけずぴったりと重なった場所からはうまく動けない。そのうちにあなたの言葉が血管を通って内側を這い回り、抗おうとする感情が丁寧に慰められていく。


「突き放してくれたら、さっさと終わりにするから」


どんな顔をして言ってるんですか、そんなこと。


言葉を選んだところで変わらない響きに目眩がした。


どうしてぼくがあなたを振るみたいに言うんですか。


あなたは無邪気で、主体性がなくて、素直で、都合が良すぎて、憎らしさすら感じている。もう一度「ぼくのことなんて好きじゃないくせに」、そう言いかけて、肩に落ちたあなたの額が酷く無防備なことに驚く。


どう転んだってぼくらは幸せになんてなれない。そう言い聞かせてきたのに、あなたの体温ひとつで絆されてしまう。許された気持ちになってしまう。


なにが『身体だけの関係』だ。好きな人と身体だけの関係なんて、ぼくには無理だ。夕立ちのような幸福が降り注ぐ砂地に立って、ぼくはスコップを手放した。


手首を捕まえていたあなたの手がゆっくりと降りてくる。その仕草にはなんの迷いもないように見えたのに、手のひらに触れてみればかすかに震えていた。ぼくはまたどこまでも怖くなって、吸い付くように繋がった手の中に確かな絶望を見てしまう。


いつ振られるだろう、いつ「やっぱり無理だった」と右の眉を下げて言われるだろう。あなたは女性を好きになる人だから、ぼくを突き飛ばした時のあの目がきっと、一番の本心だ。


こんなの施しと変わらない、とけたたましい警告音が絶叫する。ぼくは騒がしい脳内で、必死に息をする。


「苦しみますよ、絶対に」


「いいよ。その代わり、お前も責任持って苦しめ」


この人はこんなにもずるい人だっただろうか。あれだけ温かく人の心を掻き乱したくせに、最後の最後になって一番暴力的なことを言う。


そんな言葉で惹きつけるのはやめてほしいのに。せめて計算であってくれとすら思いながら、ぼくは汚くもあなたに「都合がいい」という言葉を投げつけた女性に感謝する。


たとえばこの先ずっと警告音が鳴り止まないとしても、「好き」とは言わない誠実過ぎるあなただとしても、それでも不格好に積み上がった砂の城を壊さないことが、きっとぼくの愛だ。


「土曜日、どこかへ出かけませんか、ふたりで」


「なんだそれ。どっか行きたいとこでもあるの」


「別にないですけど」


「それ、デート?」


「、違いますよ。ただ男同士でつるむだけ」


「なーんだ」


「あの、やっぱ、デートで」


笑わないでくださいよと言ってもあなたが背中を丸めて震えるから、ぼくは無防備な首筋を人差し指でなぞった。



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砂城に夕立ち 七屋 糸 @stringsichiya

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