リムリックの灰の丘

ヨドミバチ

リムリックの灰の丘


 アジサイ色の雨の中で傘をまわせば、はねた雨滴がゴートマンを濡らす。ゴートマンは何も言わない。

 年老いたら戻りたくないだろう。


 傘をまわす。まわしながら雨雲へ沈めるがごとく垂直に投げあげた。遠くなっていく影が小さくならない。黒い八角形は円盤の底を錯覚させつつ均等に広がって、私の肩にアジサイ色の雨滴が降りかかるのを防ぎ続けた。


 かすかな風にあおられた雨粒はゴートマンの膝を汚す。

 彼は少しだけ身じろぎをした。


 もう少しこちらに寄りなよ。

 傘の柄を肩に当てる。


 ゴートマンはあいもかわらず横顔をこちらに向けていた。

 目線の先は青いもやの中。


 ビンのふたにツメをかける。小気味よい音を鳴らして王冠が飛んでいって、途中でするりとすべて溶けた。中身が空なのを知らなかったふりして私はビンを床に置く。これは手品のようなもの。

 投げあげた傘が降りてくる。すでにアジサイ色に染まってる。手のひらに収まるそれは、燃えるように枯れていった。くしゃくしゃに折れまがって、吹くはずのない風に流されてどこかへ消えた。消えていった先にゴートマンがいる。


 あなたが魔術師であればよかったのに。


 ビンはひとりでに赤い机の上を選んだ。

 ゴートマンは濡れた椅子。

 私は乾いた床に座りこむ。


 生きていたいなら。


 別に知りたいわけじゃない。


 生きていたいなら。


 ゴートマンはそう言ってこの傘を手渡した。


 あなたの傘は?


 知ってどうなるものでもなかったけれど。


 私の傘はお前のために。


 アジサイ色の雨が降っている。


 彼が残してきたものは何だったか。彼がこぼしてきたものは何だったのか。ゴートマン。完成された肉と骨組みと皮と眼球とツメと。濃く変色していきながらそこにいて、じっといただきを見つめている。


 くらいのだ。

 彼はきっと違うが。


 得ることにうそ寒さを覚えたことはない。たぶんこんなにも凍えはしないのだろう。万が一享楽できるのなら、私は家のある丘のかんぼくに耳を当ててこねばならない。きっと仰天する。


 懐かしい話ね。


 傘の柄に指をからめる。きゅっと結んで、ゆるめる。

 戻る気にもなりはしないか。それが年月というものではないか。

 彼に聞いてみるがいい。たずねてみるが早いだろう。


 まさか。ペテン師じゃあない。

 それがゴートマン。


 いとおしむような目で遠くばかり見ている。

 潤んでいるのではない。崩れているのだ。

 ビンが雨滴を吐き出した。


 傘をまわす。はね水が四方に突き刺さる様子を眺めていた。それきり目を落とした。

 傘をまわす。まわしながら立ちあがる。傘をまわす。濡れそぼった椅子に背を向けた。肩から柄を離す。うつむくと、ぶかぶかの黒い革のくつが見える。かかとを踏めない。

 傘をまわす。この傘はどこまでだろうか。


 戻りたくはない。ゆっくりと不時着していくような、じわじわと骨のとけるような、ただ一度きりの魔術をこなしていくために、尾についた砂を払う。傘をまわして。

 こびりついていて振り払えないのを知りながら。


 顔をあげ、少し傘を傾ける。アジサイ色の雨はいきり立つ鳥の羽ばたきに似て、耳も口もふさぎたくなるようだ。煙る濃い青が目に痛かった。赤く濁った目で見通せば、遥か彼方に巨大なゴートマンがたたずんでいるではないか。えも言われず、ふるえが来る。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

リムリックの灰の丘 ヨドミバチ @Yodom_8

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ