士、義に生きる

もーとく

士、義に生きる

士は己を知る者のために死す、この言葉を後世に残し義に殉じた男がいた。二千年以上前の中国に遡る。数多の国々が争った戦国時代の初頭、物語は強国の晋で始まる。


一 用いられぬ才


豫譲は才能ある男だった。だが、その才に気づいている者は少なかった。彼が仕えている君主の姓は、氾といったが、彼もまた埋もれている豫譲の才能に気づくことはなかった。自分を重用してくれる君主の元で忠実に働きたい、と思っていた豫譲には迷いが生じていた。主を変えようか、という迷いである。


ここで、当時の背景を補足しておく必要がある。豫譲が生きていた時代の二百年前、晋では文公という君主が覇者となった。覇者となったということは当時、中国一の勢力を誇っていたことは明白で、二百年経ったいまでも晋は強国である。しかしこの頃、膨張しすぎたがゆえに起きた崩壊ともいえるだろうか、晋の内部が崩れ始める。卿、という位にいる六人の権力が拡大しすぎたのだ。その六人とは、魏氏、韓氏、趙氏、智氏、中行氏、そして豫譲が仕えていた氾氏のことを指す。この六人は国や君主の事など考えずに、権力争いに明け暮れていた。当時晋の君主であった厲公は復権を試みるも、中行氏によって誅殺された。晋公室の衰退と六者の争いは加速し、大国晋は確実に滅亡に向かっていた。


目下、権力争いは激化している。六氏がそれぞれに土地を持ち、戦争を繰り返している。豫譲は氾氏に何回か献策をしていた。それは、六勢力の中で最も力を有していて権力欲も旺盛な智氏と手を組み他の勢力を滅ぼした後で智氏と雌雄を決する、というような大局を見据えた戦略である。だが氾氏がその進言を容れることはなかった。豫譲は氾氏の心中にある軽蔑を感じとった。お前ごとき小役人のいうことなど聞くつもりはない、というような目で見られていると思った豫譲は、翌日職を辞して氾氏のもとを去った。


豫譲は家で酒を飲んでいた。そして妻に愚痴を聞いてもらっていた。だが妻は豫譲に同情してくれなかった。豫譲は小役人だったが、それを辞めたというのなら家族は経済的に厳しくなる。妻は辞職して浪人になった豫譲に、非難の眼差しを向けた。妻は豫譲の志を分かっていたとはいえないだろう。

「面白くない」

豫譲はそう吐き捨てて家から出た。


豫譲は親友がいて、名を朱隗という。彼は豫譲の才能を理解している唯一の人といってもよい。家を出た豫譲は朱隗のもとへ向かった。

「おう、豫譲ではないか。久しいな」

朱隗は快く豫譲を歓迎した。

「すまない」

豫譲はここにやって来た経緯を話し、後半はほとんど愚痴になった。

「氾氏はお前ほどの人物を用いなかったのか」

豫譲の才能と志を充分に分かっている朱隗はそう嘆いた。


二人はそれから新しく仕えるなら誰がよいかを話し合った。朱隗がここで薦めたのは中行氏に仕えることだった。

「なに、自分の主君である厲公を殺した中行氏に仕えよと申すのか」

豫譲は反発したが、朱隗も主張を続けた。

「中行氏が厲公を殺害した事で、他の五人は大義を理由に中行氏を攻撃できる。中行氏も当然その形勢を理解しているであろう。それ故に中行氏が人材を欲していると思わぬか」

「なるほど……」

たしかに豫譲の目的は自分を欲している主君に仕えることにある。豫譲は自分の思いを深く理解している朱隗に感動を覚えたが、それを口には出さず、中行氏に仕えることを決めた。


豫譲は中行氏の客となった。だが、その扱いは氾氏に仕えていた時と同じで小役人である。結局、中行氏は豫譲と朱隗の期待を大いに裏切った人物といってもよかった。中行氏は人材を欲しているどころか、自分の強さに驕っていた。もともと傲慢な人間だったのだろう。豫譲は、厲公を殺した事がこの一族をより慢心させたと思った。中行氏は自分が負けないとでも思っている。

「中行氏は仕えるに値しない。それどころか、この人の下にいればいずれ滅亡の道を歩むことになる」

そう呟くと、豫譲は天を仰いだ。そこには、自分の不運と無力を痛感した表情があった。


豫譲は中行氏のもとを去った。それから豫譲は雑役をこなし、貧しい生活を送っていた。

──俺はこのまま終わるのか。

豫譲は何度もそう思った。いくら志が高くても無名の自分を用いてくれる人は現れない、豫譲はその悔しさに泣くことしかできず、その自分の姿にまた悔しくなった。


時は流れた。史料によると、紀元前490年に氾氏と中行氏は滅ぶ。智氏は権力欲が強く、魏・韓・趙の三氏を従えて、氾氏と中行氏を滅ぼした。智氏は、かつて豫譲が手を組むべきだと氾氏に説いた人物である。

「自業自得だ」

浪人の豫譲は二人の滅亡を聞いて、そう呟いた。そして豫譲は家の近くの池に向かった。この池は周りを木々に囲まれており、豫譲はこの池の水面に向かってよく本音を漏らしていた。この時も池に向かったということは、豫譲がなにか煩わしいものを抱えていたということだろう。

──俺はこの後どうするべきか。

石を池に投げ入れながら、豫譲はずっと自分の人生を考えていた。この男はまだ自分の志を捨ててはいない。

「いっそのこと、智氏に仕えるか」

豫譲の住んでいる場所はもう智氏の領土となっている。豫譲は水面に向かって呟いた。だが、再三申し上げている通り、智氏は権力欲が強く、人物的によくないというのが世間の評価である。だとしても、今の豫譲には、このまま終わりたくないという思いがある。豫譲は動かない後悔だけはしたくなかった。

「智氏に会ってみるか」

豫譲は石を勢いよく池に投げ入れ、立ち上がった。


二 国士と見込まれ


今まで智氏と述べていた人物は本名を智瑶というが、伯爵の位を持っていたため智伯とも呼ばれた。智伯という名の方が一般的なので、ここでは智伯の名で通す。智伯は氾氏と中行氏を滅ぼした後、晋の君主を傀儡とし、事実上の晋の支配者となる。そのため、未だに対抗している三氏に対する横暴さも目立ってきた。


豫譲はこの智伯に、近侍の者を通して面会を求めた。

「以前氾氏と中行氏に仕えていた者が、私に伝えたいことがあるのか……」

智伯はそう呟くと、通せと命じた。

豫譲は智伯に拝謁し、自分の意見を述べた。ここで豫譲が伝えたことは、氾氏と中行氏が滅んだ理由や現在の情勢、また趙氏は聡明にして仁徳があるから早く討つほうがよく、その際従属の姿勢をみせている魏氏と韓氏を味方につけた方がよい、などであった。智伯は豫譲の話を聞いて興奮した。豫譲の考えが全て的を射ていたからである。同時に智伯は、この男をそばに置けば、晋は手に入るだろうとも思った。豫譲の話が終わると、智伯は豫譲にこういった。

「豫譲、そなたの言葉を聞いて私は魚が水を得た思いだ。氾氏と中行氏もそなたを重用していれば滅びることはなかっただろう。私はそなたに屋敷を与え国士として迎えたい。これからも私の側にいて、進言をしてくれぬか」

智伯の豫譲を見る目は誠実そのものだった。豫譲がこの言葉を聞いて感激したことはいう

までもない。

──俺はようやく仕えるべき人を見つけたのかもしれない。

豫譲は瞼が熱くなるのを覚え、智伯に忠誠を誓い、智伯もそれを喜び豫譲を国士として歓迎した。


豫譲は智伯から屋敷をもらい、そこに家族を住ませた。妻の機嫌も当然良くなった。朱隗のことも時々屋敷に招いては、自分が智伯に命を懸けて仕えていく意を伝えた。豫譲はそれだけ自分を認めてくれたことが嬉しかった。世間は智伯のことを非難するが、豫譲は智伯のことを最高の主君だと思っていたのだ。実際、智伯は豫譲の言うことをよく聞いた。さらに、大事なことは必ず豫譲に相談した。


豫譲が智伯に仕えてから数年が経ったとき、智伯は魏・韓・趙の三氏に領土を要求した。智伯に対して従属の姿勢をとっている魏と韓は要求に応じたが、趙はそれを拒否した。そこで智伯は豫譲の進言に従い、魏と韓を糾合して趙氏を滅ぼすことを決めた。豫譲は、これから大きな戦いをしかける智伯が自分の意見を用いてくれて嬉しかった。そして、絶対に智伯を晋の君主にすると意気込んで従軍した。


智・魏・韓の連合軍は趙氏を攻撃した。この時豫譲は智伯軍の一隊を任された。

──智伯様は私を心から国士だと思ってくれている。

豫譲は自分が指揮する軍隊を見回し一兵卒一人一人に目をやると、浪人時代の自分を思い出して、感極まるものがあった。

──智伯様に日頃の恩を返す時だ。

豫譲は気合が入っており、その指揮も見事だった。


連合軍は趙氏を晋陽という場所に追い詰め、趙氏はそこに籠城した。豫譲は智伯に水攻めを提案した。籠城している敵に対して、近くの河川を利用する水攻めは効果が大きく、兵の士気も崩れることは必至である。豫譲の水攻めは成功し、趙軍は大変苦しんだ。だが、それでも晋陽は落ちず、趙軍は粘り強く戦った。傲慢な智伯は、自軍だけが血を流すのが気に食わなかったのだろう。

「軍を出せ」

と、魏・韓軍に命じて前線に送った。晋陽での籠城戦は、実に三年に及ぶ。


趙氏が晋陽に籠城してから三年、趙軍はすっかり疲れ切っていた。だがそれは連合軍も同じで、遠征の長期化により士気は上がらなかった。特に智伯によって最前線に立たされた魏・韓軍は疲労困憊と呼ぶのにふさわしく、不満を持たない兵卒はいなかった。


ここでの趙氏の君主は趙襄子といい、彼は優れた君主であった。趙襄子は城壁から敵陣を見て、魏・韓軍の士気が上がっていないことが分かると勝算を得て、その夜に密命を下した。


趙襄子は信頼している二人の部下にこう命じた。

「魏氏と韓氏は智伯に最前列で戦うよう脅され、魏・韓軍は士気が上がっていない。今二人は智伯に怯えているに違いない。趙を滅ぼしたら次は自分が攻められる、という憂いがあるのだろう。今ならこの二者を説得できるとみた。お前たちは魏と韓の陣営に向かい、二者を味方にして、智伯から引き離してくれ」

かくして、趙襄子の二人の部下はそれぞれ魏軍と韓軍の陣営に赴き、智伯を裏切り、趙と結ぶように求めた。ここで、趙襄子は和睦という形をとり、晋の領地は魏・韓・趙で三分しようと持ちかけた。趙を滅ぼした後、智伯に何をされるか分からない魏氏と韓氏は、趙襄子の提案に喜んで応じた。それはつまり、魏・韓・趙の密約が成立したことを意味する。


魏と韓が趙に協力するという報告を受けた趙襄子は破顔し、諸将を集めた。

「魏と韓が我々に協力した。まず我々が城を出て智軍を襲う。そうすれば、魏軍と韓軍もそれに応じるという手はずになっている」

諸将もそれを聞いて喜び、早速軍の整備を行った。


翌日の黎明、三年間一歩も城から出なかった趙軍が、城を出て智軍に襲いかかった。奇襲を受けたとはいえ、智軍は大軍である。趙軍を全滅させることは難しくなかっただろう。すぐに防戦を行い、その戦局は智軍が有利となった。だが、その時である。魏軍と韓軍が側面から鬨の声を挙げて智軍を攻撃した。智軍は三方向から攻撃を受けた。まさに、電光石火の襲撃だった。この奇襲により、晋を手中に収めかけていた智伯はあっけなく戦死する。


その頃、

「何が起こったのだ」

豫譲は攻められている自軍を見て、そう叫んでいた。豫譲は趙軍が攻めてきた時、

──趙襄子は降伏よりも華々しい最期を選ぶのか。

と思い、趙襄子に感心しつつ晋陽攻略の成功を悟った。しかし次の瞬間、側面からも攻撃を受け、喜びから一転、窮地に立っていた。

──魏と韓が裏切ったか……

豫譲はそこで初めて、自軍の危うさを察した。豫譲は、智伯に死なれたら元も子もないと思い、智伯の救助に向かった。だが、部下に止められた。

「豫譲様、向かおうとしている場所には敵の旗しか見えません。行けば必ず死にます」

たしかに、智伯がいた場所にはもう敵の旗しか立っておらず、智伯の本陣はあっという間に陥落していた。だが、豫譲はそこから退くわけにはいかなかった。

「だが、もし智伯様が今敵と奮戦されているとしたら何とする。私は智伯様を見捨てて逃げるわけにはいかぬ」

豫譲は冷静さを失っていた。それは豫譲が、智伯を失うことを何よりも恐れていたためであろう。

「智伯様がすでにこの地から脱していたら、あなたは再開を果たせません。智伯様が生きていると信じて、あなたもここを逃げるべきです」部下のこの発言に豫譲は、もっともだといい、目下の窮地を脱することに集中した。


豫譲たちは懸命に活路を拓いた。途中何度も分裂し、戦死者は数えられないほどだった。豫譲が軍の包囲から完全に出た時、彼の周りには誰もいなかった。 

──惨敗だ……

魏氏と韓氏を糾合するように勧めたのは豫譲である。魏氏と韓氏の裏切りの原因は、実際は智伯の傲慢さにあるのだが、豫譲は自責の念に駆られた。


だが、今の豫譲にそのような敗因などは二の次だった。豫譲は危険を避けるため山に籠った。そしてそこで、智伯の無事と、主従の再会を祈り続けた。


三 山間の大志


豫譲は山間に身を潜めた。この辺りは既に趙襄子の領土となっている。智伯がどうなったかを知るため、豫譲はしばらくの間山に隠れて再起を誓った。


山の中の大自然に向かって今の自分の感傷をさらけ出すのは、豫譲にとって悪くはないものだった。智伯の身を案じつつ、豫譲は木々の緑に向かって語りかけていた。

「人の生き方は様々だ、俺の生き方はどう評価されるのか。俺は忠義に生きたといえるのか」

だが、木々は当然答えない。そこには静けさだけがあった。急に吹いてきた風を気持ちよく仰ぎ、

「よかろう」

豫譲は誰にいうでもなくそう呟き、立ち上がった。その時である。そう遠くない場所に煙が上がっているのを、豫譲は見た。

──人がいたのか。

恐らく、山に迷い込んできた者が焚き火でもしているのだろう。だが、智伯に関する情報を欲している豫譲は、迷わずその煙の場所に近づいた。


豫譲が煙の場所に近づくと、予想通りそこで火を焚いている男がいた。豫譲はその者の姿を一目見るなり、

「楊登殿ではないか」

とその男に話しかけた。豫譲はつい呼びかけたが、次の瞬間冷たい汗が首筋を流れた。豫譲が話しかけた楊登という者は、豫譲と同じく智伯の寵臣である。だが楊登は趙氏の討伐には従軍しておらず、智伯の本拠地で留守をしていた。その楊登が趙の領土となっている山に現れた。豫譲が冷や汗をかいた理由は、そこにある。

「誰かと思えば豫譲殿だ」

楊登もこの山奥で、豫譲と出会ったことに驚いていたようだ。どちらも、何故あなたがここにいるのだ、と訊きたそうであることを察して豫譲はこう問いかけた。

「私は先の戦で趙襄子の計にかかり敗走し、今はこの山に身を潜めています。あなたは何故この山に現れたのです。もし智伯様の所在を知っているのなら、教えて頂きたい」

楊登は驚いた表情を見せたが、それをすぐに隠して、豫譲に背を向けてこういった。

「智伯様はその戦いで戦死された」

「なっ……」

豫譲はここで初めて智伯の死を知った。豫譲は智伯が生きていたことを確信していたわけではないが、あまりのショックに言葉も涙も出てこなかった。


しばらく沈黙が続いた。悲惨な事実を知った豫譲は、ようやくその目に涙が浮かんできた。楊登は沈黙に耐えられず、

「智伯様が戦死されたのは本当だ。趙襄子は魏氏と韓氏を連れて、智伯様の本拠地まで落とし、智氏は滅びた」

とだけいい加えた。

「智伯様のお世継ぎも誰もいないのですか」

豫譲のこの質問に対して、楊登はけわしい顔をして、いない、とだけ答えた。豫譲は今にも倒れそうであった。豫譲は仕えるべき君主を失った。智伯が晋を治め、自分がその国に国士としている、豫譲が今まで抱いてきた望みも音を立てて崩れ去った。楊登は、

「趙襄子の智伯様を恨む気持ちは尋常ではない。一族は当然皆殺しにした。他にも……」

といいかけて、やめた。豫譲に話すべき内容ではないと判断したのだろう。だが、

「他にも、何ですか」

目を真っ赤にした豫譲は鬼気迫る表情で楊登にその内容を尋ねた。楊登は、ため息混じりに趙襄子の復讐劇を伝えた。

「趙襄子は智伯様の頭の皮を剥ぎ取り、頭蓋骨を使って酒の容器を作り、それを使用していると聞いた」

「何と……」

豫譲は怒りで震えた。いくら恨んでいたとはいえ、自分が敬服して生涯ついて行くと心に決めた君主が、死んだ後にもむごい仕打ちを受けている、豫譲は許すわけにはいかず、

「なぜ仇を討たないのですか」

と、楊登に当たった。

「私だって趙襄子を討ちたい。だが、単身で何ができる。私は今、東に走り斉国に向かっているところだ。斉に落ち延び、斉の力を借りて趙襄子を討つ」

楊登も趙襄子への仇討ちを考えている一人だった。だがその考え方は両者で異なっていた。


楊登と豫譲は別れた。楊登のその後であるが、結局彼が斉軍を借りて趙を攻めることはできず、斉でその生涯を閉じる。


豫譲は数日後、山の一番高い所にいた。彼の涙は既に枯れている。冷静さを取り戻した豫譲は、雄大な大自然の前で自分がこれからどうすべきかを考えていた。殉死する、という選択も当然あっただろう。豫譲は気づいたら木々に向かって自分の心境をぶつけていた。

「士は己を知る者のために死し、女は己を喜ぶ者のために化粧をするという……

 世間の智伯様への評価は悪いが、俺のことを認めて国士として用いてくれたのは智伯様だけだ」

豫譲は智伯のために自分が何をするのが一番良いのかを考えていた。ここで智伯に殉じるのも一つの生き方だと思ったが、

──あの世で智伯様に合わせる顔がない。

という思いがあり、楽な道を選ぶわけにはいかなかった。


豫譲は一日の大半を、自然を眺めて過ごすようになった。もちろん何も考えずに眺めていたのではなく、思案に暮れていた。豫譲は、自分がこれからどうするべきかを考えているはずが、心の中では智伯が晋を手にいれた姿を想像していた。だがそれは、もう叶うことのない妄想であり、豫譲の口から出たのはため息だけであった。豫譲は自分の女々しさに気づいていたが、それでも智伯の死から立ち直れなかった。


──智伯様の無念を晴らしたい。

豫譲がそう思ったのは、さらに数日後のことである。そして、そのように思いを決めた時、豫譲は楊登の言葉を思い出した。

「趙襄子は智伯様の頭の皮を剥ぎ取り、頭蓋骨を使って酒の容器を作り、それを使用している」

智伯の無念とは、趙襄子に敗れたことである。豫譲はそれを思い、人生をかけた覚悟を決めた。

──智伯様の仇を討とう。

豫譲はここに、智伯の仇討ちとして趙襄子を殺すことを決めた。

──趙襄子を殺せば、あの世の智伯様に堂々と顔向けできる。

だが、仮に趙襄子を殺せたとしても、豫譲は単身であるため、趙襄子の臣下に捕らえられる。豫譲は山に向かって、自分の身を智伯への忠義に惜しみなく使うことを誓った。風は吹かなかったが、豫譲は立ち上がった。


ここに豫譲は、大志を抱き山を降りた。


四 執念の刺客


趙襄子は智伯を滅ぼした後、智伯の本拠地を自らの本拠地とした。そのため、趙襄子に近づきたい豫譲は以前住んでいた城に戻ることとなった。


豫譲は名前を変え城に入り、苦役に従う受刑者になりすました。

──妻や朱隗は俺が戦死したと思っているだろうな。

豫譲の家族が庶民として生きているということは、楊登から聞いたが、豫譲は家に帰ろうとはしなかった。平穏の中で怒りを忘れるかもしれないからだ。豫譲は趙襄子に近づきたいため、宮殿内での仕事を希望した。だが、豫譲に与えられたのは宮殿の外の土木の仕事で、豫譲は受刑者の生活に耐え続けた。


数年が経った。豫譲は、宮殿の厠の壁塗りの仕事をするよう命じられた。

──願ってもない。

豫譲はこれで趙襄子に近づけるようになった。たしかに、豫譲が壁を塗っている厠に趙襄子が来た場合、両者の距離はとても近くなる。豫譲はこの仕事に就いて以来、常に懐に短刀を忍ばせていた。


数日後、趙襄子は

「厠に参る」

といい、護衛と共に厠に向かった。

──来たか……

豫譲は平然と壁を塗っている姿を装った。趙襄子が厠の入り口に立つ時には、護衛は近くにはいない、豫譲はその一瞬の隙を見逃すまいと息を潜めた。

──仮に趙襄子を刺し殺したとしても、俺は護衛に殺されるな。

豫譲は自分の死も覚悟したが、今までの苦労が今日報われるという思いの方が強かった。


趙襄子一向が近づいてきた時、豫譲は距離感を確認するため、趙襄子の方を一度見た。だが、豫譲の趙襄子に対する怒りは骨の髄まで染み込んでいる。豫譲の趙襄子を見る目は、殺意に満ちたものだっただろう。趙襄子は壁塗りに睨むように見られ、同時にその目から発せられる強い殺気を感じとった。趙襄子もかつてこの上ない憎悪を抱いたことがある。いうまでもなく智伯に対しての憎悪である。趙襄子のその経験から呼び起こされた直感であろうか。

──あの壁塗りは私を殺そうとしている。

趙襄子はそう感じ取った。そして、

「あの壁塗りを捕らえて調べてみろ」

と、護衛に命じた。


趙襄子の護衛が豫譲に駆け寄った。豫譲はわけも分からず、一人の護衛に剣を向けられ、別の一人に体を羽交い締めにされた。そして、手が空いている二、三人に身体を調べられた。

──しくじった……

豫譲は、なぜ自分が怪しまれたかは分からないが、暗殺が失敗したことは分かった。

──ここまでか……

豫譲が胸に潜ませた短刀は直ぐに発見させるだろう。豫譲は翼でも生えてこない限りこの場から逃げ出すことはできなかった。

──無念だ。あとはもう、堂々として潔く死ぬだけだ。

豫譲は目を閉じて堂々と立ち、護衛たちに抵抗しなかった。豫譲が潜ませていた短刀は、すぐに発見された。


豫譲は護衛たちによって、趙襄子の前に無理矢理座らされた。

「主君、こいつは懐に短刀を隠し持っておりました」

護衛の一人が、豫譲から奪った短刀を見せながらそういった。趙襄子は、この壁塗りがなぜ自分を殺そうとしているかが全く分からなかったので、軽く動揺して、

「お前は名を何という」

とだけ尋ねた。

「豫譲だ」

「豫譲、なぜお前は短刀を隠し持っていた」

豫譲は、誤魔化しても往生際が悪く無駄であると思い、正直に答えた。

「お前を殺すためだ」

──やはりこの男は私を殺そうとしていたのか。

趙襄子は納得すると同時に、やはり暗殺の動機を知りたくなった。

「なぜ私を殺そうした」

「智伯様の仇を討つためだ」

この答えには、趙襄子だけでなくその場にいた護衛たちも驚いた。智伯の仇討ちというのは、暗殺の動機にはなる。だが、智伯の一族はことこどく殺され、跡継ぎすらいないのだ。つまり、豫譲が趙襄子を殺したとしても、智氏の繁栄はまず起きないし、暗殺の当事者が殺されて、それで終わる。では、この豫譲という男は誰のために趙襄子を討つのか。

──豫譲という男は、あの世の智伯だけのために私を討とうとしているのか。

趙襄子は豫譲の忠義に密かに感動した。しかし、豫譲は趙襄子が自分の生き方に感動していることなど、知るはずがない。

「殺すならはやく殺せ」

豫譲は大声で趙襄子にそういった。趙襄子の護衛は怒りをあらわにして、今斬ってやると剣を抜いた。

「待てっ」

大きな声をあげて豫譲の処刑を止めたのは、趙襄子である。

「智伯は死んで、後継者もいない。この男はそれでも義理を立てようとしている立派な士、天下の賢人だ。殺すのは忍びない」

趙襄子の発言に豫譲と護衛たちは驚いた。既に剣を握っていた護衛の一人は、

「この男は危険です」

と顔を赤くしていった。だが趙襄子は、聞き入れなかった。

「私が用心していればそれで済む話だ」

豫譲の義を貫く生き方を見て、趙襄子も義で応えようとしたのである。豫譲は結局、趙襄子の器量によって許されて、その場を去った。豫譲が去った後で趙襄子は、豫譲について調べるよう配下に命じた。


趙襄子に許された豫譲は、趙襄子の器に感心したものの、趙襄子を殺すという目的を変えることはなかった。豫譲は池に向かった。智伯に仕えることを決心した場所である。先ほども述べた通り、智伯の本拠地だった城は、今は趙襄子の本拠地となっている。豫譲の頭には、趙襄子を殺すための冷静な分析しかなかった。

──これで、俺の顔は護衛たちにも覚えられたか……

豫譲は、自分を全く別人の容貌に変えることにした。豫譲はその日のうちに、町の人から漆を譲ってもらい、それを自分の全身に塗った。豫譲の肌は何とも醜いものとなり、その姿は重病人のようだった。豫譲は池の水面に映った自分の顔を見た。

──これで俺だとは気づかないだろう。

だが豫譲はまだ満足しなかった。

「声も変える必要があるな」

豫譲はそう呟くと、町に出て炭を貰いに行った。豫譲は重病人に見えるので、それを哀れんだ人は、心配そうな顔をして炭を与えた。豫譲は一人になると、その炭を飲んだ。喉には激痛が走ったが、痛みが引いた後、声は完全に変わっていた。

──これで完璧だな。

顔も声も、以前の豫譲とは全く違っていた。たしかに、その姿を見て豫譲だと分かる者はいないだろう。

──時機が訪れるまで、物乞いになるか。

豫譲の姿は重病人そのものなので、物乞いとしてしばらくやっていけるだろうと豫譲は思った。


醜く、声も濁っている豫譲は重病人のように振る舞い、人を見かけては食べ物を恵んでくれるよう頼んだ。人々は豫譲の姿に驚くも、哀れむ目をしながら食べ物を与えてくれた。


ある時のこと。物乞いの生活に慣れてきた豫譲は、町中に妻を見かけた。豫譲は死んだことになっているので、彼女は未亡人である。 

──妻で試してみるか。

そう思い豫譲は、買い物を終えた妻に向かって、

「すいません。私は明日も分からぬ重病人です。どうか食べ物をお恵みくださいませ」

と頼んでみた。妻はこの男が豫譲であることなど思いもせず、これまで豫譲に食べ物を与えた人たちと全く変わらない対応をした。

──妻にも気づかれなかったか。

自分の変化の完全さを喜んだのか、或いは姿を変えた夫に気づくほどの夫婦仲ではなかったことを嘲笑したのかは分からないが、豫譲は軽く笑った。そして、趙襄子に近づける時機が訪れるまで暇だと気づいたので、

──次は朱隗だな。

と思い、豫譲は朱隗の家を尋ねた。


「すいません」

家の外からそう呼びかけると、家の中から朱隗が出てきた。

「明日も分からぬ重病人でございます。どうか一晩泊めていただけませんか」

「これはお気の毒に。我が家でよければお泊りください」

朱隗は豫譲を快く迎え入れた。そして、朱隗は豫譲に食事を出すと、

「死んだと思っていたが、生きていたとは。しかし、その病は見るからに重そうだな、豫譲」

といった。

「自分はまだ名前を名乗っていませんが」

豫譲がそう答えると、朱隗は腹を抱えて笑った。

「はっはっはっ、最初は誰かと思ったが、仕草を見れば分かる。お前は間違いなく豫譲だ。久しぶりだな」

自分の正体が見抜かれたことに、豫譲は複雑な思いを抱えたが、もう隠す必要はないだろうと思い、朱隗に打ち明けた。

「朱隗よ、これは病気ではない。病人を装っているだけだ」

朱隗はそれを聞くと、不思議そうに、

「なぜそんなことをするのだ」

と尋ねた。当然の質問である。豫譲は笑いながら、

「俺のことを誰よりも分かっているお前なら分かるだろう。我が主君の智伯様は殺された。仇を討つためなら俺は苦労を惜しまない。私は一度趙襄子の暗殺に失敗している。その時に顔を覚えられてしまった。だからこうして、顔も声も変えたのだ」

朱隗は、そういうことかと笑った。その目はいかにも、お前らしいなといっているようであった。だが朱隗はすぐに真面目な顔になって、豫譲に話した。

「だが、お前が単身で趙襄子を殺すのは難しい。お前には才能があるのだ。一度趙襄子に降れば、趙襄子はお前を重用するだろう。そうすればお前は趙襄子を殺すことなど容易にできるではないか」

朱隗は、これが最善の策だとばかりに豫譲に話した。その話し方には友への思いがつまっており、目には涙さえ浮かべていた。だが豫譲は朱隗の意見に対して、首を横に振った。

「自分から臣下になっておきながら討ち取ることを目論むのは、明らかに二心を抱いて主君に仕えているということだ。俺の道はたしかに辛いものかもしれないが、俺は士としての生き方を貫きたい。俺は智伯様の臣として、趙襄子を討ちたいのだ。二君に仕えるというのは、俺にとって恥に値する」

この不器用なほどの義理堅さは、豫譲の短所でもあったが魅力でもあった。豫譲は話に一区切りつけると、筆と木片を貸してくれるよう朱隗に頼んだ。豫譲は、朱隗から貸してもらった筆で木片に文字を書き、その木片を大事そうに懐にしまった。

「これを持ち続ける限り、俺は自分の志を忘れることはない。俺は最後まで自分の生き方を貫くつもりだ」

豫譲はそういうと笑顔を見せ、明日からこの家を出て物乞いに戻る、と朱隗に伝えた。豫譲は死ぬまでその木片を手放さなかった。


豫譲は翌朝に朱隗の家を出た。居候していれば、趙襄子の暗殺を実行した際に、罪人を匿ったとして朱隗にも罪が及ぶためだ。豫譲は物乞いに戻ったが、趙襄子に関する情報には常に耳を傾けていた。


ある日。豫譲は、趙襄子が馬車でこの近くを通るという情報を得た。町の治安を自らの目で確認するつもりだろう。豫譲はこの機会に暗殺を実行することを決めた。そこでその日のうちに、宮殿に近づき衛兵に話しかけた。

「もし、私は重病人でございます。近いうちに君主様が町を通ると聞きました。私は一度でいいから善政を行なっている君主様にお目にかかりたいのです。この町を通る日と道のりを教えていただけませんか」

豫譲は毎日物乞いを装っている人間である。このくらいの芝居は小慣れたものだった。衛兵は親切に趙襄子の巡回の詳細を教えてくれた。


豫譲は趙氏の宮殿の衛兵から教えてられた巡回の道を徹底的に調べた。どこが暗殺に適しているか、もとより死ぬ覚悟は出来ているので逃げ道など必要ない。どこなら暗殺が確実なものになるか、という基準で道のりを調べた。その道のりの途中に、橋があった。その橋は小川にかかっていて、そこまで大きいものではない。豫譲はふと橋の下を覗いてみた。豫譲はその場所を見て思わず笑みが溢れた。その橋の下は、人を隠すのに適していた。

──ここに潜み、趙襄子が橋を渡る直前に飛び出て襲おう。

豫譲の計画は固まった。


趙襄子が巡回を行う前日、豫譲は近くにある池にいた。智伯に仕えることを決め、自分の姿を変貌させた場所は、豫譲にとって唯一心が落ち着く場所だった。豫譲はいつものように水面に向かって言葉を吐いたが、それは煩わしい思いではなく、あの世の智伯に語りかけるものだった。

「明日、智伯様の仇を討って、私もお側に参ります」

豫譲はそういうと、静かに立ち上がった。心に迷いがないため、石を池に投げ入れる必要もない。

──ここにくるのもこれで最後だな。

そもそも人生が明日で終わるというのに、豫譲はそんな呑気なことを考えていた。それだけ彼の心は安らかで落ち着いていたということだろう。


池から去った豫譲は、朱隗に別れを告げに行った。

「明日趙襄子が巡行している際に、あいつを襲う。成功しても失敗しても俺は明日死ぬであろう。だからお前に別れを告げにきたのだ」

朱隗は豫譲のことを誰よりも分かっている人だといえる。朱隗は豫譲の行おうとすることを止めもせず、

「私は今は趙の領民であるので協力することはできない。だが、俺はお前の行動に誰よりも敬服している。お前が死んだら、俺はお前の勇姿を広く語るつもりだ」

豫譲は朱隗の思いに感動し、食事をとった。二人だけの、豫譲にとっては人生最後の宴会である。二人は大いに飲み語り、そして大粒の涙を流した。


翌朝、豫譲は朱隗の家を出て、自分の死に場所と定めた橋に向かった。豫譲は、趙襄子を殺害する自分をその場所で想像して、十分な勝算が立つと橋の下に潜んだ。

──天に誓って趙襄子を討つ。

豫譲は余計な邪念を払い除け、その心中を殺意で満たした。橋の下はもともと薄気味の悪い場所であったが、豫譲がそこに潜むと、その殺気は凄まじいものとなった。


趙襄子はそのころ、馬車に乗って町内を巡回していた。智伯を討って晋を三分してから、数年が経った。趙はこれから、他の諸侯とも肩を並べられるように成長しなければならない。趙襄子には、国の根本に民がいることを分かっている。庶民が不自由なく暮らせているか、善い政治が行き届いているか、今回はそういった事項を確認するための巡回である。趙襄子は馬車に乗り、ゆっくりと町内の整備された広い道を進んでいた。馬車の周りには護衛がいて、そのまた後ろには兵が配置されている。まもなく馬車は橋を渡る。


橋の下に潜む豫譲は、馬車が近づいてくるのを感じた。

──いよいよだな。

この数年間、趙襄子一人を殺すために、豫譲は想像を絶する苦難を乗り越えてきた。趙襄子殺害は宿願といってもよいだろう。豫譲にとっては待ちに待った瞬間である。豫譲の集中力はここに極まった。

──何としてでも趙襄子を殺す。

その時豫譲の殺意は今までにないほどのものとなり、橋全体から感じられる殺気がそれを物語っていた。


豫譲が潜む橋からは、あまりにも不吉な殺気が漂っていて、近くの木々もそれを助長するかのように不気味であった。馬車が橋に近づいてきた時、趙襄子は

──何だ、この殺伐とした空気は。

と思い眉を顰めた。次の瞬間、馬車の馬が嘶き暴れだした。国の君主の馬車であるから、その馬は選び抜かれたはずの馬である。そのはずが、馬はまるで何かから逃げたがっているように暴れていた。

──やはりただ事ではない。

そう思った趙襄子は、護衛たちに

「馬の様子がおかしい。近くに何かあるはずだ。兵に調べさせよ」

と命じた。兵士らは慌ただしく周囲を調べ始めた。もちろん、近くにあった橋も、その下もである。


馬が鳴き、趙襄子が兵を呼んだ一連の動きを耳だけで感じ取った豫譲は、大きくため息をついた。

──馬に気づかれたか……

馬に気づかれて兵を動かされた時点で、豫譲の計画は破綻した。ここで逃げても、すぐに兵に射殺される。

──じっとしているのがよい。

豫譲は橋の下から動かなかった。その判断の根拠には、豫譲の正々堂々とした性根と剛直さにある。失敗したから潔く死ぬ、豫譲はもとより死ぬ覚悟だったため恐れもなかった。


しばらくして、豫譲は兵に見つかった。

「怪しい男がいるぞ」

一人の兵士が大きい声でいった。豫譲は槍を向けらた。捕らえられた豫譲は、趙襄子の前まで連行された。


五 刺客舞う


豫譲は兵に槍を向けられたまま、馬車から降りた趙襄子の前に座らされた。

──この男は何者だ。

趙襄子だけでなくその場にいた者全員が、重病人のよう人間離れした容貌で、殺気漂う男を怪しんだ。

「お前はどういう者だ」

趙襄子は尋ねた。

「智伯様の家臣だった豫譲だ」

「なにっ、豫譲だと」

この瞬間、趙襄子は自分の目の前にいる刺客の目的を理解した。趙襄子は厠で起こった豫譲による暗殺未遂をもちろん覚えている。そして、またも豫譲が自分を襲ってきたことに驚きを隠せなかった。

──この男の執念とはこれほどか。

豫譲の内から放たれるものに、趙襄子はのまれそうになったが、豫譲がすでに死地に立っていることに軽く安心すると、趙襄子は豫譲に向かって、

「豫譲よ、ずいぶん変わったなあ」

といった。これはもちろん、豫譲の容貌についてをいったのである。それに対して豫譲は、

「これもお前を討つためだ」

とだけ答えた。これは護衛たちの怒りを大いに買った発言であったが、趙襄子は気にせず豫譲に語りかけた。

「私は厠での事件の後、お前について調べさせた。聞けば、お前は智伯に仕える前は氾氏や中行氏に仕えていたというではないか。だが、その二人のためにお前は何もしていないどころか、その後智伯に仕えた。なぜお前は智伯のためだけにそこまでするのだ」

豫譲はその質問に正直に答えた。

「氾氏や中行氏は私のことを普通の者として扱い、小役人として用いた。だから、私もそれに対する程度しか報いていない。だが智伯様は違う。あのお方は私のことを大いに評価して、国士として認めてくれた。士は己を知る者のために死すという。私は国士として智伯様に報いずにはいられないかったのだ」

趙襄子は豫譲のことを、敵ながら見事な人間だと、正直に思った。趙襄子は豫譲の忠義に感動を隠せず、豫譲の言葉を聞いているうちに瞼が熱くなっていた。趙襄子は涙をこらえ、深く嘆息してこういった。

「ああ豫譲よ、お前が智伯に対して抱く忠義は、もうその名にそむくものではない…… お前の生き方は忠臣の手本となり、多くの者に賞賛されるであろう。だが、私はお前を一度許した。今回も逃すというわけにはいかない」

趙襄子がそういうと、護衛の数人が剣を抜いた。豫譲は趙襄子の言葉を聞いて、

──この人もたいした人物だな。

と感じていた。


護衛が豫譲に剣を向け、いつでも処刑できる場面となった。

「聞くまでもないが、もう未練はあるまいな。覚悟するのだ」

趙襄子が最後に豫譲にそう言葉をかけた。豫譲は剣を向けられても動揺せず、穏やかに趙襄子に話しかけた。そこからの豫譲の口調には、趙襄子という敵に対しての、敬意が感じられるものであった。

「明君は臣下の義挙を妨げず、忠臣は名のために死ぬことを選びます。天下の人は、私を一度許したあなたに敬服するはずです。私はその時から万死の罪に値する人間でございましょう。しかし、今日あなたのご厚意のおかげで私もまた、名のために死ぬことができます」

豫譲は潔く負けを認め、最後に

「死ぬ前に、一つあなたにお願いがあります」

といった。

「なにか」

趙襄子が尋ねると、豫譲は

「願わくば、あなたのご着衣を頂きたいのです」

と答えた。趙襄子が不思議そうな顔を見せると、豫譲は

「せめたあなたが着ていたものを斬ることによって、宿願を晴らしたいのです。もしこの願いが許されるのなら、死罪となっても心残りはございません」

といい、趙襄子はそれを許した。趙襄子の着替えは、馬車の中にある。この時、もし趙襄子が服を取るために豫譲に背を向けて、馬車に乗り込もうとしていたなら、豫譲はそれに斬りかかっていたかもしれない。だが、豫譲の心情は分からない。それは、趙襄子が配下に服を取りに行かせたためだ。この時すでに、豫譲は趙襄子殺害を諦めていたのであろうか。あるいは、趙襄子が自分に背を向けることを望んでいたのだろうか。


趙襄子は護衛を通して、自分の衣服を豫譲に与えた。

「願いを叶えていただき感謝します」

豫譲は丁寧にその衣服を受け取った。


豫譲は剣を抜くと、その衣服を、高々と投げ上げ、衣服は宙に舞い上がった。それからの様子を「史記」は、

「三躍而撃之」

と記している。舞い上がった衣服を、豫譲は三たび踊り上がって、切り刻んだ。その姿はまさに、執念の刺客がその最期に、潔く舞をしているかのような姿であった。醜い重病人の容貌の豫譲であったが、その短い舞は、思い通りにいかない世の中の惨さを物語っており、悲しさと美しさを極めていた。服と宙を斬る剣の音は、忠義と不運が奏でた義士の挽歌に相応しいものだったといえるだろう。


切り刻まれた衣服と共に地に降り立った豫譲は、

「これでようやく、智伯様に殉ずることができます」

と、屈託のない笑顔でいった。次の瞬間、豫譲は衣服を切り刻んだ剣で、自分の胸を刺した。ここに豫譲は、その生涯を閉じた。


趙襄子はその姿を見て、大粒の涙をこぼしていた。

──立派な義士だ。

趙襄子と護衛たちは、豫譲が自害してからしばらくの間、その場から動くことが出来なかった。巡回を再開したのは、趙襄子が、豫譲を手厚く弔うようにと命じてからである。


豫譲の遺体を処理する際、懐から木片が見つかった。

──士は己を知る者のために死す、か…… 彼はなんと立派な義士であろうか。

趙襄子は涙を流して豫譲のことを悼んだが、豫譲の生き方に感動したのは趙襄子だけではなかった。


やがてこの話は広まり、多くの心ある士が、豫譲のために涙を流したという。









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