―Episode― 白キ百合ト 赤キ薔薇ト

 富裕層の子息息女が通う私立の学校として有名な、私立聖天学院。その中等部校舎内で少女は一人、白亜の壁に背中を預けるようにして佇んでいた。


 そこは学院生でも滅多に訪れることはない場所。

 窓から差し込まれる夕陽の、妖しくも神秘的な赤味の強いだいだい色が俯き気味の彼女の横顔を、うっそりと照らし出している。


 ――母の教え通りに高位家格のご令嬢として、淑女として。

 少女はいつも皆の前で静かに微笑んでいることを求められた。そして少女もまた、その教えに背く考えなど持ち合わせてはいなかった。


 “百合宮家”という古き歴史を持つ、旧華族の末裔である家に生まれた少女。そんな名家のご令嬢として誕生した彼女のこれまで歩んできた道には、どこにでも母親の存在がついて回った。


 父よりも兄よりも、誰よりも少女の傍にいた存在。少女にすべてを教えた人。

 少女にとって母からの教えは、彼女を構成するモノのすべてである。だからその教えから背くような素振りを見せることさえ、決してあってはならなかった。


 それでも、一度だけ。母が一度だけ見せた表情が少女の記憶から薄れていくことはない。

 だから少女は、母が望む彼女の理想の淑女としての道を違えることなく歩んできた。少女から離れないその人しか、彼女の傍には誰もいなかったから。


 母が望んだから少女はそうした。口を閉ざして、微笑んで。

 母の望む理想の淑女に、のだと。


 淑女に相応しい言動で他人と接し、そんな少女に周囲は彼女のことを『淑女の鑑』だと口にする。

 『神童』と呼ばれる兄になぞらえて、皆口を揃えて彼女のことをそう評価した。そしてそれは少女の望むところでもあった。

 何故ならそんな周囲の少女への評価は、それを耳にした母を安心させるものであると。少女はそんな風に捉えていたから。


 すべては母のために。


 母のために、少女はした。



「……っ」


 俯き気味だった顔が完全に俯く。結うことなく垂らしていた柔らかな髪が、かしぐ動きに逆らうことなく流れ落ちて少女の横顔を覆い隠した。

 光を遮断するカーテンの中で浮かび上がる彼女の面に、淑女の微笑みなんてものは存在せず。そこにあったのは――――今にも泣きそうに歪んだ顔。


 一人しかいない空間だからこそできる表情だった。

 そしてその胸中には……深い後悔しかなかった。



『一体どうすれば良かったのか』

『私が聞いていれば、“彼女”はその道を選ばなかったのだろうか』

『だって“彼女”は私と話がしたいと言った』

『それなのに、けど。でも……私は』



 噛みしめた唇から決して漏れ出すことのない言葉の羅列を、胸の内ではひっきりなしに並べ立て続けていて。

 そうして――――だから少女のいる空間に近づいてくる音があったことに彼女が気付ける可能性は、あまりにも低過ぎた。



「あら、先客がおりましたの?」



 少女しか存在していない筈の静寂を割る、よく知る人物の声が彼女に届いた。……よく知ると言っても、学院生活を送る中でただ見知っているだけの存在。

 いつも少女の傍にはべってくる他人と違って話し掛けてくることも稀な、唯一少女と家格が対等な同性の同級生。


 その声が届いた瞬間にカーテンの内側で表面化していたものを消し去り、俯けていた顔を上げた少女はその来訪者に向かって、

 微笑みの仮面を貼りつけて、穏やかにいらえを返した。


「ごきげんよう、薔之院さま。珍しい場所でお会いしましたね」


 来訪者――――薔之院 麗花。

 彼女は少女から返された内容に対し、「そうですわね」と同意する。


「いつも誰かしらに囲まれてお相手をされていらっしゃる方が、本当に珍しい場所におられますこと」

「ふふ。私にも、一人で静かに過ごす時間が欲しい時もありますから」

「でしたらお邪魔しましたわね。貴女が最初に見つけた憩いの場に訪れた不躾な乱入者は、さっさと退散することに致しますわ。ではごきげんよう」

「……、薔之院さまっ」


 別れを瞬間迷った少女が咄嗟に名を呼び、さっさと踵を返そうとしていた少女の足を止めさせる。

 振り返ったもう一人の少女の表情はいつもよりも硬く、「何ですの」と返す声にも覇気がなかった。


「少しだけ、“彼女”のことで私とお話ししませんか?」


 少女が発した提案に軽く目を見開くもう一人の少女は、まさか彼女からそんなことを言われるなど露ほども思わなかった。

 何故なら自分と彼女は水と油のような関係性だと、そうもう一人の少女は認識していたからだ。


 人から好かれ慕われ囲まれる彼女――百合宮 花蓮と、人から嫌われ避けられ、来られてもおべっかな自分。

 少女はこの彼女とは聖天学院に在籍し、学院内の特権階級であるファヴォリ ド ランジュの所属かつ唯一の同性同位家格の生徒という間柄ではあるものの、決して相容れることはないと思っている。


 そもそも少女から見た彼女――百合宮 花蓮の人との接し方は、少女にとってはまったく以って気に入らないものであった。


『既に多くの人間に嫌われているのだから、これ以上も以下もない。変わらないものを恐れて自分を曲げるのは性に合わない』

『曲げるくらいなら。どうせ私が受け入れられることなんて無いのだから、ハッキリと物を言った方が余程マシだ』


 そう投げ遣りに考えて、だから少女は己の気持ちに従ってそのように振舞ってきた。それに対して『淑女の鑑』と言われている花蓮はしかし、表面上の薄っぺらいものしか相手に返してこない。

 見ていてそのように感じるのだ。微笑みで、


 少女には彼女の『淑女の鑑』と言われるそれが見せかけのただの張りぼてのようだと、そう思えてならなかった。気味が悪い、と。

 微笑むばかりで相手に向けている感情モノを、一切何も返してこない彼女のことが少女は苦手で――――嫌いだった。


「せっかくのお申し出ですが…」

「薔之院さまのせいではありません」


 断ろうとした口上を遮るようにして放たれたそれに、少女の眉間が僅かに寄る。

 少しだけ目を細めて睨むように睥睨してくる彼女から向けられる威圧を物ともせず、淑女の微笑みで受ける少女が更に言葉を重ねていく。


「私も同じ理由でこちらに参りました。ただ一人になりたくて、気持ちを整理する時間が欲しかったのです。“彼女”のことは薔之院さまのせいではありません。あれは…」

「八方美人も大概になさいませ」


 低く、声に温度があれば凍えるような冷えを纏って、少女は鋭く彼女をその眼差しで刺し貫く。


貴女がそのことで、私に何を語りますの? 適当な発言なんて何一つ許さなくてよ! 本来であれば私ではなく、白鴎さまのご婚約者である貴女こそが行うべきであったのは、当然ご理解されておりますわよね?」


 唇を閉ざして、微笑みは保たれたまま。

 何を言ってもどんな態度を向けてもその表情を一切崩さない少女に、もう一人の少女は内心苛立つ。


 表情が変わらない。何を考えているのかが判らない。その唇から紡がれるのは、他者にとって耳障りの良い言葉だけで――。


「……彼女は私に話したいことがあると、そう言って私に会いに来られました。貴女が彼女に苦言を呈した、その後のことです。けれど私は彼女の話を聞くことなくその場を去りました。ですからあの件は、責任があるのです」


 拒否を示されても、それでも感情の混じらない穏やかな声で少女は言葉を紡ぐ。その結果、返されたのはそれ受けた少女の瞠目だった。


「何を…」

「薔之院さまのお言葉が彼女を動かし、私へと会いに来させました。ですが、私の代わりに彼女の話を聞くからと。『私の手を煩わせることではない。「淑女の鑑」であり、白百合の君である私に何かあってはならない』と。ですから私は……私を慕って下さっている方の言葉をえらび、その方に彼女の対応をお任せしたのです」

「……それはいつも貴女の傍にいる、彼女のことですの?」

「はい。彼女は何も問題はなかったと。深く反省していたと。後日、そう仰っていました」


 少女は脳裏にその時のことを思い浮かばせる。学院に入学していつからか、母以外でいつの間にか少女の隣に佇んでいるようになっていた、彼女の。

 翌日に少女へと笑んで告げたその、『何モ問題ハアリマセンデシタ』を。


 そう。少女は目の前にいる彼女が言うように、何もしなかった。

 何もしなかった結果が……あれだった。



「百合宮さま」


 僅かばかりの間。少しだけ間の空いた瞬間に“自身”の想いに気持ちを馳せていた少女はピンと張り詰めた声で呼ぶ、目の前にいる少女へと意識を戻して見つめる。


「高等部で別れる貴女へ手向たむけに一つ、ご忠告申し上げますわ。貴女の傍にいる彼女――――城山 紗綾にはお気をつけなさいませ」

「……城山さまを?」


 忠告を述べた少女は粟立って仕方がない内心を押し隠して、その名を繰り返した少女を見つめ返す。

 少女は――麗花は何故かこの時、そんな彼女にどうしようもなく苛立ちを覚えた。


 それは自らの性分に従ったが故の最後があまりにも苦しく、救いようがないものだったからか。本来であれば無関係だった件。

 無視できなかったから、言葉にした。


「……ですけどまあ、八方美人で他人に関心のない貴女には、それも難しいかもしれませんわね。いつも思っておりましたけれど、貴女を囲んでいるその何人が本当の意味で貴女のことを慕っているのかしら? 淑女の鑑? ええ、そうですわね。確かに貴女は淑女ですわ。すべてを微笑んで受け入れて、まるで聖人君子のようでしてよ。そのまま周囲の者に唯々諾々いいだくだくと頷いて呑み込むことが、その場での最善だとでもお思いですの? いつも見ているだけ、聞いているだけ。……貴女はそんな感情の無い生き方をして、息苦しくはありませんの? 私はそんな、ただ綺麗なお人形さんのような生き方なんて、絶対に御免ですけれど」


 夕闇のくれないを背に負って真っ直ぐと言い放たれた、少女を否定する言葉の羅列。

 在り方を否定された少女が浮かべる微笑みは、されど崩されることはなく。けれどそんな仮面の裏側にある少女の心は――――轟く雷鳴を伴った嵐のように、激しく吹き荒んでいた。


 あの件をきっかけに、迷いが生じ始めていたから。

 指摘されカッとなった心が、だから理想の淑女に反する絶対に“他人”にはぶつけなかっただろう感情モノを、少女はこの時だけ心の赴くままに溢れさせた。


「でしたら私も薔之院さまに、一つだけ。――何故嫌われると解っていらっしゃる上で、そのような物言いをされるのですか?」


 まさか言い返されるとは思わなかった少女。けれどそのことよりも口にされた内容の方に引っ張られる。


「……何ですって?」

「あら、だってそうではありませんか。確かに薔之院さまの仰ることは、聞いていればその大体が正論ですけれど。言い方さえ気をつければ印象は変わる筈ですのに、何故貴女は敢えてキツい物言いばかりされるのですか? 人のことを思って言った言葉も相手にそう受け取られなければ、それはただの言葉の暴力にしか成り得ませんよ? 私のことを仰る前に、貴女こそ自らを省みるべきではないのですか。……不器用な方ですよね。もっと楽に生きればよろしいのに」

「なっ……!?」


 お互いにお互いの在り方を否定された少女たちは睨み合う。

 一人は微笑みながら。一人は怒りに顔を歪めて。



 ――――『貴女に私の何が解る』



 正反対の表情かおを相手に向けている少女らはしかし、お互いにその想いだけは同じだったことなど知る由もない。



「今までとても浅いお付き合いでしたが、高等部で百合宮さまと別れることができて清々しますわ。もう遠目でもその顔を視界に入れなくて良くなりますもの」

「ふふ、遠目でも視界に入るほど私のことを気にされていらっしゃったとは知りませんでした。進路が分かれることにはおおむね同意します。その方が今まで以上に、お互い心穏やかに過ごせらますものね」

「……ごきげんよう」

「ごきげんよう」


 室内ローファーのカツカツと響く音とその間隔の短さに、彼女の気持ちの荒ぶりが表れている。

 足早に去るその音を耳にしながら、少女はそこで初めて隠すものが何もない状態で――表情を崩した。



「……感情のない、綺麗なお人形さんのような生き方ですって?」



 震える声が。その現れた“素”が、強固に作り上げた『淑女の鑑』を崩壊させる。


「それなら私は、一体どうすれば良かったんですか。私なんて……、あの人にとっては要らない存在なのに」


 彼女と会話をする前に押し込めていた、心の奥に閉ざしていた言葉がポロポロと勝手に零れ落ちていく。


「そうしないと見向きもされないのだから、そうするしかないじゃありませんか。唯一の人がそれを私に求めているのだから。だってそうしないと、“私”は」



 ――――『愛してもらえない』



 音の無い言葉とともに、目の端から一筋流れ落ちたもの。

 少女が天秤にかけ選び取った選択。その選択に初めて迷いが生じた出来事と真っ向からの否定を抱き、少女は紅を覆う濃紺の闇を視界に映す。


 明るかった夕の空は今や、少女の心の内を表すかのように――――昏く染まっていた。





 そして少女も去った、その空間の中。

 鈍く光る一対のが静寂を纏いながら、とばりが降ろされた窓の向こう側をジッと見つめていた――……。

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空は花を見つける~貴方が私の運命~ 小畑 こぱん @kogepan58

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