訪問者

モグラ研二

訪問者

リビングルームで映画を見ながら3回目の放屁を行ったところで玄関のドアが勢いよく開いた。

「バゴオン!」そんな感じの音がして、ドタドタと足音が鳴り、リビングルームに倒れた。映画を一時停止にして振り返ると全裸で、傷だらけ、血まみれの人間(性別は男で頭髪は薄く、腹回りにぜい肉が豊富に付いている)が倒れていた。

「ちょっと、大丈夫ですか?」

私は駆け寄り声を掛けた。血が付くのは《汚らわしいし嫌だった》ので、手を触れることはしなかった。血まみれの男は動かない。じっとしていた。

「ねえ、黙ってないで、大丈夫かそうじゃないか答えてくださいよ!」

私が言うと、今度は反応があった。男は目を開けて私を見た。傷だらけ、血まみれの体を少しだけクネクネと動かすと口を大きく開けて

「アギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」

と凄まじい叫び声を発した。

「ちょ、うるさい!」

私はたまらなくなり両耳を手で塞いでリビングルームから出ていき寝室に入り扉を閉めた。

男はしばらく叫んでいた。


《ねっとりとした嫌な感覚があった》眠っている間に耳元で極めて卑猥なことをずっと囁かれていたのではないか。

そのような疑いが、目覚めてベッドから半身を起こした私のなかであった。

事実、右耳に触ってみると少し湿っていた。

舐められたに違いない。

「うげ」

と私は言い、ベッドから出ていき洗面所で顔を洗った。

鏡を見た。青白い顔をしていた。目の下にクマも出来ていた。

食欲はなかったので、マルチビタミンのサプリメントとミネラルウォーターだけ飲んで、着替えて家を出た。


「それで? あなたは血まみれの重傷者を置き去りにしてきたわけ?」

「うん。僕は自宅を出る時に鍵を閉めた。そして近所のパン屋に行ってフランスパンを購入し公園で齧っていた。足元に鳩が数羽寄ってきて僕の食べカスを狙っていた」

「最低ね。人道主義に反する。非常識極まりない行い。幼稚園から中学校までの義務教育で教わった《他人への思いやりの心》ってわからないの? あなたは人間ではなく猿ってことなの?」

「多分、猿は差別用語になる」

「それって猿への差別ではないの? 猿って言葉が差別になるって? 猿からしたら勝手に俺のことを差別的な事象を指し示すための言葉にするなってことになるのではないの? あなたってとにかく臭いし、最低ね」

「臭いのは関係ない」

「臭いのは認めるわけね」

「それは事実だから。僕は臭いよ」

「それはつまり現代的ってこと?」

「うん。都会を歩くことは《うんちの臭いを身体に染み渡らせること》だから」

「うんちって可哀想ね」

「そうだよ。うんちは可視化されてはいけない。現代においては。うんちは可哀想な立場になっている」

「違うと思うけど。いつでも、少しくらいは……ちらっと、見えたりしているものではないの?」


黒い全身タイツの集団(みんな一様に痩せている。胸と股間の部分はアーマーで覆われている。隠されている。そして声も加工されているデジタルボイスであり、彼らの性別はわからないように工夫されているのだ。)が日曜日の午後2時過ぎに駅前の通りを歩いて行った。彼らは鉄パイプやバール状のものを手にしていた。


眉を八の字の形にして……切ない表情の男女。

男は黒髪短髪で逞しい体躯をしていた。

白いタンクトップからムキムキの腕。

ジーンズの太ももはパンパンに張っていて。

女の方は可憐な感じ。

薄い茶色い髪はロングで、薄青のワンピースを着ていて、うるんだ瞳。


彼らは晴れ渡った青空、それに負けないくらいに透き通った青い海の見える場所にいた。

砂浜に二人。

そして抱き合って、たっぷり時間を掛けてキスをして。

また見つめ合う。

「ポロ。ポロロロン。ポロロ」甘美に鳴り響くギターの音。

《アートっぽい印象を与える極彩色に塗りたくられたオリジナルTシャツ》を着ている40代くらいのおっさんが浜辺にある平べったい岩に座って、目を閉じてギターを掻き鳴らした。静かな波の音。おっさんの弾くギター。歌い出すおっさん。


それはいかにも《若い二人の永遠の愛の情景》を思い起こさせるもので。

柔らかな笑みを浮かべ合う男と女。

人類史上数えきれないほど繰り返されてきた《典型的なヘテロセクシュアルなラブロマン》。再び抱き合って……。


《向こうの世界》に浸りきる二人の男女。

おっさんのギターや歌がそれらをさらに盛り上げるのだが、そこに「私も良いですか?」と言って、すらりとした白髪のスーツ姿の老人が現れフルートを吹き始めた。

素晴らしいテクニック、そして音色だった。

彼はテレマンの独奏フルートのためのソナタを一番から順番に吹き始めていた。


白髪の紳士は一通り吹いて満足すると、フルートを黒い革鞄に仕舞い「失礼致しました」と言って深々とお辞儀をして去って行った。


「セバスチャン」

白髪の老人が呼びかけると西洋人の男性(老人と同じく身長が高くすらりとした容姿であり、タキシード姿、口ひげを生やしている)が出て来て深々とお辞儀をした。

「旦那様。おかえりなさいませ」

「うむ」

セバスチャンは老人からフルートを受け取ると立ち去った。

部屋には大きな角を生やした鹿の頭が掲示されていて、高級感のある表面の磨かれた木製のテーブルが中央に設置されていた。

「葉子。今日僕は30年ぶりにフルートを吹いてきた。とても心が満たされて、今は爽やかな気分だ。葉子。君は僕の吹くフルートの音色を《天国の香りのようだ》と頻繁に言ってくれていたね。それが当時の僕にとって、どれほどの自信になっていたことか……」

テーブルには写真立てがあった。

これもまた高級そうな感じのする細かい薔薇の彫刻が施されている木製のものであった。

そこには一枚のモノクロ写真がある。

女性の写真であった。

若い女性で、髪は黒髪ロング、目がぱっちりとした二重で、唇は薄くて、不敵な笑みを浮かべていて。

肩の部分に派手なフリルの付いたドレスを着ていた。

「ねえ葉子」

白髪の老人は、その写真に向かって、淡々と語りかけていた。

先ほど「セバスチャン」と呼ばれていた西洋人の男性が、扉の隙間から、その様子をビデオカメラで撮影していた。


敦夫は真剣な表情で真菜子の顔を見つめている。

二人は若い。

敦夫の白いタンクトップから露出している肩や腕は若々しい張りのある肌で、筋肉は隆々としている。

真菜子の艶のある髪、すらりとした首筋のなめらかさや腰の細さも、十分な若さを象徴している。

二人ともその張りのある肌にうっすらと汗をかいている。

「真菜子……」

「敦夫さん……」

「真菜子……ああ……」

「敦夫さん……おお……おお……敦夫さん……」

ただ見つめ合い、お互いの名前を、それほど大きくない声で呼び合う二人。

若い二人の間にはそれだけで《十分な抒情性》が育まれていた。


「俺は金が欲しいんだよ!」

おっさんはギターを弾き終わると同時に叫び、懐からナイフを取り出すと抱き合って《向こうの世界》に行っている二人に駆け寄り、順番にその腹の真ん中あたりを深々と刺した。

抵抗はなかった。

むしろ、二人は苦しむ様子なく、柔らかな笑みを浮かべたまま大量の血を噴出させながら白い砂浜に倒れ、目を閉じて静かになった。

おっさんは男のリュックサックと女のハンドバッグを漁り、財布や質屋で売れそうなものを取り出して自身のトートバッグに詰め込んだ。

おっさんは岩のところに置いておいたギターを担いだ。

「くそっ、こいつらがさっさと《向こうの世界》に行かねえから時間が掛かっちまったじゃねえかよ! こっちにはバイトがあるってのに! なんて身勝手な奴らだ! 死んで当然なんだ! こんな奴らは!」


鍵を開けてそっとドアを開けた。リビングルームに行くと、まだ全裸の男(太った中年男性。頭髪は真ん中辺りが薄くなっていた。全身傷だらけ、血まみれ)が倒れたままだった。動かない状態。

私はうんざりした。

これ以上滞在するなら金銭を要求しなければならない。

「ねえ、いい加減にしてください」

私は言った。男の体に触れるのは嫌だった。ぬるぬるした血に触りたくなかった。《それになんか汚いって感じがした》。

男はそれまで沈黙していたがクネクネと身を動かしながら目を見開き、口を大きく開けると、再び

「アギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」

と凄まじい叫び声を発した。

「糞野郎!」

私は両耳を手で塞いで寝室に駆け込んだ。

扉を閉めた。涙が出そうだった。

一体何なのだろう。あいつは私を困らせて、それで快感を得ているのだろうか。

そうだとしか思えなかった。

嫌がらせだ。

だってそれまでは静かだったわけでしょ? 

なんで声を掛けた途端に叫び出す? 

酷い。あまりにも酷い。悪質にも程があるではないか。

扉の向こうでは叫び声が続いていた。私は頭を抱えて泣いた。

「嫌だ。こんなのは嫌だ……」


泣きつかれて扉に凭れたまま眠っていたようだ。部屋は真っ暗になっていた。

スマートフォンを見ると22時だった。

空腹を感じた。

私は寝室から出ていく。

叫び声はすでに消えていた。

リビングルームに行くと、倒れていた男は影も形もなかった。

置手紙もない。酷い奴だ。謝罪文を書いた手紙くらい置いていくべきではないのか? 怒りに任せて壁を殴った。

「いてえよ!」と私は叫び、床に倒れ転がった。

赤く腫れてきた右の拳を舐めた。


冷凍庫からピザを取り出して電子レンジに入れた。

数分で解凍されたピザが出来上がった。

チーズが良く伸びた。濃厚なトマトソース。タバスコを振りかけて。

美味であった。

最後の一口を食べたところで「バゴオン!」と玄関から大きな音が聞こえた。

ドタドタと足音がした。リビングルームに人が倒れた。あいつだった。全裸で、傷だらけ、血まみれの状態で。

「やめろ!」

私は怒鳴りながら、目を見開き、大きな口を開け、腹に力を込め始めていた男のその大きな口に丸めた手拭いを突っ込んだ。

顔面を蹴り上げた。

男は気を失ったようで動かなくなった。

部屋の静けさは保たれたままだった。

嬉しい気分がやや生起しているのを私は感じた。

もう一つ冷凍ピザを解凍しても良いと思った。


翌朝、寝室から出てリビングルームに行くと《完全に動かなくなった男》が倒れていた。

相変わらず全裸で傷だらけ、血まみれで。

私は寝室に戻り、捨てる予定の古くなった大きなタオルケットを持ってきて、倒れている男に掛けた。

男の体は見えなくなった。

こういうものは可視化しない方が良いのだ。

多少の満足を覚えた。


「それで? あなたはその重傷者を……」

「重傷者ではなくなっているかも」

「正しい処置とは言えないと思う。あなたのやっていることって《倫理的におかしい》のではないの? この国の素晴らしい義務教育はほとんどの人間に《まっとうな倫理観》を生育させていくものなのに。あなたと来たら最低ではないの? ねえ、本気で考えている?」

「今僕は《ムッとした感じ》がする」

「それって図星ってことよね」

「違うと思う」

「どういうことなの?」

「僕は被害者だってこと」

「そうなの? あなたはその人の口に手拭いを突っ込んで顔面を蹴り上げたのではないの? それをもって被害者って言うのは無理があると思うけど」

「僕は傷ついている」

「繊細なのね」

「うん。僕はすれ違う人にも傷つけられることがあるよ。身体的にではなくて、もちろん精神的な意味合いにおいて」

「それって現代的ってこと?」

「どうだろう。僕は《素朴な生き方》に常に憧れを抱いていて、そのように生きようとしている。仕事とか、私生活とか、いろいろと。でも、実際はどうだろうと思う。僕はもっとなんていうか《牧歌的な人生》を生きてみたいと思っていたんだ」


《牧歌的な人生》を生きるためにはどうすればいいんだろう? 

そのことについて詳しく話すことができたら、きっと大金持ちになれるのだろう。

そんなことを考えながら、僕は都内の割と広い公園に来ていた。

日曜日の午後2時だ。

とても良く晴れていて、噴水がきらきらと日の光を反射していた。


半袖短パンの子供たちが無邪気に笑いながら追いかけっこをしていた。

その様子を、腕を組んだお父さんらしき若い男性(黒髪。短髪。白いタンクトップ。逞しい腕。ジーンズの太ももは筋肉でパンパンに張っていて)が、にこやかな顔をして眺めていた。

「よし! いいぞ! 捕まえろ! 絞め殺せ!」

その男性は叫んでいた。

物騒なことを言うものだと一瞬思った。

しかし、厳しい今の時代を生き残るためにはもしかしたらああいった言葉を子供たちに浴びせ、激しい戦闘行為を経験させることも必要であるのかも知れない。


僕は噴水から数メートル離れた位置にあるベンチに座って缶コーヒーを飲んでいた。

「なあ、兄ちゃん、金持ってるか?」

声がした。見るとギターを持った薄汚いおっさんが立っていた。饐えた臭いがした。あまり近づかないで欲しいと思った。

そのことを察知したのが、おっさんは少し悲しそうな顔をした。

「なんだよ。そんなに嫌な顔しなくてもいいじゃないか……」

こんな汚らしいおっさん、品性のかけらもない印象のおっさんにも、人並みの、あるいは人並み以上の感情があるのだ。僕は素直に感動を覚えた。

「ギター弾くんですか?」

「そうさ。俺はシンガーソングライターなんだ」

「やってみてくださいよ」

「良いけど、金あるのか?」

「お金取るんですか?」

僕のその言葉におっさんは激怒したようで、一気に顔を真っ赤にし、眉を吊り上げ、拳を振りかざした。

「ふざけんな! 俺は金が欲しいんだよ!」

「あんたなんて知らない! 無名の自称シンガーソングライターじゃないか! 金なんて出せないよ! 常識で考えてよ!」

「うっ……」

おっさんは拳を振りかざすのを止めた。

僕の顔をまっすぐに見た。

一見して非常に大人しそうに見える僕のような人間が、突然にブチ切れて激しい勢いで言葉を発したことについて、衝撃を受けているようだった。

そうして、おっさんの目からは涙が止めどなく流れていた。

こんな汚らしいおっさんにも人間としての感情というか、傷つきやすい心というか、そういうものがちゃんとあるのだという事実に、僕は少しだけ感動を覚えたのだった。

「うう……ううう……」

おっさんは呟きながら、ギターを担いだ姿で、遠ざかって行った。


無糖ブラックの缶コーヒーを飲み終えた僕は立ち上がり、空き缶をベンチに置いたままにしておっさんを尾行してみた。

おっさんはゆっくりと歩いていた。

途中、何を思ったのか後ろを振り返った。その時にはおっさんは泣いていなかった。棒状のチョコレートバーみたいな駄菓子を咥えていた。

僕は電信柱の後ろに隠れた。

そうして10分ほど歩いて駅前の繁華街に出た。

僕はおっさんが表情のない顔で、ソープランドのある雑居ビルに入っていくのを見届け、その足で近くのラーメン屋に立ち寄り味噌ラーメンを注文した。

僕は店員の態度に憤りを覚えた。


黒い全身タイツの集団(みんな一様に痩せている。胸と股間の部分はアーマーで覆われている。隠されている。そして声も加工されているデジタルボイスであり、彼らの性別はわからないように工夫されているのだ。)が鉄パイプやバール状のものを持ってゆっくりと街路を歩いていた。

すらりとした、スーツを着た白髪の老人が、彼らに声を掛けた。

「君らは、その、幸せなのか。そんなことをしていて……」

「あんたは金持ちか」

性別がわからないように加工されたデジタルボイスが言った。

「まあ、落ち着きなさい」

老人は柔らかな笑みを浮かべて足元に置いていた黒い鞄からフルートを取り出すと吹き始めた。軽やかで甘い音色。テレマンのフルート独奏のためのソナタである。老人は目を瞑り圧倒的なテクニックを周囲に聴かせた。


この哀れな連中に《本物の文化の味わい》を伝えてやろうという使命感が、老人にはあったのだ。白熱した演奏。老人の体は激しく揺れたり、傾いたりした。汗が額や頬を伝った。往年のプロフェッショナルな演奏家の迫力のようなものがその姿には確かにあった。


「葉子よ。聞いているか? 葉子よ。この演奏はお前に捧げるためのものなのだ。葉子。いつだって私はお前を思って情熱的に音楽を奏でている。50年前のあの日もそうだったのだぞ? 葉子。お前が強風吹き荒れる中、海の見える公園のベンチに座っていたあの日もそうだったのだぞ? 私はその日、お前のために初めて作曲を行い、無伴奏フルートのための音楽を奏でた。アントン・ウェーベルンの作品を巧みに模倣した作品で、演奏時間は3分ほどだったが、聴き終わったお前は「気取った芸術家がカッコいいと思い込んで作った音楽みたいね」と真顔で言ったのだ。葉子! この野郎! 私はどうしただろうか? 怒りに震えながらも必死に、暴力だけは、暴力だけはいけないことだと我慢したのではないか? 強風吹き荒れるあの日、海の見える公園のベンチで……お前は真顔で真っ直ぐ私を見ていた。私は顔を真っ赤にし、下唇を噛みしめて、震える拳を強く握っていた……葉子よ。これはお前に捧げる音楽だ。聞いているか? 葉子。私の葉子よ。私の可愛い葉子よ……」


黒い全身タイツの集団、その面々は《金持ち紳士》という印象を与えるその老人のフルート演奏を目の当たりにして物も言わず互いに見つめ合い頷きあった。

ここで取るべき《最良の選択》とは何か。

それぞれが考えている様子だった。

もちろんこの調子に乗って自分のテクニックをひけらかして悦に浸っている老人を、ちょうど手にしている鉄パイプやバール状のもので殺害するという選択肢もあるにはある。

だが、それこそこの老人が望んでいることではないのか。

この老いぼれは我々を煽っている。

明らかに!


黒い全身タイツの集団はフルート演奏に熱中している老人の前を、そのまま素通りして歩いて行った。

距離はどんどん遠ざかった。

やがて、街路の遥か向こうに、集団は消えて行った。

「え?」

目を見開き、老人は演奏を止めた。

一人、街路に立ち尽くしていた。

誰もいなかった。

間違いなくその演奏は彼の人生の中でも最良の演奏だった。

彼は汗だくだった。

全身の筋肉が急速に疲労していき、立っていることもままならない状態になりつつあった。

「俺の人生を……《本物の文化》を愚弄しやがって……糞ガキどもが……次に会ったら問答無用でぶち殺してやるからな……」

老人はフルートを地面に叩きつけた。

フルートは真ん中から折れて、どこかに飛んで行った。

白目を剥き、唇を震わせ、拳を握りしめた老人が延々と

「殺してやる。一人ずつ血祭りにあげてやる……一人ずつ」と呟いていた。


リビングルームで映画を見ていた。

部屋の隅の方には、タオルケットを上に掛けてある血まみれの男が倒れたままである。私は気にしない。


映画の中ではちょうど幸せそうなカップルが海辺で抱き合って濃厚なキスを始めたところだった。

「クチュ、クチュクチュ」という粘液の混ざる音が執拗に発生していた。

「敦夫さん」と女が言い、

男は「真菜子」と言っていた。

背後では甘美なギターの音色が響いていた。


その時に「バゴオン!」という感じの音がして、ドタドタと玄関から何かが走って来た。私は気にしない。

何かが私の後ろで倒れ《凄絶な叫び声》ってやつを出し始めたが、どうでもよかった。

ただうるさいことは事実なので、私は両耳を手で塞いで寝室に駆け込んだ。

倒れた何かが一体何なのかを確認することはしなかった。

「嫌だけど、しょうがないよね……」

私は言って、目を閉じた。

そうすると自分が凄く疲れているんだってことが実感できた。

なんだか深く眠れそうな気がした。

疲れているときには無理をせず眠れるようであるならば遠慮することなく眠った方が良いのだ。

あくびをしながら、私は心の底からそう思ったのだ。

……そのことはほとんどの人が知っていることではないだろうか?



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