大迷界
佐藤万象
序之章
そこが一体どこであるのか、まったく判らないまま彼は立っていた。どうやってここまで来たのか。どこから来たのかさえ、まるで記憶になかった。気づいた時にはここに立っていたのだ。どのような道程を経て、ここまであるいてきたのか、まるで覚えてはいなかった。ただ、わかっているのは、そこが周囲に建造物も何もない、だだっ広い荒れ果てた大地がどこまでも延々と続いているということだけだった。彼は途方に暮れていた。歩いてきた方向を振り返ってみても、ごつごつした石ころだらけの大地が延々と続いているのに過ぎなかった。
タバコでも吸おうとしてポケットを探ったが、タバコもライターもどこにもなかった。
「あれ、可笑しいな。さっき確かに入れといたはずだが、どこかに置き忘れてでもきたのかな…。それにしても、ここはどこなんだろう……。まるっきり見覚えもないし、来たこともないんだよなぁ。まいっちゃうよなぁ」
タバコでも吸えば少しは気も落ち着くし、何とかいい方法が思い浮かぶと思っていただけに、それも当てが外れてしまい少々ガックリしていた。
「何でこんなところにいるんだろう…。この見たことも聞いたこともない場所はどこなんだ。いままで一度も来たこともないし、さっきからだいぶ歩いてきたようにも思えるし、その前の記憶がまるっきり覚えてないのもおかしい…」
いくら考えても自分がこんなところにいるのか、まるっきり思い出せなかった。それにしても、タバコやライターも然ることながら財布やハンカチや腕時計まで、いきなり失くしてしまうなんてことがあるのだろうか。しかも、どこに置き忘れてきたのか思い出せないなどということは、今まで一度もなかったことだけに、彼は茫然自失に陥っていた。
だが、行けどもいけども石ころだらけの荒れ野ばかりで、この荒れ野以外の風景は一向に見えてはこなかった。もう何時間か何十時間歩いたのかわからないほど歩いたのに、荒れ野の果てはおろか三百六十度見渡してみても、闇の中なのに昼間のように遥かかなたまで見えるのも不思議だった。空を見上げても月も星も何も見えなかった。それでも彼は機械仕掛けの人形のように歩き続けた。今までこんなに歩いた経験もなかったが。疲れもまったく感じることなく歩いて行くと、前方に細い川の流れのようなものが見えてきた。河の流れに近づくにつれて彼は水の流れる音を聞いた。この不思議な暗闇の世界に来て初めて耳にする音だった。川に辿りつくと向こう岸を眺めた。
しかし、向こう岸はここよりも一層暗く連なり、向こうがどのような形状をして何があるのかさえ見えなかった。その川沿いをしばらく下って行くと、小さな番小屋のような建物が見えてきた。近づいてみると、その建物はそれほど立派なものではなかったが、かといって見た目は、そんなにみすぼらしいものでもなく極めて質素な建物だった。
彼は誰かがいたら、ここがどこなのか聞いてみようと思い戸を叩いた。
「ごめんください。誰かいませんか。すみませーん……」
すると、入り口の戸が開いて中から若い女が姿を現わした。
「お待ちしておりました。あなたが浅丘伸介さんですね。どうぞ、お入りください」
「ぼくがここに来ることを知っていたんですか……。それに、どうしてぼくの名前が分かるんですか……。そうか、ぼくの名前は浅丘伸介っていうのか…。でも、なぜ今まで思い出せなかったんだろう…」
中に招き入れられながら女に尋ねて、初めて伸介は自分の名前が浅丘伸介であることを思い出していた。
「わたくしには何でも解かるのです。どうぞ、おかけください」
女に勧められて、椅子に掛けながら伸介はまた尋ねた。
「ここは一体どこなんですか。なぜ、どうしてぼくがこんなところにいるのか、まるっきり覚えてないんです。こんなところは来たこともないし、ここに来るまで何十時間歩いたか判りません。それなのに、疲れもしないし腹も減りません。教えてください。ここはどこなんですか」
「ここは迷界というところなのです」
「え、『迷界』、何ですか。それは…、初めて聞く名前なんですが一体どこなんですか。ここは……」
「初めて来られる方は、皆さんそうおっしゃいます。ここはあなた方人間には理解できない場所。動物たちには本能的に解るようなのですが、人間にはもともと備わっていた動物的本能が、進化するについて徐々に失われていったために、今ではその片鱗すら窺い知ることも出来なくなったのです。ですから、あなたのような人間には決して理解できないところとでも申しましょうか。ですが、必ず一度はここを通らなければどこにも行けない場所なのです」
「なんかぼくには難し過ぎてよく解かりません。第一に迷界なんて言葉は初めて聞きますけど、ここはどこなんですか、本当に……。
それに、確かにさっきまで持っていたはずの財布やタバコやライター、それに腕時計まで無くなっているのはなぜなんですか」
「それらの物は、もうあなたには必要ではなくなったからなのです」
「必要ないって…、冗談じゃないですよ。ぼくはね、これから飯を食いに行こうと思っていたところだったんですよ。これじゃ、飯どころかタバコも買えないじゃないですか。ぼくはこれからどうすればいいんですか……」
「あなたはまだ気付かれてはいないのですね。現在、あなたはすでに生体から離脱され精神だけの存在になられたのです」
「精神だけの存在って……、だから、冗談じゃないって言うんですよ。ぼくはこの通りピンピンしているじゃないですか。それを何が生体離脱だとか精神だけの存在だとかって、あまりにも人を馬鹿にしたようなことばかり言わないでくださいよ」
「そうですか…。あなたは、あなた方の言うところの〝死〟というものを、まだ認識していらっしゃらないのですね」
「それじゃ…、ぼくは本当に死んだとでもいうのですか。あなたは…」
「そういうことになるのでしょうね。少なくても、あなたの住んでいた世界の方々にとっては……。あなたご自身の中では死というものを、どのように捉えていらっしゃるかは存じませんが、死とは蝉が脱皮するようなものと考えていただければ解りやすいと思われます。生き物は脱皮することにより一段階高い層に進んで往くのです。
そして永劫の環の中で、それを繰り返すことによって、さらなる進化を遂げようとするのです。そうすることによって、新たなる永劫の環に移り行くことが可能となるのです」
女がいろいろ説明しているが、伸介には迷界も自分が死んだということも、まったく身に覚えのないことであり、第一に迷界という地の果てみたいな場所は伸介自身が、こ れまでに一度も聞いたことのない言葉でもあった。
「待ってください。それはぼくは死んだのかも知れません…。ですが、ぼくには死んだという感覚もないし、なぜ死んだのかまったく覚えもありません。何もわからないまま死ぬのなんて絶対いやです。どうせ死ぬのなら納得して死んで往くのなら構いませんが、これじゃまるで蛇の生殺しみたいじゃないですか。本当のことを教えてください。ぼくはどうして死んだのですか…」
「わかりました。それではお教えいたしましょう…」
女はそういうと、手をポンポンとふたつほど叩いた。すると、別口の扉が開いて変わった衣装を身に着けた若い娘が、お茶の入ったお椀を乗せた盆を持って入ってきた。
「どうぞ…」
と、ひと言うと伸介の前に置いて娘は出て行った。
「さあ、どうぞお召し上がりください。そのお茶は忘却の川を流れる水を沸かして入れたお茶です。そのお茶を服用いたしますと、あなたが忘れている記憶がすべて黄泉返るでしょう。どうぞ、召し上がれ」
「え、記憶が蘇えるんですか…、でも、ぼくは一度も迷界なんていう言葉聞いたことがないしなぁ…。まあ、いいや。じゃあ、頂きます…」
伸介は椀を手に取ると、ひと口だけ口に含んで飲み込んだ。すると、いままで頭で渦巻いていた靄のようなものが、スーっと晴れていくのか分かった。
「どうです。浅丘さん、もう、失われていたあなたの記憶は戻られましたか」
女が微笑みながら伸介に聴いた。
「はい、全部思い出しました、そうか、ぼくはあの時、昼飯を食いに行こうとして横町の角を曲がろうとしたら、脇から走ってきた乗用車にぶつかって自転車ごと弾き飛ばされたんでした…。それから後のことはまったく覚えていませんが……。それじゃ、やっぱりぼくは本当に死んでしまったんですね……」
伸介はあの時の衝撃がまざまざと蘇えり、がっくりと肩を落とした。
「そう気落ちをされることはありませんよ、浅丘さん。普通の方々なら大抵は、自分が死んだということを受容しきれずに、嘆き苦しんでいる方がほとんどですのに、あなたはしっかりと自分の死を認識されておられます。そういうお方は滅多におられません¬¬。もしかすると、あなたは予想以上に早い時期に再生される方なのかも知れませんね」
「え、再生するってことは、ぼくは生き返るってことですか…」
女の言葉に伸介は驚いて聞き返した。
「いえ、そうではありません。再生とは生き返ることではなく、あなたはごく近い定められた時間内に、まったく違う人間として生まれ変わるということです」
「え、生まれ変わる…。じゃあ、ぼくは浅丘伸介という人間はどうなるのですか…」
「はい、それはあなたが生まれ変わる時に、すべて消却されてあなたがこれまで経験されてきた記憶は、何もかもすべて忘れ去ることになるのです。ですから、生まれたばかりの赤ちゃんは純粋無垢。生まれる前の記憶は完全に消去されておりますので、また一から経験を積み重ねて大人になって、死ぬ時が来るまで繰り返されるのです」
「………何だか、解かったようで解からないような話なので、ぼくにはあまりピンと来ないんですが、ぼくはこれからどうすればいいのか判りません。ぼくはどこへ行けはばいいんでしょうか。天国ですか。地獄ですか……」
「いいえ、どちらでもありません。そもそも天国とか地獄などというものは、人間が自分たちの善悪を戒めるために勝手に考え出したもので、そのようなものはここには一切存在しないのです」
「え、天国も地獄も存在しないって…、じゃあ、この迷界っていうのは一体何なんですか…、死んだ人が必ず一度は来るって言ってましたけど、ここも霊界とかいうところの一部なんでしょう…」
「そうです。ここもあなた方のいう霊界に等しいところとでも言いますか、人が死ぬと精神体となって必ずここに辿り着きます。
そして、これからどこへ行けばいいのか悩みます。自分が死んだことを認識できない方は、かなり時間を費やされる方もおりますが、浅丘さんのようにご自分で死を認識されている方はその限りではありませんので、いますぐにでもここの前にある忘却の川を飛び越えて旅立つことが許されています。
さあ、お往きください。早ければ早いほど再生される時間が短縮されます。一日も早く再生されることを祈っております。さあ、どうぞお往きください」
女は立ち上がると入り口の扉を開けた。部屋の中に目映い光が差し込んできた。
「あれ、さっきは真っ暗闇の夜だったのに…」
「いえ、ここには昼も夜もございませんので、あなたが夜と思われたのは、浅丘さんご自身に迷いがあったからだ思われます。何故なら、ここには太陽も月も星も存在しないのですから」
「そうですか…。それではぼくはこれでお暇したいと思います。いろいろお世話になりました。どうもありがとうございました。最後にひとつだけ聞いてもいいですか…」
「どのようなことでしょうか。どうぞ、何なりとお聞きください」
「あなたのお名前を教えていただけませんか…」
「わたくしの名前ですか。わたくしはシンシナ・リンネと申しまして、忘却の川の番人をしている者です。
ああ、それからひとつだけご忠告を申しておきますが、あの忘却の川を渡る時に決して水に触れたり、濡れたりしないようにしてください。
もし、誤って濡れたりいたしますと、あなたは二度と再生ができなくなり、永劫的に迷界から出られなくなりますので、くれぐれもご注意くださいますように」
「シンシナさんですね。でも、水に濡れたり触れないで渡れとおっしゃいましたが、ここから見ても判るように川幅も結構あるようですが、一体どうやって渡ればいいのか見当もつきません」
「浅丘さん。あなたは、もうお忘れですか。いまのあなたは肉体を持たない精神体だけの存在なのですよ。あの忘却の川くらいの川幅なら、ひと跨ぎで飛び越えられるはずです。さあ、お往きください。そして、一日も早く再生できることを祈っております。さようなら…」
「お世話になりました。さようなら」
伸介はシンシナに見送られて、忘却の川の番小屋を後にした。川の畔までくると、改めて対岸の様子を見ようと目を凝らした。しかし、視界がぼやけていてハッキリとしたことは判らなかった。
『やっぱり、向こうまで行って見ないと判らないらしいな…。そろそろやって見るか…』
二・三歩後ろに下がると伸介は助走に入り、充分に加速がついたところで対岸を目指してジャンプした。体は伸介が予想していた以上に軽く感じられ、一気に対岸の下草が生えている地点に着地することができた。
後ろを振り返ってみた。向こうから見ている時と違って、こちらからは対岸の様子がハッキリと見て取れた。シンシナがまだ立っていた。
「ありがとう、シンシナさん」
と、言ったつもりだったが、伸介の声は音声にはならなかった。その代わり伸介の頭の中でシンシナの声がした。
『どうぞ、お気をつけてお往きなさい』
伸介は体勢を立て直すと、下草の生い茂る大地に足を踏み入れた。
しばらく歩いて行くと、至るところにさまざまな動物たちが戯れていた。犬・猫・牛・馬・象・ライオン・虎・山羊・鶏・鳩・兎etc
その中の山羊が伸介を見つけて近づいてきた。
『やあ、こんにちは。あなたもここで再生を待つんですね』
いきなり山羊に話しかけられて、伸介は少し面食らったがすぐに聞き返した。
『へえ、きみは人間の言葉が判るんだね。すると、きみも死んだんだね。だから、人間の言葉が判るんだな…。きっと』
『はい、あなたは最近来られたばかりの方のようですが、どこから来られたのですか』
『ぼくかい。ぼくは日本という国に住んでいたんだ。
それが昼飯を食いに行こうとして出かけたら、横から走ってきた車に撥ねられたらしいんだ。だけど、ぼく自身まったく記憶がなくて、さっき忘却の川の水で沸かしたお茶を飲まされて、やっと思い出すことができたんだよ。
でも、死ぬっていうのは、こういうことだったんだね。だけど、自分ではぜんぜん死んだような気がしないから、本当に不思議なもんだよね』
『そういうものなんですよ。死ぬということは、わたしにもよく判りませんがね』
『きみはここに来てから、どれくらい経つんだい』
『さあ、どれくらいになりまかねぇ。もう、だいぶ長いこと居りますからねぇ。いちいち覚えちゃいられませんよ』
『へえ、そんなに長くいるのかい…。だけどさ、虎とかライオンなんかも一緒だけど、よく襲われたりしないね』
『その心配はいりませんよ。みんな同じ精神体同士ですからねぇ。彼らがわたしらを襲うのはお腹が空いた時だけですけど、彼らもわたしらもすでに精神体になっていますから、その必要もまったくないわけですよ。ですから、ここではみんな和気藹々と仲良くやってますよ』
『そうかぁ…、そう言えば、ぼくもここに来てから何十時間も歩き続けたけど、ぜんぜん空腹感を感じなかったもんなぁ…』
『そうでしょう。わたしなんかも初めてここに来たばっかりの頃は、ライオンの親父さんを見てビビりましたよ。そうしたら、別段襲ってくる様子もないので安心していたんですが、そのうち「ちょっとこっちに来い」という声がしたんで、わたしもやっぱりライオンとか虎は怖いですからねぇ。恐る恐る近づいて行ったら、いまあなたがわたしに話してくれたようなことを、こと細かく説明してくれたんですよ。それ以来、あの親父さんとはずっと仲良く暮らしているんですよ。そうだ。これからあなたのことをみんなに紹介してあげましょう。さあ、行きましょう』
伸介は山羊に誘われるまま、多くの動物たちの屯する草原の真っただ中へと入って行った。周りにはあらゆる種類の動物たちが、思い思いの姿勢でのんびりと過ごしていた。
『まずはライオンの親父さんを紹介しましょう。何と言ってもあの方は、ここでは一番の長老ですからねぇ。こっちにどうぞ』
山羊に連れられてライオンの寝そべっている傍までやってきた。
『こんにちは、親父さん。お休みのところすみません。こんどこちらに来られた方をお連れしました』
ライオンはむっくりと首を持ち上げて、伸介のほうに顔を向けた。
『おお、お前さんかい。こんど来たという人間は…』
『はい、伸介と言います。よろしくお願いします』
『伸介さんか、ここでは名前などはどうでもいいが、それはないよりはあったのに越した
ことはないがね。わしは「親父さん」で通っている。あんたもそう呼んでくれていいよ』
そういうと、ライオンはアクビをひとつするとまた寝ようとした。
『あの…、せっかくお休みのところすみませんが、ひとつだけ聞いてもいいですか…』
『何だね…。遠慮はいらないから何でも聞きなさい。わしに分かることなら何だって教えてあげるよ』
『ぼくはきょう初めて忘却の川を飛び越えて、こちらの世界にやってきました。さっきから見ているんですが、ここにはあなたたち動物の姿しか見かけなかったんですけど、ここにはぼくのような人間はいないのでしょうか…』
『それはいるさ。みんな同じ精神体だからね。人間たちは人間たちでもう少し西のほうに住んでいるよ。お前さん、人間に逢いたいのかね』
『そりゃあ、逢いたいですよ。迷界という、この世界でどんな暮らしているのか、この眼でぜひ見てみたいんです』
『そうかい。それじゃ、連れて行ってあ げよう。モクさん、お前さん案内してあげてくれないかい』
『いいですとも、わたしがご案内いたしましょう。それでは行きましょうか。伸介さん』
『そうしてくれるかい。じゃあ、頼んだよ。さてと、わしはもうひと眠りするかな…』
ライオンは前足に首を凭れかけて、気持ちよさそうにすやすやと寝入ってしまった。
モクさんと呼ばれた山羊は、伸介を伴って西へと向かって歩き出した。
『人間が住んでいるところまでは、どれくらいかかるんだい。まだまだかかるのかい。モクさん』
『おや、伸介さんは、もうわたしの名前を憶えてくれたんですねぇ。何だか知らないけど、とっても嬉しいですねぇ』
『いやぁ、きみには右も左も判らないぼくが、すっかりお世話になったんだから当然だよ』
『ところで、伸介さんは人間の住んでいる場所に行きたいと言いましたけど、何かわけでもあるんですか…』
『うん、ここは死んだ人が精神体となって存在しているところなんだろう。まあ、ぼくも死んじゃったんだけどさ。だったら、もしかすると前に死んだお祖母ちゃんに逢えるんじゃないかと思ったからなんだよ。モクさんはどう思う……』
『うーん、難しい問題ですねぇ。人間の街にはあまり行ったことがないんでねぇ。わたしにもよくはわかりませんが、調べてみれば見つかるかも知れませんよ』
『でも、調べるったって、どうやって調べればいいのか判らないよ』
『じゃあ、人間の町に着いたら誰かに聞いてみたら、何かわかるかも知れませんよ』
話しながら伸介と山羊が歩いて行くと、遠くのほうに小さな町の佇まいが見えてきた。
『ほら、見えてきましたよ。伸介さん。あそこが人間が住んでいる町ですよ。お祖母さんと逢えるといいですねぇ。さあ、行ってみましょう』
山羊も伸介も足を速めていた。やがて町に入ると、和風あり洋風ありとさまざまな建物が立ち並んでいた。その町の通りには、小さな町ながらも国境を越えた人種の人たちが往来していた。
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やっと町の中心地まで辿り着くことが出きた。
『着きましたよ。伸介さん。これからどうします。すぐにお祖母さんを探しますか。それとも、ひと休みしてからにしますか…』
『休むと言ったって、ぼくはそんなに疲れてもいないしなぁ。うーん、どうしようか…、まあ、ちょっと休憩しようか。モクさん』
『はい、そうしましょう。ドッコイショっと』
山羊のモクさんは両足を折ると地べたに寝そべった。伸介も両膝を折ってその場にしゃがみ込んだ。
『どこに行って、誰に聞けばお祖母さんの居場所がわかるのかなぁ。まさか、ここには警察なんかないだろうし…』
『そうですねぇ。わたしも人間のことはよく判らないんですよ。すみませんねぇ。でも、往きあたりばったりに、その辺を歩いている人に聞いて回ってはどうです。そのほうがわりと早く判るかも知れませんよ』
『そうだなぁ…。それしかないのなら、そうするよりないか……。よし、そうと決まればさっそく聞いて回ろう』
伸介は立ち上がると、前方からこちらに向かって歩いてきた、中年の女性を呼び止めて訊ねた。
『あのう…、すみません。ぼくの祖母なんですが、この辺で浅丘信子という人は知りませんか…。八十歳くらいなんですが』
『さあ…、あたしは判りませんね。でも、ちょっと待ってください。友達にも聞いてあげますから』
中年の女は、その場で方々に向けて自分の想念を送った。
『あなたお名前は何とおっしゃるの』
『あ、すみません。浅丘伸介と言います』
『浅丘伸介さんですね。しばらくお待ちになってくださいね』
女は「浅丘伸介さんという方が、お祖母さまの浅丘信子さんの消息を訪ねていらっしゃいます。どなたかお心当たりの方はおりませんか」という想念を送った。
すると、想念を送った女の表情がパッと明るくなった。
『お喜びください。浅丘さん、たった今、あなたのお祖母さまご本人から直接ご連絡がありました』
『え、本当ですか…。それで、今どこにいるんですか……』
『すぐこの近くに住んでいらっしゃるそうです。これからあたしが案内しますから、ご一緒に来てください』
『よかったですねぇ、伸介さん。これでわたしも安心して帰れますよ。それでは、わたしはこの辺で失礼しますよ。はい、さようなら』
『いろいろどうもありがとう。ラインの親父さんによろしく言っといてください。モクさんもお元気でねー』
遠ざかっていく山羊を見送りながら、伸介は必死に手を振りながら見送った。
『それでは、あたしらもまいりましょうか、こちらです。どうぞ』
『すっかりお世話になってすみません。失礼ですが、おばさんもこちらに来られて長いんですか…』
『あたしですか。どれくらい経ちますかね…。ここではあまり時間は関係ないですから、どれくらい経つかなんて数えてみたこともないですね』
『そうですか…。ここでは時間という概念そのものが、ないのに等しいのかも知れませんね。もしかすると、時間なんか気にしているのは人間だけかも知れないなぁ…』
『あ、ここみたいですよ。浅丘さん、あたし先に行って確かめてきますから、ここで少し待っていてくださいな』
女はそう言い残して、一軒の家に向かって歩いて行った。
ものの二分も経つか絶たないうちに、女は足早に伸介のところへ戻ってきた。
『どうでしたか…』
『ええ、ここにお住まいの方は間違いなく、浅丘さんのお祖母さまの信子さんでした』
『あれ、お祖母ちゃんなら、真っ先に飛び出してくると思っただけど、変だなぁ。どうしたんだろう』
『ああ、それなら、ちょっとした理由がありまして、いきなり出て行ったのでは伸介さんがびっくりなさるといけないので、とのことでした』
『え、でも、なぜぼくがびっくりするんですか…』
『それはお逢いになれば分かりますよ。どうぞ、こちらへ』
女に伴われて伸介もついて行った。
『信子さん、伸介さんを連れてまいりました』
入口の扉を開けると、すぐに祖母の声が聞こえてきた。
『まあ、まあ、伸介。よく来たわね』
祖母の姿を見た途端、伸介は頭から冷水を浴びせられたような思いがした。なんと伸介の目の前に立っていたのは、伸介よりも五・六歳は若いと思われる女性だったからだ。
『こ、これがお祖母ちゃん……、ぼくのお祖母ちゃんは八十何歳かで亡くなったはずなのに、こんなに若いはずがないんだ。あなたは一体誰なんですか…』
『まあ、伸介が驚くのも無理はないわね。あたしは正真正銘のあなたの父親伸太郎を生んだ浅丘信子よ。安心なさい。伸介』
『だけど、どうしてそんなに若いんですか。ぼくにはまだ信じられません』
『伸介が信じられないのは無理もないわ。あら、あら、いつまでもそんなところに立ってないで、中にお入りなさい。中でゆっくり話しましょう』
信子はふたりを室内に招き入れた。
『信子さん、あたしはこの辺で失礼しますわ。でも、本当によかったですわね。伸介さん、お祖¬母さまにお逢いできて…』
『あら、あなた、まだいいじゃありませんか。せっかく伸介を案内してきていただいたのに、どうぞゆっくりして行ってくださいな』
『そうですか…。それではせっかくですから、ほんの少しだけお邪魔しようかしら』
案内してくれた女も交えて、三人は席について信子が話し出した。
『ずいぶんになるわね。伸介の顔を見るのも…、何年になるのかしらね。あたしがこちらに来てから…、もっとも、ここではそんなに時間なんて気にする必要もないんだけどね。それでもやっぱり懐かしいわ。何といっても伸介はあたしの孫だものね』
『うん、ぼくも判ってきたよ。姿形は若く見えるけど、やっぱりあなたはぼくのお祖母ちゃんなんだってことが……、でも、どうしてそんなに若返ったの…』
『それはね…。あたしたちが元いた世界では、母親が受精して赤ちゃんが生まれてきて、だんだん成長して大人になって、やがて年老いて死んでしまうでしょう。ところが、ここ迷界ではまったく逆なの…』
『逆…、逆ってどういうことですか……』
『逆っていうのはね。もちろん個人差はあるらしいんだけど、時間が経つに連れてどんどん若くなっていくのよ。あたしの場合は特に若返る時間が早いらしくてね。見てのとおり、いまではこんなに若くなってしまったわ』
『そ、それじゃ、もっと若くなって最後には赤ちゃんになってしまったら、その先は一体どうなるんですか…』
『さあ、どうなるのかしらね…。あたしにも判らないわ。たぶん、また卵子と精子に分かれて、宇宙の真っただ中を漂っていくのかも知れないわね…。
だけど、伸介さん。あなたは少しばかり、こちらに来るのか早すぎたのではありませんか…。あなたの年齢ならあと六十年くらいは、人間界に存在できてもおかしくないたはずなのに、一体どうしたのですか』
『それがね。お祖母ちゃん、突然だったんだよ。さっき、このおばさんには話さなかったんだけど、ぼくが昼飯を食いに行こうとした時に、ついうっかりしてて車に跳ね飛ばされたらしいんだ…。それできがついたら、この迷界の中を彷徨っていたんだよ。でも、お祖母ちゃんに逢えてとても嬉しかったよ』
『そう…、そうだったの…。でも、あたしもうれしいよ。伸介に逢えたんだものね』
『でもさ、お祖母ちゃん…。このお祖母ちゃんって呼ぶのも、ぼくよりも若いのになんだか気が引けるよなぁ。どうしようか……』
『そんなこと、気にしなくてもいいわよ、伸介。間違いなくあたしはあなたのお祖母ちゃんですもの、かわいやしないわよ』
『だけどさ、実年齢はともかくとしても、見かけはぼくよりも若い女性なんだから、何となく気が引けるんだよなぁ…』
『あなたもしつこいわね。あたしがいいって言っているんだから、それでいいでしょう』
『だってさ、知らない人が見たら絶対変に思われるよ』
『しょうがないわね…。だったら信子さんとか信ちゃんって呼びなさいよ。それでいいでしょう』
『信ちゃんか。それいいね。それで行こう。ねえ、信ちゃん』
『なんだか、あなたに言われると気持ちも悪いわねえ…』
『ちえ、何言ってんだよ。自分で言い出したくせに…』
『でね、いいわ。あたしもあなたのことを伸介くんって呼んじゃうから』
『ちえ、勝手に呼びなよ。信子ちゃん』
『あら、いいわね。本当に若くなった気分だわ』
『充分若いだろう。どう見たってぼくより、ずっと若く見えるじゃないか』
『うふふ、そうぉ、ありがとう。伸介くん』
『これで本当に八十四歳かよ。とても信じられないね』
『あら、失礼ね。あたしはまだ八十二歳よ。バカにしないでちょうだい』
『二歳だろうが、四歳だろうがあんまり変わり映えないだろう』
『何を言ってるの、伸介くん。その二歳や四歳の差が大きいんじゃないの。特に女性にはね。冗談じゃないわよ』
『はい、はい、解かりました。どうもすみませんでした』
伸介の祖母の信子は、もうすっかり若い娘に徹しているように言い切った。
『それより、これからどうしようかな…。お祖母…じゃない、信子ちゃん』
『どうしようかなって、何がよ』
『だって、ぼくはここに来たばかりだし泊るところもないしさ、どうしようかと思って考えてたんだ…』
『なーんだ、そんなことで迷ってたの。伸介くんは、それなら安心なさい。あたしのところに泊めてあげるから、だいじょうぶよ』
『え、だって、いくら孫と言ったって若い娘さんのところに、ぼくみたいな男が泊ったら世間の目がうるさいんじゃないの…』
『バカねえ。あなたは、まだそんな人間界の習わしとかにこだわって生きているの。もうおやめなさい。そんな人間界の生き方にこだわるのは、ここは迷界なのよ、迷界には迷迷界なりの生き方があるわ。あなたもそれに早く慣れることね』
『迷界の生き方…、それはどういうことですか…』
『例えば、人間界では生きているとさまざまな縛りがあるわよね。生きていく上で、あれをやっちゃいけないとか、これをやっちゃいけないとかいう縛りが、他人の物を盗めば罰せられるし、もちろん殺人を犯せば即罰せられるわ。
この迷界には、人間界でいうような罪と罰は一切存在しないの。
なぜなら、罪を犯す人がいないから、罰せられたりしないのよ。わかる、伸介くん』
『うん…、わかったような、わからないような…。あれ、さっきぼくをここへ連れてきてくれた人は帰ったの…』
『ええ、あの人なら少し前にもどったわ。どうかしたの、伸介くん』
『うん、お礼を言おうと思っていたのに、帰っちゃったのか…』
『まあ、そんなこと、それなら心の中でお礼の言葉を念じなさい。
そうすれば、きっとあの方の心にも通じるわ。ここは迷界で、あたしたちは精神体なのよ。心で念じさえすればどんなことだって通じるわ。あなたはまだここに来たばかりだから慣れてないだけなのよ。さあ、あなたも今日はあちこちと歩き続けてきたみたいだから、だいぶ疲れたでしょうから、そろそろ休むことにしましょうか』
『休むったって、外はまだ明るいよ。真昼間から寝れるのかい…。信子ちゃん』
『だいじょうぶよ。ここには昼も夜も存在しないところよ。明るいのがいやだったら、いくらでも暗くしてあげますよ』
信子がそういうと、辺りは一気に帳を下ろしたような闇に覆われ、次の瞬間にはふたりのいる部屋だけが、灯りを点したように明るくなった。
『どう、これなら安心して寝れるでしょう。さあ、いらっしゃい。伸介くん』
信子は立ち上がって伸介を促した。
『どこへ行くの…』
『決まっているでしょう、あたしの寝室よ。何十年ぶりになるかしらね。伸介くんと寝るのって、懐かしいわ』
『え、ぼくも一緒に寝るのかい…。信子ちゃんと…』
『当たり前でしょう。だって、ベッドはひとつしかないもの。さあ、行きましょう』
『しかし、ぼくは……』
『何をそんなに恥ずかしがっているの。あなたは、いやだわ。あたしはがあまり若返りすぎたから、それで恥ずかしがっているんでしょう』
『そんなんじゃないけど、しかし…』
『だったらいいじゃない。早く来なさい』
信子は伸介の手を引くと、自分の寝室へ連れて行った。
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『あたしも今日は少し疲れたわ。早く休みましよう。伸介くんも早く服を脱ぎなさいよ』
そういうと信子は身に着けていた衣服を脱ぎ捨てていた。祖母の裸は子供頃に見ていた伸介も、今目の前ある二十二・三歳のピキピキとした裸に、思わず眼を見張ってしまっていた。祖母が若い頃に、これほど見事なプロポーションを持っていようとは、夢にも考えていなかったからだった。
『何をしているの、早く服を脱いでこっちにいらっしゃい。本当に懐かしいわ。また伸介くんと寝られるなんて、うふふふ』
先にベッドに入った信子にせかされて、すごすごと服を脱いでベッドに入ろうとした。
『ダメでしょう。パンツも全部脱がなくちゃ』
『しかし、それは……』
『何をぐずぐずしているの、こまった子ね…』
その言葉を聞いて、伸介はハッとした。その「何をぐずぐずしているの、困った子ね」というは、伸介が子供の頃によく祖母から、よく言われた言葉だったからだ。伸介は覚悟を決めてパンツを脱ぐとベッドに潜り込んだ。
『それでいいのよ。そんなに端っこにいないで、もっと近くにいらっしゃい。遠慮なんかしなくていいのよ。昔なら喜んであたしに抱き着いてきたのに、どうしたの遠慮しなくていいのよ。もっとそばにいらっしゃい、昔なら出もしないあたしのおっぱいを喜んで吸っていたのに、昔のようにもう一度おっぱいを吸ってみなさいよ。さあ、早く…』
そういうと、信子はいきなり伸介を引き寄せて自分の乳房に顔を押しつけた。
『あ、』
いくら祖母とは言っても、まだうら若い女性の胸に顔を押しあてられたのだから、伸介でなくても動揺は隠せなかっただろう。
『何をするんですか、信子ちゃん。いや、お祖母ちゃん。ぼくはあなたの孫ですよ。こんなことをしてはいけませんよ。止めてください』
『何をそんなにうろたえているの、伸介くん。ここは人間界ではなくて迷界ですよ。人間界ならいざ知らず、ここでは心の中で念じたことはすべて可能になるのですよ。嘘だと思ったら、あたしのおっぱいを吸ってごらんなさい。おいしいおっぱいが出てくるはずよ。さあ、遠慮しないで吸ってごらんなさい』
信子はさらに力を入れて伸介の顔を乳房に近づけると、自分の乳首を伸介の口に押し入れた。
『う、ぐぐ…』
途端に伸介の口いっぱいに、信子の乳汁が甘い香りとともに広がって行った。ようやく信子は力をゆるめて伸介を離した。
『どう、おいしかったでしょう。もう伸介くんくらいの歳になると、おっぱいの味なんてすっかり忘れてしまっているはずよ。あなたのお母さんの味を思い出してもらえたかしら』
『確かに懐かしい味がしました…。産後でもないのに本当に乳が出るとは思いませんでした。でも、とてもおいしかったです。お祖母ちゃんのおっぱい』
『ほほほ、それは何よりだったわね。伸介くんにそう言ってもらえると、あたしだってとても嬉しいわ』
伸介はなぜか不思議な気がした。すでに死んでいる祖母と、突発的な事故で死んだらしい自分が、同じベッドの中で裸で抱き合って寝ている。それが迷界という、いままで聞いたこともなかった世界の中で、存在しているということ自体が、伸介にはどうしてもわからない部分でもあった。
『さあ、昔みたいにあたしのおっぱいを吸いながら、ぐっすりお休みなさい。伸介くんは昔とちっとも変わらず、とってもいい子だわね』
信子は伸介を抱きしめると、優さしく頭を撫でてやりながら言った。
『ぼくは本当に死んでしまったんだなぁ…。こんなに若返ったお祖母ちゃんと寝ているんだから、間違いなく死んだんだよなぁ…』
伸介はそんなことを考えながら、いつしか深い眠りに落ちて行った。
翌朝…。か、どうかは定かではなかった。ここ迷界には昼も夜も存在しないからである。とにかく、伸介は目を醒ました。横を見ると信子の姿はすでになかった。
「あれ、どこ行ったんだろう…。年寄りは目を覚ますのが早いからなぁ…」
伸介がそんなことを思っていると、
『おや、もうお目覚めなの…。ずいぶん早いのね。伸介くんは』
信子の声が頭の中から聴こえてきた。と、思っている間に信子が姿を現した。
『うわ、びっくりした…。どこに行ってたの、お祖母ちゃん』
『いや、ちょっと人間界まで行ってきたの。だけど、もう信子ちゃんって呼んでくれないの…。伸介くん、なんだか寂しいわ。あたし…』
『あ、いや、ごめん、ごめん。つい口癖になっちゃてたから、ごめんなさい。信子ちゃん』
『ううん、いいのよ。気にしなくても、だけど、せっかく若くなったんだもの。ここではそのお祖母ちゃんって、いうのだけは止めてくれないかしら』
『わかりましたよ。これからは気をつけますよ。ところで、何しに人間界まで行ってきたの。信子ちゃんは…』
『ええ、すこし気になったことがあったから、あなたの家に行って様子を見てきたのよ。そしたら、家の前にも忌中の垂れ幕も下がってないから、いろいろ調べてみたの…』
『で…、どうしたの…』
『そうしたら、あなたはまだ死んでなかったのよ。あなたが担ぎ込まれたという病院まで行ってみたわ。あなたのお母さんはね。あなたの傍で眼を真っ赤に泣き腫らしながら看病をしていたわ。あなたは意識不明の重体だったけど、まだ生きていたのよ。伸介くん。きっと、シンシナさんのところには、誤った情報が送られてきたんだわ』
『意識…不明の重体か……。だけど、そうしたら、どうしてぼくはここにいるの…。ねえ、ぼくはこれからどうなるの。教えてよ。信子ちゃん』
『いい、よくお聞きなさい。あなたがここにいられるのは、あなたの肉体から精神体だけが抜け出したからなのよ。いずれ人間界のあなたが意識を取り戻したら、もうここにはいられなくなって生き返るのよ。ここで見たことや聞いたことは、ぜんぶ忘れてしまうんだけどね…』
『じゃあ、ぼくはもしかすると生き返るかも知れないんだね。信子ちゃん』
伸介は暗闇の中で、ひと筋の光りを見出したように、ホッとした表情で聞いた。
『それは誰にも解からないわ。自然界の大いなる力だけが知っていることなのよ』
『自然界の大いなる力って、神さまのことなの……』
『いいえ、それも誰にもわからないわ。ここにいる精神体はみんながそう呼んでいるの』
『そうかぁ…、それじゃあ、もしもぼくが生き返ったとしても、この迷界のことも信子ちゃんに逢ったことも、すべて思い出せなくなってしまうのか…。ちょっと淋しい気もするなぁ.もっとも、その時には、そんなことも思い出せないだろうけど…』
『いいえ、あたしがそうはさせないから、安心して』
『え、どうする気だい…』
『あたしには秘密の薬があるの…』
信子はポットから、小さな紙包みを取り出すと伸介に見せた。
『これをね。迷界にしか生えない「天人草」という植物の実なの。この実を呑むと、現在のことも過去のことも絶対に忘れないわ。一時的には忘れることがあるかも知れないけど、いつか必ず思い出すから覚えといてちょうだいね。さあ、あたしも呑むから、伸介くんも一緒に呑んで…』
信子はひと粒の木の実を口に含むと、もうひと粒の実を伸介にも手渡した。
『これで安心したわ。いつになるかはまだ解らないけど、あたしが再生して五歳になったら逢いに行くから、絶対に忘れないで覚えておいてよ』
『うん、わかった。あれ…、何だか急に眠くなってきた…。どうしたんだろう……』
『そういえば、あたしもだわ…。いま呑んだ天人草のせいかしら、我慢できないわ…。もう一度休みましょう…。伸介くん』
ふらふらとした足取りで、信子は伸介の手を引いてベッドに歩み寄って行った。ふたりはそのままベッドに倒れ込むと、寝息も立てないほどの深い眠りの中に落ちて行った。
それから、どれくらいの時間が過ぎたのかは定かではなかったが、伸介は深く長い眠りから目覚めた。
伸介は体を起こすと周りを見渡したが、そこは信子の部屋ではなく広大な平原の真っただ中だった。
『あれ…、ここはどこだろう…。たしか信子ちゃんの部屋で寝ていたはずなのに、こんな平原の中に寝ているなんて…、信子ちゃんはどうしたんだろう…。信子ちゃーん』
伸介は思わず信子の名を呼んでいた。 しかし、その声は大平原のかなたで空しく木霊するばかりだった。同じ迷界にも関わらず、その草原には大空を羽ばたく鳥も、地を這う虫一匹さえも見つけることができなかった。
伸介は、また途方に暮れた。せっかく祖母である信子に廻り逢えたのに、また独りぽっちになってしまった寂しさは、何物にも例えようのないほどの虚無感であった。
『信子ちゃん、お祖母ちゃん……』
信子への想いを募らせながらも仕方なく歩き出した。突然見知らぬ世界で眠りから醒めて、また当てもなく歩き続けることが、伸介に与えられた唯一の自由とでもいうように、周りの風景など眺めることもなくひたすら歩き続けた。
それから、また何十時間かが過ぎって行ったが、最初の時よりはましだなと伸介は思った。初めてきた時は真っ暗闇で何も見えなかったが、少なくてもいまはまったく変化は見られないものの、音もなく風に揺れる壮大な草原がそこにはあった。
『もう、どれくらい歩いたかなぁ…」
伸介は時計を見ようとして、ここに初めてきた時にすでに失くなったのを思い出して苦笑した。
『ここは同じ迷界でも、信子ちゃんといた世界とはだいぶ違うようなんだけど、どうしたんだろう…。人も動物も虫けら一匹さえ見当たらないなんて、これは絶対におかしいぞ…』
伸介は一生兼懸命に何かを考えているようだった。
『そうだ。思い出した。信子ちゃんが確か、あの時こんなことを云っていたな。「迷界では心に念じたことは、すべて現実することができるのよ」って、ということはぼくにも出来るってことじゃないか…。どうして、いままで気がつかなかったんだろう…』
伸介は改めて周囲を見渡してみたが、そこには相変わらず¬蒼茫とした草原が、緩やかなうねりを見せているだけだった。
『このままじゃ、ダメだな……。このままひとりで歩き続けていたら、体力はともかく精神的に参ってしまう…。ぼくも人間のいる場所を想い描いてみるか…』
「人間の住んでいる町か村に辿り着け…」
そう心で念じながら、さらに数時間歩き続けた。
うつむきながら歩いていた伸介が、ふと顔を上げて前方に視線を移すと、はるか彼方のほうに何やら建物らしいものが見えてきた。
『やったー。町だ。町だぞー。ぼくだって、やればできるじゃないか。ぼくはまだ迷界に来たばかりだから、慣れていなかっただけなんだな。きっと…』
歓喜の叫びにも似た声を張り上げて、伸介は人が住んでいるしい街並みを目指して走り出していた。全力をあげて走り続けて伸介は町に辿り着いた。その前にいた町と違って、街路にも人影がまばらでひっそりとしていた。往来する人も老人ばかりが目立っていた。しばらく歩いて行くと、ひとりの老人に声をかけられた。
『そこのお若いの…。お前さん、この辺じゃ見かけん顔だが、どこから来たんじゃね…』
『ぼくですか…』
『そうじゃよ。お前さんだよ。ほかに若い者が歩いとるかの…』
『ええ、そう言われれば先ほどから見ていたんですが、この町はお年寄りの方が多いようですね』
『お前さんにもそう見えかの…。ここはの、わしらのような再生することを止めた者たちだけが、住んでいる町なんじゃよ。そんな町に、どうしてまたお前さんのような若いのがやってきたのかの…』
『はい、実はぼくはまだここに来たばかりなんですが、祖母に出逢っていろいろな話をしていたんですよ。そうしたら、いつの間にか眠ってしまって祖母と逸れてしまって、気がついたら何もない大平原のようなところにいたんです。
何時間も歩き続けたんだけど、人が住んでいるような町も何も見つからずに、ぼくは「どこでもいいから、人のいる町が見つかるように…」って、心の中で念じてみたんです。最初は何も変化はなかったんですが、そのうちにこの町が見えてきたので、喜び勇んでやってきたというわけなんです。でも、よかった…。おじいさんのような人がいてくれて…』
『そうかい、それは大変だったのう。じゃがの、ここはお前さんのような若いものが来るところではないんじゃが、これからお前さんはどうする気なのかの…』
『はい、出きればお祖母ちゃんのところに戻りたいんですが、何か元に戻る方法はないでしょうか…』
『ないこともないがの…。どうしてお前さんがお祖母さんと逸れたのか、詳しい話を聞かせてもらえんかのう』
『いいですよ、ぼくはまだ完全に死んではいないらしくて、精神体だけが肉体から離脱した状態らしいんです。お祖母ちゃんはいま再生の途中で、すでにぼくよりも若返っていました。そのお祖母ちゃんが云っていたのですが、もしも再生して五歳になったらぼくに逢いに来るっていうんです。
その時のために、約束したことをお互いに忘れないようにと、テンジン草の実を呑んだんです。そうしたら急に眠くなってきて、ふたりとも眠ってしまったんです。そして、目覚めた時にはお祖母ちゃんいなくなっていて、ぼくだけがひとりでこの草原にいたんです…』
伸介がそれだけいうと、老人は頷きながらこう言った。
3
『そうかい。それで分かったわい。確かにあのテンジン草の実は、約束したことや過去のことを忘れないという効果はあるがの、一時的に約束したひとと引き離してしまうという副作用があるんじゃよ。しかし、それも幻覚の一種じゃからの、心配はいらん。もし、お前さんがもう一度そのお祖母さんに逢いたいのなら、お前さんが寝ていたという場所に戻り、改めて眠ることじゃよ。そうしたら眠りから醒めた時はお祖母さんのところに戻ることができるじゃろう。さあ、これからすぐに戻りなされ』
『はい。じゃ、ぼくはこれからすぐ戻ります。どうもありがとう、おじいさん』
『ああ、達者でな。お若いの…』
『はい、おじいさんもお元気で…』
老人に別れを告げると、伸介は来た道を帰って行った。歩きながら「早くたどり着け、早くたどり着けつけ…」と、心の中で念じ続けた。来た時は何十時間もかかった道程も、伸介の祈りが通じたのかわずかな時間で、どうにか元の場所まで辿り着くことができた。
伸介が寝ていた場所は起き上がった時、そのままの形で草が倒れこんでいた。老人に言われたとおり、すぐさまそこに横たわると伸介は間もなく深い眠りについた。
どれくらいの時間を眠っていたのか、伸介にはわからなかったがやがて眠りから醒めた。伸介が眼を開くと、自分をやさしく見つめている信子の顔があった。
『ずいぶんぐっすりと眠っていたわ。やっぱり相当疲れていたのね。伸介くんは…』
『あ、信子ちゃん…、逢いたかったよ…』
伸介はとっさに信子にしがみついた。伸介の頬が信子の柔らかい乳房に触れた。
『あら、あら、どうしたのよ…。伸介くん、よほど怖い夢でも見たのね。可哀そうに…。さあ、あたしのおっぱいでも呑んで、もう一度ゆっくりお休みなさい』
そういって信子は自分の乳首を伸介の口に含ませた。
『さあ、そうやってゆっくり休みなさいね。伸介くん』
『うん、そうするよ。でも、ぼくの手をしっかりと握っていてくれないかな…。もう信子ちゃんと離れ離れになのはいやだから…、頼むよ…』
『わかったわよ。しょうがない子ね。これでいい……』
信子が手を握りしめてやると、伸介は安心したようにゆっくりと眠りの中に落ちて行った。そして、また夢を見ていた。今度は信子と一緒の夢だった。ふたりして、あの草原の 火中を歩いている夢だった。すると、またあの町が見えてきた。ふたりでしばらく歩いて行くと、どこからともなくあの老人が現れた。
『よお、お若いの、また逢えたのう。おや、今回はお祖母さんと一緒かの…。これはまた、えらいべっぴんさんのお祖母さんだのう…』
『あ、おじいさん、この前はありがとうございました。お陰でお祖母ちゃんのところに戻ることができました』
『ほう、それはよかったのう。それにしても、本当にべっぴんさんじゃのう。こちらのお方は…』
『孫がすっかりお世話になったそうで、ありがとうございました』
信子は老人に礼をいうと深々と頭を下げた。
『そんなことは気にせんでくだされ。お前さん…、もしや浅丘信子という名だった精神体と違いますかいのう…』
『ええ、そうですけど、どうしてあたしの名を……』
『おお、やっぱりそうか。あんたのことは、あんたの亭主だった伸之介から、しょっちゅう聞かされとるからのう』
『まあ、あのひとがあたしのことをどんな風に言っているんですの…』
『おお、やはり気になりますかいのう…。伸之介はの。それはもう、いまでも信子さん、あんたにベタ惚れなんじゃと、奴が言うには若い時分に初めて逢った時から、惚れて惚れて惚れぬいていたんだと、そして親の反対を押し切ってまでして、所帯を持ったとか言っとったな。いやはや、聞いているこっちのほうが恥ずかしくなるような、熱烈な恋愛だったそうだな。あんた方は』
『まあ、あのひとがそんなことを…。それでしたら、どうしてあたしに逢いに来てくれないのかしら…』
『それはじゃのう。ここはみんな、わしらのような再生の道を拒んだ者だけが、住んでいるところだからなんじゃよ』
『え、どうして…、どうしてですの。どうして再生されるのを拒んだりするのですか。せっかく生まれ変われるというのに……』
『わしらはのう。もう、これでいいと思っている者ばかりなんじゃよ、それに何回再生されようとも人間の人生なんてものは、それほど自分の都合のいいようにばかりはならないからのう。だから、わしらはここにいる限りは、死んだ時のままの姿を維持できるから、ここにいることに決めたんじゃよ。精神体には人間や動物と違って寿命というものがないからのう』
『いいえ、そんなことはないと思いますよ。もしも、生まれ変わることができるのなら、それなりの違った人生が待っていると思いますよ。あたしは…』
『あんたはおそらく初めて再生されるのだろうのう…。わしも最初の頃はあんたと同じようなことを考えとったものじゃよ。自分から再生しようと思っている時には解からなかったがのう。いざ、再生を止めてみたらはっきりと見えてきたんじゃ。その時初めて、再生を繰り返すことの虚しさをしみじみと知ったんしゃよ。だから、ここに住んでいる者はみんな、再生する虚しさから解放されて安楽な暮らしを送っているんじゃ。まあ、あんたが再生を望まれているのなら仕方がないが、そのうちにわかると思うがのう。再生を繰り返すことの虚しさを…。さて、わしはそろそろ行ってみるかのう…。どっこいしょ……』
『おじいさん、元気でね…』
伸介は老人に別れを告げたところで眼が醒めた。
『いまのおじいさんは、伸介くんを通してあたしにメッセージをくれたのね。きっと…』
『え、信子ちゃんにはぼくがみた夢がわかったの…』
『それはわかるわよ。なんて、言ったって、伸介くんはあたしの孫だもの。それにここは迷界よ。あなたは、まだ来たばかりだから解らないのよね。もう少し時間が経つと慣れるわよ。そうだ、これから伸介くんを人間界に連れてってあげるわ』
『え、そんなことか出来るの……』
『できるわよ。あなたはまだ完全に死んだわけじゃないから、様子を見せてあげるわ。さあ、ついていらっしゃい』
信子はそういうと、伸介と手をつなぐと何かを念じたようだった。すると次の瞬間、ふたりの姿は太陽の光がまばゆく降りそそぐ地上に立っていた。ふたりが現れたのを誰も気づく様子もないのをみて、不思議に思って伸介は信子に訊いた。
『ねえ、ぼくたちがいきなり現れたのに、誰も気がつかないみたいなんだけど、どうしたんだろう…』
『バカねぇ。あなたは、あたしたちはすでに精神体になって、この世界に存在していないのよ。見えるはずがないでしょう』
『え、それじゃ、ぼくたちはつまり…、幽霊ってことなのかい……』
『バカだねぇ。まったく、とうしてそういう非科学的なことばかりいうのかしら。いい、よくお聞きなさいよ。そもそも、幽霊とかお化けなんてものは、人間が勝手に創りあげたものなのよ。あたしたちにはまったく関係がないのよ。あたしたちは精神体だってことをもっと自覚しなさいよ。伸介くん。その証拠に自分の足元を見てごらんなさい、影が見えないでしょう』
『あ、ほんとだ。影がない…。これじゃあ、やっぱり幽霊と一緒じゃないか…』
『だから、違うって言っているでしょう。幽霊というのは人間が生み出した産物で、この世で受けた恨みとか辛みとかが積み重なった、怨霊という形で出てくるものだわ。あたしたちとは無縁のものだわ。それとも、伸介くんには何か人を恨んだりするようなことでもあるの…』
『いや、そんなものはないけどさ…。現にぼくたちがここにいるのに誰にも見えないんだよ。それって、やっぱり幽霊と同じじゃないのかなぁ…』
『だから、違うって言ってるでしょう。いいわ、そのうちわかると思うから。さあ、早くいらっしゃい。ここよ、あなたが運び込まれた病院は』
信子は伸介の手を引くようにして病院に入って行った。
『二階の二〇八号室だったわね。こっちよ。いらっしゃい』
そのまま、病院の玄関先から信子と伸介の姿は消え、次の瞬間、伸介が入院している病室の中で実体化していた。
『あ、ぼくが寝ている…。でも、何だか自分が寝ている姿を自分で見るのって、変な気分だよな…。あれ、母さんがいない…。どうしたんだろう…』
『おおかた、おトイレにでも行っているんでしょう。でも、ごらんなさい。あなたの顔、もうすぐ死ぬような人の顔には見えないでしょう。きっと蘇えると思うわ。安心なさい。でも、まだもうすこし時間がかかりそうだけどね……』
そこへドアが開いて、白衣を着た医者らしい男とともに伸介の母親が入ってきた。
『あ、母さん……』
「先生。この子ったら、もう丸二日も経っているというのに、未だに気がつきませんのよ。本当に助かるんでしょうか……」
「お母さんにもお見せしましたが、レントゲン写真では骨や内臓にも異常は見られませんでしたから、ほぼ間違いなく回復すると思いますよ。それにしても、今回の事故は本当に奇跡に近いんですよ。普通ならあれほどの事故でしたら、まず頭を強打しますから頭蓋骨はいうまでもなく、体中の骨が砕けて内蔵なんかもやられて当然なのですが、お宅の息子さんはまさに強運の持ち主とでも言いますか、私なんかも今回のような例は初めてでして、少し驚いているくらいなんです」
「それでは本当に助かるんですね。この子は…」
「大丈夫ですよ。お母さん。あと一日か二日の辛抱ですから待っていてください。それから、何かありましたら、そこのナースコールで読んでください。それでは私はこれで…」
「先生にそう言っていただいてホッとしました。本当にありがとうございます」
「では、お大事に、私はこれで…」
「どうも、ありがとうございました。どうも…」
伸介の母は、何度も何度も主治医の医師に頭を下げて見送った。
『これではっきりしたわね。あなたは死なないのよ。生きているんだわ。安心したでしょ。さあ、帰りましょう。伸介くん、迷界へ…』
担当の医師から、伸介が回復すると聞かされた母は、安堵の色を見せながら伸介の看病に当っていた。
ふたたび迷界に戻ってきた伸介は、信子にふとこんなことを聞いた。
『ねえ、信子ちゃん、やっぱり死んでなくても精神体って、人には見えないし幽霊みたいなものなんだろうなぁ…。きっと』
『だから、なんべん言えばわかるのよ。あたしたちは精神体なのよ。もっともあなたは、まだ完全な精神体にはなっていないからだけどね。それに幽霊なんていうのは、人間が自分たちで勝手に創りあげた想像の産物だって、何回言えばわかるのかしらね。あなたは…』
『うん。そりゃあ、頭の中ではわかっているんだけど、ぼくたちのことは他の人には見えないし、それに影だって地面に映らないだろう。だから、妙な気分がしているんだよ…』
『もういいわ。そのうち、あなたにもハッキリとしたイメージで解かる時がくるわよ』
『そうかなぁ…、でも、なんかこう妙な気分なんだよ。自分で自分の姿を眺めているのっていうのは……』
『人間ってね、誰だって死んだら一度は自分の死んでいる姿を見るものなのよ。あなたの場合は、死んだわけでもないから特別なのよ。だから、不思議に思うのね。きっと…』
『ふーん…、そうなのか…。でも、何だかまだスッキリしないんだよなぁ…』
『そうだ。いいことがあるわ。あたしのお友だちの娘さんを紹介してあげるわ。とってもいい娘よ。きっとあなたの気分も変わると思うの。さあ、一緒にいらっしゃい、紹介してあげるから…』
信子は伸介の手を握ると、一瞬にして見慣れない家の前に立っていた。
『ほら、ここよ。ちょっと待っていてね。いま呼んでくるから…』
家のドアを開けて信子は中へ入って行ったが、間もなくひとりのブロンドの髪の少女を連れてもどってきた。
『紹介するわ。これがあたしの孫の伸介よ。伸介くん、こちらあたしのお友だちのお孫さんでキャッシー・エルベルト。仲良くしてあげてね』
『ぼく、困るよ…。信子ちゃん…。英語なんてぜんぜん話せないし、会話とかどうすればいいか、わかんないよ…』
『まだそんなこと言っているの。伸介くんは、ここは迷界だってことを忘れているようね。ここでは言語も国も人種もすべて、何もかもが隔たりなく解放されているのよ。だから、伸介くんだってここに来た時、山羊のモクさんと話ができたから、ここまで連れてきてもらったんじゃないの。もう、忘れてしまったの…』
信子に言われて伸介は何となくわかったような気がした。
『それじゃ、このキャッシーとも自由に話せるんだね』
『オー、イエス、そのとおりよ。伸介、よろしくね』
『さあ、伸介くんも納得したようだし、ふたりで、どこかに行ってくるといいわ』
『うん、そうするよ。行こうか。キャッシー』
『ええ、行きましょう。どこ行こうか…』
信子は満足そうにふたりを見つめていたが、何を思ったのかキャッシーを呼び止めた。
『あ、ちょっと待って、キャッシー。この子はね。伸介くんはね、まだ精神体が不安定なままなの…。交通事故に遇ったらしくて、伸介の精神体が生体との間で彷徨っている状態だと思うのよ。本来なら、まだここへはやってくる存在ではないはずなのに、何かの手違いでシンシナさんのところに通知か入ったから、伸介くんもつい迷界に迷い込んできたというところなのよ。だから、キャッシーもその辺のところを頭の中に入れておいて付き合ってほしいのよ。お願いね』
『ええ、わかったわ。そうします。行きましょう、伸介』
信子に見送られて、キャッシーの家を後にしたふたりだった。
『ねえ、これから、どこに連れて行ってくれるんだい。キャッシー』
『そうねえ、どこ行こうかしら…、そうそう、いいところがあるわ。ついていらっしゃい、こっちよ。伸介』
キャッシーは先に立つと、どんどん歩いて行く。伸介もそのあとに続くようについて行くより仕方なく、キャッシーの後に付いてどこまでも歩いて行った。
4
それでも、なかなかたどり着かなくて、伸介はイライラし始めてキャッシーに聞いた。
『いったいどこまで連れて行くんだい。キャッシー…』
『もうすぐよ、伸介。ほら、見えてきたわ。あれよ』
キャッシーの指さすほうを見ると、こんもりと茂った森が見えてきた。
『へえ、なんだい。あの森は…』
『あの森はね。迷いの森っていうのよ』
『なんだい、その迷いの森っていうのは…。なんか薄気味の悪い名だけど、危険なことはないのかい…』
『だいじょうぶよ。わたしに任せておいてちょうだい。さあ、行きましょう。伸介』
伸介はキャッシーに連れられて森に近づいて行った。一歩ずつ森の中に踏み入ってみると、木々の生い茂っている感覚も遠目で見ていたより、思ったほど密集しておらず深い森にしては、樹木の合間より割と遠くまで見渡せる森だった。
『けっこう深い森のように見えたけど、ずいぶん遠くのほうまで見えるじゃないか。どうして、この森が迷いの森なんて言うんだい…』
『それはね。伸介は、この森に誰かと一緒に入って、もし、そのひとと逸れちゃって離ればなれになると、もうそのひととは二度と逢えなくなるっていう電設があるの。だから、伸もわたしから離れちゃダメよ。
もしも、わたしと逸れでもしたら大変なことになるのよ。わたしたちはそれっきりになって二度と逢えなくなるんだからね。だから、絶対にわたしから離れちゃダメよ』
『なんだ。そんなことを心配していたのか、ぼくはもう四才や五才の子供じゃないんだから、そんなことあり得ないから安心しなよ。キャッシー』
『そんならいいけど…、でも、ほんとに気をつけてよ』
『わかったよ。じゃあ、行こうか。キャッシー』
森の中は深閑としていて鳥の鳴き声さえ聞こえてこない。
『ホントに静かだね。ここは…』
『そうよ。だから、ここを迷いの森っていうのよ。ここにいると、周りがあまりにも静か過ぎて自分が、どこにいるのかわからなくなってしまうほど、静かだから最後にはついに迷ってしまったのではないかと、錯覚してしまうんですってよ。
だから、ここにいるひとたちは、この森にくる時は決してひとりでは来ないらしいの』
『ふーん、だけど、きみはどうして、ぼくをそんな危険なところに連れてくる気になったんだい…』
『だってぇ、わたしだってそんな噂のあるところに、ひとりで来るのってやっぱり怖いじゃない…、ホントはね。わたしも一度はここに来てみたかったんだぁ。
そしたら、信子さんがあなたのことを紹介してくれたじゃない。このチャンスを逃したら、もう絶対に来られる機会はないと思ったから誘ってみたの。悪かったかしら…』
『いや、そんなこともないけどさ…、しかし、きみもなかなか好奇心の強い娘だね。日本人の女の娘なら、そんなことは考えもしないだろうな。きみの生まれた国はどこだったんだい…』
『え、わたしの生まれた国…、アメリカだったわ。アメリカのテキサス州の外れの小さな町だったわ…。わたしの先祖は開拓時代の頃、遠くヨーロッパのほうから渡って来たって聞いたわ』
キャッシーは昔を思い出すように、目を細めて寂しそうに微笑んだ。
『ふーん、だけど、どうして、きみは迷界なんかに来るようなことになったんだい。その若さで…』
『わたし…、殺されたの。銃で撃たれて…』
『え、何だって、きみが撃ち殺されなくちゃいけないんだい…』
伸介は驚いて聞き返した。
『伸介にはわからないかも知れないけど、アメリカは銃社会なのよ。どんな家庭にでも、拳銃やライフルの1丁や二丁はあるの。あなたには分からないと思うけど、それがアメリカって国なのよ。西部開拓史時代からの伝統だとかで、誰も進んでは手放そうとはしないの。だから、町では銃撃戦や強盗事件がしょっちゅう起こっているわ』
『へえー、ぼくもテレビのニュースとかで見たり話しにはよく聞くけど、そんなにひどいのかい。アメリカって国は…』
『ええ、ひどい国だったわ。あそこは…、あの日もそうだったわ。わたしが街に出て買い物を済ませて店から出てくると、反対側の店から銃を手にした男が飛び出してきて、突然乱射をし始めたの。わたしも危険を感じてどこかに身を隠そうとしたんだけど、大きな荷物を抱えていたから咄嗟には動けなくて、わたしは運が悪かったというかしらね。いきなり流れ弾に当たってしまって、気が付いた時にはこの迷界にいたってわけなの』
『そうか…、それはえらい目にあったんだね。キャッシーも、ここに来てからはだいぶ経つのかい。きみは』
『それがよくわからないの…。ここはわたしたちが生きていた世界と違って、時間というものがまったく感じられないでしょう。だから、どれくらい経ったのか…。短いような気もするし、ものすごく永い時間が経ったようでもあるし、まるで見当もつかないわ…』
『そうか、確かにそれはあるかも知れないな…。ぼくもここに来たばかりの頃は、自分がどこにいるのかさっぱり判らなくて、かなりの長い時間その辺をほっつき歩いていたんだけど、全然時間なんて気にもならなかったし、疲れとか空腹感なんかもまったく感じなかったのは、生身の人間じゃないからだったんだね』
『でも、あなたはいいわよ。まだ本当の精神体になっているわけじゃないんだもの。そのうちにきっと生き返れると思うわ』
『でも、ぼくみたいに完全に死んでないのに、精神体となって迷界にくるのは非常に珍しいケースだって、誰だかは忘れてしまったけど誰かに言われたよ』
『そうでしょうね。わたしもこんな経験は初めてだもの…』
『だけど、きみの生きていた時代っていつ頃なの…。つまり、西暦何年頃とかはわかるだろう…』
『ええ、それなら分かるわよ。そう、あれはアメリカの第三六代大統領。ジョン・F・ケネディがダラスの街で暗殺された翌年だったから、確か一九六四年だったと思うわ』
『え、一九六四年…。じゃあ、きみはもうここに来てから五七年も経っているのか…』
『そういうことになるかしらね…』
また、そこでキャッシーは寂しそうな微笑みを浮かべた。
『でも、いいの。わたしは待つわ。どんなに時間がかかろうとも、いつかは再生される時が必ずくると信じているから、そしたらもう一度人生をやり直すの。
今度こそ、自分に与えられた命を全うできるように頑張ってみるわ。途中で何の理由もなく、他人に命を奪われる人生なんて御免だわ。そうは思わない、伸介』
『そうだね。ぼくも精神体じゃないけど、生き返ったらもう一度精いっぱい生きてみよう。いままでは、あまりにもダラダラ生きてきたような気がするし、もっと一生懸命になって生きる努力をしないと、今度は本当に迷界にきた時、どんなことになるか判ったものじゃないからね』
『でも、偉いわよ。伸介って、あなたのような仮初めにも事故に遇って、たまたま迷界に迷い込んできたのは偶然に過ぎないのに、そこまで考えられるなんて素晴らしいことだわ。あなたはきっと、間もなく元の世界に戻られるでしょう。わたしには判るの…。ねえ、約束して、あなたが元の世界に帰って、わたしも再生されて生まれ変わったら、いつかどこかの街で逢いましょうよ。その時は思い出せないかも知れないけど、きっと思い出すから約束して、いいでしょう。伸介』
『それは、まあ構わないけど…、これでふたり目だなぁ…』
『え、何が……』
『いや、ぼくが蘇生したら、いつか逢いに行くからって言われたの、キャッシーでふたり目だなと言ったんだよ』
『え、もうひとりの人って誰…。ねえ、教えてよ。伸介』
キャッシーは興味津々といった表情で、目を輝かせて伸介の腕を握りしめながら訊いた。
『ぼくのお祖母ちゃんの信子ちゃんだよ。信子ちゃんは自分が再生して、五才になったらきっと逢いに行くから、そのことを忘れないようにって、ぼくにテンジン草の実を飲ませてくれたんだ。だから、きみでふたり目なのさ』
『オー、信子ちゃんはわたしも大好きよ。あのひとはとても優しいし、とてもきれいなひとですもの、わたしのとても好きなひとのひとりだわ』
こうして、そんな話をしながら、ふたりはどんどん森の奥へと踏み入って行った。しかし、どこまで行っても普通の森と変わらない佇まいに、伸介は飽きてきたのかキャッシーはの手を引くようにして訊いた。
『ねえ、キャッシー。ここは迷いの森なんて言うけどさ、どこまで行っても、何の変哲もないただの森じゃないか。もう、そろそろ帰ろうよ。ぼくはだんだん飽きてきちゃたよ』
『あともう少しだけ我慢して付き合って、もう少し行くと小さな泉があるらしいの。これも噂に過ぎないんだけど、その泉に願い事をするとどんなことでも叶えられるって言われているところなのよ』
『やれやれ、こんどは希望の泉か…、迷いの森に希望の泉。いったい、どうなっているんだい。この森は…』
伸介は少しイライラした口調で言ったが、いくぶん考えるところがあったのか、こんどは真面目な表情になってキャッシーに聞き返した。
『願い事が叶うっていってもさ、それって、例えばどんなことでも叶うのかい…』
『噂だけだから、詳しいことは誰にもわからないの。単なる伝説の域を出ないただの噂よ。誰も信じてなんかいないわ。だけど、伸介はどうしてそんなことを気にしているの……』
『だけど、伝説とか言い伝えっていうのは、昔実際にあったかどうかは分からないまでも、見聞きしたことを人には差し去りのないように、遠回しに語り継がれてきたものなんだと思うんだ。アメリカのほうではどうなのかは知らないけれど、ぼくの生まれた日本ではみんなそうやって、親から子へ子から孫へと語り継がれてきたのが伝説なんだ。いくらここが迷界だからといっても、人間が死んだら必ずくるところでもあることだし、そういうことも何かしらの拘わりを持っているんじゃないかと思うんだ。キャッシーにはわからないことかも知れないけど…』
『日本の伝説のことはよくわからないけど、伸介の言っていることは何となくわかる気がするわ。アメリカは日本や中国などと比べたら、それほど長い歴史は持ってないかも知れないけど、アメリカにだって少なくとも伝統はあるわ。かつてヨーロッパから多くの人たちが新大陸に渡ってきて、アメリカという国を建国したという伝統と誇りを持っているのよ。だけど、あなたのいう日本の伝説のようなものは、残念ながらわたしたちの国には存在しないわ』
『そんなことは、別に気にしなくてもいいよ。だけど、もうだいぶ歩いたけど、その泉っていうのはまだなのかい…』
『もう、そろそろだと思うんだけど、わたしも始めてきたからよくわからないのよ』
『でもさ、さっきからずいぶん歩いたようにも感じられるけど、一向に泉らしいものなんて見えないよね。ただガムシャラに歩き回っていてもダメなんだよ。よし、ぼくがあちこち周って隈なく探してみるから、きみはここで待っていてくれていいよ』
『あ、ダメよ。伸介、もしもわたしと逸れたら、わたしたちは二度と逢えなくなるって言われていのよ。あなた解かっているの。伸介』
『だいじょうぶだよ。それもただの言い伝えなんだろう。そんなこといちいち気にしてたらら、何もできないじゃないか。ここは迷界なんだし、ぼくのいた人間の社会なんかよりよっぽど安全だと思うけどな…。そんなに心配だったらお互いに呼びかけ合って、ふたりの存在を確かめながら行けばいいだろう。これでキャッシーと離ればなれになることもないと思うんだけど、これでもまだ心配かい…』
『うーん…、それなら逸れることはないかも知れないけど…、でも、気をつけて行ってよ。お願い…』
『うん、分かった。じゃあ、行ってくる』
こうして伸介はキャッシーと別れて、さらに森の奥深くへと分け入って行った。しかし、この間も伸介はキャッシーとの交信は、怠ることなく続いていた。それからどれくらい歩いたのか、時間の経過する間隔がまるでない迷界では、キャッシーと別れてから一時間くらい経ったのか、それとも一年が経過したのか見当もつかないまま、ただひたすら歩き続けた伸介だったが、やがて遠くのほうの木立の合間からキラキラ輝いて反射する、光のようなものが伸介の眼に飛び込んできた。
『あ、あれかも知れない…、見つけたかも知れないぞー。キャッシー聞こえているかい。ぼくはついに「希望の泉」を見つけたかも知れないぞー』
だが、伸介がいくら希望の泉を見つけて、歓喜に満ちた呼びかけを送っても、キャッシーからの応答は返ってくることはなかった。
伸介の脳裏に不吉な予感が走った。キャッシーの身に何か異変か起きたのではないか。そう思うと居ても立ってもいられず、伸介はいま来た道を大急ぎで取って返していた。来た時はあんなに長く感じられた道も、引き返すつもりで走っていくと、たちまたキャッシーと別れた場所まで辿り着くことができた。たが、辺り中を見回してみてもキャッシーの姿は影も形もなかった。
『ぼくとキャッシーは逸れたわけでもないのに、どうして離ればなれになってしまったんだろう…。もしかしたら逸れたりしなくても、この森の中では少しでも離れて姿が見えなくなると、こういう現象が起きるのかもしれないぞ。もし、このまま二度と逢えなくなるんだとしたら、そんなのは絶対いやだなぁ…。何とかしなくっちゃ……』
そんなことを考えながら、さっき見つけた希望の泉のある方向を目指して引き返していった。すぐに泉のある光の反射を見つけた茂みの近くに着いた。茂みをかき分けて前進して行くと、それほど大きくもない泉が水面には波一つなく、静寂そのものを絵に描いたような姿を現した。
『なるほど、ここが希望の泉か…。本当に静かな泉だよなぁ…。キャッシーの話だと、どんな願い事でも叶えてくれるって言ってたけど、本当に叶えてくれるんだろうか…。本当だったら、ぼくもひとつお願いしてみようかな…』
伸介は泉の畔に腰を下ろすと正座した。
『希望の泉よ。本当に願い事を叶えてくれるのだったら、ぼくの頼みも聞いてほしい。キャッシー・エルベルトと二度と逢えないなんてことのないように、それから、ぼくは間違って迷界に来たらしいけど、一日でも一時間でも早く生き返らせてくれ。お願いだからぼくの望みを叶えてくれ……』
伸介は泉に向かって深々と頭を下げて心から念じた。すると、泉の中心地点に大きな水泡が膨れ上がったかと思うと、ボコッという音を立てて弾けると、波紋も残さずにまた元の静寂が甦った。
『ああ、泉はぼくの願いを聞いてくれたのか……』
伸介は感無量の思いで立ち上がると、泉に向かって深々と頭を下げると来た道を戻って行った。
生キャッシーが気がかりで居たたまれない思いで、彼女と別れた場所まで戻ってきた。
『キャッシー、どこにいるんだぁ。いたら、返事してくれぇ』
心の中で伸介は何度となく、キャッシーに呼びかけの念を送り続けた。幾度となく繰り返し念を送り続けたが、キャッシーからの返答は返ってくることはなかった。
『希望の泉はぼくの願いを聞いてはくれなかったのか……』
そんな疑心暗鬼に駆られながら、伸介はその場にひとりで立ち尽くしていた。
5
自分の期待どおりに事が運ばず、すっかり打ち拉がれた伸介はガックリと肩を落とすと、力なくまるで夢遊病者のよう歩き出した。宛てもなく、ただひたすら歩き続けた。
『何故なんだ…。希望の泉は、確かに願いを聞いてくれたじゃないか…。それなのにキャッシーは戻ってこない…、どうなっているんだ…、あああ…』
やっとの思いで、森が途切れかけている辺りまで来ると、伸介はもう一度森のほうを振り返ってみた。
キャッシーに話を聞いた時は、半分以上は信じていなかったのだが、こうして実際にキャッシーがいなくなってみると、「迷いの森」の言い伝えはやはり本当だったのかという思いが、何かしら得体の知れないものを伴いながら、これまで味わったこともない恐怖のようなものを、ひしひしと感じている伸介だった。
身を震わせて歩きながら、自分の浅はかさを恥じた。こんなことになるのだったら、どうしてあの時キャッシーをひとりにしてしまったのかという、悔やんでも悔やみきれないものが伸介の中に残されていた。
伸介は森を抜け出ると、またトボトボと歩き出した。信子の家に着いた頃には、迷界に来てから初めて心身ともに疲れ切っていることに気がついた。力なくドアを開けて中に入ると、ゲッソリと疲れ切った様子の伸介を見た信子が言った。
『あら、あら、どうしたの、伸介くん。そんなにゲッソリした顔して…、一体なにがあったの…。それに一緒に行ったキャッシーはどうしたのよ…』
思わず伸介は信子に駆け寄って行って抱きついた。抱きつきながら泣き叫ぶように言った。
『信子ちゃん、ぼくはどうしたらいいんだろう…。キャッシーが…、キャッシーがいなくなってしまったんだ。うわあぁ……』
伸介はまるで母親に逸れた子供のように泣きじゃくった。
『そんなに泣かなくていいから、訳を話してごらんなさい。伸介くん』
子供をなだめるような仕草で、伸介の背中を撫でてやりながら、
『さあ、話してごらんなさい。何があったの…』
『うう…、あの後、キャッシーに誘われて「迷いの森」言ったんだ…。森にまつわる言い伝えも聞かされたけど、そんなことはぼくは信じなかったんだ。ふたりで森に入ってしばらく行くと、今度は「希望の泉」のことを聞かされたんだ。ふたりで探してみようということになって、方々探し回ったんだけど結局見つけることができなかったんだ。それでぼくひとりで探してくるから、ここで待っててって言ってキャッシーとは別れたんだ。その間もぼくとキャッシーは、念を通じて連絡を取り合っていたんだよ。だけど、迷界では時間の間隔がないから、どれくらい歩いたかわからなかったけど、そのうち木陰の間からキラキラ光るものが見えたんだ。ぼくは直感でそれが希望の泉だと分かったんだけど、キャッシーに連絡を取ったら何の反応もなかったんだ…』
『もういいわ。伸介くん、わたしにはもう全部わかったから、ありがとう』
伸介の話を聞いていた信子は、伸介が全部話し終わらないうちにそれを制した。
『え、もうぼくの心の中を読み取ってしまったのかい…。信子ちゃんは…、さすがは精神体だ。すごいや…、ぼくにはとてもできないし、まるで神業みたいだ…』
『当たり前でしょう。あなたは、まだ完全な精神体じゃないんですよ』
『だけど、ぼくはどうしたらいいんだろう…。キャッシーは行方不明になってしまうし、希望の泉にはもう一度逢わせてくれるように頼んできたのに、結局のところはこのまま逢えないんだろうなぁ…』
『でもね、伸介くん。わたしも希望の泉のことはよくわからないんだけど、希望の泉は伸介くんに返事をくれたんでしょう』
『うん、そうだよ。泉の真ん中に大きな泡みたいなのが涌いてきて、ボコッという音がして割れたんだ。あれはたぶんぼくの願いに対する返事だったんだと思うんだ。きっと…』
『それなら、あまり心配いらないわ。伸介くんはキャッシーが行方不明になったと思っているかもしれないけど、あれもテンジン草と一緒で一時的なものなの。生体である人間世界と違って死ぬことはないのよ。だから、そんなに心配いらないわ。キャッシーもそのうちにきっと戻ってくるわよ』
『でも、一緒にいたひとが突然いなくなることは、とても寂しいことなんだよ。信子ちゃん…。信子ちゃんが死んだ時にも、ぼくはそれをつくづく感じたんだからね……』
『そう…、あの時そんなに哀しんでくれたの…。ありがとう、伸介くん』
『当り前だろう。ぼくにとっては、たったひとりのお祖母ちゃんだもの…』
『まあ、うれしいことを言ってくれるわねえ。この子は…』
見かけは伸介より若くは見えていても、実際には八十代で他界した信子には、伸介の自分を思ってくれる言葉に、つい熱いものが込み上げてくるのを抑えられない様子だった。
『ねえ、それより、キャッシーはどうなるんだろう…。ぼくはそれを思うと気がかりで、居ても立ってもいられない心境なんだ…。ねえ、どうなるんだろう…。信子ちゃん』
『どうにもなりはしないわよ。迷いの森で離ればなれになって、行方知れずになったとしても、あれは一種の幻覚みたいなもので生身の人間ならいざ知らず、わたしたちは精神体なのよ。精神体であるキャッシーは再生される日がくるまでは、どこにも行きはしないわよ。安心なさい。伸介くん』
『うーん…、幻覚なのか…。たけど、ぼくが探し回っていた時キャッシーは、どこでどうしていたんだろう。ぼくの姿は見えなかったんだろうか…。あんなに探し回っていたのに見えなかったんだろうか……』
『それが、幻覚作用なのかも知れないわね。わたしもよくはわからないけど…』
『ぼくの生きていた世界も、ややこしいことばかり多かったけど、迷界も結構いろいろとややこしいことがあるんだね。ホントに…』
『人間界だって迷界だって、そんなに変わりはしないのよ。伸介くん』
『そうなのかぁ…、ぼくは迷界っていうから特別なところかと思っていたのに、あんまり人間界と変わらないのかぁ…』
『そうよ。だけど勘違いはしないでね。迷界では人間界と違って盗みとか殺人といった、犯罪行為は一切存在しないのよ。人間界で犯罪を侵し例え死刑になったひとでも、迷界では罪を問われないの。ただ、そのひとの過去を降り返させられて、徹底的に反省を促させられるから、もう二度と犯罪を侵そうなどとは思わなくなるのよ。
だから、ここではみんなが平和でのんびりとした生き方ができるのよ。伸介くんもここに来てからいろいろ見てきたからわかるでしょう』
『そうか…。だから、ぼくが逢った動物たちもみんなのんびり暮らしていたんだね。ぼくをここまで案内してくれた、山羊のモクさんやライオンの親父さんたちも、ゆったりのんびりと暮らししていたものなぁ…。
普通の世界なら自然の動物たちは喰うか喰われるかの、弱肉強食の修羅場のはずなのに、ここの動物たちはみんなのんびりと生活してたものなぁ…』
『でもね。動物たちはいいのよ。自然の世界では、強い物が弱い物を捕らえて自分自身の餌にする。これが動物たちに生きるために与えられた、自然の法則だから仕方がなたがないけど、迷界ではそれからも解放されるから、ああやってみんなのんびりと生活していけるのよ。
そんなことより、伸介くんは早く自分が復活することを考えなくちゃダメよ。いつまでも中途半端なままで迷界を彷徨っていると、再生された後で伸介くんにどんな悪影響があるかわからないのよ。だから少しでも早い時期に復活しなくちゃいけないわ」
『そんなこと言われたって、ぼくにはどうしたらいいかわからないよ……』
『うーん…、それもそうなんだけどね…。何かいい方法がないのかしらね…』
『あんまり気にしなくてもいいよ。ぼくも信子ちゃんと逢えたことだし、これでよかったのかも知れないよ。それに、そんなに心配しなくてもそのうち復活するだろうから、それまでのんびり待つよ。ぼくはまだ完全な精神体ではないんだから心配いらないよ』
『伸介くんって強い子だわね。わたしの孫ながら感心したわ。それにしても、何とかして少しでも早く伸介くんが復活できるような、いい方法を考えなくてはいけないわよね…』
『だから…、そんなに急がなくったっていいってば、ぼくは完全な精神体になっているわけじゃないんだから、必ず復活できるんだからもっとのんびり行こうよ。それにぼくは、もっともっと迷界のことを見ておきたいしさ。ぼくが復活したら、ここで見たことや聞いたことは、全部忘れてしまっているかも知れないけど、その時はその時で構わないと思っているんだ…』
『あら、そんなことないわよ。この前ふたりで一緒に天神草の実を飲んだじゃないの。あれの効き目はちょっとやそっとのことでは切れないから、絶対に忘れることなんてないのよ。だから、あなたが復活したとしても、これまでに見たことや聞いたことは、完璧に思い出すことができるから、まったく心配いらないのよ』
『へえ…、そうなのかぁ。それじゃあ、信子ちゃん再生されて五才になったら、逢いにくるって言ったことも忘れないでいられるんだね。よかったぁ…』
伸介は自分が意識を取り戻した時に、迷界で見聞したことやいろいろな体験してきたことを、決して忘れることなく必然的に記憶が覚醒されると聞かされた伸介は、内心ほっと胸を撫で下ろす心境だった。ここで出逢った祖母の信子やキャッシー・エルベルト。それに迷界に来たばかりの頃、初めて声をかけてくれた山羊のモクさんや、いろいろ指示を出してくれて、信子のところまで連れて行くようにと、モクさんに頼んでくれた心優しいライオンの親父さん等々。このまま記憶の中に、そっと留めて置かなければならないことばかりだった。
時間というものが存在しない迷界に、人間界でいう一日か二日が経った頃、伸介の前に突然キャッシーが姿を現した。普通なら驚くはずの伸介も取り立てて驚く様子もなかった。また、そうした感覚が不思議なものに感じながらも、伸介は平然とした表情でキャッシーに話しかけていた。
『やあ、キャッシー。戻ってきてくれたんだね。やっぱり希望の泉はぼくの願いを聞いてくれたんだぁ…。よかったじゃないか』
迷いの森でキャッシーと離ればなれになった時、あれほど嘆き苦しんだはずなのに、どうしていまの自分がこんなに冷静でいられるのか訝しかったが、それでも伸介は何もなかったようにキャッシーに話しかけていた。
『あの時、キャッシーの姿が急に見えなくなって、ぼくは必死になって探し回ったんだけど、どうしてもきみを見つけることができなかったんだ。キャッシー、きみはあの時どこに行ってしまったんだい…』
すると、キャッシーも実に訝しそうな表情で言った。
『それがわたしにもよくわからないの…。あの時の記憶がまるで消えてしまったみたいで、気がついたら家のベッドで寝ていたの…。ホントよ…』
『ふーん…、と、いうことは、あれも幻覚の一種だったのかも知れないな…。もしかすると、あの迷いの森に行ったこと自体が、幻覚そのものだったのかも知れないぞ。いや…、そんなこともないな…。ぼくは確かに希望の泉に行って、キャッシーが戻ってくるように祈ったんだし、現にこうしてキャッシーも帰ってきたんだからな。ああ…、もう何が本当で何が幻覚なのかわからなくなってきた…』
『ねえ、伸介。あれ幻覚なんかじゃなくて、わたしたちはふたりとも夢を見ていたのよ。きっとそうだわ。みんな夢だったのよ。いい例がわたしだわ。気がついたらベッドの中で寝ていたんですもの、こんなことが現実に起こるはずがないわ。ぜーんぶ夢だったのよ。オホホホホ、ハハハハハ』
キャッシーは気が動転しているのか、最後のほうの言い回しは少し様子がおかしくなりかけていた。
『キャッシー、きみは疲れているらしいから、ぼくのほうはもう大丈夫だし、きみは早く家に帰って休んだほうがいいと思うんだけどな…』
伸介に言われるとキャッシーは、そのままさよならも告げずにフラッと帰って行ってしまった。伸介もキャッシーを見送ると家に戻ったが、信子もまた怪訝そうな表情で何かを考えているようだった。
『どうしたの…、信子ちゃん。こんなところで何をしているの…』
『何かがおかしいのよね…。きょうのキャッシーもそうだけど、そもそもよ、実際には死んでもいない伸介くんが仮の精神体なんかになって、迷界にやってくること自体が尋常ではないことだし、通常なら絶対にあり得ないことなのよ。このことにシンシナさん自体が気がつかないくらいなんだから、本当に何かがおかしくなっていることは確かだわ……』
『でも、何かがおかしい変だといっても、それが一体どういうものなのかも解らないんじゃ、どうするこしもできないんじゃないの…。それをもっと詳しく調べる方法はないのかい…。信子ちゃん』
『うーん…、調べる方法ねぇ…。ないこともないけど、だけどそれは雲を掴むよりも難しい話だわ…』
『え、あるのかい…。でも、何なの…。その雲を掴むより難しい話って…』
『伸介くんは解からないと思うけど、迷界には大いなる神をも越えるようなものが、存在しているっていう言い伝えが残っているの。それは記憶の大老というらしいんだけれど、その存在がどういうものなのか、どこに存在しているのかどんな姿をしているのか、迷界のひとも誰ひとりとして知っている者がいないっていうの』
『ふーん…、じゃあ、そんな雲を掴むような存在なら、とてもじゃないけど探すのなんてことは無理な話みたいだね。信子ちゃん』
『わたしは、そんなこともないと思うの…。言い伝えとか伝説が残っているってことは、どこかにその根拠があるからだと考えてみるのが当然だわ。だからね。これからふたりで探しに行きましょう。伸介くん』
『ええ、これからって、そんな当てもないことなのに、どうやって探そうっていうんだい』
『伸介くん。あなた西遊記っていうお話しは知っているでしょう…』
『ああ、知っているよ。それがどうしたかの…』
『それなら話は早いわ。西遊記はね。玄奘三蔵という偉いお坊さんが、王様の命を受けて長安から天竺まで長い時間をかけて、有難いお経をもらいに行く話なのよ』
『知ってるよ。それくらい、そして途中で孫悟空や猪八戒・沙悟浄を家来につけて、いろんな妖怪や化け物たちと闘いながら旅をするって話だろう』
『そうよ。そして、わたしたちがこれから出かける旅は、三蔵法師や孫悟空たちの旅に勝るとも劣らない、いや、それ以上困難な旅になるかも知れないのよ』
『へえ、そんなに大変な旅になるのか…』
『そうよ。だから、さしずめ伸介くんが三蔵法師で、わたしが孫悟空ってとこかしら』
『だったら、あとふたり足りないな…。やっぱり旅は多いほうがいいよ。楽しいしさ』
『そんなこと急に言われても、わたしには心当たりがないわわ…』
信子に言われて、伸介は何かを考えていた
『そうだ。いいのがいたよ。信子ちゃん』
『え、それは誰なの…』
『ぼくが迷界に来たばかりの頃、初めて逢ってここまで連れてきてくれた、山羊のモクさんとライオンの親父さんだよ。でも、これから頼みに行くとしてもだいぶ遠いな…』
『それなら大丈夫よ。また、あのひとに頼んでみるから…』
信子は目を閉じると誰かに念を送っていた。すると、間もなく新介を信子のところまで案内してくれた、中年の女がやってきた。
『ごめんください。あら、あら、伸介さんもお揃いでお元気そうで何よりですわ。それで、山羊のモクさんとライオンの親父さんに連絡を取ってくれということでしたけど、ここに来てもらえばいいんですかしら…』
『はい、そうです。あ、それから、この前はここまで連れてきて頂いたお礼も言わないままになってしまって、どうもありがとうございました』
『いいえ、いいんですよ。そんなことは、それではさっそくやってみましょう…』
女はしばらく念を送っていたが、閉じていた眼を開くと伸介のほうに向きなおった。
『連絡が取れましたわ。ここからはかなり離れているようでしたけど、ここは迷界ですから間もなく着くと思います。では、わたしはこれで失礼しますわ』
女は帰って行ったが、人間界の時間で三十分経つか経たないうちに、山羊のモクさんとライオンの親父が到着した。
6
『やあ、伸介さん、しばらくじゃのう。わしも人間の街にくるのはひさしぶりなんじゃが、わしはやっぱり野っ原の真ん中でゴロゴロしとるのが一番性に合っとるわい。さてと、ところでさっきの小母さんが送ってきた話によると、記憶の大老がどうのこうのとかいう話じゃったが、わしも記憶の大老のことは聞いたことはあるが、それがどういうものでどこにおるのかというと、誰ひとりとして知っている者がおらんというのだから、これ以上始末の悪いものはないというところなんじゃ…』
『ところで、これからわたしらは一体どうすればいいんです。伸介さん…』
モクさんが心配そうな顔で伸介に聞いた。
『ぼくたちはこれから、信子ちゃんときみたちを含めた四人で、記憶の大老を探す旅に出たいと思っています。さっき親父さんが言ったように記憶の大老そのものが、一体どのようなものなのか、どこにどのようにして存在しているのか誰ひとりとして、そのはっきりとした素性すら解からないという、探し出すまでに人間界の時間で百年掛かるのか、二百年掛かるのかはいまのところまったく解かりません。探している途中でぼくのほうが早く復活するかもしれません。その時は、それに越したことはありませんが、それまでどうかぼくにみなさんの力を貸してください。お願いします』
伸介の話が終わると、ライオンの親父さんが勢い良く立ち上がった。
『よーし、そうと決まればグズグズしてはおられんぞ。わしら四人だけなどという、ケチ臭いことは言ってないで迷界中の動物たち全員に呼びかけて、何かわかり次第わしのところに知らせるように、大鷲のおっかさんにも頼んできてくれないか。モクさん』
『へーい、そういうことでしたら、わたしに任せておいてください。それではみなさん、わたしはこれからちょいとばかり行ってきますので、ごめんなさいよ』
モクさんは勢い込むようにして出かけて行った。
『よかったじゃないの。伸介くん、ライオンの親父さんの協力が得られたら百人力よ。ホントによかったじゃない』
『うん、助かったよ。どうもありがとう、親父さん』
『なーに、別に気にするほどのことでもないですぞ。伸介さん、これもわしのひとつの罪滅ぼしのつもりでね…。いや、何もそうたいしたことでもないですから、あんまり気にせんでくだされ…。それではモクさんが帰ってくるまで、わしはこの辺で少し横にならせてもらいますぞ。ヨッコラショ…』
ライオンの親父はその場に横たわると、前足に顎を乗せてスースーと寝息を立てて寝入ってしまった。
時間の経過がほとんど感じられない迷界でも、しばらく経った頃に山羊のモクさんが戻ってきた。すっかり寝込んでいる親父さんを見てこう言った。
『ただいま戻りましたよ。親父さん。やれやれ、暇さえあれば寝てばかりいるんだから、歳には勝てませんねえ。まったく…』
『うーん、ムムム…、何か言ったか。モクさん』
モクさんの声が聞こえたのか、ライオンの親父はむっくりと起き上がった。
『いや、何でもありません…。大鷲のおっかさんに逢ってきましたよ。
おっかさんに聞いてみましたが、記憶の大老のことはおっかさんにも知らないそうです。でも、ひとつだけアドバイスをもらってきましたよ。わたしには、よく意味が分かりませんでしたが、なんでも、轟き山のほうに行けば、何かわかるかも知れないとのことでした』
『何、轟き山だと、それはまたエライ遠方じゃのう。うーむ…、轟き山か……』
『なんですか。その轟き山ってのは……』
ふたりの話を聞いていた伸介が、ライオンの親父に訊ねた。
『うむ、そうだな…。人間の世界で言えば、日本からインドくらいのところにある山だ』
『ええ、インドだって…、それじゃ、ますます西遊記じゃないか。信子ちゃん。どうしよう…』
『どうしょうたって、行くしかないじゃないの。いくら遠くたって』
『だって、インドだろう。何万キロもあるじゃないか…』
『バカだね。この子は、あんたも男の子でしょう。もっと意地を出しなさいよ』
信子はすっかり元の伸介の祖母、浅丘信子に成り代わっていた。
『迷界には河はあるけど、海はないんですからね。これからすぐ出かけましょう。親父さんもモクさんもよろしくお願いしますよ。うちの三蔵法師さまは情けないお方なんですから…。さあ、みなさん。参りましょうか』
こうして信子と伸介、そしてライオンの親父と山羊のモクさんは、遥か遠くにあるという轟き山を目指して出発して行った。
行き先も場所もはっきりとは分からないまま、果てしもない旅に出かけてきた伸介一行だったが、中国四大奇書のひとつされる西遊記のような、妖怪変化には出くわすこともなく平々凡々とした旅が続いていた。
『ねえ、伸介さんに信子さん。わたしゃね、結構のんびりしているように見えますが、あちこちと旅をして歩くのが好きなんですよ。旅をしていると普段は見られないような、いろんな風景が見られるでしょう。あれがなかなかいいですねぇ。なんか、こう心が洗われるようで清々しい気分になれるんですよ』
後ろのほうから、ゆっくりとした足取りで付いてくる、ライオンの親父を顧みながらモクさんが言った。
『それにしても、こう何にも変わったことも起こらないと、たいくつでかなわんな…。うーむ…』
親父はだれにいうともなく、独りごとのようにつぶやいた。
『あら、平和でいいじゃないの。それに、ここは迷界なんですからね。そんな妖怪なんて出るわけもないじゃない』
『いんや、そんなこともないかも知れんぞ。迷界というのは、わしらの想像もつかないほど広いと訊いておる。もしかすると、宇宙的な規模のものかも知れんて。だから、この迷界のどこかには妖怪変化や、想像を絶するようなどんな魔族が棲みついておるやも知れんのだ…。気をつけるのに越したことはないのじゃ』
『ええ、そうなの…、迷界ってさ。何もかも平和で安心できるところだと思っていたのに、どうしよう。信子ちゃん…』
『心配しなくてもだいじょうぶよ。伸介くん、いざとなったら、この信子孫悟空さまが三蔵法師さまをお守りいたしますわ。オホホホホ』
『守るといったって、信子ちゃんは孫悟空みたいに觔斗雲を呼んだり、いろんなものに変身できるのかい…』
『あのぉ、そんなにバカにしないでいただけますか。わたくし浅丘信子は、こう見えましても現在では迷界に身を置く精神体でございますのよ。普段ならともかく、いざという時にはどんな力でも発揮して三蔵法師さまを護りますわ。だから、大船に乗ったつもりで安心してちょうだい。伸介くん』
『へえ、そうなのか…。精神体になると、そういう力も自由自在に使えるのか。と、いうことは、ひょっとしたらぼくにも何かそういった、念力とか何かを操ることもできるのかしら…』
『あなたには無理かもしれないわね。だって、あなたはまだ本物の精神体じゃないもの…、無理だと思うわ』
『そうか、やっぱり無理なのか…』
『あら、そんなにガッカリしないで、あなたの本体はいま意識不明でいるから、本体を離れて精神体の伸介くんが迷界にいるわけでしょう。ようするに半分半分で中途半端な存在なわけよ。とにかくどっちつかずの存在だとしても、どっちつかずの何かができるかも知れないわね…』
『え、本当かい。信子ちゃん』
『ううん、まだわからないけどね。でも、そんなに慌てることもないよ。必要な時がくれば自然淘汰的に自分でも気がつかないうちに、使えるようになるかも知れないじゃない』
『そういうものか…。うん、そうだね。いまのところは、そんなものが必要ないくらい平和だし、じゃあ、みんな頑張って行こうか』
『はい、かしこまりました。お師匠さま』
『おや、おや、信子さんはもうすっかり西遊記気分に浸っていますねぇ。と、なれば、わたしはさしずめ沙悟浄ってところで、親父さんは猪八戒というところですかねぇ』
『おい、おい、モクさんや。そう勝手に決めつけないでくれんかのう。猪八戒といえば、大の色好みで大食漢の豚の化け物ではないか。わしはそんなものはどうも好かんな…』
『まったく親父さんのくそ真面目にも困ったもんですねぇ。洒落も判らないんだから…、洒落ですよ、洒落。とにかく旅は楽しくなくちゃいけませんからねぇ。楽しく行きましょうよ。ねえ、伸介さん』
モクさんは先頭に立って歩き出した。その後ろから伸介と信子が続き、ライオンの親父さんは相変わらず最後尾をゆっくりと着いてくる。まったく時間の経過が感じられない迷界の旅は、誠にゆったりとした足取りで過ぎて行き、かなり歩いてもどれくらいの距離を歩いたのかさえまったく定かではない。
『もう、だいぶ歩いたような気もするんだよなぁ。だけど反面では、まだそれほど歩いたような気もしないのも、ここが迷界だからなのかなぁ。何だかよくわからなくなってきたけどさ…』
『そうよ。人間界では時間に追われ、時間に支配され縛られたように生きてきたけど、迷界ではすべて解放されているのよ。伸介くん、なぜだかわかる…。迷界は精神体の世界だからなのよ。わたしたち精神体の存在している迷界というのは、人間と違い時間という枠に左右されない別次元の世界なのよ。伸介くんも覚えておくといいわ。あなたもいづれは来るところなのだから…』
遠方に見えている風景のほうも、徐々にその様相を変えつつあり、山肌やそれらを取り巻く植物層も異様な雰囲気を漂わせながら、まるで彼らの行く手を阻んでいるかのように、間もなくそこに辿り着くであろう彼らを、待ち構えているように迫ってきていた。
『ふうーん…。わたしたちもだいぶ歩き続けてきたみたいだから、いよいよ誰も足を踏み入れたことのない領域に来たみたいね。いくら旅の好きなモクさんはだって、こんなところまでは来たことがないでしょう』
『ええ、わたしも随分あちこちと歩きましたが、こんな常識はずれで異様なところには来たことがありませんねぇ』
『迷界にもこんな変なところもあるのかぁ…。何だか背筋がゾクゾクしてきたぞ…』
モクさんの話を聞いた伸介は、武者震いをするように体をブルと震わせた。
『それはな。伸介さんよ、何と言ったって迷界は宇宙的な規模なんじゃから、何があったっておかしくないんじゃ。こんなことぐらいで、いちいち驚いていた日には、終いには心臓がひっくり返ってアカンベーをしてしまうぞ』
ライオンの親父さんに言われて、伸介は身が引き締まる思いがしてまた歩き始めた。
森の中に入ってみると、その森もまた妙にギクシャクとした感じのする森だった。
『何だぁ…、この森はまるでバランスがメチャクチャじゃないか…。どうして木の根っこが上のほうにあるんだろう…』
伸介がいうとおり、ちらっと見た目には普通の森のようなのだが、何故かここに生えている樹木の根っこは、枝葉を伸ばすような感じでみんな上を向いて広がっていた。
『こんな薄気味の悪い森は、一刻も早く通り過ぎてしまいましょうよ』
信子がいうと、ライオンの親父さんもこう付け加えて賛成した。
『わしもだいぶ永いこと迷界におるが、こんな気持ちの悪いところは初めて見た。こういうところには長居は無用じゃ。伸介さんはわしの背中に乗りなされ。信子さんはモクさんに乗せてもらうといい。いいかな、一気に駆け抜けるから振り落ちないように、しっかりと掴まっていてくだされよ。モクさんも用意はいいかな…』
『ガッテン、任せおいてちょうだいよ』
『よし、それでは出発進行じゃ。それ…』
伸介と信子を乗せてライオンの親父と山羊のモクさんは、怪かしの森を一刻も早く抜け出ようと疾風(はやて)のような勢いで走り出した。
『さすがは百獣の王だけのことはありますね。親父さん、こんなに早いとは思いませんでしたよ』
『なに、こんなのはまだ序の口よ。なんならもっと早く走ろうか』
『いや、もういいですよ。それにあんまり速く走ると、モクさんたちが追いついて来られないから…』
ようやく森の外れが見えてきたようだった。それを見た親父さんは走りに拍車がかかったように、一層スピードを上げて走り抜けて行った。
森から抜け出ると、そこから先は地平線も見えないほどの砂漠が延々と広がっていた。
『うわぁ…、森の次にはサハラ砂漠よりも広そうな大砂漠かぁ……』
果てしもなく広がる砂漠を見て、伸介は思わず絶句してしまった。
伸介は親父さんの背中から降りると、背伸びをしながら方々を眺めまわしてみたが、砂以外のものは何ひとつとして発見することはできなかった。
『ううーむ…、わしもこれほど広い砂漠を見るのは初めてじゃわい』
そんな話をしているうちに、信子を乗せたモクさんもようやく到着したようだった。
『わあぁ、こんなに大きな砂漠を見るの、わたし初めてだわ』
開口一番。信子が口にしたのは、あまりにも広すぎる砂漠に対する歓喜の声だった。
『ねえ、ねえ、伸介くん。この砂漠の向こう側にはいったい何があるのかしら…』
『さあ…、砂漠だからなぁ。砂しかないんじゃないの…』
『ん、もう、伸介くんったら、まったく夢がないんだから、もっと違うセリフがあるでしょう…。伸介くん』
『違うセリフって言われてもなぁ…。あ、そうだ。これだけ広い砂漠だったら、もしかすると、この砂漠のどこかにもの凄く巨大な蟻地獄みたいなのが棲んでいて、その巣の中に人間が滑り落ちて行くのを待っていたら、怖いだろうぁ…』
『キャー、やめて、気持ち悪いわ』
『いやぁ、ごめん、ごめん。別に信子ちゃんを脅かすつもりはなかったんた。ホント、ごめんよ』
『伸介さん、悪いですよ。そんなに女の子を脅かしちゃ』
モクさんに注意されて、砂漠を眺めながら話をしている伸介たちの背後のほうで、突然ボコッボコッという大地を揺るがすほどの振動が響いてきた。何ごとかと振り向いた一同の眼に飛び込んできたのは、いままでそこに在った怪かしの森が、もの凄い勢いで砂漠の中に沈みこんで行く姿だった。
そして、みんなの見ている眼前で森の在った場所は、忽然と消え失せてしまい周囲の砂漠と一体化して、すっかりと静まり返っていた。
7
普段はおっとりとしているモクさんも、いささか驚いた様子でライオンの親父に言った。
『いや、いや。わたしたちも、もう少しモタモタしていたら、危なかったみたいですねぇ。親父さん』
『まったくじゃのう。わしもいま森が沈んでいくのを見ながら、体中の毛が逆立つ思いがしたわい。ほんに恐ろしいところらしいのう。この辺りは…』
『でも、こんなところに取り残されてしまって、わたしたちどうするのよ。周りは砂漠ばかりだし、これからどうするのよ…。ねえ、親父さん、モクさん……』
『そうさなぁ…。周りは砂漠ばかりで、どっちがどっちとも判らないじゃったら、このまま前に向かって進むしかないだろうなぁ…。じゃがな、こんな場合はまっすぐ進むことが大事なんじゃ。あちこち曲がって歩いてはダメなんじゃ。後ろの足跡を確かめながら、まっすぐ進むことが大切なんじゃよ。それではボチボチ参ろうかのう。
幸いわしらは精神体じゃから、喰うことも寝ることも必要ないからのう。その分必死に歩いて行けば、いずれはどこかに辿り着けるだろうて』
今度はライオンの親父が先頭に立って歩き出し、その後に伸介たちが続いて歩き出した。
ふたりと二頭の精神体がしばらく歩き続けた頃、伸介が信子にだけわかるように念を送った。これまでは無我夢中で迷界での生活を送ってきた伸介だったが、この頃になるとどうすれば、自分でうまく念をコントロールできるのか判りかけてきていた。
『ねえ、信子ちゃん。どうして迷界なのに、こんなだだ広い砂漠なんてあるんだろう…。ぼくはさっきから考えているんだけど、さっぱり訳が分からなくって困っていたんだけどさ。どうしてだろう……』
『そんなこと、わたしに聞かれたってわからないわよ。わたしだって初めてなんですからね…。大体ね。あなたがいけないのよ。ホントに死んでもいないのに迷界なんかにやってくるからよ…。ホントに困った子だわね。まったく…』
『だってね。信子ちゃん、そんなこと言われたって、ぼくは何も知らないんだよ。気がついたら、ここにいただけなんだから…』
『そもそも、あなたがしっかりしていないからいけないのよ。だいたい、死んでもいない精神体が迷界にくるなんて絶対に不自然なのよ。いいわ。こうなったら、わたしがシンシナさんに掛け合って、もう一度よく調べ直してもらうから……』
『え、ホントに、そんなことが出きるの……。だっら、ぼくが一日でも早く復活できるように頼んでみてくれよ』
そんなこんなで、ふたりと二頭の精神体は延々と続いている大砂漠の中を、これまたいつ果てるともわからない時の流れに沿って、どこまでも歩いて行ったが伸介はついに退屈したのか、こんなことを言い出してぼやき始めた。
『アーア、どこまで行っても砂っ原ばかりじゃ、退屈でホントに死んじゃいそうだよ』
『バカね。あなたは、あなたはまだまだ死なないわよ。これはわたしが保証するから、大丈夫よ。安心なさい』
『でも、退屈だとつまんないよ。こうなったら、何でもいいから砂漠の中からでも
鋭い牙の生えた巨大な怪物でも出てこないかなぁ…』
『ダメよ。伸介くん、ここはわたしたちでも一度も来たことのない、いわば魔境のようなところなんだから、そんなことは冗談でも考えないほうがいいわよ。本当に何が起こるかわからないところなんだから…』
そんな話をしていると突然、はるか前方の広大な砂漠の一角が、ボコッという振動とともに大きく盛り上ったかと思うと、髪切り虫のような形をした緑色の巨大な怪物が姿を現した。背中には茶褐色の斑点がついた、見るからにおぞましい形態だった。
『うわぁ、で、出たぁ…。どうしよう、信子ちゃん…』
『でたな…、怪物め。こうなれば、この斉天大聖信悟空さまが退治してやるわ。觔斗雲でも呼んでみようかしら…』
『え、そんなもの呼べるのかい…。信子ちゃん』
『わかんないわよ。そんなもの呼んだことないもの…。でも、やってみなきゃわからないでしょ、觔斗雲よ…。いますぐ来ておくれ…』
信子がそう叫ぶと、上空より白い雲が湧いて矢のような速さで飛んでくると、信子の前までやってくるとピタリと止まり、觔斗雲は尻尾を振って信子に挨拶をしているようだった。
『まあ、かわいいとこあるのね。この子…。あ、そんなことを言っている場合じゃなかったわ。伸介くんも早く約觔斗雲に乗って、怪物がもうすぐそこまで迫ってきているんだから、急いで…。あ、それから親父さんたちは、ちょっとここで待っててね』
信子は伸介の手を引っ張ると、急いで觔斗雲に乗り込んだ。觔斗雲はたちまち上空高く飛び上がって行った。
上空から見下ろしていると、目標を見失った怪物が必死になって、獲物を探し回っているところだった。
『うーん…、どうやってあの怪物をやっつければいいのかしら…。武器も何もないし、どうしようかしら…』
『ほら、さっき觔斗雲を呼んだみたいに何か出せないの…』
『あのね。伸介くん、わたしはこれでも女の娘なのよ。武器なんてどんなのがいいか見当もつかないわ』
『だったらさ、孫悟空なら孫悟空らしく、如意棒でも出してみたら…』
『でも、わたし使い方知らないよ…』
『それなら大丈夫だよ。如意棒っていうのはさ。自由に伸び縮するから、それを使ってここからあの怪物を突き刺せばいいよ』
『そんなに簡単にいくのかしら…、とにかくやってみるか…』
信子は右手を高く差し伸ばした。
『如意棒!』
と、叫んだか思うと、次の瞬間には信子の右手に、如意棒がしっかりと握られていた。
『ふーん、これが如意棒か…、けっこう重いのね。これ…、それじゃあ、さっそくやっつけよっか…』
信子は如意棒を怪物に狙いをつけて身構えた。
『如意棒よ、伸びるのよ。伸びてあの怪物を突き刺しておしまい。さあ、伸びて…』
如意棒は音もなく伸びていって、怪物をわずかに逸れて砂の中に減り込んでいった。
『ああ、ダメだわ。やっぱりわたしが慣れてないからいけないのね。よめーし、こんどこそ仕留めてやるわ。えーい…』
信子は二度三度と如意棒をふるって、怪物に挑んでいったが一向に埒が明きそうになかった。そのうち怪物も、自分を狙って振り下ろされる如意棒を気づいたのか、急に鋭い二本の牙で如意棒を咥え込んで力任せに引き倒そうとした。
その反動まともに受けた信子は、如意棒もろとも觔斗雲から引きずり落されるように、大地を目指して思い切り叩きつけられた。
『うわ、信子ちゃん、大丈夫かい…。大変だぁ、何とかしなくっちゃ…』
伸介ものんびり考えている余裕もなく、何か武器になりそうなものはないかと記憶の中を掻き回していると、ひとつだけ思い当たるものがあった。
『そうだ。スパークリングだ…。あれなら絶対あんな怪物なんて一発だぞ…』
伸介がいったスパークリングとは、まだ伸介が子供の頃テレビでやっていた特撮ヒーローもので、宇宙からやって来た正義の超人スパークマンが、地球を侵略しに襲ってくる悪玉宇宙人を相手に戦い、ピンチになるとスパークリングを投げつけて倒すという、ごくありふれた内容のSFドラマだった。
『よし、ぼくにもスパークリングが創り出せるかどうかやってみよう』
伸介は精神を統一してから天に向かって叫んだ。
『さあ、スパークリングよ。ぼくの前に出てきてくれ…』
すると、伸介の頭上に光が集中し始めたかと見るや、瞬くうちに黄金に輝く光のリングが出現していた。
『よーし、出来たぁ…。スパークリングよ、いますぐあの怪物を真っ二つにしてくれ。觔斗雲よ。もう少し下まで降りてくれ。さあ、行くぞ。それー』
伸介が号令をかけると、スパークリングは音もなく、ヒューンという振動を残して飛んで行き、怪物の周りを二・三回転したかと思うと、首の部分を横一文字に切断してしまった。切り落とされた怪物の首は、砂の上を転がっていくと二本の牙だけが、かすかに震えているのが見えた。
觔斗雲から降りると、伸介は信子のもとへ駆け寄って行った。
『大丈夫だったかい。信子ちゃん、いやぁ、一時はどうなるかと思ったけど、何とかなって助かったよ。それにしても、あのスパークリングの威力は思っていたよりも、はるかに凄かったんで自分でも驚いちゃった…。でも、ホントにどこもケガはなかったかい…』
『あら、また忘れているのね。伸介くんは、わたしたち精神体はね。人間界でいう「心」そのものなのよ。それでも人間なら、たまには心にも傷を受けることもあるけど、わたしは精神体だもの傷なんてつかないわ。それに人間は死ぬけど心は永遠に死なないの。わかった、伸介くん』
『ふーん、そうなのかぁ……。何だか解かったような、わからないような…』
そこへ、いままでどこに身を隠していたのか、モクさんとライオンの親父が姿を現した。
『いやぁ、信子さんも伸介さんもご無事で何よりでした。それにしても、わたしゃ驚いたのなんのって、一体あの怪物は何だったんでしょうねぇ…』
『わしもあんな変なヤツは初めて見たわい。あんなのが、まだまだいるとなれば、こりゃあ結構大変な旅になりそうじゃわい…』
『それにしても、おふたりさんはどこに隠れていたんですか…。觔斗雲の上から見た限りでは、どこにもいなかったみたいでしたが…。隠れようにも、こんな砂漠の中では隠れるような場所もないですし、どうしていたのかなと思って…』
伸介は不思議そうな顔で聞いた。
『なんだ、そんなことか。それなら簡単じゃよ。
わしら精神体にはのう、定まった形はないんじゃ。いまはライオンと山羊の姿をしておるが、これはあくまでも便宜上そうしておるが、実際には形というものを持っていないんじゃ。だから、いつでも自由に姿を消せるというわけじゃよ。わかったかな…』
『そうだったのか…。ぼくは知らなかったから、どうしたのかなと思って…』
『もうどうでもいいでしょ、そんなことは、さあ、こんなところはできるだけ早く通り過ぎましょう。何が出てくるかわからないんだから、行きましょう、行きましょう』
信子に促されて、まだまだ延々と続く道程をふたりと二頭の精神体は、いつ果てるとも計り知れない砂漠の中を歩いて行った。
それでもどこを見ても変わり映えしない砂漠に、また退屈虫が騒ぐのか伸介が騒ぎだした。
『ああ、どこまで続くんだぁ…。この砂漠は……。こうなったら、ぼくが觔斗雲を呼んで調べてくるか…』
『あら、伸介くんにもそんなことできるの…』
『できるさ、さっき見ていただろう。ぼくが觔斗雲を操って、あの怪物を倒すところを。それに、ぼくにはスパークリングがあるんだから、何が出てきたって平気だよ』
『じゃあ、勝手にしなさい。私たちは先に行っているから…』
信子は、意外とそっけなく言った。
『よし、決まったね。それじゃ様子を見てくるから、みんなはちょっと待っていて、觔斗雲!』
伸介が叫ぶと、どこからともなく觔斗雲が飛んできて、伸介は飛び乗るようにして何処へともなく飛び去って行った。
『ホントに困った子ね。どうしてあんなにせっかちなのかしら…、だから交通事故なんかに遭うのよ…』
『まあ、いいじゃありませんか。伸介さんは、まだ本当に精神体になったわけでもないんですから』
『まったくじゃわい。伸介さんは、本当はとても運のいいお人なのかも知れんて…』
『ありがとう、親父さんモクさん。そう言ってもらえると、わたしも嬉しいわ』
『さて、わしらもそろそろ後を追いますかな…』
『そうしましょう。そうしましょう』
こうして、三体の精神体も伸介が飛び去った方向を目指して歩き出した。
8
一方、觔斗雲に乗り込んで先に飛び出した伸介は、ひとっ飛びで十万八千里というくらいだけあって、觔斗雲のスピードは相当の速さだった。それでも、この大砂漠は果てることもなく続き、伸介も半ば諦めかけて戻ろうとした時だった。大砂漠の果てのはてのほうに、何やらキラキラと光を反射して林立するものが見えてきた。
何だろうと思い伸介が近づいてみると、それは一点の曇りもない見事なまでに透明な水晶の柱だった。
『うーん…、なんて綺麗な水晶なんだろう…』
伸介は觔斗雲を止めてしばらく眺めていた。ギリシャ神話に出てくる神殿の柱よりも、遥かな凌ぐ見事な多角形を天まで届く高さで林立していた。
『迷界というところは、ホントにぼくなんかの想像を、ズタズタに打ち砕いてしまうほど、いろいろなものがあり過ぎるようだな…。
もっとも、信子ちゃんやライオンの親父さんにも聞いたけど、ここは宇宙的な規模があるとか言っていたから当たり前か……。でも、宇宙的な規模っていうからには、相当なものなんだろうなぁ…。
まず、地球があって太陽系があって、それから銀河系があって、それらの銀河系が無数に集まって大宇宙を構成していて…。と、さらにその先にも無限に広がっていて…、宇宙の果ては誰にも計り知れないっていうんだから、うわぁ…、これはとてつもなく広いってことだぞ………』
そこで伸介は考えるのをやめた。これ以上考えたところで、どのみち自分でも収拾がつかなくなることは、火を見るよりも明らかだったからだ。
そんな考えを打ち消すように、伸介は頭を左右に振ると巨大水晶の林の山を後にした。しかし、その水晶の山もどこまでも、果てることもなく延々と続いているようだった。
『うわ、りゃあ、どこまで行ったって切りがなさそうだ…。この辺で一度もどってから、みんなと相談して、路線を変えるとかなんとしないと大変だぞ……。よし、帰ろう。觔斗雲よ、みんなのところにもどってくれ』
伸介は觔斗雲の上に座ると腕組をして待った。さすがはひとっ飛び十万八千里というだけあって、見る見るうちに元いた場所の近くまで着くことができた。目を凝らして前方を見ていると、モクさんと親父さんを左右に従えた信子が、さっそうとやってくるのが見えてきた。
『おーい、みんなぁー、帰って来たぞー』
伸介は觔斗雲の上から声をかけて手を振りながら、觔斗雲を信子たちの傍らに止めた。
『ねえ、どうだったの…、伸介くん』
期待と不安が入り混じった表情で信子は聞いてきた。
『ああ…、いくら、ひとっ飛び十万八千里って云ったって、迷界は宇宙的な広さがあるっていうじゃないか。そんなに広いところじゃ、とてもじゃないが手も足も出せやしないよ』
『ねえ、ねえ。伸介くん、その十万八千里って、メートル法にするとどれくらいの広さなの…』
『え、メートル法…。えーと、確か一里が四キロだから……、×ところの十万八千里だろう……。ん…、なんでぼくが、そんな計算をしなくちゃいけないんだよ』
『もういいわ。どうせ伸介くんには難し過ぎて、できないんでしょうから…。だから、もういいわよ。それより、これからどうしましょうか…。
大体よ。どこにいるのかわからないような、伝説めいた「記憶の大老」なんて、本当にいるのかしら。誰に聞いても確実なことは、何ひとつとして解からないっていうし、わたしには何かしら疑問に思えてならないのよ。
もしかしたら、ずうっと昔にどこかの誰かが、ホラ話のつもりで云ったことが、廻りまわって時間の経過とともに、いつの間にか風化していって、伝説として残ったのではないかと思うの。だから、もうやめましょう。
そんなことよりも、伸介くんを少しでも早い時期に、復活させることのほうが先決よ。だから、もう一度元のところに戻りましょう。モクさんも親父さんも一緒に来てくれるでしょう』
『ああ、わしらはかまわんよ。のう、モクさんや…』
『ええ、いいですとも、どうせ、わたしもヒマですからねぇ』
『よーし、決まりね。それではみなさま。どうぞ、觔斗雲にお乗りください』
こうして、信子を先頭にして乗り込むと、觔斗雲は音もなく舞い上がった。
『おお、わしも空を飛ぶのは初めてじゃが、なかなか気持ちのいいもんじゃのう。大鷲のおっかさんになったような気分じゃわい』
それから間もなく、信子は伸介とライオンの親父さん及び、山羊のモクさんを伴いながらひさしぶりに、自分の住んでいる町に戻ってきた。
自宅に着くと、伸介・親父さん・モクさんを家の中に招き入れ、信子は何やら考えていたようだったがおもむろに口を開いた。
『ねえ、親父さん、モクさん。ひとつ聞きたいことがあるんだけど、いいかな…』
『なんじゃね。聞きたいことがあれば、遠慮なんかせず何でも聞いてくれ…』
『そうですよ。何でも聞いてください…』
『そうぉ…。それじゃ聞くけど、あなたたちもわたしも、まだ生命体だった頃の原形を保っているだけなのよね。だから、変態しようとすれば、どんなものにでもなれるんでしょう…』
伸介には、信子が何を言おうとしているのか、分からなかった。
『だからね。わたしが云いたいのは、人間の姿にも変態(かわ)ることができるんでしょうってことなのよ…』
『そりゃあ、やってできんこともないじゃろうが、そんなものになって、一体どうする気なんじゃ…。信子さんや』
『そうですよ。それに二足歩行なんて、何だか歩きづらそうですし、わたしゃあんまり気が進まないですねぇ…』
親父さんもモクさんも、それほど気乗りがしないようだった。
『あなたたちの考えていることは、よくわかるわよ。ここは迷界だし、動物が動物の姿をしていたって、誰も何も云わないわよ。
でもね、伸介くんはまだ完全に精神体になりきっていない、中途の存在なのよ。だから、少しでも早い時期に復活してあげなくちゃいけないのよ。そのために、これからシンシナさんのところに行って、真相を確認してもらわなければいけないの。そのためにも敬意を表して、あなたたちにも人間体として変態ってほしいのよ…』
『話はよくわかったじゃよ。いやぁ、わしもどんなものになれるか、あまり自信はないんじゃが、とにかくやってみるわい…。どうれ……』
ライオンの親父は、ひと声かけるとたちまちのうちに、白髪で白い髭を蓄えた七十代くらいの老人になっていた。
『お、なかなか見事なものですねぇ。さすがは親父さんですね。貫禄も充分ありますし大したものですよ』
『ホント、親父さんがこんなにりっぱに変態できたなんて、素晴らしいわ。見直しちゃったわ』
モクさんも信子も、口々にライオンの親父の変態ぶりを称えた。
『へえ…、すごいや…。これがホントに親父さんなの…』
伸介もまた驚いたように、目を見張っていた。
『よーし、こうなったら、わたしだって、そうそうは負けちゃいられませんからねぇ。ひとつ気張って変態してみますから、見ていてくださいよ。ソーレ…』
モクさんが叫ぶのと同時に、モクさんの姿は四十代半ばの品のよさそうな、中年の紳士に変貌を遂げていた。
『まあ、すてきな小父さまだわ。モクさんカッコいいわよ』
『モクさんは、こんな風になるのか…。なるほど…』
『モクさんも初めてにしては、うまく化けたものだわい』
『いやぁ、みなさんにそんな風に云われると、何だかわたしのほうが恥ずかしくなりますから、やめてくださいよ。もう…』
それから四人は、今後のことについて詳しく相談をした。いくら迷界といえども、迷界の入り口に当たる忘却の川までの距離は、相当なものであることには違いはなかった。
この時、伸介はここに来たばかりの頃、自分では右も左もわからないまま、石ころだらけの荒れ果てた荒野の中を、何十日もかけて歩き続けたことを思い出していた。とは言っても、時間の間隔がまったく存在しない迷界においては、自分が歩いた距離がどれほどのものであるのかなど、いまとなっては知る術もないことには違いなかった。
『うん、忘却の川か…、あの川を渡る時は決して川の水に触れてはならないと、シンシナさんに云われたんだったな。もし、触れたらいままでのことは何もかも忘れてしまって、二度と思い出すことはできなくなると云われて、ぼくは必死になって飛んだら、まるで体重がないみたいにフワッと浮き上がって、軽々と飛び越すことができたんだっけ…、懐かしいなぁ…』
過去のことを思い出したように、伸介はうっとりとした表情で言った。
『さて、わしたちもそろそろ出かけようかのう。今度の旅ばかりは、生半可な旅でではなさそうだから、どんな事態が待っているかも知れんから、みんなも肝に銘じて腹を括って行かねばなるまいて。さあて、出かけようかのう』
ライオンの親父が立ち上がった。
『うわぁ、親父さん頼りがいありそう…』
信子も、頼もしそうに親父を見ながらモクさんに言った。
『ライオンでいた時は、ヒマさえあれば寝てばかりいたのに、変われば変わるものねぇ…』
『そんなものですよ。信子さん、親父さんだって、やる時はやるひとなんですよ。ホントは……』
モクさんが信子の耳元でささやくように言った。
こうして人間体に変貌を遂げた、親父さんとモクさんを含めた四人の精神体は、果てしもなく永くなりそうな旅へと出かけて行った。
旅に出て、そう時間も立っていない頃、親父さんがつぶやくように伸介に言った。
『しかし、いざ二本足で歩くとなると、なかなか難しいものじゃのう。思うように前に進んでくれんのじゃから、まったく疲れてしまいそうじゃわい…』
『なーに、慣れですよ。慣れ、わたしなんかどうでしょうかねぇ…。けっこう様になっていると思いませんか。親父さん』
『ふん、何を云うか。どうせ、わしはもともと不器用なだけじゃい』
『まあ、格好なんて、どうでもいいじゃないですか。機嫌を直してくださいよ。親父さん』
伸介が横から、ライオンの親父を取り成した。
『そうですよ。親父さん、わたしも歩く姿なんて、どうだっていいと思うわ。それに親父さんのそのスタイルだって、貫禄があってなかなかのものだわ』
信子に慰められて、どうにか機嫌を直したライオンの親父は、ふて腐れたように歩き出したが、どう贔屓(ひいき)目に見ても人間が自然に歩く姿とは、ほど遠いものに思われてならなかった。
それから、どれくらいの道程を歩いたのかは定かではなかったが、ついにライオンの親父が音を上げだした。
『わしゃあ、もうダメだぁ……。慣れない二足歩行なんかで歩いていると、どうっと疲れが出てもう一歩も歩けん。みんなには悪いが先に行っていてくれないか。わしは辺りで一眠りしてから後を追うからな。頼む…』
ライオンの親父の普段見せたことのない、疲労困憊ぶりを見て三人は顔を見合わせた。
『でも、大丈夫ですか。親父さん、たったひとりになりますよ。何でしたら、わたしらもしばらく休んでいきますから、またみんなで一緒に出掛けましょうよ』
モクさんが心配そうに言った。
『そうよ、そのほうがいいわよ。ねえ、伸介くんもそう思うでしょう』
『うん、そのほうがいいかも知れないな。それに、親父さんをひとりで置いていくのは心配だし…』
『何を云いているんだね。お前さんたちは、伸介さんを少しでも早いうちに、復活させるという目的を忘れたんじゃなかろう。そのためには一刻も早く忘却の川を越えて、シンシアさんのところに行って、真相を調べてもらわなくちゃならんというのに、わしとしたことがこの有り様じゃ、本当に面目ないのう。伸介さん…』
『そんなこと云わないでくださいよ。親父さん、ぼくだって、まだ完全に死んだわけでもないんだから、いずれそのうちに復活するでしょうから、ぼくは全然焦ったりしていませんよ。だから、親父さんもぼくを乗せて走った時のように、もっと元気を出してくださいよ。あの時のように、またぼくを乗せて走ってくださいよ。さあ、もっと元気を出して…』
伸介の言葉にライオンの親父は目を閉じてしまった。必死になって励ましてくれている伸介の言葉が、身に染みるほど嬉しかったのだろう。
『ありがとうよ。伸介さん、わしも迷界に身を置く精神体の端くれじゃからのう。これぐらいのことではへたばってはおられんわい。
さあて、わしも忘却の川を目指して、もうひと踏ん張りしなくちゃ、ライオンの親父の名が廃るわい。さあ、出発するぞい』
いいまのいままで、そこで横たわっていたばかりの、ライオンの親父がすっくと立ちあがった。
『あら、でも、もう大丈夫なの。親父さん、さっきまであんなに疲れていたのに、そんなに急に動いたりしても…』
『なに、精神体でも人間でも同じなんじゃ。すべては気じゃよ。気は全宇宙に通じているとも云われておる。気さえしっかりとしたものを自分自身の中に持っていれば、どんな困難なものにでも打ち勝てるのじゃよ』
一度、迷界に踏み入ったものたちが、再び忘却の川に達するまでには、それ相応の困難が待ち構えているといわれている。それがどういうものであるのかは誰も知るものはいないという。
伸介たちの旅も、また困難を極めていた。伸介がここにやって来たばかりの頃には、何もなかったはずの場所に、遠目にもわかるような巨大な山脈が、天にも届けといわんばかりに綿々と連なっていた。
『何だぁ。これは…、こんなの前にはなかったぞ…。よーし、こんなもの觔斗雲でひとっ飛びだ。觔斗雲よ。すぐ来てくれ…』
しかし、伸介がいくら呼んでも觔斗雲は現れず、伸介は呆然としたまま空を見上げて立ち尽くしていた。
9
『どうしてなんだぁ…。どうして觔斗雲はやって来ないんだ……』
伸介は、また独り言のようにつぶやいた。
『伸介くん。それはね、たぶん…』
と。信子が言った。
『わたし、以前に迷界の長老と云われている方から、一度だけ伺ったことがあるの。その方の云われるところによると、一度迷界に足を踏み入れた者は、そのひとに再生の許可が下りない限り、そうたやすくは抜け出すことはできないそうなの…』
『そんなこと云われたって、ぼくはまだ本当に死んだわけじゃないんだよ…。それは信子ちゃんだって、一度人間界に行って見てきたからわかるだろう…』
『だから、そんなにイライラしないでよ。わたしだって、ちょっとでも早く伸介くんを復活させたいと思うから、一生懸命やっているんでしょう…。伸介くんももう少し落ち着きなさいよ。困った子ね…。まったく、いいわ。こうなったら、恥を忍んで長老さまに相談してみるから、伸介くん、あなたも一緒についてきなさいよ』
それから信子は伸介を連れて、長老が住んでいるという屋敷に来ていた。
案内を乞うと、長老は快く逢ってくれるというので、信子もほっと胸を撫で下ろして待っていると、やがて、長老と呼ばれている九十歳くらいに見える白髪で、これも白い髭を伸ばした精神体が入ってきた。
『おう、信子さんか。久しぶりじゃのう』
『これは、これは、長老さま。お久しゅうごいます。お話はご存じかと思いますが、ここにおりますのは、わたくしの孫で浅丘伸介と申します。これ、ご挨拶をしなさい。伸介さん』
『あ、はい。初めてお目にかかります。浅丘信子の孫で、浅丘伸介と申します』
長老に挨拶をすると、伸介はペコリと頭を下げた。
『ほう、なかなかしっかりとしたお孫さんじゃのう。信子さんよ』
『ありがとうございます。実は本日お伺いいたしましたのは、この伸介のことで長老さまに折り入りまして、ご相談したいことがございまして、上がりました次第でございます』
『まあ、そう 堅苦しいことは抜きにしてくださらんかの。ところで、その伸介さんのことは、わしも話には訊いて知ってはおるが、ほんに今回の件に関してはたいへん珍しいケースだそうじゃが。それで、このわしにどうしろというのじゃ…。信子さんは…』
『はい、つきましては長老さまのお力添えにて、この子を早期に人間界へ復帰させる法をば、ご伝授いただければとおねがいふたまいりました』
『しかしのう、一度この迷界に足を踏み入れた者を、まして、伸介さんの場合は未だ生身のままで、精神体となって迷界にいるということは、わしにはちいとばかり荷が重すぎるのじゃよ。うーむ…。やはり、ここは源守精神体さまにおすがりするしかあるまい…』
『長老さま。その源守精神体さまと申される方は、とういうお方なのでございますか。
わたくしには初めてお伺いするお名前でございますが…』
『うむ、源守精神体さまというのは、わしら長老族にしか存在を知らされていない、特別なお方なのじゃが、今回の一件は前代未聞の特殊な事態だによって、特別の配慮をしたわけでもないが、これ以上の混乱を招くわけにもいかぬゆえ、源守精神体さまのお力添えをお願いしたというわけじゃ。何、悪いようはせぬゆえ、もう少し待っていなされ。そのうち吉報が届くであろうからのう』
『はい、どうもありがとうございました。本日は突然お邪魔をいたしまして、誠に申しわけございませんでした。わたくし共はこれにてお暇をいたします。失礼いたしました』
信子と伸介は、長老に心からお礼を述べて屋敷を辞した。
『でも、よかったじゃない、伸介くん』
と、信子はいった。
『だけど、源守精神体さまって、どういう精神体の方なんだろうね。わたしも初めて耳にする名前だったけど…』
『なんか、こう名前だけ聞くととても厳格で偉そうに聞こえるけど、源守っていうのは「みなもと」を「まもる」という意味だから、もしかすると、精神体の尊厳のような存在なのかも知れないね』
『うわぁ、なんでもいいわよ。そんな小難しい話は…、それよりも早く復活できるといいわね。伸介くん』
『うん、でも、ぼくはこのままずっと、迷界いてもいいような気もしているんだ。大好きなお祖母ちゃんがいるし、それに、いまの信子ちゃんがとっても好きだから……』
伸介の話を聞いていた信子が、急に怖い顔をして怒りだした。
『ダメよ。伸介くん、夢にもそんなことを考えちゃ、そんなことを考えると、本当に本物の精神体になって迷界に居ついてしまうわよ。
そんなことにでもなったら、あなたのお母さんが可哀そうじゃないの…。だから、そんなことは絶対に考えたらダメよ。もし、そんなことにでもなったら、わたしが許さないからね。よーく、覚えてらっしゃい』
『ゴメン、信子ちゃん…じゃない。お祖母ちゃん、あなたはホントに、ぼくのことを思ってくれているんだね…。ありがとう……』
深い感慨が込みあげてきて、伸介は目頭が熱くなるのを覚えた。
『バカね。あなたは、いつからそんなにおセンチになったのよ。おかしいわ。伸介くんらしくもないよ。フフフ…』
『そんなこと云うなよ。だって、そうだろう…。普通なら一度死んだひとと、こんなところで逢えるなんてことは、絶対にあり得ないことなんだよ。それがこうして、いまぼくは信子ちゃんと話をしたり、一緒にあちこち旅をしたりしてきたじゃないか。これは夢でも幻でもない、れっきとした現実じゃないか。これを感動せずになんかいられないんだよ。ぼくには……』
言いながらも、あふれ出そうになる涙をじっと堪えている伸介だった。
『さて、これからどうしようかしら、家に帰ってもいいんだけれども、どうしようかな……。ねえ、伸介くん。なんかない…』
『急に云われてもなぁ…。それに、ぼくは信子ちゃんほど迷界は詳しくないしさ』
『そうだ…。縁日に行って見ようか。伸介くん』
『え、縁日…。迷界にも、そんなものがあるの……』
『バカにしないでくださいよ。お客さん、普段は見えないけど、迷界にはなんだってあるんですからね。見ようと思えばなんだって見えるんだから…。さあ、いらっしゃい、こっちよ』
信子の言ったとおり、縁日の出店が立ち並ぶ通りに出た。金魚すくい・水ヨーヨー・おでん・やきとり・大判焼き・綿あめや・ポップコーン・スーパーボール・輪投げ・玩具屋etc。どれもこれも、みんな懐かしいものばかりだった。
懐かしさでひと通り見て回った。伸介の手を引っ張りながら信子がいった。
『ねえ、ねえ。伸介くん、綿あめ買ってあげようか。あなた好きだったでしょう』
『いいよ。そんなもの、もう子供じゃないんだから…』
『そうよね…。あなた、いまいくつだっけ…』
『二七だけど…』
『そうか…、もう二七かぁ…。早いのね……』
信子は、ふっと寂しそうな表情を見せた。
『どうしたの。信子ちゃん、そんな寂しそうな顔をして…』
『ううん、なんでもないの。気にしないで…』
ふたりの周りには、いつの間にか縁日の風景が見えなくなっていた。
『やっぱり、お家に帰ろうか…。伸介くん』
『うん、そうしようか…』
こうして、帰路についたふたりだったが、伸介の胸のうちには何故かは解からなかったが、祭りの後の寂しさのようなものか漂っていた。
それから何事ないまま、幾許(いくばく)かの時が過ぎ去って行った。とは言っても、昼も夜も時間さえ存在しない迷界のことだから、どれくらいが過ぎたのか伸介には判断もつかなかった…。だからと、いうわけでもなかったが、伸介は徐々に焦りを感じていた。
このまま迷界に残っていてもいいとは、信子には言ったものの伸介には、まだまだやりたいことが残っていたからだった。とうとう苛立ちが頂点に達して、それとなく信子に聞いてみた。
『ねえ、信子ちゃん。長老さまから、まだ何も連絡が来ないの…』
『うん、それがまだなのよ。どうしたのかしらねぇ…』
『それなら、もういいよ。いくら精神体の長老さまだろうが、源守長老さまだろうがこれ以上他の人を頼ってばかりいては、自分のためにならないし自分でも、それなりに努力をしなかったら、いつまで経ってもどうにもならないだろう』
『でも、自分で努力をすると云ったって、あなた何か当てとか方法でもあるっていうの…』
『そんなもの、何もないさ…。だからと云って、ここで何もしないでいるよりは増しだと思うんだ。だから、ぼくはこれから出かけてくる。ぼくがここに来たばかりの頃に、初めて逢ったおじいさんに会いに行ってくる…。あのおじいさんなら、何かぼくが復活できる手段のようなものを、知っているんじゃないかと思うんだ…。これからすぐに出かけてくるよ。信子ちゃん』
『そう…、それなら仕方がないわね…。でも、いやよ。伸介くん、もし復活できる方法がわかっても、勝手にいなくならないでよ。その時は、必ずわたしのところに 戻ってきてきて、わたしの見ている前で復活を実行してちょうだい…。わたしのいないところで、急に伸介くんにいなくなられたら、わたし…、わたし……』
『わかったよ。信子ちゃん、約束するよ。どんなことがあってもここに戻ってきて、信子ちゃんの見ている前で復活するよ。それじゃ、行ってくるから…』
涙を流さんばかりの表情で見送る、信子の姿を後に伸介は出かけて行った。
伸介も迷界には、かなり慣れてきたつもりではいたが、いざ目的地に向かおうとしていると、これがなかなか思うようには進まなかった。それでも自分なりに苦労しながら、来た時の道程をようやく思い出していた。
『そうだ。確かに、この道には見覚えがあるぞ。だけど、あのおじいさんが必ずいるとも限らないし、きょうは逢えるかどうかもわからないな…』
そんなことを考えながらと歩いていると、急に誰かが声をかけてきた。
『よう、若いの…。また会ったのう。そろそろやってくる頃だろうとは思っておったがの』
『あ、おじいさん。ぼくは、いまおじいさんのことを探していたんですよ…。でも、逢えてよかったです…。あれ、だけど、どうしてぼくがここに来ることがわかったんですか…』
『そりゃあ、わかるさ。ここは迷界じゃよ。お前さんが何でここに来たのかも、すべてお見通しなんじゃよ。お前さんは人間に復活する方法を知りたくてやって来たんじゃないのかの。どうだ。図星じゃろうが…』
『じゃあ、ぼくの復活する方法を教えてもらえるんですか…』
『さあ、そいつぁ、ちょいとわしには荷が重すぎるわな。なにせ、わしはただの精神体じゃからのう。そうだ。どうせなら、お前さんのじいさんの浅丘伸之介にでも、聞いてみたらいいじゃろう。あのことたちなら何かいい方策でもしとるかも知れんて、これから、わしが案内してやろう。一緒についてきなさい』
『本当ですか…。ありがとうございます。でも、そこはここから遠いんでしょうか…』
『うむ、そうじゃな…。遠いといえば遠いようでもあるし、近いといえば近いようでもある。まあ、いいから、ついてきなされ』
老人は、歳のわりにはしっかりとした、伸介よりも軽やかな足取りで歩き出した。
しばらく歩いて行くと、老人はふと足を止めた。
『ほら、見えるじゃろうが、遠くのほうに…、あそこがお前さんのじいさんたちが暮らしているところじゃ』
伸介が目を凝らしてよくみると、はるか遠くのほうに何やら街並みのようなものが見えてきた。
『ぼくのお祖父ちゃんは、お祖母ちゃんよりも二、三年早く亡くなったんです。ぼくがまだ小学生の頃でした…』
『おお、それはまた、ずいぶんと懐かしいことだろうのう…』
『されより、お祖父ちゃんたちの町に行けば、本当にぼくの復活する法方を知っているひとがいるのでしょうか…』
『それは何とも云えんがな。聞くところによると、お前さんは精神体だけが体を離脱して、迷界に迷い込んできたそうじゃないか。そういうのを人間界では前代未聞というだが、迷界においても今回のお前さんのような例は、未だかつてない稀にみる極めて珍しいケースだとかでな。これだけは、わしも難しすぎて何とも云えんて…』
『そうですか……。そうなると、やっぱりぼくは自然に復活できるのを待つしかないんですね…』
『ほーら、見えてきたぞ。お若いの、あれがお前さんのじいさんの住んでいる家じゃ』
『あ、あれがそうですか…。あ、それから、こんな遠いところまで連れてきて頂いて、どうもありがとうございました。なんのお礼もできませんが、本当にありがとうございました。おじいさんも気をつけて帰ってください。それでは、これで失礼します』
『なんの、お礼なぞそんなものはいらんて、そんなことより、お前さんもじいさんに逢うのはひさしぶりじゃろうが、早くいてやりなされ』
『はい、そうします。それではこれで…』
『おお、お若いのも達者でな…』
『おじいさんもね。さよなら…』
老人と別れると伸介は、急ぎ足で祖父が住むという家の前に立っていた。何のためらいもなく伸介は戸を叩いた。
『ごめんなさい。お祖父ちゃん、ぼくです。浅丘伸介です…』
伸介が声をかけるとすぐに扉が開いて、祖父の浅丘伸之介の精神体が顔を出した。
『おお、伸介か。ようきたな。まあ、中に入りりなさい』
中に入って椅子に掛けると、伸介の顔をまじまじと見詰めながらいった。
『私が迷界にきた頃は、お前はまだ小学生だったが、ずいぶん大きくなったな。
生きているということは、まさしく、こういうことなのだな…』
伸介の顔を見ながら、伸之介の精神体は感慨深げにいった。
『遅かれ早かれ、お前がくることは解かっていたが、今回の事態については、ひと言だけ云わせてもらえば、それもこれも元をただせば、みんなお前がセッカチでそそっかしいから、今回みたいなことになるのだ。本当に死んでもいない者が、迷界に来るなどということは、通常では考えられんことなのだぞ。しかし、死んでもいない者をこのまま迷界に置いておくわけにもいかん。私も人脈…、いや、精神体ネットワークを通じて、お前を復活させる方法はないものかと探しておったのだ』
『そ、それで、お祖父ちゃん…。あったのかい。ぼくを復活させる方法が…』
『あったとも、八方手を尽くしてやっとな。しかも、それは滅多に手に入らないものらしくて、これでも相当苦労したんだぞ。伸介よ』
『ありがとう、お祖父ちゃん。それで、それはどこにあるの。どんなものなの…』
『心配するな。伸介、ここにあるよ。これだ…』
そういうと、伸之介は小さな掌サイズの箱を取り出した。
『これはな。鳳凰樹といって精霊樹の実だよ。三百年に一度しか花の咲かない、本当に貴重な樹の実だそうだ』
箱を開けると、中には紫色をした樹の実が入っていた。
『これが鳳凰樹の実か…。お祖父ちゃん。これ貰って行ってもいいよね…』
『何だ、ここで呑まんのか…。それは、お前のために貰って来たものだから、持って帰っても構わんが、持って帰ってどうする気なんだ…』
『信子ちゃん…いや、お祖母ちゃんと約束したんだ。復活する時はお祖母ちゃんの目の前で復活するからって…。それじゃ、ぼく帰ります。お祖父ちゃんもお元気で、さようなら』
伸之介の精神体に別れを告げて、伸介は足取りも軽く帰って行った。ここまでくる時に
は、あれほど長く感じられた道も、そんなに苦労もせずに信子の待っている、家へと向かって行った。
終之章
伸介が信子の家に近づきつつあった頃だった。何かが気になって、ふと後ろを振り向いた。すると、そこには人間の姿のモクさんが、走ってくるのが見えた。
『どうしたの、モクさん。そんなに慌てて…』
『ああ…、伸介さん。逢えてよかったです…。いまあなたのことを探していたところだったんですよ。フウー……』
『どうかしたの…、何かあったの。モクさん』
『大変なんです。親父さんが…、親父さんが他界しそうなんです…』
『他界…って死ぬことだろう…。あれ…、でも、死んだから迷界に来たんじゃないの…』『人間の世界ではそう云いますが、迷界で云うところの他界とはですね。その名の通り、まったく違う世界に行ってしまうことなんです。そうなると、もう二度と再生することが出来なくなってしまうんです』
そういうとモクさんは、ガックリと肩を落とした。
『そりゃあ、大変じゃないか。何か食い止めることはできないの…』
『それが、わたしにもよく分からないんですよ。迷界にいる精神体は、現界…、あ、これは伸介さんたちが生きている世界のことなんですが、現界で死を迎えると精神体となって迷界にきます。もし、迷界で他界するようなことになれば、その精神体は別の次元に移されてしまいますから、再生はされなくなるということです』
『そんなの、ぼくは初めて聞いたけど、何か食い止める手はないのかな…。とにかく、親父さんに逢いに行こう』
『ええ、そうしてやってください』
伸介とモクさんは、伸介が迷界に迷い込んできたころ、初めてモクさんたちと逢った草原へと向かった。
『でも、何で親父さんは、そんなに急に調子が悪くなったんだろう…』
『はい、それはですね。わたしが思うに、親父さんは人間の姿に変態した時、妙にギクシャクした姿で歩き回っていたじゃないですか。あれが良くなかったんじゃないかと思うんですよ。わたしは…。その点、わたしなんぞはすぐに慣れちゃいまして、いまでもこの通り、人間の姿のままでいますけどね。このほうが動き回るのに楽ですからねぇ』
『そ、それじゃ…、ぼくのために…、お祖父ちゃんにも云われたんだ…。「お前がセッカチでそそっかしいから、今回みたいなことになるんだぞ」って……』
『そんなことは、気にしなくてもいいですよ。伸介さん、精神体には生体と違って悔いは残らないですから、親父さんだってその辺のところは、もう覚悟はできていると思いますよ。だから、伸介さんもそんなに心配しないでください。もし、伸介さんが復活できたら、たまには親父さんのことや、わたしのことも思い出してくださいよ』
『忘れないよ。絶対に…、ぼくを大切にして、ここまで付き合ってくれたんだもの。死んだって忘れるもんか…』
『伸介さんの、そういう優しいところが、わたしも好きですねぇ。さあ、そろそろ着きますよ。親父さんが寝ているところへ』
草むらの上に横たわっている、ライオンの親父を見つけた瞬間、伸介は我武者らに走り出していた。
『親父さん、すみません。ぼくのせいで、こんなことになってしまって…』
ライオンの親父が、寝そべっているところに近寄ると、伸介は思わず親父の首にしがみついていた。
『おお、伸介さん…。来てくれたのかい…、わざわざ…』
親父の力ない想念が聞こえた。
『わしももう終わりじゃ。間もなく他界しなければならんじゃろう。お前さんと出逢えたことは忘れんだろう。お前さんが一日も早く復活できることを心から祈っておるぞ。うう …、むむむ……』
ライオンの親父は、低く唸り声をあげたと思っていると、伸介の腕の中で音もなく、その姿は消えて行った。
『ああ、親父さん、親父さん…』
『親父さん…、とうとう往ってしまわれた…』
モクさんも伸介の横に静かに座り、拳を握りしめてガックリとうなだれていた。
ふたりともしばらくは無言のままでいたが、やがて伸介がゆっくりと立ち上がった。
『親父さんも他界してしまって、モクさんもまた独りになってしまったね。ぼくも復活する方法がやっと見つかったんだ。だから、これから信子ちゃんのところに戻って、復活の準備をしなくちゃいけないんだよ。
もうモクさんとも逢えないかも知れわないけど、ぼくもモクさんや親父さんのことは、絶体に忘れないようにするからさ。モクさんも出来るだけぼくのこと覚えといてね』
『それは、よかったじゃないですか。わたしも伸介さんのことは、決して忘れはしませんから安心してくださいよ。それに、本当にあなたのほうでいう他界されて、こちらに来られたらまた逢えるじゃありませんか。それまでわたしは楽しみにしますからね。伸介さんも、どうぞお達者でいてください』
『ありがとう、モクさんもお元気で、じゃあ、ぼくはこれで…』
モクさんに見送られて、動物たち精神体の棲む草原を後にした伸介だった。
これで人間界に復活することが出来るのかと思うと、ホッとするような気のする伸介だったが、その反面では何故かは解からなかったが、このまま迷界を去っていくのが、惜しいという気持ちが根強く残っていた。
『何故なんだろう…。やっと人間界に復活することができというのに、この気持ちは何なんだろう…。どうして、こんなに後ろ髪を引かれるような思いがするんだろう…』
伸介はじっくりと考えていた。だが、いくら考えてみても、伸介の中で燻り続けているものの正体は依然として判然としないままだった。
『何なんだぁ、このスッキリとしないものは……、何かぼくが迷界でやり残したことでもあるのかなぁ…。信子ちゃんとも充分に話したし、お祖父ちゃんとも逢ってぼくが復活できるという、鳳凰樹の実だって貰ってきただろう……。そうか、お祖父ちゃんだ…。お祖父ちゃんとはお祖母ちゃんと違って、ろくすっぼ話もしている暇がなかったから、それがぼくの中で凝(しこ)りみたいになっていたから、それでずっとスッキリしなかったんだな。きっと…。よし、そうと分かればもう一度お祖父ちゃんのところに行って、いろいろと話を聞いてこなくっちゃ。それにお祖父ちゃんは博識な人だったって父さんも云っていたから、ぼくの知らないことをいっぱい知っているに違いない。せっかく迷界にいるんだし、いろいろと教えてもらわない手はないな…。ぼくもこのまま薄っぺらな人間で終わりたくはないし、これからすぐ行って見よう…』
それからしばらくして、伸介の姿は祖父浅丘伸之介の屋敷の前にあった。
『ごめんなさい。お祖父ちゃん、伸介です。また来ました…』
扉が開いて、伸之介が顔を出した。
『何だ、伸介。お前、まだ復活していなかったのか…。まあ、入りなさい』
伸介を招き入れながら、伸之介の精神体は訊ねた。
『今度は何が知りたいんだ。伸介、大体お前はいつまで迷界にいるつもりなんだ。迷界というところは、生身の精神体がいつまでもいるところではないのだ。一刻も早く復活をしないと大変なことになるんだぞ』
『それは解かっています。ぼくはただ迷界というところに偶然に迷い込んできて、お祖母ちゃんとも逢えていろんな話もできたし、ふたりであちこち旅にも行きました。お祖母ちゃんが亡くなったのは、ぼくが高校の時で、それまでにはよく話もしましたし、子供の頃からずいぶん可愛がっても貰いました。でも、お祖父ちゃんが亡くなられたのは、ぼくがまだ小学校の低学年でしたから、はっきり云ってあまり覚えていません。
父さんの云うことによれば、お祖父ちゃんは大変な博識な人だった。と、聞いていたんですが、ぼくみたいに何の取得もない薄っぺらな人間が、このまま終わってしまったら目も当てられないなと思ったんです。それで、お祖父ちゃんにいろいろな話を訊いて、もう少し知識を高めようと考えて伺ったんですが、どうすればいいでしょうか…
『伸介。いいか、よく聞くんだぞ。お前は昔からセッカチでそそっかしくて、まったく落ち着きのない子供だった。伸介よ。もう少し心にゆとりを持ちなさい。ゆとりさえ持てば自ずと平静さは保たれ、心はどっしりと落ち着くものなのだ。わかったな、伸介』
『そんなこと云われたって難しいよ…。こればかりは持って生まれた性格だもの、半分くらいは父さんにも責任があるんじゃないの…』
『む、伸太郎か…。あいつはお前よりは、まだ増しだろうて…』
『うわぁ、それはないよ。お祖父ちゃん。ほら、何かないの。ぼくが復活するために貰った木の実みたいなヤツで、一度飲んだら即頭がよくなるような木の実とか…』
『そんなものがあったら、誰も苦労はせんよ…。とは、云うものの、可愛い孫のためだ。何とかせねばなるまい……』
『え、あるの。やっぱり…』
『但し、それには激しい副作用かあるらしいのだ。らしい、などと云うと変に聞こえるかも知れんが、あまりに危険な利目のために、厳しく規制されているという代物なのだ。だから、誰ひととして利用した者がないから、データさえ何ひとつとして残されていないということだ』
『ねえ、お祖父ちゃん。例の精神体ネットワークで、何とかそれを手に入れることはできないの…』
『いや、迷界は広いし隅から隅まで隈なく探せば、あるいは入手することはできるかも知れんが、私はあまり進められんな。やはり、あれは危険すぎるから止めておけ。伸介』
『そうか、そんなに危険なのか…。お祖父ちゃんが、それほど云うのならやめるけど、でも、何か惜しいような気もするな…。せっかく、頭が良くなるかも知れなかったのに…』
『うむ、その代わりと云っては何だが、お前にいいものをやろう。これはお前にピッタリのものだぞ。これを飲めば、お前のそのセッカチでそそっかしいところが収まり、心もどっしりと落ち着くはずだ。さあ、これを飲め』
伸介は伸之介に手渡された、小さな木の実を一気に飲み込んだ。
『よし、それでよろしい。いいか、伸介。その実はな。効き目はすぐには表れんかもしれんが、生体に復帰してかも持続する能力を持っているから、完全に復活を遂げた時にはまるで別人のように思われるかも知れんぞ』
『へえ、これってそんなに利目があるの……』
『さあ、それを飲んだら、伸介。迷界にはお前のような生身の精神体が、いつまでもいるところではない。早く祖母さん…いや、信子のところに戻って、復活するための準備でも手伝ってもらいなさい』
『いやぁ、やっぱり、お祖父ちゃんのところに来てよかったです。いろいろと話もできたし、一番は本当に懐かしかったことです。お祖父ちゃん、ありがとうございました。ぼくはこれで帰ります。さようなら、お祖父ちゃん…』
『さようなら、元気でやりなさい…』
祖父伸太郎の精神体と別れを告げて、伸介はこんどこそどこにも寄り道をしないで、まっすぐ信子の待っている家へと帰ってきた。
信子は伸介が帰ってくるのを、一日千秋の思いで待っていたらしく、伸介が戻るやいなやいきなり駆け寄ってきて抱きついてきた。
『お帰り、伸介くん。それにしても、ずいぶん遅かったようだけど…、どうだったの。伸介くんが復活する方法って見つかったの…。ねえ、教えて、わたしだって心配しながら、ずっと待っていたんだからね…』
『ごめんね、信子ちゃん。心配かけちゃって、迷界は時間の間隔がないから、自分でもどれくらい経ったのか分からなかったんだ。それでもいろんなひとたちの力を借りて、探し回ったけど見つからなくて、どうしようもなくなって最後に、お祖父ちゃんのところに相談に行ったんだよ。そうしたら、お祖父ちゃんは精神体ネットワークを通じて、ぼくの情報はすべて知っていて、ぼくの精神体が生体に戻るために必要な、鳳凰樹の木の実を用意して待ってくれたんだよ。信子ちゃん』
そこまで話して、伸介はひと息つくように言葉を切った。
『ほら、これが鳳凰樹という精霊樹の木の実だってさ』
伸介はポケットから小箱を出して、中に入った紫色の木の実を信子に見せた。
『まあ、綺麗ね。まるで宝石みたい…』
『この実のなる鳳凰樹は、三百年に一度しか花が咲かない貴重ものなんだってさ』
『ねえ、これを伸介くんが飲むと、その後はどうなるの…』
『さあ、聞いてないからわからないけど……、ん…。あれ、信子ちゃん、何だか若くなななったみたいだね。確か、前は二二、三歳だったけど、いまはどう見ても十六、七歳くらいにしか見えないんだけど、どうかしたの…』
伸介は、ここが迷界であることを忘れたように訊いた。
『それだけ、あなたが永い間わたしのそばにいなかったからでしょう。そんなことも分からないの。まったく…』
『あ、そうか。ぼく、そんなにながい間いなかったのか…』
『さて、そんなことより、伸介くんは一刻も早く鳳凰樹の実を飲んで、復活を急がないと大変なことになるわよ。ただでさえ常識以上に永い間、迷界にいたんですからね。あなたは…、伸之介さんにも云われなかった…』
『そういえば、そんなことも云われたかな…』
『そんな呑気なことを云ってないで、お飲みなさい。わたしが見守って見送ってあげるから、さあ、お飲みなさい。伸介くん』
信子に促されて、伸介は鳳凰樹の実を小箱から出すと口に含んだ。
『飲んだけど、何ともないよ。信子ちゃん』
『そんなに急には効かないわよ。ホントにセッカチなんだから…』
『あ、何だか、体が熱くなってきた…』
『鳳凰樹の実が効いてきたのかしらね…』
信子が見ている目の前で、伸介の体は全体的に二・三回だけ明滅を起こした。
だが、それもすぐに収まりを見せた。
『何なの。いまのは…、伸介くん…』
『わかんないよ。そんなこと、ぼくにだって…。でも、何だか知らないけど、ぼくの体が急に軽くなったようなんだ…。まるで重力が無くなっていくみたいに…』
『わかったわ。もう始まっているのよ。それはきっと、あなたが生体に復活する前兆なんだわ…』
『ああ…、体がどんどん軽くなって、何かに吸い込まれていくみたいだ……。ああ、あああ…』
信子の前にいる伸介の体の一部が透けてきて、伸介の体を通して向こう側にある、信子の部屋の様子がはっきり見えるようになってきた。
『伸介くんは、ついに往ってしまうのね…。でも、忘れないでね。わたし、必ず逢いに行くからね……』
『うん、ぼくも・忘れ・な・い・よ・信……………』
薄れかけていく意識の中で、伸介は信子にそこういいながら、やがて暗黒の闇の中に吸い込まれていった。
眩いばかりの光の中で、伸介は意識を取り戻していった。うっすらと眼を開いてみると、伸介の母親と主治医らしい男、それに中年の看護師がひとり伸介の顔を見下ろしていた。
「ようやく意識を取り戻したようですね。浅丘さん。どうですか、ご気分のほうは…」
「ぼくですか…。ぼくなら、ご覧のとおり頗る元気みたいですよ」
「何を云っているの。この子は…、お前は五日間も意識がなかったんですよ。大体ね。お前がそそっかしくて落ち着きがないから、今回のような事故に遇うんですよ。まったく」「へえ…、五日も意識不明だったのか…」
「とにかく、無事回復されて何よりでした。明日から精密検査を行い、それで異常がなければ退院となります。それでは、これで」
「どうも、ありがとうございました」
伸介の母は、何度も頭を下げながら主治医を見送っていた。
「たったの五日間だったのか……」
「何を云っているんですか。たったのだ、なんてとんでもない…」
「でもさ、母さん。こっちでは五日かも知れないけど、ぼくにしてみれば、何ヵ月か何年にも値するくらいの経験をしてきたんだ。それにぼくは、信…いや、お祖母ちゃんやお祖父ちゃんにも逢ってこれたし、それはそれで良かったと思っているんだ」
「まあ、この子ったら悪い夢でも見たのね。可哀そうに…」
そんな母を見て、もうこれ以上は迷界で体験してきたことは、誰にも話さないでおこうと決めた。どうせ、ひとに話したところで誰ひとりとして、信じてくれる者などいないと思ったからだった。
そして、精密検査の結果、車にぶつかった時の軽い打撲以外は、これといった異常も見られないということで、一週間後に伸介は退院が認められて母とともに帰って行った。
それから七年の歳月が流れ去り、伸介は間もなく三四歳になろうとしていた。その間に伸介も結婚をして、今年四歳になるひとり娘も授かっていた。
この頃になると、伸介も日々の暮らしに追われるまま、迷界のことなど記憶の片隅に追いやられて、いまでは思い出すことさえ殆んどなかった。
その日も日曜日の午後ということもなり、ひとり娘の遥香を連れて近くの公園に遊びに来ていた。
「うわぁ、今日もいい天気だなぁ…。こう温かいと、何だか眠くなってくるんだよなぁ。遥香、お前は眠くならないのかい…」
「うん。だって、さっきママと一緒にお昼寝したもん」
「そうか、お昼寝をしたのか…。それじゃ、眠くならないもんな。ところで、遥香は来年いくつになるんだっけ…」
「五歳だよ。どうして…」
「いや、何でもないよ。そうか、五歳か…。早いもんだなぁ…。さてと、ママが待っているから、そろそろ帰ろうか」
「うん…」
伸介はベンチから立ち上がると、遥香の手を引いてゆっくりと歩き出した。噴水の横を通り過ぎて、ブランコや滑り台があるところまで来た時だった。
滑り台の裏のほうから、遥香とあまり変わらないくらいの女の子が、ひょっこりと顔を出すと、伸介と遥香のほうに近づいてきた。
「おじさん、浅丘伸介くんでしょう」
「そうだけと…、きみはどこのお嬢ちゃんだっけ…」
妙にませた子供だと思いながら、伸介はその女の子に訊いた。
「もう忘れてしまったの…、テンジン草の実は効かなかったのかしら…」
それを聞いた時、伸介の中で何かが音を立てて弾けた。
「の、信子ちゃん…、信子ちゃんだね…。もう再生できたんだね。信子ちゃんとお祖父ちゃんのお陰で、ぼくもこの通り復活することができたんだ。ありがとう、本当にありがとう…」
「やっと、思い出してくれたようね。伸介くん」
「別に忘れていたわけじゃないさ。ただ、あまりに急だったものだから、それで、つい…」
「そうね。でも、わたしも再開できて嬉しかったけど、また逢えなくなるからお別れに来たの…。それにわたしの迷界での記憶も、いずれ消えてなくなるでしょうから、これが最初で最後に機会だったのよ」
「お別れとか消えてなくなるとか、最後の機会とかって何のことなんだよ。信子ちゃん」
「パパァ、このお姉ちゃん、ダァレ…」
ふたりの会話に飽きてきたのか、遥香が伸介の袖を引っ張った。
「このお姉ちゃんはね。パパの大事なお友だちだよ。遥香もいい子だから、もう少しおとなしくして待っていなさい」
「あら、この子は伸介くんの娘さん…。それじゃ、わたしのひ孫じゃないの…。それはともかくとして、お別れというのはね。いまのわたしの父親が仕事の関係で、アメリカに行くことになったのよ。それから記憶がなくなるというのは、わたしが私的目的で勝手にテンジン草を、あなたのために使用していたことが、いけなかったらしくあの頃のわたしの記憶は、一切消去されてしまうらしいわ…。いまはまだ大丈夫だけど、いずれはどこかで逢ったとしても、わたしはあなたのことをすべて忘れていると思うの…。だから、最後の思い出として逢いにきたわ。わたしももう行かなくてはいけないわ。さようなら…」
「例え、信子ちゃんがぼくのことを忘れたとしても、ぼくは絶対に信子ちゃんのことは忘れたりしないよ。いつまでも心のどこかに残しておくから、安心しなよ」
「うわぁ、なんだか、昔のセッカチで落ち着きのない伸介くんじゃないみたい…。なんか、こうどっしりとして風格がついたみたいじゃなの…」
「うん、お祖父ちゃんから貰って飲んだ、薬が効いたみたいなんだ…」
「それじゃ、わたし行って見るわ。そう、そう、お嬢ちゃんのお名前はなんていうの…」
「浅丘遥香、四歳でーす」
『そう、いいお名前ね。それじゃ、行って見るわ。さようなら…』
「さようなら、お姉ちゃん」
伸介と遥香に送られて信子は去って行った。
去って行く信子の後ろ姿を見送りながら伸介は思った。
伸介にテンジン草の実を飲ませた責任を取らされる形で、迷界での記憶をすべて消却されると言っていた信子だったが、それは信子が五歳になって伸介との約束を果たすまで、待っていて貰っていたのでないかと、伸介はそんなふうに考えていたのだった。
「ねえ、パパ、あのお姉ちゃん。本当にパパのお友だちなの…」
「ああ、そうだよ。あのひとは、パパの大事なお友だちなんだよ…。パパのお祖母ちゃんなのだからね……」
「ふーん…。遥香、よくわかんない……」
完了
by banshow satoh 2021.10.31 am10:34
あとがき
『大迷界』などという、大袈裟な舞台をでっち上げてしまいました。
この物語は、人間が死んだらどうなってしまうのかと云う、私が長い間疑問に思ってきたことを、私なりの解釈で書いたつもりの作品です。
普通に私たちの誰しもが思いつくような世界(天国や地獄)では、あまりにもありきたりで面白みに欠けると思いました。さらには、もしも交通事故に遇い意識不明に陥って、肉体から魂が離脱したまま迷界という、不可思議な領域に迷い込んでしまったら、どうなるのかという興味と云うか、好奇心のようなものがあったことも事実です。
本来、この作品は昔読んだ山上たつひこ氏の漫画、『鬼面帝国』に挑戦するつもりで書き始めたものでした。しかし、いざ仕上がってみると似ても似つかない作品になっていました。それでも私は、この作品は自分で考えていた以上の出来栄えで、これまで描いた作品(未完のものも含めて)の中では、最高傑作ではないかと思えるほどの作品になっていました。自分で最も満足している部分はなんと云っても、最終章の伸介の祖母である信子が、再生されて五歳になったら逢いに行くという、約束どおり四歳になる娘を連れた伸介に再開するシーンでした。自分で書いておいて云うのもおかしいかも知れませんが、キーボードを打つ指が震えるほどの感動を覚えました。
と、以上のようなわけで、自分で予想していたよりも遥かにいい作品が上がりました。創作意欲がなくならい限りは、これからも書き続けるつもりでおりますので、よろしくお願いいたします。
大迷界 佐藤万象 @furusatoha
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