13.
わたしは、初めてファイトと話をした本屋に顔を出した――別に彼に会えたらいいと期待したわけではない……案の定彼はそこにいなかった。
店主の老人は――たいてい寝ているのだが――珍しく目を覚ましていた。
こんなご時世になんでまた本屋になんか来たんだい、と老人は不愛想に言った、ここには君に売るものなんか一つもない。
わたしはただ肩をすくめた。すると彼は、初めてちゃんとわたしの方を見た。彼はわたしが誰か気づいたらしかった。
ああ、君はファイトと一緒にいる女の子だな……本を集めているんだろう。
老人は皺に埋もれた小さな目でしげしげとわたしを眺めた。わたしは居心地が悪くなってそっぽを向いた。
老人は黄色い爪で顎を掻きながら店の奥に引っ込んだ。わたしが帰ってしまおうかと考えていると、なにかを手に持って戻ってきた。
彼は一冊の、茶色くなったぼろぼろの本を私に差し出した。『機械破壊者』、エルンスト・トラー。受け取って中をぱらぱらとめくってみると、どうやら戯曲のようだった。
それを君にやろう、と老人は言った。
どうして?
店じまいをするんだよ、客は来ないし、わしは年老いた。
これ、大事な本なんですか?
ああ、その戯曲の作者、エルンストはわしの友人だった。
どうしてそんな本をくれるんですか、とわたしは尋ねた――それから、おそらくこの本は政府に提出しなければならない類のものだ、とうっすらと思った。
わしは彼と大学で出会った、と老人は話し始めた。
一九十六年のことだった、彼は、当時の若者たちがみなそうであったように、戦争中に身体をおかしくしていた。彼は繊細な男だった……人の良心を信じ、そのせいで傷だらけになってしまうような。そして人の残酷さに対して懐疑的だった。
彼は誰よりも人間的だったのだろう……彼は権力者に反発することも貧乏人を憐れむこともしなかった……彼は権力より市民の側の人間だったが、いつも仕事着を着て労働者らしくしていたわけでもなく、上流階級の人間をパーティに呼び、ひまし油で焼いたカトーフェルプファンクーヒェン(*)をふるまうようなお茶目さも兼ね備えていた。
そこで老人は乾いた声で笑った。
ひまし油、とわたしは思った。――パーティ会場にたくさんトイレがあったことを願うばかりだ。
老人は歪んだ笑顔を引っこめ、続けた。
彼は誰もが人間的であることを信じていた。だが、この世界には人間の皮をかぶった獣がいる。
老人は節くれだった指で私が持っている戯曲を指し示した。
これは獄中で書かれた。彼は煽動家として糾弾されることが多かったし、実際そういう面もあった。しかし彼の本質は暴力を嫌う平和主義者だった――世の中には、言葉の意味をねじ曲げて、語られたこととはまったく別の、見当違いな理由で人を責め立てる連中がいる。彼は優しい人間だったから、多すぎる悪意には耐えられなかった。彼は三十年ほど前に、アメリカで自殺した。
老人は話すのをやめ、店の奥に戻ろうとした……わたしはその背中に問いかけた。
どうしてわたしにこの本をくれるんですか?
老人は振り向きもせずに答えた。
夢を見る力のない人間は、生きる力もない、と彼は言った。
わしはもう夢を見ることがない。
家に帰り、わたしは『機械破壊者』を本棚のわずかな隙間に突っこんだ。わたしにとって、本とはただの美しい文字の羅列に過ぎなかった。しかし、今になってやっと、歴史の重みというものを理解した。
その重みが恐ろしくなり、わたしはこの戯曲を読むことができなかった。
*********
とうとう、わたしの収集癖がペヒシュタインさんにばれてしまった。
わたしは勉強スペースの片隅で彼と雑談をしていた。その場所は大きな柱で周りから死角になっていたので、後ろめたいことのあるわたしにはぴったりの場所だった。
図書館が閉まる時間が近づいており、周りには誰もいなかった。
ふらりと姿を現したペヒシュタインさんは、やたらと本に関する質問をしてきた。あの本は読んだか、読んだならどんな感想を持ったか、など。
『牡猫ムルの人生観』について話している時だった――いつだったか、わたしが猫を飼っていると話したことを彼は覚えていて、それでその本の話を振ってきたようだ。
残念ながらわたしのネープヒェンは本を書いたりしません、本に悪戯したりもしないけど。
「君はどんな本を持っている?」
彼はこれまでに何度か、その手の問いかけをしてきたし、わたしはどうにか誤魔化してきた。しかし彼の問いかけはそこでは終わらなかった。
彼はわたしの方にぐっと顔を近づけて、やや低い声でこう言った。
「君はどこで『ムル』を読んだんだい?」
その質問には“図書館で”など、当たり障りのない答えを返せばよかった。わたしは確かに、『牡猫ムルの人生観』を持っていたが、それはペヒシュタインさんのあずかり知らぬことだったから。
しかし――鋭い灰色の目に睨めつけられたわたしは、何も答えることができなかった。
その目は言っていた――君の秘密は知っている、と。
彼はわたしの答えを待つことなく続けた。
「君は『ムル』をもっているんだね」
それは問いかけではなく確認で、彼はわたしの沈黙を肯定ととらえたようだった。
「君は蔵書の申告をしているか?」
もちろんです、と言いながらわたしは本当らしく聞こえますようにと願った。
「では、その本は押収されたはずだ――本来なら」
じゃあ、
「うっかりねえ」
ペヒシュタインさんはそう呟き、何か思案しながらわたしを見た。わたしも彼の灰色の目を見返した。彼が何を考えているのかさっぱり分からなかったが、彼はわたしをいじめようとしているわけではないように思われた。
何といっても、彼の声はちゃんとわたしの心に届く。
ペヒシュタインさんはふっと息をつき、なにかを決意したような表情で言った。
「君に頼みたいことがある」
彼は持っていた鞄を開き、一冊の本を取り出した。それは十九世紀に書かれた戯曲だった。妖精に魅せられた鐘作り名人の悲劇。個人による蔵書は禁止されていた――『牡猫ムルの人生観』と同じように。
その本には大学図書館のマークが入っていた。貸し出しはできなくなったが、図書館が本を所有することは禁止されてない……まだ。
なぜこの本が彼の鞄に入っていたのか?
きっと彼は初めから
「この本を読んだことは?」
あります――途中までなら。わたしは慎重に答えた。まだ油断は禁物だ。
「それなら、これが素晴らしい作品だということが分かっているね?」
ええ、そう思います。わたしはほとんど機械的に言った……わたしには、内容の良し悪しはどうでもよいことだったから。
「この本を君のコレクションの中に紛れ込ませることはできるか?」
わたしは目をぱちくりさせた。ペヒシュタインさんの表情は冗談を言っているようには見えなかった。
でも、本を持ち出すのは
「
わたしは彼をじっと見つめ、彼の言葉を吟味した。これは何かのテストか策略なんだろうか、とわたしは考えた。
わたしが反乱分子かどうか見分けるための。
何も答えない私を見て、彼はもう少し自分の手の内を見せなければならない、と思ったようだった。さっと周りを見て誰もいないのを確認すると、低い声で言った。
「私とイングマール――ミュラー中尉は、
Die versunkene Glocke。鈍い金色。
わたしが今手にしている本の題名。
「いわゆるレジンタンスだ」
それは、
彼は頷いた。
「
その時、近くで誰かの足音がして、彼ははっと口をつぐんだ。
「詳しいことは追い追い話すことにしよう……もっと安全な場所で」
彼は私が持っている『沈鐘』を見下ろし、それから真剣な表情で私の方を見た。
「エーディト、これを預かってくれるかい?」
本格的に面倒なことに巻き込まれようとしている、とわたしは考えた。
それでもわたしは頷いてしまった――いずれにせよ、わたしは首を突っこまずにはいられなくなるだろうから。
ペヒシュタインさんはわたしを図書館の出口まで送ってくれた。
別れ際に、彼はこう言った。
「君の兄さんは
分かりました。
そう言いながら、“我々のグループ”にはわたしも含まれているのだろうか、と考えた。
「“鐘”に捕えられないように気をつけて」
わたしは頷いたが――そんなこと言ったって、いったいどうしろというのだろう。
*********
ある日、わたしが部屋で活字を追っていると、母がわたしを呼ぶ声が聞こえた。
あなたに荷物が届いているわよ、と言われてわたしは首をかしげた。いったい誰から、何が届いたのだろう?
それは思ったより大きく、無造作に厚紙にくるまれていた。
差出人はリュディガー・ヴィルトバッハ。包みを開くと、中には小ぶりの映写機――パテ・ベビーが入っていた。
映写機にはこんな張り紙がしてあった。
“保管する場所がないんだ。預かっておいてくれ。要らなければファイトに。
追伸:あいつと仲直りしろよ!”
もう一度厚紙の中を覗くと、『言うことをきかないロバ』と書かれたフィルムが入っていた。
わたし一人で上映できるだろうか……きっと無理だ。リュディガーもそう思ったのかもしれない。パテ・ベビーを口実にファイトと仲直りをしろという意味なのかも。
わたしは映写機を箱にしまい込み、どんどん狭くなっていく自分の部屋に匿うことにした。
*********
ゾンネンハイム先生は学校を辞めてしまった。辞めさせられたわけではなく、本人の希望で。最後の授業が終わったら、彼はスイスに戻って隠遁生活を送るという話だった。
最後の居残りの時間、彼はわたしに、教室で課題が終わるのを待っていてもいいかと尋ね、わたしはもちろん大丈夫です、と答えた。
彼は窓際にたたずみ――わたしから背を向けていたので、どんな表情をしているのかは分からなかった。
わたしは何度も先生の後姿を盗み見て、できるだけゆっくりと書き取りをした。先生は、明らかに時間をかけすぎていることに気づいていただろうが、何も言わなかった。
《Vienne la nuit sonne l’heure
Les jours s’en vont je demeure》
この文字が上から下までノートを埋め尽くしても、わたしはしばらく、まだ終わっていないようなふりをした――時計を見て、どう頑張ってもこれ以上引き延ばせないと認めなければならなくなるまで。
終わりました、と言いながらわたしは先生のもとにノートを持っていった。
「この詩の意味は?」先生が言った。
《夜の帳が下り 鐘は鳴る
歳月は去り 私はとどまる》
先生は微笑んだ。わたしの翻訳は正しかったようだ。
「この詩の題名は”La pont Mirabeau”だ」
ミラボー橋?と言うと彼は頷いた。
「作者はアポリネール、イタリア生まれのポーランドの詩人だ――彼はフランス語で詩を書いた」
複雑、先生みたいですね、とわたしは言った。
彼はひび割れのような笑みを浮かべた。
どうしても、わたしはまずいことを言ってしまう。
「ドイツでフランス語を教えるスイス人?そうかもしれない」
先生はわたしのノートに目を落とし、言った
「君は前に、どうして私がここにいるのか、と尋ねたね」
はい。
「君がどう考えたかは分からないが……おおかたは君の想像通りだろう。私は個人所有を禁じられた写本を所有していた咎で大学を追放された」
はじめはただ純粋に、美しい本が失われていくことが無念でならなかっただけだった。彼らは、本は厳重に保管していると言っていたが、誰にそんなことが分かるだろう?」
先生は胸ポケットから万年筆を取り出し、わたしのノートに何かを書き込んだ。
「そうしているうちに、私はあることに気づいた――」先生はそこで言葉を切り、わたしをじっと見つめた。
なんです?とわたし。
「いいや」彼はいつものようにわたしに微笑みかけた。「壁に耳あり、だからね。私は多くを知りすぎたんだ……おそらく、彼らが思っている以上のことを」
最近はいろんな人がわたしに秘密を託したがる。わたしはその重みを軽くしたい……そう思ったせいか、こんな言葉が口をついて出た。
わたしは本を集めているんです、とわたしは言い、小さな声でつけ加えた。
ほとんど読んでいませんけど。
先生は驚かなかった。相変わらず穏やかな表情をしていた。
「君はどうして本を集めようと思ったんだい?」
分かりません、最初は活字が見られなくなるのが怖かったんです、とてもきれいだから。
でも今では、どうしてこんなことをしているのか分からない。
「君は“愛書狂(ビブリオマニー)“ということかな」
B-I-B-L-I-O-M-A-N-E、乾く前のインク。違う、彼はフランス語でbibliomanieと言ったのだ。
「やつらは“アルマニー”……むしろ“オーマニー”とでも言うべきか……」
わたしは彼の言っている単語が分からなかった。彼の発した言葉の色か分からなかった。
「エーディト……君は“鐘”をどう思っている?」
足音だと思います、とわたしの口から言葉が飛び出したが、これでは先生に伝わらないだろう。わたしは気を取り直して言った。
“鐘”は誰かが立ち去っていく足音だと思います。
先生はひび割れではない、優しい笑みを浮かべた。
「足音か……そうかもしれないな」
先生は床に置いてあった傷だらけの革の鞄から、これまた黄ばんだ本を取り出した。
「君にこれをあげよう。大丈夫、これは禁書にはなっていないよ――まだ」
わたしは本のタイトルを読んだ。
『カリグラム』?
「そう、アポリネールの書いた詩集だ。中を見てごらん」
文字がエッフェル塔やリボンや色んな形に並べられている。
フランス語なので内容はよく分からないが、素敵だと思った。
「君は気に入るんじゃないかと思ってね……」
はい、とわたしは答えた、とっても気に入りました。
「今日で居残りはおしまいだ、エーディト」
ゾンネンハイム先生は私の頬にキスし、私に背を向けた。
彼は静かに出口に向かい、扉を開いた。
先生が教室から出ると同時に“鐘”が鳴るのを聴いた。
彼は色のない足音を立てて去っていった。
家に帰ってから、わたしはフランス語の辞書を広げ、先生の言った謎の言葉を調べようとした。しかし“アルマニー”らしき言葉も“オーマニー”らしき言葉も見つけられなかった。しばらく辞書を行ったり来たりして、わたしはあることに気づいた。
BIBLIO(本)-MANIE(狂い)。
ARME(武器)。ARM-MANIE――武器狂(アルマニー)。ほとばしる火柱。
もう一つの言葉はもっと時間がかかった。O(オー)……AU(オー)……EAU(オー)……OH(オー)……HO(オー)。
HOMME(人間)。HOM-MANIE――人間狂(オーマニー)。淀んだ水路。
色のない足音 f @fawntkyn
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