12.
十一年生も終わりに近づいたころ、わたしは図書館でペヒシュタインさんとミュラーさんが口論しているのを聞いた。
その日、わたしはかなり遅くまで図書館にこもっていた。どういうわけか、この頃は自分が持っている本を読むことに抵抗が生まれてしまい、しかし文字を追うことはやめられず、いつも図書館に入り浸っていた。
そろそろ帰ろう、と思った時には閉館間近だったため、図書館は
わたしは少し奥まったフロアの机の下にもぐりこんだ。本当に図書館で一晩過ごそうと考えたわけではなかったが――特に意味もなくそこに隠れた。しばらくの間、わたしは机の木目をなぞるとか、そういう何の役にも立たないことをして過ごした。
どのくらいそうしていただろう。近づいてくる二組の足音と、小さな声で言い争う声が聞こえた。
「――とにかく、高校生に妙なことを吹き込むのはやめるんだ」
君だってあの子にご執心のようじゃないか、ハンネス?
片方がペヒシュタインさんだということはすぐに分かった。となるともう一方はミュラーさんだろう。わたしは見つからないように、机の奥の壁にぴったり張り付いて耳をそばたてた。
「あの子は危険だよ……君がそそのかすから余計に」
君がたしなめたくらいでどうにかなるものか。それならこちらに引き込んだ方がいいだろう。
「彼女はまだ子どもだ……面倒なことに巻き込むな」
でも放っておいたところで、そのうちひどい目に遭うぞ。
「だからあんなことはやめさせるべきなんだ」
それじゃあ本末転倒だろう、我々には若い世代の力が必要だ――
「彼女はまだギムナジウムも出ていないじゃないか!何かあったら――」
そうならないために、どんなことが起きているのか教えるべきだろう!前の戦争のときだって、無知な子どもたちが……
「子ども!」
ペヒシュタインさんは少し声を荒げたが、すぐに声を低くした。
「彼女は若い……だが責任から逃れられるほど幼くないし、無知でもない」
だからおとなしく、無碍に過ごせと?
「そうじゃない!君の
君は
G-E-R-E-C-H-T-I-G-K-E-I-T、苦いコーヒー、J-U-G-E-N-D、冷めた紅茶。
「なんにせよ、彼女の兄は
わたしに聞きとれたのはここまでだった。彼らは別のフロアへ去っていった。
わたしは図書館を出て――もう少しで本当に図書館で夜を過ごす羽目になるところだった――傾きかけた日の光を浴びながら帰路についた。二人はわたしのことを話していたに違いない。しかし、あれはいったいどういう意味だろう?
*********
わたしは父に会いに州都に向かった。
あなたぜんぜん会いに行かないでしょう、なんだか寂しがっていたわよ、会いに行ってあげなさいと母に言われたから。そんなことなら一緒に住めばいいのに。
わたしは州都の中央駅からまっすぐのびる大通りを歩いた。コンコンと靴がいい音をたてている。駅前の本屋さんに寄ろうかな、でもたいした本は残っていないだろう、と考えながら横目で噴水に手をつっこんでぱちゃぱちゃやっている子どもを見た。母親らしき女性が、やめなさい、と子どもを噴水から引きはがした。
あの噴水の縁には“
おい、エーディトじゃないか。
わたしに話しかけてきたのはリュディガーだった。わたしは足を止めた。
最近うちに来ないな、ファイトと喧嘩でもしたのか?
ううん、そうじゃない。
リュディガーはにやっと笑った。
あいつも同じこと言ってた、本当はどうなんだ?
べつに、ただ終わっちゃったの。
リュディガーは声に出して笑った、その声は少しだけファイトに似ている気がした。
終わらせたのはあいつ、それとも君?
どうかしら、向こうだと思う。
お互いにそう思ってそうだな、暇なら映画観に来ないか、安くしとくよ。
だめ、今から父さんに会いに行くから。
そう、でも近いうちまた映画観に来なよ、おれ
ミュンヘン映画テレビ大学さ、半年後にはバイエルンに引っ越すんだ。
すごい、おめでとう。
向こうに行ったらもうおれんとこじゃ上映できなくなるからから、観たいのがあったら今のうちだぞ。
うん、分かった、またね。
そう言いながら、わたしはたぶんリュディガーを訪ねたりしないだろうと思っていた。
仕事が休みの日だったので父は彼のアパートメントにいた。チャイムを鳴らすと扉を開けて、よく来たね、と言いながら父はわたしを軽く抱きしめた、わたしは人に触るのが好きじゃない。
また身長が伸びたんじゃないか?
もう止まったと思う。
そうか、お前はぜんぜん会いに来ないからいつも大きくなった気がする。
それならそっちが会いに来ればいいじゃないと思ったがわたしはただ肩をすくめた、彼が家に来られるならそもそも一緒に住んでいるだろうということはわたしにも分かっていた。
それからずっととりとめもない話をしながら、わたしは母と話すより父と話す方が気楽だ、と考えた。たぶんわたしは父に似ているんだろう、彼もあまり人が好きじゃない。母は人が好きだし、自分の子どもはもっと好きだ、それをひしひしと感じてしまってその近さがわたしには居心地が悪い。
父はもっと慎重だ、わたしはさらに慎重だ。
きっと、あの後もファイトと仲良くできたとしても、わたしは彼の近さに耐えられなくなっていただろう。彼とはすぐに仲良くなったが、ずっとぎりぎりの距離で関わっていたのだ、とわたしは思った。
そろそろボーイフレンドでもできたんじゃないか?と父に聞かれ、父がそんな話をするとは思っていなかったのでわたしは驚いた。
無理だと思う、と言ってわたしはまた肩をすくめた。
父はそれなら安心、と言って笑った。
父の笑いはひび割れのようだ、わたしはファイトの言ったことを思い出す、いつだったか彼は、君はこんな風に笑う、と言ってしかめ面をしたが、きっと彼にはひび割れが見えたんだろう。
ねえ、知りたいことがあるんだけど。
言ってごらん。
戦争ってどんな風だった?
父はなかなかわたしの質問に答えなかった。戦争を経験した人はいつも黙り込む。その記憶がそれだけ重みを持っているということだろうか。
父は静かに言った。
父さんが昔、医学生だったのは知っているよね?
わたしは頷いた。父はいま銀行で働いているが、戦争の時は衛生兵だったということは知っていた。でも、それ以上は何も分からなかった。
父は語り始めた。
戦争が始まった時、父さんはまだ軍には入れなかった。あの頃は空襲に怯えながら、早く戦場に行きたいとじりじりしていた。年齢が足りてからも、父さんは視力に問題があってなかなか従軍が許されなかった。
戦争が長引いてやっと参加したものの、想像していたものとはまったく違った。父さんは衛生兵だったから、戦うというより前線から収容された負傷者の手当が任務だった……誰もが泥とシラミだらけで悪臭を放ち、気が触れてブツブツ呟いているやつもいた。でも空腹の中、毎日死体を目にして悲鳴や砲弾の音を聞いていると、そのうち何も気にならなくなった……気にしていたら、自分が壊れてしまう。
大きな傷を負った兵士――例えば、足を吹っ飛ばされた兵士や治療で腕を切り落とした兵士に、肉体の一部を失ったことを教えてはいけなかった。治療を終えて、少なくとも次に目を覚ます時までは(目を覚まさないことだって多かった)。容態が安定していても、自分の一部を失ったことを知ると、止血が済んでいるにもかかわらず、断面から再び血が流れ、失血死してしまうんだ……どうしてかは分からない、その失った部分を取り戻そうとしているのか……すでに失ったものを取り戻そうとすると、もっとひどいことになってしまう……。
しばらくして人手が足りなくなると、父さんは担架兵の仕事も兼ねるようになった。いや、本当のところ、のたうち回る負傷兵を治療することができなくて、左遷されたと言うべきかもしれない。担架兵も怪我への対処法は一通り知っていなければならないが、主な仕事は怪我人を安全な場所――そんな場所があるとすればだが――に移動させることだった。治療ほど冷静な判断は必要ない。
誰が殺されるか、それはただの運でしかなかった。だが果たして、死んだ者と生き延びた者、いったいどちらが幸運を手にしたのか……
担架兵はいつも数が足りなかった。怪我人は、安全地帯にたどり着く前に死んでしまう者が多かった。運んでいる途中で死んだ者は置いていく――まだ生きている者を救うためだ。遺体は戦況が落ち着いてから埋葬する。人間はいとも簡単に吹っ飛び、木っ端微塵になった。まともな遺体は……そんな言い方はおかしいな、死んでるんだから、まとももなにもないのに……怪我人と同じように二人がかりで運んだ。砲弾でばらばらになった身体のかけらは、袋に詰めなければならなかった――このおぞましくも人間的な行為も、埋葬のために行われた。袋に詰める肉があるだけましなのかもしれないが……しかし、そんなことをしても……そんな肉塊が人間だったなんて分かるはずもない。
遺体があっても埋葬することができない場合も多かった。戦況がなかなか落ち着かなかったり、そんな気力が起こらないくらい疲れ切ってしまったり……まだ人間らしさの残っている連中もいて、彼らは棒のような体を鞭打って死者を埋葬した。もうやつらは死んでるのになんの意味がある、と誰かが言っていたのを覚えている……埋められようが放っておかれようが、やつらは腐敗して悪臭を放つ……塹壕を掘ろうとして、土に還りかけた敵兵の遺体を掘り当ててしまうこともあった……。
降伏する一ヶ月ほど前、負傷者を収容している時に、ここ(父は左の鎖骨あたりを示した)に金属片が刺さり、その怪我のせいで前線から退いた。危うく死ぬところだったが、痛みさえなくなれば、もう何もかもどうでもいいという気分だった。傷は激しく痛み、あんな悲惨な所にいたのに、自分の痛みが何よりも耐え難く、一思いに死んでいればよかったと思うだけだった。
戦争が終わってしばらく……いや、今でもたまに、砲弾の音が飛び交う最中で、血だらけの大地やばらばらになった肉塊の海に飲み込まれていく夢を見る。
それで医者にはならなかったの?
そうだ、と父は言った、痛みも苦しみももうたくさんだと思ったから。
若者は経験を積み、疲れ果てて捻じ曲がり、ほとんど死んでしまったのに、それなのに誤って――壊れた――もとの場所に帰ってきてしまったが、戦争を始めた上にのうのうと生き延びた父親たちは政治を執り行い、より良い世界を作ろうとする――やつらは自分たちが、以前も最善を尽くそうとしながら実際は何をしてしまったかを忘れたのか?父親たちが罪を犯した時、ろくに世界を知らなかった我々はどうすれば良かったのだろう。
父さんは……党員だったの?
父はほんの僅かだけ狼狽したように見えた。
いいや、と彼は首を横に振った、父さんは十代のうちに軍に入って、戦争が終わった頃も、おまえの兄さんと同じくらいの歳だった。でも、もう少し大きかったら、党員になっていたかもしれない……あの時代は、そうすることが当たり前だった……おじいさんも党員だった。我々の世代に彼らを糾弾する権利があるのかどうか――むろん父親たちを責める動きはある、だが……。
父はそこで一度、言葉を切った。
そのうち自分も若者を苦しめるだけの老いぼれになると知りながら、我々の多くは疲弊して、無関心に生きる……父親たちと同じように、悪夢を忘れようとする。そして息子たちに、戦争を知らない世代に責め立てられる……あの時代に、彼らに何ができた?
父が黙りこんでから暗くなるまで、わたしたちは一言も口をきかなかった。
わたしは時計を見て、そろそろ帰る、と言った。父も時計を見て、そうだな、またすぐに遊びにおいでと言い、わたしたちは立ち上がった。父は駅まで送ってくれたが、二人とも黙っていた。
別れ際、父はわたしを軽く抱きしめてわたしの額にキスをしたが、きっと彼もそんなことをするのは好きじゃないんだろうな、とわたしは思った。
*********
その日はひんやりと冷たい風が吹き、嵐が来そうな空模様をしていた。わたしは――禁じられたにもかかわらず――また森へ行った。
森の周りはぐるりと有刺鉄線が張り巡らされた上に、入り口にはバリケードが築かれており、まるで東西を隔てる“壁”のようだった。しかし見張りの姿はなかったし、誰かが巡回に来ている様子もなかった。
わたしは反対側の入り口――川沿いの道につながる方――へ向かった。そして道に沿って続く有刺鉄線を入念に調べた。どこかもぐりこめる場所はないかと思いながら。すると、わたしのほかにも似たような考えの人がいたのか、誰かが通り抜けたような跡があった。
わたしは迷わずそのすき間を――少し髪の毛が引っかかってしまったが――くぐった。
地面には前と同じように木製のブロックが敷かれていた。わたしは靴の音がしないよう、ガタガタ揺れるブロックをできるだけ動かさないように慎重に進んだ。音といえば風が木の葉を揺らすざわめきだけで、鳥の鳴き声や蜜蜂の羽音はいっさいせず、森はおとぎ話に出てくる場所のように、奇妙にねじ曲がって見えた。
匂いもどこかおかしかった――もちろん土や水のかおりもしたが、それだけではなく……もっと刺激の強い、どこか偽物めいた匂いが鼻腔を突いた。
《シャムの森の
君がその
時として やつは
抜け
きょろきょろしながら進んでいるうちにあるものを目にして、わたしは足を止めた。
少し離れているが、見間違いようがなかった。
ブロックの道を外れた藪の中に、ブロンドの頭が見えた――わたしはブロックの道を外れて藪の陰からその人物を盗み見た。淡い色の髪の下には思った通りの顔があった。
ファイトだった。
わたしはいつだったか、彼と森に偵察に行こうと話したことを思い出した。彼も、T**の丘で見た
彼はカメラを持ち、緊張した面持ちで目の前を凝視していた。
ここからは陰になっていてよく見えないが、誰か――
ファイトはカメラを構え、シャッターを押す音が異様に大きく響いた。
彼はしばらく目を奪われたようにそれを見ていたが、目を落としてカメラを注意深く鞄にしまった。そして逃げるように立ち去った――彼がこちらに向かってきたので、慌てたわたしは藪をぐるっと半周して身を隠した。
彼が完全に見えなくなってから、わたしは彼が何を撮影したのか確かめようとそちを向き、ぎょっとした。
それは、森の風景とはおよそ不釣り合いなものに見えた。それは死んだ生き物のように動かなかった。それは少年の姿をしていた。それは何も身につけていなかった。
それはとても美しかった――少なくとも、胸から上の部分は。胸から上は、鮮やかな塗料で丁寧に彩られたように輝いていた。そのほかの部分は――黒かった。というよりも、なんの色もなかった。色どころか、なにもなかった……胸から下の部分も、確かに存在していたが、なにもなかった。
塗料で装飾されることなくあらわになったままの何かが、少年の胸像を支えていた。
それは目を閉じていた。それが生きているのか、死んでいるのか、そもそも生き物ではないのか、わたしには分からなかった。
《
君がうっかり
君の身体に
それにもっと近づく前に、森の奥から足音と話し声が聞こえてきた。
音が遠ざかり、もう安全だと判断してわたしは起きあがり、藪の向こうの様子をうかがった。案の定、そこにはもう何もなかった。
来た道を急いで、しかし注意深く戻りながら、わたしは思った。
ファイトに直接尋ねに行けばよかったのだが……なぜかそうすることはためらわれた。
●注
* "Hystrix (ヒュストリクス)" Christian Morgenstern
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