11.

 

 わたしは珍しくファイトの家に遊びに行った。その空間は相変わらず無機質で寒々とした空気が漂っていた。

 ファイトの部屋で、彼は最近撮った写真を何枚か見せてくれた後、リュディガーからもらったフィルムクリティーク誌を取りにリビングへ出て行った。

 わたしは机の上に無造作に重ねられた写真を手にとって眺めていたが、その中の一枚をうっかり落としてしまった。写真はひらひらと舞いながら本棚の下に滑りこんだ。

 わたしはしゃがみこみ、床と本棚の間の埃っぽい隙間を覗いた。手をつっこむのは気が進まなかったので、何か長いものを使って写真を救出することに決めた。わたしは机の上を物色して定規を拝借し、隙間を引っかきまわした。

 するとわたしが落した写真のほかに、もう何枚かの写真と固い何かが飛び出してきた。

 わたしは写真をほったらかしにして埃まみれのそれを拾った――それは一昔前の女性用の腕時計だった。何年も棚の下でじっとしていたのか、革製のベルトはひび割れて硬くなり、金属の部分は白っぽくくすんでいた。文字盤の裏には「アントーニエ」という名前が刻まれていた。

 A-N-T-O-N-I-E、お隣のダリアがこんな赤い色をしている。

 時計の針はぴくりとも動かなかった。


《彼は時計ウーアみたいに動くけれど

でも ただのワシミミズクウーウでしかない!》*


 ファイトが部屋に戻ってきた。彼はわたしが手に持っているものを見て、それが何か分かったとたん表情を硬くした。


「どこでそれを?」

 本棚の下に落ちてたわ。わたしは彼に腕時計を渡した。


 彼はそれをしげしげと眺めた。そして机の引き出しを開いて腕時計をしまった。



 わたしはあの時計が誰のものなのか気にかかっていたけれど、ファイトはあえてその話題を避けているようだったので何も言わなかった。しばらくの間、わたしたちはあの俳優はどうだとか――ハンナ・シグラよりやっぱり全盛期のマレーネ・ディートリヒの方がいい――今度はどんな映画を観に行こうとか――『小人の饗宴』は?――いつも通りの会話をした。

 しかし……どういうわけか、ふと会話が途切れた。


 その時、わたしは映画雑誌に目を落としたままだった――そして彼は手を伸ばしてわたしの髪の毛を耳にかけた。そんなことをしてきたのは初めてだったのでわたしは目をぱちくりさせ、なに、と言いながら彼の方を見た。

 彼と目が合った。彼の目はとても青く、彼はまた、あの真剣な目をしていた。

 そしてファイトは体を傾けてわたしにキスしてきた――彼の唇はチューイングガムの味がした。わたしはびっくりしすぎて何もできなかった。彼はわたしの背中に腕を回して体をぴたっとくっつけてきた。背中に触れているのとは反対の手で、わたしの顔を支えていた。わたしは人に触るのが好きではない。

 彼がこれから何をしようとしているのかは分かったが彼が本気でやるつもり・・・・・なのか判断しかねて、わたしは何の反応もしなかった。しかし彼はいよいよ本気らしい・・・・・と思った瞬間にわたしは力いっぱい彼を押しのけた。

 彼は驚いたような傷ついたような怒ったような表情でわたしを見ていた。わたしが彼に何をするつもりなのと聞くと、彼は荒っぽい口調で答えた。


「何をするかって?他になにするって・・・・・・いうんだよ・・・・・?」


 たしかに彼の言うことも怒りももっともな気はしたが、そんなことをするのは真っ平なのでわたしは早口に、そんなにやりたい・・・・ならやらせて・・・・くれる女の子を探しなさいと言った。

 彼は今まででいちばん、こいつは頭がおかしいという目つきでわたしを見た。彼は頭に来ていると同時に傷ついているような気がした。わたしは少しひるみながらも真っ直ぐに彼を見返すと、彼の青い目はいつもより濃い色になっているように見えた。彼は何か言おうとして口を開くが、ことばが見つからないのかまた口を閉じた。

 それから一拍おいてふっと笑みをこぼしてから声を上げて笑いだした。

 それにつられてわたしも笑ってしまった、どうしてか分からないけれど、なんだかとてもおかしな気分になって、わたしたちはしばらくゲラゲラと笑い続けた。


「君とやろう・・・としてたなんで、おれが馬鹿だった」


 ファイトは独り言のようにそう言って、また真面目な顔になってもう一度わたしにキスした。でもそれ以上なにかをする気はなさそうだったので、そのくらいは許してやってもいいような気分になりわたしはおとなしくしていた。

 彼の気が済むとわたしたちは家から出ていつものようにあたりをぶらぶらしながら当たり障りのない話をした。ちょうどいい時間になってからわたしたちはそれぞれの家に帰った。

 歩きながらわたしは、ああこれで彼との関係も終わった、と思った。



*********



 あいかわらず、わたしはフランス語の罰則を受けている。ゾンネンハイム先生もきっと、わたしがわざと宿題をやって来ないことに気づいているのではないだろうか。

 今回の課題はこんな風だった。


 “Toute lune est atroce et tout soleil amer :

  L'âcre amour m'a gonflé de torpeurs enivrantes.“


 しばらくして、先生は教室に戻ってきた――彼はわたしがどのくらいで課題を終えるか分かっているみたいだった。


「今日の詩はお気に召したかな」

 はい、とわたしは答え、ドイツ語の訳文を音読した。


《月のすべては残虐で 太陽のすべてはむご

愛に悪酔いしたおれを腑抜けにする。》


 この詩の題名は何ですか?

「これは“Le Bateau Ivre”、『酔いどれ船』の一節だ」


 ル・バトー・イヴル、わたしが発音しても先生の言ったような音にはならない。


「海の描写はあるが、ランボーはこの詩を書いた時、君と同じくらいの年齢で、まだ海を見たことがなかったんだ……君は海を見たことがあるかい、エーディト?」

 ありません、先生は?

「地中海と北海、それから大西洋を見たよ。船に乗ったことは?」

 川以外で?ボーデン湖で一度だけ、すごく気持ち悪かった。

「船酔いか……僕にも覚えがある」


 彼は笑った。


「あれはすごく気持ち悪かった」


 わたしは先生に微笑みかけた。


「この詩人も君と同じようにアルファベット――母音に色が付いている、と考えていた。Aアーは黒、Eウーは白、Iイーは赤、Oオーは青、Uユーは緑……だったかな」


 Aアーは赤、Eエーは濃い黄緑、Iイーは白、Oオーは黒、Uウーは薄い灰色、とわたしは頭の中で呟いた。

 少し迷った末、わたしは尋ねた。


 先生は昔、大学教授だったって本当ですか?


 彼の頬の筋肉がぴくりとひきつった。


「どこでそんなことを?」

 ゲリュヒトで。


 G-E-R-Ü-C-H-T、濁った水たまり。

 先生は無言だった。わたしは少しやりすぎたらしい。


噂はゲリュヒテ・ジント・ダス鉱脈・エルツ」やっとのことで、彼は言った。「その噂は間違っていない」

 失礼なこと聞いてしまって、ごめんなさい。


 彼は首を振った。気にしなくていい、ということだろうか。


「私がなぜここにいるのか……やり直す機会ションセがあったとしても、私はまたここにいるだろう……いちど終焉カタストローフェを迎えないと始まらないものもある」


 C-H-A-N-C-E、雲の隙間から漏れる光。K-A-T-A-S-T-R-O-P-H-E。腐った木の上に生える苔。

 彼の言う意味が分からなかったので、わたしはただ肩をすくめた。


「もっと歳をとれば分かるようになるよ……今日はもう帰っていい」



*********



 わたしはペヒシュタインさんと顔なじみになってしまった。

 ペヒシュタインさんに目をつけられているのにどうして図書館に通い続けているのか……彼はわたしをひどい目に遭わせたりしないだろう、とわたしは漠然と思っていた。彼の声はわたしに聞こえる・・・・のだから。わたしに害をなす人間の声が聞こえるとは、とても思えなかった。


「もっと若者らしいことをしたらどうだ?」


 ときどき、彼は呆れたように(あるいは諭すように)言った。


 ピアスをいっぱい開けてタトゥーを入れて、ロックミュージックをガンガン鳴らしながら車に乗って壁に落書きしろってことですか?とわたし。

「このままだと、君はそういう連中と同じくらい困ったことになるぞ」


 そうでなければ、彼はわたしがどんな本を読んでいるのか探りを入れるのだった。

 わたしは適当に誤魔化していたが、できることならこう答えたかった――どんな本だってかまわないんです。わたしは活字が好きなだけだから。

 LKエルカーの人間は彼のほかにもう一人――イングマール・ミュラーという名前の、黒髪で長身の男性もいた。I-N-G-M-A-R、象牙、M-Ü-L-L-E-R、ラズベリーアイス。

 ミュラーさんの方がいくらか親しみやすかった――彼の声はわたしの心に届かなかったが。休憩中にはちあわせると、彼は気さくに話しかけてくれた。この大学図書館に来るまで、彼は州都の図書館に配属されていたらしい。大学図書館よりも整備されたモダンな図書館だが、今では原則として民間人は使えないことになっている。


 向こうの図書館に行ったことはあるかい?

 はい、小学生の時に一度だけ、その後すぐに本の規制が始まったので……。


 わたしは肩をすくめた。

 彼は行ったことのある図書館の話をたくさんしてくれた――ハイデルベルク大学、ボン大学、マールブルク大学、それからスイスのザンクトガレン修道院付属図書館。そこで何をしたかは教えてくれなかったが、LKエルカーの仕事で行ったわけではないように思った……彼の口ぶりから、ミュラーさんはとても図書館が好きなのではないかと感じた。

 わたしたちが喋っているのを見つけると、ペヒシュタインさんは警告的な口調でミュラーさんに言った。


「仕事に戻るんだ、このお喋りめ」


 するとミュラーさんは何か言い返したそうな顔をするのだが、けっきょく同僚には何も言わず、わたしに笑いかけて持ち場に向かうのだった。


 ではまた、読書狂さんフラウ・レーゼラッテ


彼はふざけてわたしのことをそう呼んでいた。L-E-S-E-R-A-T-T-E、黄ばんだ紙。R-A-T-T-Eネズミ、かじかんだ指先。



*********



 わたしはファイトとあまりつるまなくなったかわりにヘトヴィヒとよく会うようになった。彼女の仲間たちと一緒にいるよりわたしと一緒にいる時間の方が長い気がしたので、友だちをほっといていいの?と尋ねると彼女はどうでもよさそうに答えた。


「あんな連中、飽きちゃった」


 彼女は面白がって、わたしが靴を買うのについてきた。わたしが靴の音を吟味する間、彼女は自分のすらっとした脚を際立たせる流行りの靴を品定めしていた。

 わたしの靴が見つかった後、わたしたちは川辺の塀に座ってアイスクリームを食べた。その日はとてもいい天気で、水面に青空が反射して揺れていた。対岸では子どもたちがハクチョウに餌をやっていた――白鳥は首を長くして食べ物をねだっていた。

 わたしは隣にいるヘトヴィヒを見た。とてもきれいな女の子だ――今日、彼女は髪の毛を頭のてっぺんでひとつに結んでいた。

 彼女は指にたれたアイスクリームを舐めながらこちらをふり返り、唐突に言った。


「あんた、男の子とやった・・・ことある?」


 わたしはその質問に戸惑い、何も答えずにアイスクリームの最後のひとかけらを飲みこんだ。


「ないの?」

 どうして?

「あんた、ファイトと付き合ってたんでしょ?」

 まさか!そう言いながら、周りからはそんな風に見えていたんだなと思った。

「そう……どっちでもいいけど」

 なんでそんなこと聞くの?

「別に、あるのかなって思っただけよ」

 ヘトヴィヒは?

「あるわよ――ない方が珍しいんじゃない?」


 その言い方で彼女はわたしに探りを入れているような気がしたのでわたしは反応しなかった。


「妊娠したことだってあるわよ」


 彼女があまりにもあっさり言ったのでわたしは危うく聞き流すところだった。


 え?

「もちろん中絶したわよ」


 頭の中では色んな疑問がよぎったが、わたしは何ひとつ口にできなかった。ヘトヴィヒが笑い出した。


「聞きたいことがあるなら聞けば?」

 何から聞けばいいか分からない。


 彼女はもう一度笑った。


「相手はフランス語の先生よ――ああ、ゾンネンハイムの前のね」


 鳴ってしまった・・・・・・・フランス語の先生……三十になっていないくらいの、若い男性だったことくらいしか思い出せなかった。


「最初に誘ったのは向こうよ……ううん、あたしだったかもしれない、もうどっちでもいいけど。彼、外国人だったし、アクセントがあってセクシーだなって思ってた。けっこう楽しくやっていたのよ。でも妊娠が分かった時――あたし馬鹿だったから、彼のところに行ったわ。怖かったけど、なぜか嬉しかった。彼に話すと……」


 ヘトヴィヒは眉を吊り上げた。


「彼はさりげなく、ある医者の話をもちだした。本当にさりげなくて悪意も感じなかったわ。要するに、あいつは堕胎しろって言っていたのよ。もちろん彼からしたらそうするのが妥当だったんでしょうね。その瞬間――堕胎しろと言われた瞬間、あたしなんにも・・・・感じなくなったわ。あたしは彼の言う通り病院に行って、彼と別れた」


 彼女はアイスクリームのコーンのカスを払った。


「子どもができることをたいしたことじゃないと思う男がいるのよ。生まれていないんだからなかったことにすればいいって……あいつはそういう男だったと分かった途端、あたしどうでもよくなったわ。あたしひとりじゃ育てられないのは分かっていたし、あんなやつが子どもの父親なんて真っ平よ。それならなかったことにしてしまった方が子どものためだと思ったわ」


 この頃、世の中では女性の妊娠中絶合法化のためにフェミニストたちが活動していた。わたしやヘトヴィヒより上の世代で、彼女たちにはそれを主張する理由があった。彼女たちも子どもも玩具じゃないのだ。


「なによりも、子どもがいることであいつと関わり続けなきゃならないと思うと、あたしが耐えられないと思ったの」


 彼女はジーンズのポケットから煙草を取り出し、火をつけた……彼女がこっそり煙草を吸っているのは知っていたが、堂々とこんなことをするのは初めてだった


「けっきょく、あいつは鳴っちゃった・・・・・・けど」


 わたしたちは黙ったまま、川の上をすべるように進む雲を眺めた。風が吹き、ヘトヴィヒのポニーテールが激しく揺れた。橋の方からアコーディオンの音が聞こえてきた。

 ヘトヴィヒは呟くように言った。


「ほんとはね、最初からあいつがろくでなしなのは分かってたわ。あいつと寝てたのはあたしだけじゃなかったし。でもね……」


 彼女は手に持った煙草に目を落とし、立ち上る煙を眺めていた。それから煙草をぎゅっと塀に押しつけ、火を消した。


「あたし、やっぱり“ペテン師シュヴィンドラー中毒ズーフト”なんだわ」


 彼女は煙草の吸殻をぽいっと川に投げ捨てた。

 鐘が鳴った――時刻は五時四十五分。




●注

*“Der Mondberg-Uhu(月の山のウーウ)” Ch. Morgenstern

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