10.
十一年生になった頃、駅を歩いていたわたしはあることに気づいた。浮浪者に懐いている二頭の野良犬――どちらかがグロッツでもう一方がクラランス――のうち、最近は赤茶色の犬しか見かけないのだ。茶色と黒と白の犬は長いこと見ていない。
わたしはしばらく野良犬たちに注意していたが、一週間経ってももう一頭の犬を目にすることはなかった。
どうしても気になったわたしは、駅のごみ箱を漁っている浮浪者に近寄った――浮浪者に関わらない方がいいのは分かっていたが、尋ねずにはいられなかった。彼は、元は黒かったのであろう緑がかったジャケットを羽織り、穴だらけで何色と表現していいか分からない薄汚れた色のズボンを着て、けば立った襟巻をして、つま先がぱっくりと開いた靴を履いていた。見すぼらしく、とても嫌なにおいがした。彼のそばには赤茶色の犬がいて、おこぼれにあずかろうとじゃれついていた。
浮浪者は近づいてくるわたしに気づいているようだが、こちらを見ようとはしなかった。
もう一匹の犬は一緒じゃないんですね、とわたしは言った。彼はちらっとことらを見たが、また犬の方に視線を落とした。
わたしは浮浪者にお金を差し出した。彼はそれをひったくった。
クラランスは、と彼は言った、あいつは
そうだよ、たいして珍しいことじゃない。
*********
わたしは大学図書館で、森で鉢合わせた警備員に遭遇した――“
その日、わたしが図書館で面白い本を探していると、彼の方から声をかけてきた。
「やあ、君はここの学生だったのか?」
彼が彼であることは声を聞いてすぐに分かった。
いいえ、まだギムナジウムに通っています。
「君は本にまで興味があるのか……」彼は少し呆れたように言った。
わたしにとって、本は危険なものじゃありませんから。
わたしはそう言いながら彼が首から下げている身分証を見た。彼はヨハネス・ペヒシュタインという名前だった。J-O-H-A-N-N-E-S、水色のガラス玉、P-E-C-H-S-T-E-I-N、ひまわりの黄色、
名前の上には
「君、名前は?」
エーディト・ニーゼルです。
「君には兄さんがいるかい――?そうか、この前まで君の兄さんは私の部下だった。不思議なめぐり合わせだ」
あなたはどうしてここにいるんですか?
「ここには莫大なエネルギーを持った本がたくさんあるからね。悪さをする奴が出ないように、上からの命令で見張りをすることになったんだよ」
悪さってどんな?
「例えば本を持ち出して売り払ったり、外部の人間が盗みに入ったり、そんなようなことさ――ほかの州の大学で事件が起きたから、政府が全部の大学図書館に監視員を置くことに決めたんだ」
わたしはため息をついた。
こんなことをして、何か意味があるのかしら。わたしは呟いた。
「我々は前の戦争で大きな過ちを犯しただろう?だから、また同じことを起こさないように、慎重にならねばならない……」
ペヒシュタインさんの言った我々という言葉は誰を意味しているんだろう?あの頃は、彼が生まれていたとしてもうんと幼かったはずだし、わたしの両親は結婚してもいなかった。かつてこの国が犯したことに対し、この先も国として責任がある、ということはわたしも理解していた――でも、子どもが必ずしも親と同じ轍を踏むとは限らないのではないだろうか。
「君はなにか悪いことを考えているのか?」
彼はただわたしをからかっているんだろう、そう思ったものの彼の表情は妙に真剣に見えた。
いいえ、わたしはただ本が好きなだけです。
**********
ギムナジウムが終わってから、わたしはファイトと映画――『聖なるパン助にご注意』、ファスビンダー監督作品――を観るために州都に向かった。ファイトが少し前に撮影した写真を持ってきてくれたので、わたしたちは列車の中で隣り合わせに座り、写真の仕上がりを確かめた。
虫と戯れるネープヒェン、リンゴの木、路地裏、街灯、靄のかかった並木道、半分雑草に覆われた線路、端から身を乗り出す子どもたち……わたしは一枚の写真に目をとめ、顔をしかめた。
撮らないでって言ったのに。
それはわたしの写真だった。家の前の階段に座り、本を開いているが、視線はどこかよそを向いている。
ファイトは少しうろたえたように口ごもったあと、言った。
「いい
P-O-R-T-R-Ä-T、菜の花の黄色。
わたしは彼を少しだけ睨み、次の写真に移った。
これ、T**の丘の砦?
「うん。あんなものと遭遇したから、面白い写真が撮れるんじゃないかと思って」
その次の写真は砦から森を見下ろすような形で撮影されていた。よく見ると“
「森の中には入れなかった。柵があったし」
この間わたし、近くの森に行ってみたわ。
「それって――つまり、警告を無視して?」
わたしは肩をすくめ、森の中で見たもののことを話した。黒い液体がにじみ出た地面、木製のブロック、ねじ曲がった黒い花と巨大な虫、それから政府の人間――その人が
「この前、おれたちが丘で見たものと、君が森で見たもの――
さあ――でも、本当にあんなものがあったのかしら……つまり、
「でなきゃ、おれたちの頭の中で、鳥が巣を作ってるのかもしれないね」
彼はそう言って笑った。
「今度、カメラを持って森の中に行ってみようか。本当に
うーん、とわたしは言った、また見つかったら面倒なことになりそう。
正直なところ、わたしはまた
わたしたちはしばらく黙ったまま写真を見返した。列車はガタゴトと音をたてながら進んでいく。
ふと顔を上げると、ファイトはわたしの方をじっと見ていた。真剣な表情で、彼は最近よく、そんな風にわたしを見る。こんなに近くで彼の目を見返すと、丘であったこと――彼がキスをしてきたことを思い出してしまう。外は暗くなっており、列車に電気はついていたが、彼の瞳孔は少し大きくなっていた。
わたしは落ち着かなくなり、目をそらした。暗い風景の中に、ところどころ街灯や家の明かりが浮かび上がっていた。
「ねえ」ファイトが言った。
何?
彼はなおもわたしをじっと見つめ、それから微笑みながら首を振った。
「何でもない――ほら、駅に着いた……」
列車が少し遅れていたため、わたしたちは映画館まで走らなければならなかった。
*********
珍しく、わたしは真面目にフランス語の課題に取り組んだ。
厳密にいえば、決して“真面目に”とは言えなかった――わたしは次の日に提出する課題(好きなものについてのエッセイというものすごくつまらないもの)を、色鉛筆で一単語ずつ色を変えて書いていた。絵色鉛筆の色が足りないので妥協しながら。これを見たらゾンネンハイム先生は怒るだろうなあ、少しは面白がるかもしれないけれど、と考えた。
案の定、わたしの課題を見た先生はわたしに居残りを言い渡した。
授業後、彼は怒ったようにわたしに言った。
「君は何を考えているんだ?君はそんなに書き取りの罰が好きなのか?」
彼は
文字に色が付いるので見えるとおりに書こうと思いました、先生はそう見えないんですか?
わたしがそう言うと彼は(不本意かもしれないが)興味を示し、少し怒りをおさめたように見えた。
「僕に見えるのはインクの色だけだよ……君は面白い感覚を持っているかもしれない――でも、課題で遊ぶなんてとんでもないことだ」
ごめんなさい、とわたしは素直に謝った。でも実は、フランス語は色がよく分からないんです、アクセント記号がたくさんあるし……綴り通りに発音しないから。
彼は首をかしげてわたしを見た。
「色が付くかつかないかは、言語の理解と関係があるのかな?」
それもあると思います。わたしはしぶしぶ認めた。
彼は子どもに言い聞かせるような口調で言った。
「じゃあもっとフランス語の勉強を頑張らないとね、エーディト。次に色鉛筆を使ったら課題も増やす。分かったか?」
分かりました、とわたしは言った。
いちおうエッセイは――色鮮やかな活字について――書いていたので、先生はわたしに罰則を与えなかった。わたしは少しだけがっかりした。
教室から出る前に先生はわたしを呼び止め、彼の名前は何色に見えるかと尋ねた。先生はセルジュという名前だった。S-E-R-G-E。涼やかなペリドットの色、フランス語、ゾンネンハイムよりずっと彼にしっくりくる名前だった。
*********
久しぶりに兄が家に帰ってきた。結果はさんざんだった。
その日、わたしがギムナジウムから戻ると、家には母がいた。兄が帰ってくるため早めに仕事を切り上げたらしかった。あなたの兄さんが帰ってきたわよ、と言われたわたしは注意深くリビングに入った。
一見したところ、兄に変わったところはなかった……刈り上げた髪、服装は見覚えのあるTシャツにジーンズで、藍色の制服は着ていなかった。なんとなく胸が引き攣るような、嫌な気分になったが、わたしはそもそも兄が好きではなかったし、ろくに興味もなかった。ただ、わたしには嘘の蔵書申告を書いたという負い目があったので、もしかすると面倒なことになるかもしれないという予感がしていた。
はじめ、兄は――母がいたせいか――当たり障りのない話をした。訓練や業務の話、野放しのままのろくでもない連中について、飯がまずい……そしてたまに訪ねている父の近況。
それからわたしにギムナジウムはどうか、などこれまた当たり障りのない質問をしてきた。わたしは短く答えた。うん、違う、分かってる、知らない。なんだか尋問を受けているようだったが、肝心なことは何も触れられなかった――つまり、“まだ本を集めているのか?”という類の質問は一つもなかった。
もういいだろうと判断してわたしは自分の部屋に引っ込んだ。扉を閉め、ふうっとため息をついた。とりあえず、わたしの本たちは無事だ。わたしは棚から適当に本を取り出し、その手触りや紙の匂いを感じ、そしてきらきらと踊る活字を見て心を落ち着かせようとした。
そこで気を抜いてしまったのは間違いだった。間もなく、部屋の扉をノックする音が聞こえた。
兄だ、とわたしは思った。彼はもう何年もわたしの部屋を覗きに来ていない――だから本の数を誤魔化しても気づかなかった。しかしこの部屋の中を見れば――あらゆる空間に本が詰め込まれたこの部屋を見れば、わたしが嘘をついていたことはすぐに分かってしまうだろう。
おそらく、兄は少しだけ疑いを持っていたのだと思う。祖父の本は申告していなかったし、母がそれをわたしにくれたところを兄は見ていたはずだ。もしかすると、彼はそれを覚えていたのかもしれない……。
わたしは意を決して扉を開いた。思った通りそこには兄が立っていた。わたしには彼が死刑執行人のように見えた。
彼は何の断りもなくわたしの部屋に足を踏み入れた。眉を寄せて本の群れを見回している。どんな馬鹿にだって、申告と数が合わないことが分かるだろう――
おまえ、嘘の申告書を書いたな。
兄は言った――言葉の初めに“やっぱり”がついていそうな、そんな言い方だった。
わたしは何も言い返さなかった。
彼は本棚から何冊かの本を抜きとった――『岸辺なき流れ』『ファービアン』『タンナー兄弟姉妹』……
このあたりの本は申告書になかったし……ほとんどの本は申告してなかったみたいだな。
それから彼は、祖父のものだった古い全集――ゲーテ、シラー、クライスト――の背表紙をなぞった。
これは禁書だ。
そんなの知らないしどうだっていい!
とうとう我慢できなくなり、わたしは荒々しく言い放った。
でも申告しなかったってことは、自分がどんな本を持ってるか分かってたんだろ?
そんなのあんたには関係ないでしょ!
兄はわたしの方に向き直った。単なる喧嘩の時とは違う、とても鋭い表情で、わたしは背筋がすっと寒くなるのを感じた……わたしには、
関係ない?いまおれがどんな仕事をしてるか知っててそう言ってるのか?
それがどうしたっていうのよ?
これがどのくらいのエネルギーを持っているか分かってるのか?
ばっかみたい!
わたしは兄に詰め寄った――はたして
おまえ、どうせ本なんか読んだって何も分かってないだろ!
兄さんは読んだこともないくせに!
兄はいつになく大きくて恐ろしく見えたが、わたしは一歩も退かなかった。退いたら何もかも奪われてしまう。
妹がこんな本を持っているなんて上にばれたらおれがどうなるか――家族みんながどうなるか、考えたことあるか?
言えばいいじゃない!わたしは怒鳴った。言ってみれば分かるわ!
《さあ 静かにしろ、破廉恥な
さもなきゃすぐにジルパーガウルに食われるぞ!
あいつに
だからもっと静かに、
兄は怒りのあまり言葉も忘れてわたしを睨んでいた。殴られるのではないかと思ったが、彼は天井を仰ぎ見て、落ち着きを取り戻そうと深呼吸した。
おまえはなんにも分かってない――なんにも。
彼はそう言ってわたしの部屋から出て行った。
次の日の朝、わたしが起きるころには、兄はすでに家からいなくなっていた。
兄はわたしのことを“上”に通告しなかった――
兄が黙っていたのは彼のキャリアのためではなくて、わたしのためだったと、わたしは思っている。
●注
*“Des Galgenbruders Gebet und Erhörung(絞首台兄弟の祈りと審問)” Ch. Morgenstern
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