9.


 ギムナジウムからバス停四つ分離れたところに、T**という名前の丘があった。上から見下ろすと地平線が見えるような気持ちのいい場所なので、天気のいい週末は人々がピクニックに来る。ふもとには鬱蒼とした森があり、川が流れていた。

 わたしとファイトもたまにその丘に行った。丘を登ったてっぺんに古い砦の廃墟があった。そこには幽霊が出るという噂があり、いつか肝試しをしよう、という話になっていた。



 ある日――その日は朝から暗い曇り空で、午後には雨が降り出した――わたしはギムナジウムの教室の窓から外を眺め、ファイトに言った。


 丘に行きたい。


 彼は外を見もせずに答えた。


「雨が降ってる」

分かってる。行かない?

「本気?」


 数分後には、わたしたちはバスに乗っていた。



 わたしたちは傘をさして丘の上を歩いた。草花は水浸しでぐちゃぐちゃになった土の上で雨に打たれていた。地面は凸凹で、シャワーをかけたネープヒェンのように本当の身体がむき出しになっていた。靴の底は地面に沈み込み、石を踏んづけた時だけ硬い音をたてたが、その響きはほとんど雨にかき消された。

 わたしたちは少し進んだだけで靴どころか膝まで泥だらけになってしまった。


「君はこれがやりたかったわけ?」


 顔をしかめて水たまりの中を歩きながら、ファイトは言った。

 どうして丘に行きたいと思ったのか、自分でも分からなかった。わたしは傘を閉じた。


「おい――」


 雨はあっという間にわたしをびしょぬれにした。わたしはその場にしゃがみ込み、傘を泥の中に突き立てて、手のひら全体で地面に触った。水と土の匂いがする。水は手が完全に沈むくらいの深さでひんやりとしていた。わたしはそのままファイトの方に手を払い、彼に泥を含んだ水がかかった。

 彼は、うわ!という声をあげ、それから何とも言い難い表情でわたしを見た。わたしは自分の顔がにんまりと緩むのを懸命に堪えた。


「君って――」

 頭に鳥を飼っている?とわたしは言った。


 彼は地面を足で払ってわたしに泥水をかけた。

 わたしたちは傘を放り出してしばらく水をかけ合い、ファイトに押された拍子にわたしは泥水の中に倒れこんだ。わたしはおかしくなってしまい、そのままゲラゲラと笑い出した。ファイトも隣にやって来て、わたしたちは草原に寝転がって大笑いした。

 先ほど地面に突き刺した傘が倒れ、ばしゃんと音をたてた。


 《深い森タン、傘の下

  僕は今日 そこに寝そべったゲレーゲン

 たっぷりとした夏の雨レーゲン

  猛る川の中を流れてたラン》*


 やっと落ち着いてお互いを見ると、二人とも泥や折れた草花で汚れていた。その姿があまりにもみっともなくてわたしたちはまた笑ってしまった。

 晴れていればのどかな風景が見えるのに、今日は目を凝らしても近くの村や畑は見えず、白く霞んでいた。雨はまだ、弱まることなく降り続いている。びしょぬれになったファイトの髪の毛はいつもより暗い色に見えた。


 こんなずぶ濡れじゃ、風邪を引くわ。

「どうせなら帰る前に砦まで登ろう。今日なら何か出てくるかも」



 わたしたちは傘を拾って丘を登り、ほとんどただの瓦礫となった砦に来た。落ちくぼんだ場所は小さな池のようになっていた。わたしがジャンプしてそこに飛びこむと派手な水しぶきが上がった。


「やめろよ、やっと服が乾いてきたとこなのに」


 ファイトが大真面目な顔でたしなめるように言ったため、わたしは吹き出した。

 わたしは石壁の向こうの景色を覗いてみた。向こうの丘ではわずかに雲が晴れ、鈍い光が射していた。


 何とはなしにその光景を眺めていたのだが、わたしは何かを見つけてぎょっとした。


 見て!わたしは思わずファイトの腕を掴んで言った。

「何――?」彼も同じものを目にしたのか、ぎょっとしたのが伝わってきた。


 それは巨大な化け物だった――それは、丘のふもとにある森のそば、岩壁にもたれかかるようにして立っていた。黒い体は人間のようにも見えるが、横にある森小屋と比べてはるかに大きい。それが大きな目でこちらを見ているのが、これだけの距離があってもはっきりと分かった。

 その時、つかの間顔を出した太陽が雲におおいかくされ、光が消えた。

 それと同時に怪物も消えた。

 ファイトはふうっと息を吐いた。


「なんだ――ただの影じゃないか」


 わたしたちは顔を見合わせて噴き出した。わたしはファイトの腕を離した。


「雨に濡れた岩の凹凸と、あの大木と、山小屋と、周りの木々で、怪物が立ってるみたいに見えてただけだ」

 今みたいに光が射す時にここから向こうを見ると、あんな形に見えるってわけね……きっと、わたしたち以外にも勘違いした人がいるはずよ。


 《僕らは二人とも まぬけトロプフ まぬけトロプフ まぬけトロプフ

  心地よく単調な雨音ラウシェン

 傘の縁を ポツンクロプフ ポツンクロプフ ポツンクロプフ

  そして僕らは耳を傾けるラウシェン 傾けるラウシェン》*


 すると今度は砦のさらに奥から音が聞こえてきた。

 人の、女性のうめき声のような――ああ、ああ――という音。

 わたしは再びファイトの腕を掴んだ。わたしたちは怖いもの見たさで、二、三歩進み、瓦礫の向こうを覗きこんだ。

 それは砦のすぐ外にいた。それは眩暈がしそうなほど素晴らしく美しい女性の姿をしていて、豪奢な、時代遅れのドレスを着ていた。しかし姿勢は奇妙な具合に歪んでおり、設計の狂った建築物を見ているような気分になった。表情ははっきりと見えた。

 ぞっとするような表情だった。墓場から戻ってきて、恋人も一緒に黄泉の国に連れて行こうとする花嫁のような。目は木製の義眼ででもあるかのようにのっぺりとしていた。

 それは、その光のない眼でわたしたちの姿をみとめたようだった。それ影のような、煙のような動きで森の中へ消えていった。

 わたしたちはもう一度顔を見合わせた……今回は、光の悪戯なんかじゃない。


 何だと思う?とわたしは言った。

「分からない」

 わたしたち、いいかげん帰った方がいいかもしれないわね。


 引き返す前に、ファイトは森を振り返って呟いた。


「確か、あの森も立入禁止になっていたはずだ……」



 砦から出た時には、雨は小降りになっていた。


「寒くない?」

 別に。

「嘘だ、幽霊みたいな顔してるぞ」

  嘘じゃない、とわたしは言った――実際、たいして寒いと思っていなかったのだが――しかし、自分がかたかたと震えていることに気づいた。


 突然、驚くほど自然に、ファイトはわたしの肩を抱いた。わたしはどきっとした(わたしは人に触るのが嫌いなのだ!)。

 それだけでなく、彼はわたしの頬――というより、唇の横にキスをした。

 わたしはあまりにもびっくりしたので彼の腕を振り払うことすら頭に浮かばず、ファイトの顔を見上げて目をぱちくりさせた。冗談でしょ?という言葉が喉まで出かかったが、結局何も言うことができなかった。


「戻ろう」


 彼はわたしの肩を抱いたまま、青い目をわたしに向けて言った……彼は唇の端に微かに笑みを浮かべていた――やはり、さっきのはただの冗談だったということだろうか?


「風邪を引きそうだ」彼は視線を外した。心なしか、わたしの肩を抱く手に力が入った。


 わたしは肌に残るキスの感触がひりひりするような気がした――だが、雨はほとんど止みかけていて、それを洗い流してはくれなかった。



 バス停まで、わたしたちは肩を組んで歩いた。会話はなかったが、居心地が悪いわけではなかった――ただいつもと違う、奇妙な空気が流れているような気はした。停留所に着くと、ファイトはやっとわたしを離した。

 ちょうどよくバスが来たので乗り込むと、バスの運転手にも先に座っていた老婦人にも嫌な顔をされた。

 老婦人はわたしたちに聞こえるように言った――まったく、若い人たちときたら!

 その言い方で、あらぬ疑いをかけられている気がしたわたしは居心地が悪くなったが、ファイトは平気な顔でバーに捕まっていた。


家に帰ってすぐに服を着替えたものの時すでに遅し、わたしはくしゃみが止まらなくなってしまった。泥だらけの服を見た母に、いったい何をしたの?と聞かれたが、わたしは滑って転んだだけと言い張った。

 お堀にでも落ちたのかしら、と母はぶつぶつ言った。



*********



 わたしは一人で森に向かった。その日は何かの用事でファイトが一緒に来られなかった。

 森の入り口には“危険アハトゥンク自己アウフ・アイゲネ責任・ゲファー”ではなくはっきりと“立入禁止ツートリット”と書いてあった。Z-U-T-R-I-T-T、スモッグのような暗い灰色。

 地面からはコールタールのような液体がにじみ出ていて、その上にブロックが敷かれていた、きっと関係者が森の中を調査するためなのだろう。

 わたしは警告を無視して森の中に入った。ブロックはぐらぐらしていて歩きづらかった。ブロックの下から枝がパキパキと折れる音がした。


 《一本の枝が言った。ぼきっ。もう一方は言った。ばきっ。

  彼らには一日これで十分。》**


 地面からは深い井戸の淵を覗きこんだような色の、いびつにねじ曲がっているがどこか美しい植物が咲いていた。葉っぱとも花ともつかないものが、黒い茎にしがみついていた。レ・フルール・デュ・マール、とわたしは思った。

 すぐそばで何かが音をたててわたしはびくっとした。リス?キツネ?迷子の犬?姿を現したそれは動物ではなく――一メートルはあろうかという巨大な虫だった。それは黒光りする甲虫のように見えたが無数の脚を持ち、それらをうごめかせて去っていった。

 わたしはしばらくの間その場に立ちつくしていた。

 もっと大きいのがいるのかしら……

 わたしは呟き、その音に自分で驚いてしまった。あたりがあまりにも静かすぎたのだ。その時、周りでは風すら吹いていなかった、時間が止まってしまったようだった……しかし怖くなってわたしが後戻りすると、森は再び動き出した。

 砦で見たものも、幽霊なんかじゃなくて、これ・・と同じものだったのか?


 あれはいったい何だったのか?奥にはもっと――奇妙なものがあるのだろうか?政府はあれのことを知っているのだろうか……知っているに違いない。むしろ彼らがあれを作り出したのかもしれない――しかし、どうやって?何のために?


「ここで何をしている?」


 わたしは驚いて振り向いた。とつぜん話しかけられたからでもあるが、その声がわたしにちゃんと・・・・聞こえたためだ。彼は警備員のような制服を着ていた……ここを封鎖した政府の人間だろうか。


「他にも仲間がいるのか?」

 いいえ、わたし一人です。

「本当に?」


 彼は疑わしげな眼でわたしを見た。彼はプラチナブロンドを短く刈り上げていて、軍人のようにも見えた。目はたぶん灰色、歳は三十歳になるかならないか。


「ここで何をしているんだ?」

 ただ、気になったから来ただけです。

「何が気になったんだい?」


 彼はそう言いながら歩くようにわたしを促した。わたしを早く追い出したいようだ。


 さあ、ここで何が起きているか、かな。わたしは自分に向かって呟いた。

「ここが立入禁止なのは知っていたか」


 わたしは肩をすくめた。


「今回は見逃してあげよう――次は親を呼び出すぞ」

 わかりました、ごめんなさい。


 わたしたちは、いつかファイトとわたしが歩いたように小川に沿って進んだ。ガタガタするブロックの上を歩きながら、この水は何ともないんだろうかとわたしは考えた。


 《言葉ヴォルトもなく、言葉ヴォルトなく、

  水は絶えず流れてくインマーフォルト

 そうでなければアンダーンファールスそうでなきゃアンダーンファールス

  こんなことアンドレス・アルスしか喋らない。》***


「ここへはしょっちゅう来るのか?」

 いいえ、立入禁止になってから来るのは初めてでした。

「何を見た?」

 植物と虫――変わったものは何も。


 わたしは嘘をついていない、植物も虫も森にあって当然だ。

 彼は何も言わず、川の水がさらさらと流れる音だけがやけに大きく聞こえた。


「もうここに入ろうなんて思うなよ」


 いつしかブロックの道は終わり、わたしたちはコンクリートの道を歩いていた。コンコンとわたしの靴がいい音をたてながら進んだ。川の中では前と同じように長い水草が不気味に揺れていた。


 《ビールとパン、愛とトロイ――

  ぜんぜん目新しいノイ話じゃない、

 だからディーゼス・してツァイクトだからディーゼス・してツァイクト

  水は黙っていたシュヴァイクト方がいい》***


 わたしは川沿いの道を進んだ。青い空を反射している川の上を、三羽の白鳥がのんびりと泳いでいった。



*********



 わたしはいつものように――というのはおかしいけれど――放課後に居残りをさせられて、課題のフランス語を書いていた。

 今日の課題はこれだった。


 “C’est un air qui me montre du doiugt

  Et je traîne après moi comme un drôle d’erreur.”


 この言葉は知っている、とわたしは思った。


 《それはわたしを指さして嘲る調べ

  そして奇妙な間違いのようにわたしにつきまとう》


 パダム、パダム。これはあのシャンソンだ。わたしは後ろにもう一行書き足した。


 “Cet air qui sait tout par coeur”


 《この調べはすべて諳んじている》


 教室には誰もいないのでわたしは小声で歌いながら書き取りをする。発音はでたらめだし全部の意味が分かっているわけでもない。


 しばらくして、教室の扉が開いた。


「君がその歌を知っていても驚きはしない、エーディト」


 ゾンネンハイム先生だった。足音が聞こえた時点で歌うのはやめていたが、聞こえてしまっていたらしい。彼は微笑んでいた、真面目に課題をしろと叱るために来たわけではないようだ。


 母があの歌手のファンなんです、とわたしは言った。


 ちょうど紙のいちばん下まで文を書き終えたところだった。


「君のお母さんはフランス人?」


 いいえ。わたしは首を振る。


 彼は少し寂しそうな顔になる。


「そうか……私の母はフランス人で、君のお母さんのようにあの歌手のファンだった――もちろん私もね。この歌詞の意味は分かるかい?」

 そう思います。


 わたしはそう言って紙を先生に渡した。

 先生はいつものようにわたしの訳と文章に誤りがないかチェックし、付け足した文章に気づいて笑みを浮かべた。どうやら間違っていなかっらようだ。


「しばらくシャンソンを訳そうか?」

 シャンソンも好きだけど詩の方がいいです、とわたし。

「いちばんいいのは、君が課題を忘れずにやって来ることだよ」


 それはまったくその通りなのだが、それからわたしは意図的に課題をやるのを忘れるようになった。





●注

* „Das Haslein(ウサギちゃん)“ Ch. Morgenstern

** „Die zwei Wurzeln(二本の根っこ)“ Ch. Morgenstern

*** „Die Wasser(水)“ Ch.Morgenstern

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