8.
わたしが九年生になって半分が過ぎた頃、兄は軍に残ることに決め――あろうことか、
きっと大きなエネルギーを持つ本は押収されるに違いない、と思ったわたしは嘘の申告書を作ることにした。
本を誰にも渡してはならない。
兄が
母は言った。
もうだいぶ収まってるよ、と兄はラジオをいじりながら答えた。
わたしより少し明るいブロンドの髪の毛を短く刈り上げて制服を着た兄は急に大人びて、別の存在になったように見えた。
兄とかかわる時はこれまで以上に注意深くなろう、わたしはひっそりとそう思った。
母はため息をついた。リビングのテレビは『B夫人はなぜ幸福か?』を映しだしていたが、誰も観ていなかった。
どこに配属されるかも分からないんでしょう?
ああ、でも州の外にはならないはずだよ。
兄の胸ポケットには煙草が入っていた。訓練に行く前、彼は喫煙者ではなかったし、母は煙草が大嫌いだった。
異動することはできないの?母は言いつのった。
どうして異動する必要があるんだよ?アジアや中東の戦地に行く方がいいの?
そういうことじゃないの……ただ、ひどいことをさせられなければいいって思うだけよ、と母は悲しそうに言った。
兄はやれやれという顔をしたが、椅子から立ち上がってソファに座っている母の肩を抱きしめ、言った。
そんなに危ない仕事でもひどい仕事でもないよ、そろそろみんな、これが国民のためになるって分かるだろう。
実際に何が起こっているのか、兄は分かっているんだろうか。彼は読書をまったくしない(わたしだってあまりしないが)――ロックミュージックや大衆映画は好きだが、芸術にはほとんど興味がない。
母は暗い顔をしている。
もしかしたら、あなたの言う通りかもしれないわね……ううん、どうかしら。
彼女はソファから立ち上がった。
夕ご飯にしましょう。
食事が済んだ後、兄は自室に向かう途中で、思い出したかのようにわたしを振り返って言った。
申告書、できたか?
わたしは無言で紙を差し出した。兄は申告書を受け取り、確認もせずに鞄に突っこんだ。わたしは兄にわたしのコレクションを奪われるのではないかと恐れていた――兄はわたしの蔵書がもっと多いことを知っているはずだ……わたしが申告したのは辞書や図録だけで、明らかに数が少なかった。
しかし彼はこう言っただけだった。
お前もそろそろ現実と向き合えよ。
兄が対面しているものは、はたして現実なんだろうか?
*********
ファイトはポラロイドではなく、“ちゃんとした”カメラを持ってわたしの家にやってきた。ネープヒェンを撮影するためだ。
撮影の前に、彼は日がよく当たる窓辺に印画紙を置き、その上にフィルムを載せておいた。そうやってしばらくすると紙の上に像が映るのだという。
「暗室でやるほどちゃんとした写真にはならないけど、これはこれで面白いよ」
わたしたちは表に出て、庭で撮影することに決めた。そこにはリンゴの木が生えていた。祖母が植えたもので、戦時中も空襲や戦闘で焼かれなかったためとても立派だが、実をつけたことは一度もない。きっとこの木は雄なのよ、と母は言っていた――そんなものが本当に存在するのか分からないけれど。
ネープヒェンはこの木でよく爪とぎをしていた。まだ小さい頃に下りられなくなって以来、あまり高い枝までは登らない。
ファイトは”ちゃんとした”カメラには触らせてくれなかったので、わたしは少し前に彼がくれた本を読んでいた――半世紀以上前に出版された古い本で、わたしたちが初めて言葉を交わしたあの本屋で見つけたらしい(彼はたまにあの本屋の店番を手伝ったり、店主の老人の買い出しを請け負ったりしてお小遣いを稼いでいた)。
題名は『寄宿生テルレスの混乱』。読みながら、初めて手にしたはずなのに漠然と、この本は知ってる、と思った。文章を読んだ記憶はないが物語は知っている。少し考えて、わたしはあることに思い至った。
この本、ちょっと前に映画になったでしょ。
「ああ、シュレンドルフの『テルレスの青春』の原作。気づいてなかった?」
題名が覚えられないの。
テルレス(※Tör(門) + less(ない))なんて名前、一度聞いたら忘れようがないはずなのだが。T-Ö-R-L-E-ß、古びた花崗岩。
わたしは数年前にその映画を母と一緒に観に行った。母はあまり乗り気ではなく、退屈そうだったし、近くに座っていた老人が途中で眠りに落ちていびきをかきはじめたため気が散ったが、面白かった記憶がある。
「観たって言ってたから、最後までたどり着けるんじゃないかと思って。結末は知ってるわけだし」
ファイトはわたしが愛書家ではあっても読書家でないことをとっくに知っていた。あれだけの本を集めておいてほとんど読まないなんて、とはじめこそ驚いていたが。
この本、読んだ?わたしは尋ねた。
「読んでない」
じゃあ結末が同じか分からないじゃない。
「それならちゃんとおしまいまで読んでくれよ。同じかどうか、自分で確かめて」
そうね。
しばらくの間、バッタに襲いかかったり身づくろいしたりするネープヒェンを撮影した後、ファイトは言った。
「君の兄さん、
うん、兄さんはわたしの本にぜんぜん興味ないし、申告書もちゃんと書かなかった。
「いつまでも隠し通せるか……」彼はわたしほど楽観視できないようだ。
わたしはただ肩をすくめた。
「さあ」
わたしは『テルレス』にしおりを挟んで自分が座っている階段の横に置いた。
本の何が怖いっていうの?
「まあ……分からなくはないけど」
何が?
「文学や思想が持っている力、ってやつだよ。人の考え方に影響を及ぼすし、だから昔の政府もいろんな本も焚書にしたり禁書扱いにしたりしただろ?」
でも文学は――そこまでの力がある?
「君は本を読まないから……例えばさ、『若きウェルテルの悩み』が出版されたころ、主人公と同じ格好でピストル自殺する若者が大勢いたんだって」
なんでそんなことしたの?
「この前授業でやったじゃないか――そういえば、君は『ウェルテル』を持ってないの?」
祖父のコレクションの中にあったはず――でも最後まで読んでないわ。
「君はどうして本を集めているの?」彼はたびたびわたしにこの質問をした。
もう病気みたいなものよ。
色とりどりの文字について話しても、きっと彼は分からないだろう。
撮影も終わったので家の中に入ると、ファイトは窓際に置いておいた印画紙をチェックした。
「見てごらん」
彼が言った通り、印画紙の上にはセピア色の像が現れていた。蜘蛛の巣のようなひび割れの走るガラス、その中央に開いた穴。
これ、あの崩れた塔でしょ、森の中の。
「うん――でも聞いた?森は立ち入り禁止になるんだってさ」
新聞で見たわ。
「いよいよ、押収した本がどうなるのか分かるかもしれないよ」
*********
十年生の時、フランス語の先生が鳴ってしまった。新しい先生はすぐにやってきた。彼はゾンネンハイムという名前の、初老の男性だった。S-O-N-N-E-N-H-E-I-M、アイビーの裏側のような淡い緑色。名前はちっともフランスっぽくないし、彼はスイス人だった。チューリヒの大学でフランス文学の教授をしていたという噂だった。
しかし大学教授がギムナジウムでフランス語を教えるなんて――何かまずいことをしたのだろうか……例えば、
彼は授業中にあまりドイツ語を話さない。話したとしても訛りがあるがフランス人ほどひどくはない。彼の声はわたしの心に届く。
わたしはフランス語が得意で、十一年生と同じクラスを取っていた。ゾンネンハイム先生のことは嫌いではなかったが――少なくとも前の先生よりは教えることに熱心で、内容も面白かった――彼はわたしにしょっちゅう居残りを言い渡し、たくさん書き取り課題をさせた。成績は悪くなかったのだが、わたしが真面目に宿題をやって来ないからだという。わたしは宿題をするのを忘れることが多いので反論はできなかった。
授業が終わった後、わたしは教室にひとりだけ残され、ノートのいちばん上に課題のフランス語を書き、その下にドイツ語の翻訳を書いた。そのあとはひたすらノートのいちばん下まで、フランス語の文章で埋めていく。こんなことは早く済ましてしまいたい……そもそも、初めからわたしが課題をきちんとやってくればいいのだけれど。
書き終わると、わたしはそれを先生のもとに持っていく。彼はつづりの間違いがないかざっと見て、わたしの翻訳について二言三言述べる。それでやっとわたしは解放される。
ファイトはあまりフランス語が得意ではない、でも居残りを命じられたことはなかった。わたしはとても不公平だと思う。
わたしが罰則を終えるまで、彼はいつも学校の外で待っていてくれた。
「今日は何を書かされた?」
わたしは彼に紙を見せた。
“L’irréparable ronge avec sa dent maudite.”
「意味は?」
《取り返しのつかないものが その呪われた歯で齧る。》
「どういう意味だろう……訳はあってるの?」
合ってるわよ、先生何も言ってこなかったもの、とわたしは少し気を悪くして言った。
「誰かの詩かな」
たぶんボードレール。授業でやったでしょ。
「もっと分かりやすい教訓を書かせればいいのに」
確かにそう、とわたしも思った。
これはある種の気晴らしなのではないか、とわたしは思う。きっとゾンネンハイム先生は、ギムナジウムの“こわっぱ”たちに文章を教えるより、大学生たちと詩の解釈について議論したり自分の研究にいそしんだりしたいに違いない――彼が本当に大学教授だったならばの話だが。
大学図書館に行った時、わたしはふと思いついてボードレールの『悪の華』のドイツ語版を見つけてきた。“Les Fleur du Mal”、ドイツ語だと“Die Blumen Des Bösen”。「取り返しのつかないもの(l’irréparable)」は「贖うことのできないもの(das Unsühnbare)」という語が当てられ、全体を訳すと「贖うことのできないものが隠れた怒りで苦しめる(Das Unsühnbare nagt mit blindem Wüten.)」になっていた。
*********
その頃わたしはヘトヴィヒ・クラシェフスキという十一年生と仲良くなった。H-E-D-W-I-G。採れたてのオレンジの色、
フランス語の授業で、ヘトヴィヒはたいていわたしの隣の席にいた。彼女ははちみつ色の綺麗な金髪をしていて、徐々にわたしに声をかけてくるようになった。彼女はわたしとはまったく違う種類の女の子で、わたしと仲良くしているところを見たら仲間たちは彼女を変な目で見るだろう、でも彼女はわたしに話しかけてきた。でもわたしは彼女がどうしてそんなことをするのか分からない。グループの中で地位が確立されているから、わたしにちょっかいを出しても問題がないのだろうか。
アーガトンのようにからかっているわけではなさそうだし、意外にも彼女の声はわたしの心に届いた。
「あたし、ずっとあんたに興味があったの」
ある日、彼女は授業の前にそう言った。
ふうん?とわたし。
“興味があった”とはきっと“仲良くなりたかった”という意味ではないのではないように思われた。
「あたしたち、幼稚園が一緒だったのよ。覚えてない?」
わたしは思い出せなかった――あの頃の記憶は常に内側に向いていて、ぼんやりとしていた。
でも、家は近くじゃないよね?わたしはとりあえずそう言った。
「近くだったわ、でも引っ越したの。一年生の頃にね、その頃、あたしあんたの兄さんが好きだったから、ものすごーく悲しかった」
ヘトヴィヒにはたくさん兄弟がいた。それを知ったわたしが兄弟の名前は?と尋ねると彼女は面倒そうに答えた。
「エーミール、カスパール、ジーモン。みんなどうしようもないやつらよ」
E-M-I-L、サーモンピンク、K-A-S-P-A-R、エメラルドグリーン、S-I-M-O-N、べっ甲色。
「いちばん上にルーカスっていう兄もいたわ――いいえ、ルーカスのほかにもう一人いたんだけど、わたしが生まれる前に
L-U-K-A-S、カスタード色。
「あたし、ルーカスとは仲が良かったんだけど――あたしがギムナジウムに入った頃に家を出て、クリスマスにだけ帰って来たの。でも最近ずっと音信不通――」
彼女はそこで一瞬だけ唇を噛み、眉を吊り上げた。
「きっと
聴いたの?
「いいえ、でもあたしには分かるの。今年のクリスマスもきっと帰ってこないわ……もうルーカスには会えない」
《
彼女は椅子に座りなおした。
「カスパールは知ってるんじゃない?ディートマルと仲がいいわよ。一緒に軍で訓練を受けたみたい」
どうかな、わたしは兄さんとあんまり仲良くないから……。
ヘトヴィヒはにこりと笑った。歯並びがとてもきれい、とわたしは思った。
「あたしもカスパールは大っ嫌い。でもね、嫌いなやつについて知っておいても別に損はないわ」
間もなくわたしは、ヘトヴィヒが年上の、怪しげな男と付き合っていることを知った――少なくとも、同時に三人と。
なんで何人もと付き合うの?
「そんな顔しないでよ。分かってるわよ、あいつらみんな、きっとあたしを
どうして
「あいつらと一緒にいると、あたしは世界でいちばんの女だって思えるの――もちろんそれが嘘なのは分かってる……あいつらに騙されてるってことは」
ふうん?
釈然としないわたしを置いて、彼女は一人合点した。
「あたし、たぶん騙されるのが好きなんだと思うわ。騙されたふりをしていれば、向こうもあたしをいい気分にしてくれる。あんたが思うほど悪いことじゃないわ、それどころか最高って言ってもいいくらいよ」
それでも、同時に何人もと付き合わなくったっていいんじゃない?
「一人だけだったら、そいつが騙してくれなくなったら一人ぼっちになるでしょ。でもペテン師も三人くらいいればどれか一人は期待に応えてくれるわ」
あんたは
ヘトヴィヒはその単語が気に入ったようだった。
S-C-H-W-I-N-D-L-E-R/S-U-C-H-T、レタスとチーズ。
●注
*„Winternacht(冬の夜)“ Ch. Morgenstern
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