7.
わたしはちょくちょくリュディガーのところに映画を見に行くようになった。彼は(お金を要求するにせよ)持っている映画は何でも見せてくれたし、それだけでなく、ある程度家を散策するのも許してくれた。
コンクリート製の建物の多くの部屋は倉庫として使われており、キャンバスや彫刻が置いてあった。知り合いの芸術家の作品を置かせてあげているらしい。壁にはたくさんの落書きがあった。
《今さら誰が他人の言いなりになりたがるだろう?》
《もはや見ることをやめよ!もはや言葉をやめよ!》
《人は瞬間を永遠のものにすることができる》
《エクスタシーこそ神聖視せよ!》
わたしはすみの方に小さく書かれていた言葉が気に入った。
《せめて、自分を物笑いの種にすることくらい、うまくいくと思っていたのに》*
リュディガーの屋敷は意外と見晴らしのいいところにあり、コンクリート製の建物の南に面した屋上(家の主はバルコニーと呼んでいた。確かにその階にも小さな部屋があったが、ほとんど階段の出入り口としてしか機能していなかった。)からは街を一望できた。頑張って西側に身を乗り出すと、遠くの丘に建つ古い城も見えた。
その城は一般公開されていて、わたしも小さい頃、家族と一緒に遊びに行ったことがある。城の壁は遠くから見るとレープクーヘンのように見え、わたしはヘンゼルとグレーテルのお城?と両親に尋ねたことがあった。近くで見るとそれはただのざらざらした石でできていて、ひどくがっかりしたのを覚えている。
“バルコニー”の下の階にリュディガーの寝室があった。大きくていかにも頑丈そうな、黒くぬられた鉄製の扉からその部屋を覗いた瞬間、ファイトが言った。
「馬鹿でかい牢屋みたいだろ?」
確かにその部屋は広かった。壁は撃ちっぱなしのコンクリート(絵は一つも飾っていない)、天井はとても高く、床は暗い色に塗られた板でところどころたわんでおり、窓は南側、二メートルほどの高さにあった。この部屋の家具はキングサイズのベッドとサイドテーブルだけ。
こんなところで落ち着いて寝られるの、とわたしは尋ねた。
たいていは向こうの家(レンガ造りの家のことだろう)のソファで寝てるよ、そもそも俺はあんまり眠らないけど、二、三時間で十分だ、ここで寝るのは――月に数回程度だな。
どんな時にこの寝室を使うのか、彼は言わなかった。ただわたしたちをさっさと追い払いたがっている様子だったので、ここは彼の聖域だったのだろう。
ある日、わたしはファイトとリュディガーが暗室で写真を現像するところを見せてもらった。二人からはじっとしてろ、見るだけだぞ、と言い含められた。わたしは赤黒い部屋の中で二人がネガを見てこれはよくない、こっちはまし、と言い合ったり、ゴム手袋をして(そうしないと薬品で手が黒くなっちまう、とリュディガー)プリントを現像液に浸したり、定着液に浸したり、焼き付け機に入れたりするのを眺めた。焼き付け機に入れた印画紙の上に、だんだんと像が出現するのはとてもわくわくした。
現像作業が終わって上の階に戻ると、ファイトは古い映画雑誌や芸術雑誌を読みはじめ、わたしも適当なアクツィオーン誌を本棚から抜き出した。発行は一九一四年十二月、五十年以上前のものだ。ぱらぱらとページをめくっていたが、ある詩が目にとまった。
《深く 謎に満ちた空間から
白日の下にさらされたように、
開いた眼は揺らぎ 夢見心地で
僕らは街中をさまよった、
街はよそよそしく、騒がしく、乱雑に胸を締め付けるように
僕らのまわりで鳴り響き、
僕らはすっかり途方に暮れた――》*
わたしはリュディガーにこう尋ねた。映画のフィルムも写真みたいに複製するの?
まあ似たようなもんだな、と彼は答えた。オリジナルのネガからマスター・ポジを作って、オリジナルを傷めずに映写用のプリントを作るために複製用のネガを作って、そこから映写用のポジ・プリントを作る。複製していくとどんどん画質が落ちる――おれが持ってるフィルムはあまり状態がよくない。
自分で映画を作らないの?
そりゃできるなら作りたいけどさ、仲間を集めなきゃならないし、機材だっている――金がかかるんだよ、それに最新の技術のことも学ばないとな……。
彼は煙草を灰皿に押しつけた。
今年、ミュンヘンに映画テレビ大学ができたんだ。金を貯めてそこに通おうかと思ってる。
「叔父さんの遺産、使い切っちゃったの?」ファイトが雑誌から顔を上げ、呆れたように言った。
もうすっからかんさ、この家を買うのとフィルムを集めるのとで。
「フィルムを売ったら?フィルムを保存する団体とか、そういう機関があるだろ」
フィルム・アチーブにおれのコレクションが知れたら、ぜーんぶ持ってかれちまうよ、金をくれるどころかこっちが罰金を払わされる。
彼は新しい煙草に火をつけ、深く吸いこんだ。そしてふうっと煙を吐き出してから言った。
まあ下手な相手に売るより、ちゃんと保存されるだろうけど。
「やっぱりカメラマン志望?」
そうだな……興味があるのはそこだけど、勉強できることは一通りやってからだな。
ある程度学んだら、気に入ったやつとチームを組んで、映画を作る――それともどこかに自分を売り込むか。
彼は笑った。
そのために、まずは大学に行く資金を作る。
「なるほど」ファイトは言った。「だから映画の値段を上げたの?」
リュディガーは持っていたフィルムクリティール誌をぽいっとソファに投げた。
良い投資だと思えよ――そのうちおれの作品が本物の映画館で観られるぞ。
*********
《今やおれは一千歳
そして日に日に老いていく。》**
成長するにつれてわたしの頭は悪い記憶ばかり覚えているようになった。これはとても理にかなっている、なぜなら同じ間違いを繰り返さないように注意するから、でもわたしはいつも微妙に異なる間違いを繰り返すので嫌な記憶が増えていって、良い記憶が押しつぶされてしまう。
《おれは死の
死の
おれは
おれは
わたしは頻繁にノートやペンを買った。デザイン、色合い、手触り、書き心地、匂い、何であれ心を惹かれる要素があれば買わずにはいられなかった。だがノートに関しては、それらを使うことはほとんどなかった。ノートは引き出しの中にしまいこまれ、盛りの過ぎた花のようにしなびていった。
買ってから何年も経ってから、わたしは黄ばんでぱりぱりに乾いたノートを取り出す。ここに書き記すはずの事柄があった、でもわたしには書き記す理由がなかった。
きっと、わたしは自分の痕跡を残すことに抵抗があったのだと思う。
*********
八年生の三月、
まだ寒さの残る昼下がりに、わたしとファイトは旧市街をうろついていた。そして小石を拾っては水路に投げ入れていた。小石は柵を飛び越え、ぽちゃんと小さな水しぶきをあげて水路に落ちた。柵には植木鉢が引っかかっていて、鮮やかな花が咲き、風に吹かれて水路に花びらを落とし、花びらは水の上を流れ去った。
わたしたちは立ち止まり、柵にもたれかかった。
「ハンブルクではデモがあったんだって」
彼が何の話をしているかは分かった。
ラジオで聞いた、デパートが燃えたって。
「君んとこの本はどうするの?」
どうもしない。
「申告もしない?」
そう。わたしは小石を水路に落とした。
「その方がいいと思う――君の本、きっとやつらに持っていかれちゃうよ」
そのうち、申告も義務になるでしょうね。
わたしは柵に肘をついて水路を覗きこんだ。
「それでも君は何にもしないんだろ」
彼は小石を掌に置いて凝視し、手を傾けた。小石は転がり落ち、小さな水しぶきをたてた。
わたしは肩をすくめた。
「もし、黙ってるのがばれて捕まったら?」
ファイトはそう言って大きめの石を水路に落とした――それはパシャン!と大きな音をたてた。
突然、目の前の家の窓が大きく開き、何をやっているんだ!という怒鳴り声が響いた。ファイトは持っていた小石をすべて水路に投げ入れ――それは高い水しぶきを上げて、わたしたちはさらなる罵声を浴びた――走りだした。わたしも後に続いた。
そうしながら、わたしは彼の質問に答えた。
捕まらない――絶対に逃げのびる。本だって渡さない。
*********
手は奇妙なしろものだ。それを目にしない日はないのに、注意して観察するとどこか不気味でおぞましいものが現れる。腕と手の間のくぼみ、手首から親指にそって浮き出る腱、指と指の間の皮、透けて見える血管、皮膚の中でうごめく骨、関節の上の皮膚のしわ、極めつけは指先にしがみついている爪――こんなもの引きはがしてしまえたらいいのに!
でもわたしはそのすべてから逃れることができない。手はわたしの一部だ。
手が嫌いだったわけではなく、わたしは肉体そのものに嫌悪感を抱いていた。ただ幼い頃は手しか見えていなかったというだけだ。
《手は何色あるか?》***
わたしは人の形をしたものが嫌いだ――マネキンもプラスチックの人形も人骨標本も、それに死体やミイラのような、元々は人間だったものも。動きだしたらどうしようと考えてしまうのだ。絶対に動くことなんかないのだが、あまりにも人間味があるとそんな想像をせずにはいられなくなってしまう。
布人形や動物に触るのは怖くなかった。
わたしの父は学生の頃、医学を専攻していたらしい。でも現在は銀行員をしている。彼も人間の身体が恐ろしいと思っているのかもしれない……父は戦争の時、衛生兵だったという。もしかすると、麻酔なしで人の脚を切ったり、弾け飛んだ内臓なんかをうんざりするほど見たりして、そんな記憶を忘れたくて医学から離れたのかもしれない。
人に会う時、わたしは戦ったらその人に勝てるだろうかと考えてしまう。小さい頃は――かなり手加減していたはずの――兄に力で勝つことができずいつも投げ飛ばされていた。わたしは女の子にしては背が高かったけれどほとんどの男性はわたしよりも背が高いし、身長は低くても太った人も攻撃が効かなそうに思え、そうするとこの世の中の少なくとも半分は自分よりも強い人間ということになるので面白くなかった。
いつだったか、わたしより強そうだなあと思いながらファイトの手を見つめていたことがあった。彼と知り合ったころは身長も同じくらいだったのだが、九年生になるころにはわたしより大きくなってしまったので面白くない、彼の手は昔より筋張って関節がしっかりしていた。
「どうした?」彼は尋ねた。
あんたをやっつけられるかなと考えていた、とわたしは答えた。殴ったらわたしは勝てるかなって。
彼は笑った。
「おれは女の子なんか殴らない」
なんとなく腹が立ったのでわたしは彼の脇腹を殴ってみる、思い切りやったわけではないけれど演技なのか本当なのか彼はぐえっと声を上げた。
「君ってほんとに頭がおかしい」
彼は先ほどの宣言通りわたしを殴り返さなかった。そんなに痛くなかったのかもしれない。
*********
わたしが駅に向かって歩いていると、向かいから一人の若い男が手押し車を押しながらやってきた。すれ違う時に手押し車の中を盗み見ると、潰れたボールや壊れたラジオ、割れたピッチャーなどのガラクタが積まれているのが分かった。浮浪者かな、と思ったが、身なりは清潔そうだった――彼は美しい金髪をしていた。
わたしはふとファイトの言っていたことを思い出した。スーパーマーケットで働く、ガラクタを集めて回る男。
わたしは向きを変えて男を追いかけた。
あなたはクラウス?
後ろからそう尋ねると、彼は足を止め、こちらを振り返って頷いた。
「その通り、Kで始まるクラウスさ」
K-L-A-U-S、エメラルドグリーン。彼は独特な喋り方をした――舞台の上で喋っているような、奇妙な抑揚が付いている。
「君は僕のきょうだいの友だち?」
わたしは首を振り、ファイトのことを話した。
「ああ、あの写真家くんね」
あなた、
「そうだね、どちらかというと、僕は
ごみを集めてどうするんですか?
「
訳が分からずに首をかしげたわたしを見て、彼は笑った。
「詩はことばだ、でもそれは言語だけで表されるものじゃないんだ」
やっぱりわたしにはよく分からない。
「詩は美しい嘘だ……でもそれがただの虚構であるとは限らない」彼は歌うように言った。「
次の日、わたしはファイトにクラウスと会ったことを話した。
「本当に?」彼は少しだけうろたえたように見えた。
ええ、どうして?
「彼は鳴ってしまったんだ――昨日の午後遅くに」
●注
* "Knaben(少年たち)" Oskar Maria Graf
** „Die Schildkrökröte(甲羅亀亀)“ Ch. Morgenstern
*** „Wieviel Farben hat die Hand“ Max Ernst 1949年、コラージュと疑似神話の作品。1971年の映画ではない。
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