6.
八年生の秋に、兄は軍隊の基礎訓練のために家を出た。
兄がいなくなったのと同じころ、ファイトはわたしに言った。
「こんど、従兄の映画館に来ない?」
彼は変声期の最中で、声がひび割れたりひっくり返ったりしていた。どっちにしても彼の声は心地よい。
行く、と答えると彼は言い訳をするように続けた。
「もっと前に誘ってもよかったんだけど、君の親が君一人で行かせてくれるか分からなかったから」
街に行きたいから列車の切符代をちょうだいと言うと、母は誰と行くの?と尋ねたのでわたしは男友だち (ein Freund von mir)と答えた。母はそれにとても興味を示した――へええ、男友だち?そこでわたしは自分が犯した間違いに気づく。女友だち(eine Freundin von mir)と嘘を吐くべきだった。
母はなにか勘違いしたようだった。しかしわたしは弁解のしかたが分からなかったので黙っていた。それでもなお母が何をするの?と食い下がってきたのでただぶらぶらするだけと答えた――ファイトの従兄や映画の話をするとますますおかしなことになりそうな気がした。母はなんだか嬉しそうに切符代を余分にくれた。
わたしは列車に乗るのが好きだ、一定のリズムで揺られていると落ち着くから。これは良い音のする靴で歩き続けるのと似ている。しかしわたしは切符を買うのが嫌いだ、駅員に行き先を伝えるのが苦手なのだ。
制服を着た人間は人間の姿をした別のものなんじゃないかという気がしてしまう。正直なところただ乗りしてもばれないだろうと思うのだが、そうする勇気がないのでわたしは歯を食いしばって切符を買う。
駅で待っているとファイトがやってきてぽんと肩をぶつけてきた。わたしは人の身体に触るのが好きではないのだが、何も言わずにおいた。わたしは女の子にしては身長が高いが、彼はわたしよりも少し大きく、きっともっと大きくなるんだろう――兄もちょっと前まで、いくら靴を買い直してもすぐに履けなくなってしまっていた、わたしはたぶん兄やファイトほど大きくなれない。
わたしたちは列車に乗った。誰かが背もたれにガムをくっつけていた。わたしたちはそこに寄りかからないように気をつけた。
わたしは車窓から外を眺めた。列車から見える風景はだだっ広い平原かブドウ畑くらいだった。駅に近づくと町が現れるが、どれも大きな違いはない。州都の周りだけは都市開発が進んでおり、いつも重機が働いていた。
州都の中央駅を出て大通りまで出ると、ファイトは左手にある広場を突っ切って市庁舎の前を通り過ぎ、それから細い道に入った。その道はすぐに急な階段へと続いていた。
「もっと広い道もあるけど、ここを通った方が近道なんだ」
階段――思ったよりも長く、上りきった時にはすっかり息が上がってしまった――が終わると人気のない通りに出た。さらに五分ほど進むと行く手に風変わりな建物が現れた。
二つ……いや、三つの建物を無理につぎはぎしたような、いびついな家だった。一軒目はくすんだピンク色の煉瓦でできており、屋根はエビ茶色、窓枠は汚れた白、どんな建築様式なのか分からないけれどどことなくメルヘンチックな印象を受けた。
二つ目はコンクリートでできた背の高い角ばった建物で、外壁はところどころ(部屋ごとに?)青やオレンジや黒で塗られ、いくつか小さなバルコニーがあった。そして二つの建物の間に小さな家が割り込んでいて、あたかも押しつぶされまいとしているように見えた。小さな家の屋根の上に、二つの大きな家を繋ぐ吊橋のような連絡通路があった。全体を見るとちぐはぐで、とてもグロテスクだった――まったく別の生き物たちが縫合され、ばらばらになろうとしてもがいているような。
家の壁だけでなく塀も階段の手すりもどこもかしこも蔦でおおわれている。こんな家に住むなんてすごく変わった人なんだろう。
「前に言っただろ、従兄はボヘミアンだって」
ファイトはチャイム(玄関は煉瓦の家に付いていた)を鳴らしながら、建物に気圧されているわたしに言った。
わたしはコンクリートの建物の壁に鳥かごがぶら下がっていることに気づいた。中は空だった。
「リュディガーは叔父が
ファイトの従兄のリュディガー・ヴィルトバッハは二十代半ばの男だった。R-Ü-D-I-G-E-R、噛んだ後の
彼らは仲が良さそうだった。
それがお前の彼女?リュディガーがニヤッとして聞いた。
「ただの友だち」そう言いながらファイトは軽く従兄の脇腹にパンチした。
わたしの嫌いな挨拶や自己紹介が一通り済むとリュディガーはわたしに尋ねた。
君も“
ええ、そんな感じ。
映画は好き?
うーん、好きよ、映画館にはあまり行かないけど、テレビで昔の映画を観るわ。
テレビなんて!あんなの子ども騙しだよ。
リュディガーの家は丸ごと“
部屋の作りこそ“煉瓦の家”に相応しいような、どこかの金持ちの家のようだったが、重厚な紋様の壁紙の上にはいたるところにコラージュや抽象画や映画のポスターやビラが無造作に貼ってあった。
年季の入った木製の本棚には年代物の
(「コダック1/6×11」とファイトが言った。そういう型のカメラなのだろう。)
そして仰々しい金縁の鏡台の上にはずらっと酒瓶が並んでいた。
お嬢さん、入場料はお持ちかな、とリュディガーは言った。
わたしはあまりお金を持ってないと答えた。帰りの切符代を抜くと二マルク。
そう言うと彼はそっくり二マルクわたしから奪い取った。
「子どもから巻き上げるなんて大人げないぞ」
ファイトがたしなめたが、リュディガーは煙草を吸いながらおれは気前がいい方じゃないんだと言い返した。
煙を吸い込んでわたしは咳きこんだ。
リュディガーはいくつかある部屋の一つにわたしたちを案内した。内装は華侈な雰囲気から一変して、わたしたちは無機質なコンクリートの壁に囲まれた。
この部屋にはいくつか白い棚が立ち並び、そこに丸いケースに入ったフィルムたちがおさめられていた。いったい何本あるのだろう?百本はないかもしれないが、一人で集めたにしては相当な数があることは確かだ。雰囲気こそ倉庫のようだったが、ちゃんと掃除しているのか人がよく来るためか埃っぽくはなかった。
お前たちにはこのくらいでいいだろ、と彼は一つのフィルムを取り出した。
ケースには『アクメッド王子の冒険』と書いてあった。
「そこまでお子ちゃまじゃない」
ファイトはじれったそうに言った。わたしはあの影絵のアニメーションが好きだったので観たい気もしたのだが黙っていた。
『他の人と違ってる』『失業カメラマン』『ファントム』『蠱惑の街』『裏町の怪老窟』『心の不思議』『
こんなにどこで手に入れるの、と尋ねてもリュディガーは鼻の横をとんとんと叩いただけで教えてくれなかった。彼は煙草を灰皿に押しつけて言った。
メリエスやブニュエルはないぞ。チャップリンも……おれは国産品が好きなんだ。
わたしは『死滅の谷(原題“Der Müde Tod”、疲れた死神)』を選んだ。
(1921年、監督はフリッツ・ラング、撮影はエーリヒ・ニチマン、フリッツ・アルノー・ワグナー、ヘルマン・ザールフランク、デクラ・ビオスコープ社、フルフレーム…とリュディガーは言った。全部覚えているのだろうか?)
いい映画だよ、でも君はメロドラマが好きなタイプには見えない、とリュディガーは言った。
わたしはメロドラマは内容が分からなくなる、と答えた。
わたしは話の流れを掴むのが得意ではない――それは本を最後まで読めない理由の一つでもある。始まりと結末は分かるが間で何が起きているのか釈然としない。
まあ、それでもこの映画は面白いと思うよ、とリュディガーは言った。女優はあんまり美人じゃないけど。
リュディガーはわたしたちを地下に連れて行った。
(「向こうに暗室がある」ファイトが左手の奥にある扉を指さした。
見てもいい?と尋ねるとリュディガーが、だめ、今おれの写真を現像してるから、おれの作品はお前たちにはまだ刺激が強い、と言った。)
この空間は前の戦争の時に防空壕として使っていたものを改築したらしい。劇場にはニ十脚ほどの椅子と学校の黒板より少し大きいくらいのスクリーンがあった。
ファイトとわたしがねだると、リュディガーは特別に、と言いながら映写室でフィルムを機械にセットするところを見せてくれた。その部屋はわたしにボイラー室を思い起こさせた。
二つある映写機(長い映画は何ロールにもフィルムが分かれているので、二つあった方が円滑に映像を繋げられるらしい)の、郵便ポストに似た部分の頭にはストーブの煙突のようなものが取り付けられていた。そのポストの部分から光が出て、前にある機械(その上にフィルムをセットする場所があった)を照らし、その光は小さな窓を通りぬけてスクリーンに像を映しだしていた。
部屋の壁にはレンチやスパナなど色々な工具や、小さなハンドルのようなものがたくさん引っかかっていた。それから蓄音機と、リュディガーがいじっているものより小ぶりな映写機がもう一つ。あれは?と尋ねると、パテ・ベビーというアマチュア用の映写機だと教えてくれた。
彼はフィルムをセットしながら楽しそうに歌っていた。
《死んでいる、死んでいる、
おれたちゃ毎日死んでいる、
ここはすこぶる心地良い、
朝はまだまだ夢の中、
昼じゅうずっとそこにいて、
夜もまだまだ墓の下。
戦いは俺たちの憩いの場、
弾丸は俺たちの太陽、
死は俺たちの印、俺たちの暗号。》*
映画が始まるとリュディガーは言った。
音楽はなし。ほらここから出ろ、さっさと劇場の方に行け、
映写室を出ながらファイトが言った。
「彼はいつもあの部屋から映画を観るんだ――それがいちばん楽しい時間らしい。」
わたしたちは縫い目から中綿がはみ出た椅子に座ってスクリーンに見入った。
リュディガーの言った通り、映画の内容はメロドラマだった。死んでしまった恋人を返してくれと女が死神に言い、死神が女に試練を与える――別の世界で三度、恋人を死から救えば彼は帰ってくる。
冒頭に半透明の死者が壁を通りぬけていく場面があった。どうやって撮影したのか後でファイトに聞こう(きっと知ってるだろう)、と考えていると彼がわたしに尋ねた。
「幽霊を見たことある?」
ない、とわたし。
「死んだ人間は?」
おばあちゃんのお葬式でなら。あんたは?
「あるよ」
彼はいつどこで見たのか言わなかった。
死神はつらい仕事に参っている、神に従っているだけなのに人々の恨みまで買ってしまうから。わたしは女に嘆願される死神がかわいそうになった。わたしは人を好きになったことがない、そのためか、女がなぜ恋人のことで必死になるのか釈然としない……童話にもあるように、映画の中で人の命は蝋燭の炎として表現されていた。蝋燭を吹き消すように、人間もあっけなく死んでしまうものなのだろうか。
わたしは相変わらず人を見分けるのが苦手なので、場面と衣装が変わったとたん誰がどの登場人物か分からなくなってしまった……字幕のフォントが変わるため、状況が変わったことだけは何とか理解した。試練の一つ目の世界――たぶん中東が舞台――では女が顔を隠していたので余計分からなかった。
一つ目の試練は失敗に終わり、二つ目の試練では女が誤って恋人を殺してしまった――仮面をかぶっていた恋人に気づかなかったのだ。
「あんな仮面ひとつで恋人が分からなくなるのかな」ファイトが呟いた。
分からなくなる、とわたしは心の中で呟く。
三つ目の試練に失敗しても女は諦めずに死神にすがり、死神は生きている人間に命を差し出したら恋人を返してやるという。そんな都合のいい人間を本当に探し始めるなんて女は狂っている、とわたしは思った。最終的に女は恋人の死を受け入れ――。
ちゃんと話の流れについて行けたとは言い難いが、リュディガーの言った通りいい映画だったと思う。映画のいいところはこちらがこんがらがっていても話を進めてくれるところだ、本を読むときは自力でおしまいまでたどり着かなくてはならない。
映画が終わるとリュディガーが映写室から出てきて、ファイトと二重露出がどうのと何やら話しはじめた。撮影方法の話らしい。
「面白かった?」ファイトがわたしに聞いた。
ええ。そう言ってから具体的な感想を言わなければならないと思ったわたしはつけ加えた。
はじめの方の、死んだ人の行列が “鐘”みたいだと思った。
“鐘”は死神だろ、とリュディガー。
「死神が疲れてしまったから、“鐘”が
ファイトがそう言うとリュディガーは肩をすくめた。そうかもしれない、死神の代わりに神が直接手を下し始めたのかも……。
●注
*„Totentanz 1916“ Hugo Ball
『アクメッド王子の冒険(Die Abenteuer des Prinzen Achmed)』(1926) Lotte Reiniger
『他の人と違ってる(Anders als die Andern)』(1919) Richard Ozwald
『失業カメラマン』(1913)
『ファントム()Phantom』(1922) Friedrich Wilhelm Murnau
『蠱惑の街(Die Strasse)』(1923) Karl Grune
『裏町の怪老窟(Wachsfiguren Kabinett)』(1924) Paul Leni
『心の不思議(Geheimnisse einer Saale)』(1926) Georg Wilhelm Pabst
『伯林(ベルリン)大都市交響曲(Berlin: Die Sinfonie der Großstadt)』(1927) Walter Ruttmann
『死滅の谷(Der Müde Tod)』(1921) Fritz Lang
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