5.


 わたしはしょっちゅう隣町の大学図書館に行った。ファイトは誘わず、必ず一人で。大学図書館の本たちは押収されずにきちんと残っていた。政府も一応は文化を保存し、継承しようと思っているのだろう。

 大学図書館は素敵だ。壁には有名な画家が描いた絵――フレスコ画だろうか?おそらく聖書の一場面だろう――と格言が刻まれていた。Uウーの代わりにVファオが使われているのでドイツ語なのに異国の言葉のような印象を受けた。天井を支える柱はギリシャの神殿にあるもののように重々しい。そして天井には波紋のような模様があり、その真ん中から照明がぶら下がっている。

 壁にそってぐるり並んだ本棚の中にはありとあらゆる本が並んでいた。本棚に囲まれた真ん中のスペースにはたくさんの机と椅子が並び、大学生や研究者が本を読んだり書き物をしたり静かに議論したりしていた。

 わたしはその机を使わない。わたしはできるかぎり場違いに見えないようにおとなしくしている。でも上の階へと続く階段はとても素敵だった(古い木の手すり、靴の音を吸収するカーペットが敷かれている)ので、人気のない時間にそっと階段の途中に座って手すりの隙間から外の様子をうかがった。そうでなければ本棚に引っかかっている梯子の上から周りの様子を眺めた。たまにわたしは考えた――ここにいるとわくわくするのは、中途半端な場所にいること自体が楽しいせいか、それともちょっとだけ悪いことをしている気分になるせいか?


 もちろん本も読んだが、最後まで読みきれないのは相変わらずだった。しかしわたしは綺麗な装丁に触れたり美しく並んだ鮮やかな活字を見たり、紙とインクの匂いを嗅いだり、そして誰かの落書きを見つけたりすることにとても満足していた。ここにはおびただしい数の本があり、いつも新鮮な気分になった。わたしが一生かかってもここにあるすべての本を読むことはできないだろう。

 ほとんどの本は手にとることができたが、貴重な本や痛みがひどい本を読むには出庫の手続きをしなければならなかった。図書館の職員とは顔見知りになっていたのできっと見せてくれたとも思うし、わたしも完全なる好奇心からそういう本を見てみたいと思っていた。しかし彼らがわたしにアカデミックな話題をもちかけたら、わたしはろくな返事ができないだろう――わたしの最大の興味はあくまでも活字なのだ。


 図書館の本は貸し出しを禁止されていた。そのまま持ち去ってよからぬことを企む連中の手に渡るかもしれないからだ。出入り口には警備員が立っていて、利用者の鞄を開けさせて本を持ち出すものがいないかチェックしていた。



 近いうちに文芸リテラトゥーア管理局・コントロレという機関ができるのだそうだ。人々は個人の蔵書をリストにまとめ、この機関に提出し、彼らがそれを管理するのだという。

 こんな暴挙はかつての政権がやっていたことと同じだ、思想規制に他ならない、と主張する文化人も多く、彼らの声はラジオやテレビのニュースで毎日のように聞いた。政府の言い分は、この機関はあくまでエネルギーのためで(民間で核エネルギーを扱うわけにはいかないではないか?)、本を読む必要があるなら誰でも図書館で読むことが許されているし、国家に害を与えない範囲において人々は自由な思想を持つことができる、というものだった。

 実際のところ、押収された本がどうなっているのかはいまだに分からなかった。



*********



 七年生の時、ファイトがカメラを持って家にやって来た。その日も母は仕事で、兄は徴兵検査のために州都に出かけていた。

 ファイトが持ってきたポラロイドカメラは、彼の従兄が安値で譲ってくれたものだという。わたしたちはさっそくネープヒェンの撮影にとりかかった。


「不良品で、焦点を少し左側にずらさないと見切れちゃうんだ」


 彼は一枚だけ、と言ってわたしに撮影させてくれた。ファインダー越しの風景は奇妙だった……はるか昔の記憶を遡っているような。

 ネープヒェンは窓の前でおとなしくしポーズを取っていた。


「少しだけ、右にずらして」ファイトが後ろから指示した。


 わたしは言われた通り、ネープヒェンがファインダーの中心からずれるように体を傾け、シャッターを押した。その音にネープヒェンはぴくっと反応した。カメラの前から写真が出てきたが、何も写っていなかった。


「少し待つと、像が出てくる」


 わたしはその様子をじっと眺めた。壁の染みのように、じわじわと像が浮き出てきた。白い縁の中のネープヒェンは窓辺に座って、モデルのようにこちらを振り返っている。わたしは右に寄りすぎてしまったらしい。しっぽの一部が見切れてしまっていた。それに左下の部分はやや写りが悪くぼやけていた。


「ああ、それも元からだ…不良品なんだよ。でも、試しに撮影するくらいなら十分だろ?」


 わたしは頷いた。すごく面白い。



 ファイトはわたしよりずっと上手く撮影した。ソファの上に飛び上がる寸前に四肢を発条のように縮ませたネープヒェン、ひっくり返って毛糸玉を捕まえるネープヒェン、カーテンをよじ登るネープヒェン、テーブルの端を器用に歩くネープヒェン……


「猫を抱っこして」ファイトが言った。


 わたしは写真に写るのが好きじゃない。でもその時は深く考えず、素直にネープヒェンを抱き上げた。


「窓際に寄って」


 そちらの方が良い光が当たるのだろう。


「髪の毛、耳にかけてくれない?」

 結んだ方がいい?わたしは彼の指示に従いながら言った。

「いや、大丈夫……しゃちこばらないで、自然にして――苦手なら、こっち向かなくていいから」


 言われたとおり、わたしはカメラを無視してネープヒェンの方を見た。彼はわたしの腕に体をこすりつけた。わたしは彼のふわふわした首を撫でた。ネープヒェンは身をよじってわたしを見上げた。

 その時、ファイトがシャッターを押す音が響いた。そしてカメラが写真を吐き出した。


 見せて。わたしは猫を抱いたまま彼に近づいた。

「待って」そう言って彼は写真を持った手を高く上げた。


 じわじわと像が浮き上がっていく。彼は腕を伸ばしたままそれをしげしげと眺め、言った。


「まあ、悪くないんじゃないかな」


 彼はわたしに写真を差し出した。写真の中のわたしは窓際に立ち(白黒なせいか、光が当たってわたしの髪は金髪みたいに見えた。実際には、わたしの髪の毛はもっと暗い色だ)首をかしげて猫を見下ろしている。猫はわたしの腕にそって体を曲げ、疑問符の形にしっぽを曲げている。

 それからもう何枚か写真を撮ってから、ファイトは言った。


「そのうちもっとちゃんとしたカメラでも撮影しよう」


 彼はわたしが気に入った写真――撮影したほとんど全部――をくれた。

 


 その日の夜、わたしは母と兄に撮った写真を見せたが、夕食の話題はもっぱら徴兵制についてだった。兄は徴兵検査でT2という判定を下され――つまり、次の秋から基礎訓練に参加しなければならなくなったのだ。

 しばらくはあんなに大きな戦争は起きないって信じたいけど、と母は言った、不安定なご時世だもの、いつ何が起こるかなんて、分からないわよね……。

 おじいちゃんもお父さんも従軍したんでしょ?

 ええ。

 どんな風だったか、聞いたことある?

 そうね……母はしばらく口を開かなかった。本当に長いこと黙っていたので、教えて、と兄とわたしはせがんだ。

 おじいちゃんから聞いた話よ、と母は言った、深く――本当に深くため息をついてから。

 一回目の大戦の時、おじいちゃんはガリツィア――ポーランドのあたりかしら、そこでソ連軍と戦ったの。とっても酷い場所だったって……おじいちゃんは早い時期に負傷したんだけど、ちゃんとした薬もそろってなくて、衛生兵は麻酔なしで、怪我人を看護しなくちゃならなかった……外では敵軍の兵が吊るされていて……そんな場所に耐えられなくなって、一人の衛生兵がピストル自殺しかけて――


 母は先を続けることができなくなったのか、子どもには刺激が強すぎると思ったのか、そこで話すのをやめた。きっと母はこんなことを話すつもりじゃなかったんだろう、でも記憶の蓋を閉じるにはあまりにも生々しいイメージだったのかもしれない――母だって、戦場には行っていないかもしれないが戦争を経験しているのだ。わたしも兄も何も言わず、ただ黙って下を見ていた。夕食は食べかけのまま冷めていった。

 大丈夫よ、と母は腕を伸ばしてわたしと兄の手を握った、二回もあんな戦争を起こしたんだから、人間はもっと賢くなってるはずだわ。


 《かつて戦争で一人の男が

  身体髪膚しんたいはっぷ撃ち抜かれた。

 ただ膝だけが無傷で残った――

  あたかも聖遺物のように。


 それ以来一人寂しく世界ヴェルトをさまよう。

  それは膝、他の何でもないニヒト

 木でもなく、テントツェルトでもない。

  それは膝、他の何でもないニヒト」。



*********



 靴を買いに行くのは大仕事だ、なかなか理想的な足音がするかかとは見つからない。

いちどファイトが靴を買うのについてきたことがあった。旧市街中の靴屋を回るわよ、とわたしは警告したが、彼はただ面白がるだけだった。


 旧市街のたいていの靴屋とは顔見知りだった。わたしが試着して踵をコンコン鳴らすのを見ていい顔をしない店主もいた。でもそれはわたしにはどうにもできないことだ。間違った靴では、きっとわたしは歩き続けられない。

 一軒目の靴屋で、ファイトは商品の一つを指さした。


「この靴、似合うんじゃない?」


 わたしはその靴を履いてみた。サイズはぴったり。踵を鳴らしてみた。


 だめ。わたしはその靴を脱いだ。

「じゃあこっちは?」


 ファイトから靴を受け取ったわたしは、今度はそれを手に持ったまま踵で床を(軽く!)叩いた。

 わたしは首を振った。


「どんな音がいいんだ?」


 わたしは肩をすくめた。いま履いている靴はくたびれて違う音がする。

 わたしは適当に靴を取っては音を試し……を繰り返した。しばらくしてわたしは正しい音を見つけた。


 この音よ。


 しかし、その靴はサイズが合わなかった。


「これは?」ファイトが一組の靴を鳴らした。

 だめ。

「さっきのと大差ないよ」ファイトはいささか呆れたように言った。

 あんたにとってはね……でも違うのよ。

「デザインはどうでもいいわけ?」

 よっぽど変なやつでなければ、とわたしは答えた。できたら黒か、暗い色がいいけど、それから痛くならないやつならもっといいわ。


 結局その店で靴を買うことはできなかった。



 二軒目の店主は機嫌が悪かった。わたしたちがコンコンと靴底を鳴らすたびに鋭い視線を感じたし、いらいらして指で机をとんとんと叩いている音も聞こえた。店に置いてあった鏡越しに目が合い、無言で出て行けと言われているのも分かった。わたしたちはつとめてそれを無視し、ようやくわたしが満足する(そしてサイズも合っている)靴を見つけた。

 お題を払って店を出ながらファイトの様子をうかがうと、めちゃくちゃたくさんの踵の音を聴いたせいで彼はうんざりしたみたいだった。


 二軒目で見つかったんだから運がいい方よ。隣町や、州都で見つけなきゃならなかったこともあるんだから、とわたしは言った。

「君って頭に小鳥を飼ってるのか?」(※頭がおかしい、という意味)


 わたしはその言い方に笑ってしまった。


 ついてきてくれてありがとう。


 彼はこう答えた。


「これだけ聞いたら、靴の音で君を当てられるよ」


 それ以来、ファイトは靴の買い物にはついてこなかった。




●注

*„Knie(膝)“ Ch. Morgenstern

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