4.
それまでわたしは、自分がひとりで時間を過ごしているという自覚すらなかった。それがわたしにとってもっとも自然なことだった。そのためファイトとつるみ始めて間もない頃は、何か奇妙なゲームでもしているような気分だった。
ファイトもわたしもお互いの家にはめったに行かなかった。彼を連れて行こうものならわたしの母はなにか勘違いしそうだし、彼はわたしが一緒だと家の近くにすら行きたがらなかった。ただ一度だけ、彼の父さんが留守の時に遊びに行ったことがあった。
ファイトは旧市街の近くのアパートメントに住んでいた。彼の家の印象は“殺風景”だった。わたしの父の部屋ほどではないけれど余計なものは置いておらずとても片付いていた。彼は金魚を飼っていた、素晴らしく丸い胴をした透明なガラスのピッチャー
(「ヂバーンっていうんだ」
その言葉の綴りはとても独特だった。D-Ž-B-Á-N. 褐色っぽい色だが、外国語だからかはっきりしない。)
の中で、鮮やかなオレンジ色の魚が数匹泳いでいた。ヂバーンの底には白い砂が敷いてあり、よく見ると微かに藻が生えていた。
ファイトの部屋は写真だらけだった。買ったものや何かの切り抜きだけでなく、彼が自分で撮影したものもあった――川の水面に映る家々、電線にぶら下がるスニーカー、噴水に指をつっこむ子ども、石像の上に引っかけられたワイングラス、アコーディオンを弾くロマの老人、ヂバーンの中の魚たち――が、彼は自分の作品を見せたがらなかった。
彼はカメラをいくつか見せて技術的なことを説明してくれたがわたしには彼の言っていることがよく分からなかった。家に暗室はないが、例の“
(いったいあんたの従兄は何者なの、と尋ねると彼はこう答えた。
「ボヘミアン、かな」
B-O-H-E-M-I-E-N、工場の煙のような灰色。)
写真を撮りためて州都へ現像しに行くのだという。原理はともかく写真そのものは好きだったのでわたしは彼の持っている写真集を引っぱり出して眺めた。わたしはアメリカの写真家が気に入った。
「ゆっくり見たかったら貸してあげる」
わたしはその写真集を貸してもらうことにして、パタンと閉じた。その拍子に棚から写真が一枚舞い落ちた。わたしはその写真を拾った、それには一人の男性が映っていた。
「おれの父さん」
彼はそう言ってわたしから写真をかすめ取った。
厳しそう、と言うと彼は肩をすくめた。
「たまにね。君の写真、撮っちゃだめ?」
だめ。
わたしは写真に映るのが嫌いだった。
「だと思った」
わたしは代わりにネープヒェンの写真を撮らせてあげることにした。
*********
ファイトとわたしは通りすがりのスーパーマーケットに入っていろんなものを物色した。そうしていると店員が胡散くさそうにこちらを見た。わたしたちが万引きすると思っているのだ。確かにその考えは――決まりを破るという点で魅力的だったが、ここには危険を冒してまで欲しいものなんかなかった。
ただ、あまりにも何もすることがなかった。わたしがファイトに、あんたほかに友だちいないの、と尋ねたところ、彼と同じアパートメントに住むクラウスという若い男
(「変なやつで、ガラクタを集めてるんだ。壊れた自転車とか、折れた傘とか、そういうのを」
ガラクタの“
がここで働いているので冷やかしに行こう、ということになった。
しかしスーパーマーケットを一周したものの、クラウスはいないようだった。
「今日は休みなのかな」
アルコールの棚の前で、ファイトはヴュルテンベルガーの瓶を指で弾きながら言った。
(わたしはお酒の瓶のデザインやラベルを見るのが好きだった――でも、あまりアルコールを飲みたいと思ったことはない。兄が十六歳になった時に彼が飲んでいたビールを味見させてもらったが、美味しいとも不味いとも思わなかった。)
やることがなくなったわたしたちは出口に向かった。途中の果物のコーナーにはリンゴやプラム、ブドウ、バナナ、オレンジ、ラズベリー、ブルーベリーなどが積み上げられ、甘い香りを放ち……コバエがいっぱいいた。
わたしは立ち止まり、ネットに入ったプラムに群がるコバエを眺めた。
生きたままコバエを食べたらどうなるかな、とわたしは言った。
「そのまま腹の中で増えていって、内側から食い殺されるかも」
わたしが顔をしかめると、彼はにやっとして続けた。
「気づいていないだけで、もう蛆虫やなんかを食べてるかもしれないよ」
うえー、きもちわる。
わたしはプラムからコバエを追い払おうと手をぱたぱたさせた。
ファイトは両手でパチン!とコバエを叩き潰した。
「プラムは好きじゃない。大きい種があるから」
リンゴだってブドウだって種があるわ。
「飲み込んじゃえばいい、あんなに小さいんだから」
うえー、とわたしはもう一度呻いた、あんた、そのうちお腹から芽が出てくるわよ。
「そしてお腹を突き破って大木になるかもね」彼は笑った。
そのイメージがおかしかったので、わたしも声を出して笑った。
ファイトは言った。
「君が笑うのを初めて見た」
そんなことないでしょ。
確かにわたしは笑ったことがあったはずだ。何度も。
「ちゃんと笑ったのは初めてだよ。いつも――こんな風だった」
彼はそう言って顔をしかめてみせた。痛そうな表情に見えた。
自分がどんな風に笑っているか見たことがなかったが、わたしは自分の写った写真を思い浮かべた。笑って、と言われて顔をこわばらせているわたし。わたしはいつもあんな風に笑っていたのだろうか。
いま思い返せば、ファイトはいつもどんな風に笑っていたんだろう?
わたしたちは果物のコーナーを離れた。レジ付近にはガムや飴玉がぶら下がっていた。店員がやる気なさそうにレジを打っていた。お代は六マルク三五ペニヒ。
わたしたちはスーパーマーケットをあとにした。すぐ外にあるパン屋からいい匂いが漂ってきた。
わたしたちは旧市街をぶらぶらした。
街頭ではいたるところで有名なロックバンドの曲や自作の歌を披露する人々を見かけた。若者たちはみんなロックミュージックに酔いしれていた。
この日も教会の前でハープを演奏している女の子がいた。曲しているのは”Get off My Cloud”。ロックンロールもハープで奏でられるとどこか神秘的に聞こえた。わたしは彼女の演奏が気に入ったので、前に置いてあった防止に小銭を投げ入れた。
兄も若者の御多分に漏れず、蓄音機を自分の部屋に持ち込んで、大音声でロックミュージックを流すようになっていた。母に音量を下げなさい、と言われると少しの間は音が小さくなったが、しばらくして曲が盛り上がるところになると家中に響き渡るほど音が大きくなった。おかげでわたしはすっかりロックミュージックが嫌いになってしまった。
タイプライターで仕事をするときは母が問答無用で蓄音機を奪い取った。そうすると兄は居間でテレビを見る(音量を下げて)か部屋でラジオを聞く(同上)しかない。
ネープヒェンはそもそも蓄音機が嫌いだった。母がシャンソンをかけても兄がロックンロールを流しても、いつも部屋から出ていってしまった。蓄音機にいたずらをしたことは一度もないが、まれにらっぱの部分を見上げて尻尾を揺らしていることがあった。
幸運にも、政府は書籍にかかりきりでレコードや絵画の押収は始まっていない。今はまだ。
わたしは考える、もし政府が国中から本やレコードを奪い取ったとして、人々の頭の中の詩や音楽は消し去ることができないのではないだろうか?
*********
わたしは太陽の光でいっぱいの窓辺に腰かけ、手鏡を持って自分の目を眺めた。光を当てたり暗くしたりすると瞳孔が伸び縮みする。とても面白いことだった。はしばみ色の虹彩の所々に黒やオレンジ色の斑点がある。太陽の光を吸収して、真ん中の方は緑がかって見える。
ネープヒェンの瞳孔が細くなったり大きくなったりするのを見るのも好きだった。彼はまん丸のとても美しい目をしていた。
目の色にはいろんな種類があることは知っていた。青、灰色、緑、琥珀色、黒。しかしわたしは十二歳になるまで自分と違う目の色を見たことがなかった――というより、周りにはいろんな目の色をもつ人がいたのだが、わたしには見えていなかった。
どうしてかは分からないが、ある日、だしぬけにファイトと目が合った。彼の目は毎日のように見ていたはずなのだがわたしは彼の目の色を知らなかった。その時初めて、わたしは人の目を見た。彼の目は薄い青だった。それに気づいてからしばらくの間、わたしは何度もそのことを指摘した。
「もちろん、おれの目の色は青いよ」
彼にしてみれば不可解なことだっただろうが、彼は別段気にしたふうもなく言った。
「君の目ははしばみ色?灰色?緑?」
わたしの目の色は光の加減によって変わる。
この頃、わたしは人の外見の違いがほとんど分からないことに気づいた。一人一人の見分けはつくのだが、どこがどう違うのか分からないのだ。わたしに分かるのは、せいぜい肌の色や髪の色くらいだった。他人や自分の外見について、そしてその良し悪しについて判断がつくのはもっと後になってからだった。
いちど兄にファイトの外見について聞いてみたことがある。わたしに分かるのは彼の髪が濃いブロンドで目が青いことだけだった。別に悪くはないんじゃないかと言われたが、どうしたら外見が悪くなるのかわたしには分からない。
兄のガールフレンドのコージマはきっと美人なのだろう、C-O-S-I-M-A、デイジーの花束のようなイタリア系の名前。黒い髪に黒い目、わたしはあまり彼女と関わらないようにしている、なぜなら兄と仲良くできる人とうまくいくとは思えないからで、コージマの方もわたしには挨拶をしてくる程度。コージマの親戚は夏になるとイタリアからドイツにやって来てアイスクリームを売った。コージマの叔父さんは、ドイツ語はいまいちだけれど気前がよくて、おまけに小さなアイスクリームをくれた。
*********
わたしとファイトはよく森の中を散策した。わたしたちの町にある森だけでなく、バスに乗って隣町に行くこともある――そばに古い城があるので、そちらの方が面白いものが見るかった。いずれにしても、本当は森に入ってはいけない、なぜなら前の戦争の時に爆発しないまま忘れられた不発弾があるから……と説明されていたが、そんなことは気にしない。
森の入り口には“
森の中にはいろんな面白いものがあった。使われなくなったレールは雑草に埋もれ、少し土をほじくり返すと弾丸の破片や何かの金属片や――時には人骨まで出てくるらしい。
隣町の森は、すぐそばに今は大学院として使われている城があり、そのあたりには戦争で破壊されて再建されなかった建物の一部や門や温室の残骸などがあった。わたしはその温室の残骸が好きだった。粉々になったガラスや砕かれた鉢植え、照明の傘と思われるものや錆びついた園芸道具が半ば雑草に埋もれている場所に、鉄骨だけがかろうじて残っていた。それは壊れた鳥かごのようにも見えた。
いちど、わたしたちは蔦に覆われたぼろぼろの塔を見つけた、このあたりも戦地になったらしいからきっと見張り塔か何かの役目を果たしていたのだろう、外壁には銃弾の跡がたくさん残っていた、しかしわたしたちのような時間を持て余した若者に見つけられることが多いのかおびただしい数のスプレーの落書きがあった。わたしはスプレーのついた蔦の上に指を滑らせると葉っぱがぱたぱたと音をたてた。
わたしたちは歯抜けになった階段を登った、中も落書きと蔦だらけ、それからタバコの吸い殻や空き缶などのごみ。窓ガラスはすっかりなくなっているか、穴が開いて蜘蛛の巣のようにひび割れているのが二枚ほどあるだけ。
わたしは蜘蛛の巣の真ん中の穴から外を見た、かつてこの景色の先に敵の兵がたくさんいて銃や大砲を向けていたんだと想像してみる、その想像にはとても現実味がありわたしは少し恐ろしくなって窓から離れた。
わたしは頭の中で暗唱した。
《
そして言うには 「見るがいい、
そうすれば私がどんな
私が実をつける?まずないだろう。
根を張ることもないだろう」》*
それから小声で言った。
《「そしてそれは僕らにも当てはまる、
急いで根を張ることはない、
まして実をつけることもない。
君の一族の悪口を言うのはやめなよ」》*
帰りは小川にそって進んだ。小川は少しずつ広くなり、やがてこのあたりでいちばん大きな川に合流した。わたしたちは野犬に遭遇した――二頭の雑種、一頭は茶色と黒と白のまだら、もう一頭は赤茶色の長い毛。この二匹は人が住んでいるところにも現れてゴミを漁ったり出店の食べ物を盗んだりするが、誰かを襲ったという話は聞いたことがない。駅に住んでいる浮浪者に“グロッツ”“クラランス”と呼ばれていたが、どちらがどちらの名前なのかは分からなかった。
G-R-O-T-Z、C-L-A-R-I-N-S。アスファルトとレモンクリーム。
わたしたちは塗装された道を歩き、来るときに見つけたものとは別の「危険!自己責任!」という看板の横を通った。川の中では水草が、髪の毛のように長い水草が、流れに身を任せていた。
「気持ち悪いな」ファイトが呟いた。
●注
*„Der Pulzelbaum(とんぼ返り)“ Ch. Morgenstern
・ハンガリー人の写真家:Andre Kertesz。1944年にアメリカ国籍を取得しているので正しくはアメリカ人。
・アメリカ人の写真家: Man Ray。
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