3.
ファイトは仲が良かったと断言できる唯一の人物かもしれない。V-E-I-T。彼の名前もわたしと同じオレンジ色だが、わたしの名前よりも穏やかで、蝋燭の明かりのよう。
“V”という文字の興味深いところはドイツ語のように“
ファイトと同じ響きの英単語ファイト(fight)は白みがかった薄紫、それは“
わたしがなぜファイトと仲良くなったのかははっきりしないが、彼の声はじめからわたしの心に届いていたように思う。
その日、わたしは二つ前の停留所でバスを降りた。一人でそのへんを歩いちゃいけませんと母に言われていたけれど、どうしても歩いてみたくなった、毎日バスの窓から外を眺めているのだから道を間違えるはずはないとわたしは思った。
その考えは大間違いで、わたしはいくらもしないうちに迷子になってしまった。どの道にも建物にも見覚えがなかった。通りの名前すら――そこでわたしは、これまで自分が看板や標識に注意を払ったことがなかったということを知った。
その時、わたしは初めてちゃんと世界を見るということを始めた、立ち並ぶ建物、数えきれないほどの石が敷き詰められた石畳、石畳の隙間に生えた雑草、水が流れる溝、木、街灯、電線、信号、道行く人、自転車、自動車。
わたしの耳はやっと周りの音に注意を払うようになった、他の人の靴の音、車の音、自転車の音、扉が閉まる音、石や葉っぱやゴミが転がる音、風の音、話し声、教会の鐘。
鐘が三回鳴ったということは、今は
わたしは時刻の読み方が好きではない、文字盤の数字と読み方が違うから、それにわたしは
今は
どれだけ歩いても一体自分がどこにいるのか見当もつかなかったが、わたしは本屋を見つけたのでふらっと立ち寄った――本を買うお金を持っているか怪しかったけれど。
その本屋はあまり大きくなく、他の(まだ存在している)本屋と同じように棚はスカスカだった。
くだらない雑誌やビラが隙間を埋めようと無駄な努力をしている店内をぐるっと一周するとすみの方に二階に続く階段があったので、わたしは階段の真ん中あたりに座った。わたしは中途半端な場所にいるのが好きだった、階段の真ん中、部屋と廊下の間、それから家と外の間。そんなところにいるとたいてい、注意されるか不審そうな目を向けられたので徐々にやらなくなったのだが、あいにくと今は誰もわたしを見ていない。
はがれかけた壁紙の端をいじりながら、さてどうしようかなと考えているところにファイトが現れた。
彼は入り口からひょっこり顔を出し、店番をしている老人に声をかけようとしている途中でわたしに気づいた、彼はとてもびっくりしたようだった。
「やあ――エーディト?(彼はちょっと自信なさそうにわたしの名前を呼んだ)このへんに住んでたの?」
さあ、とわたしは首をすくめ、それから思った――彼の声はちゃんと聴こえた、彼は同じクラスにいたけれど一度も喋ったことがなかった。
「じゃあどうやってここまで来たんだよ?」
迷子になったのよ、いつもより二つ前でバスを降りたから。
「どうして?」
さあ、なんとなく。
「君んち、どこにあるの?」
わたしは家の住所を言う。
「K**通り?A**通りの先?」
そうだと思う。まったく分からなかったけれどわたしはそう答えた。
「君、ぜんぜん違う方向に歩いたみたいだな……」
彼はそう言って小さく笑った、別に馬鹿にしたわけではなさそうだったが、馬鹿にされていたとしてもわたしはぐうの音も出ない。
「君んちまで送ってあげようか?たぶん分かると思う」
お願い、ありがとう、すごく助かる、と言ってわたしは立ち上がって階段を下りた。
わたしたちは一緒に本屋を出た。そうするとわたしはどっちから来たのかも分からなくなっていたが、彼が進む方に黙ってついて行った。
「どうして本屋にいたの?」
わたし本を集めているのよ。
そんなことを教えるつもりはなかったのだがつるっと言葉が出た。そのことに少しひやりとしたが、彼はきっと周りに言いふらしたりしないような気がした。
「どんな本?」
なんでも、集めるのが好きだから、読んでない本もたくさんあるわよ。
「へえ」
彼は立ち止まって標識を眺め、角を曲がった。わたしも後に続いた。
「おれの従兄も似たようなことをしてるよ……本じゃなくて映画だけど。州都に住んでいて、映画のフィルムを集めてるんだ。叔父さんが
楽しそう、とわたしは言った。
教会の鐘が
《鐘の音 夜空を飛んでった
あたかも鳥の翼のように
ローマ教会の装束で
谷も丘も越えてった》*
あんたはどうして本屋に行ったの?
「あの店の爺さんとおれの母さん、仲が良かったんだ。おれも小さい頃から面倒をみてもらってたから、たまに死んでないか確かめに行くんだよ」
仲が
あんたの母さん、
「ああ……そうだよ……」
その言い方は歯切れが悪かった、家族に
最近?とわたしは重ねて尋ねた。
「一年前」
ふうん、とわたしは言った、うちの父さんは
「ずいぶん前から?」
さあ、三、四年くらいになるかな。
「寂しい?」
そうでもない――。
その時、見覚えのある通りに来てわたしははっとした。
もうすぐわたしの家だわ。
彼はさっきと同じように笑った。
「よかった。あんまり見覚えがないみたいだから、間違ってるのかと思った」
まもなく無事わたしの家にたどり着き、少しほっとした。
ありがとう、見たかったらわたしの本たちを見ていく?
どうしてそんなことを言ってしまったのか分からないけれど、わたしは珍しく本気で感謝していたしファイトの声はわたしにちゃんと聞こえていたので見られても大丈夫だろうと思った。ただ、どうして自分がそんな提案をしたのかは分からなかった。
彼が頷いたのでわたしは家の鍵を開け、二人で中に入った。ドアマットの上を歩くとわたしは家に帰ってきたと実感する、靴が硬い音ではなく軽い音をたてるから。母にいつもちゃんと泥を落としてから入って、と言われていたが、わたしはマットをまたいでしまうことがある――どうしてかは分からない、単に言いつけを破りたいだけかもしれない。
きっと昼寝をしていたのであろうネープヒェンがソファの上で伸びをし、ファイトを見て目を細めた。お客さんよ、と言うと彼は前足を舐めて毛づくろいを始めた。猫のほかは誰もいない。その日は兄がスポーツクラブに行く日だったし、母は隣町で秘書の仕事をしていたので六時を過ぎないと帰ってこない。猫は平気?とわたしが尋ねるとファイトは肩をすくめた。
わたしの部屋に入るなり、彼はひゅうっと口笛を吹いた。
「すごい、ぜんぜん女の子っぽくないな」
そう言われてあらためて自分の部屋を見ると確かにその通りだった――三年と少しかけて集めた本たち、哲学書や辞書や堅苦しい文学作品が、床から天井までの高さの本棚だけでなく部屋中を埋め尽くしていた。きっと本棚が倒れたら、わたしは窒息して死んでしまうだろう……このご時世ではこんなに本を目にすることは珍しいかもしれない。部屋が狭いにしても、いつか両親が言っていたように教授の部屋のようだった。
(そこでわたしは、本物の教授はどのくらいの本を持っているのだろう、と考えた。彼らはこれから破壊力の高い書物を生み出す可能性だってあるはずだ。)
本以外のものも、ジグソーパズルや新聞のクロスワードパズルの切り抜き、船の模型、蝶の標本、気に入った包装紙の切れ端や使用済み切手や映画のビラや雑誌の切り抜きでできたコラージュ、――小物や家具も可愛らしい色やデザインが嫌いなわたしに合わせて無機質な顔をしている。兄の部屋より男らしいかもしれない。
「君はこういうのが好きなのか?」
彼は本にはあまり目を向けず、壁に貼ってあるハンガリーの写真家が撮影したどこかの街並みをつついた。
そうね、たぶん好きだから貼ってあるんだと思うわ。
「
彼はわたしの言葉を繰り返したが、わたしの部屋の物色を続けた。
「
W-U-N-D-E-R/K-A-M-M-E-R、水銀。S-A-M-M-L-U-N-G、サラダ菜。
「このへんの本、骨董品みたいだね」
おじいちゃんの本よ。ずっと前に
「政府に寄付しなかったのか――きっとものすごい破壊力があるだろうな」
破壊力?
確かにそうかもしれない。政府の人間はどうやって本の持つ破壊力を推し量るのだろう?
「でもとってあってよかった」
そう?
「こんなもの、今じゃめったに見られないよ」
彼がわたしの部屋にあまりに興味を惹かれているようなので、わたしは居心地が悪くなった。それに外はかなり暗くなってきた。雨が降るかもしれない。
そろそろ兄さんが帰って来るかも。
それを聞いたファイトはわたしの部屋から出た。本当はもっと後にならないと兄は帰ってこないのだが。
「また見に来てもいい?」
うん、誰にも言わないなら、家まで送ってくれてありがとう。
家まで送ってもらった次の日、ギムナジウムでファイトがわたしのところに来た時はとても驚いた。実科学校でアーガトンにやったことはこの学校でも広まっていたので、わたしは同級生からなんとなく避けられていた。
彼は昼休み、わたしの隣にやって来た。その時、わたしはただ周りをぼんやり眺めていた。母が作ってくれた昼ご飯はわたしの膝の上で手付かずだった(母はリンゴを入れてくれなかったみたい、とわたしは考えた)。わたしは校舎の外の塀に座った。一人でベンチを占拠することはできないだろう、きっと誰かがやって来る。校舎の外でもこのあたりはベンチがあるのでとても騒がしい。仲間たちとわいわい騒いでいる連中は間違いなくわたしと同じ言語を話していたが、わたしは会話の内容を理解することができなかった。たくさんの声、彼らのことばはただのざわめき、ただの響きにすぎなかった。たいてい、こういう場にいる人々の声はそんな風にしか聞こえなかったが、今わたしはそのことをはじめて認識した。
昇降口の前では多くの人が仲間を探している。みんなが群集の中から知っている顔を見つけ出そうとしている時、わたしは立ちつくす樫の木を眺めていた。風は止まっていて、樫の木はまるでオベリスクのように見えた。
「エーディト!」
そこにファイトが来た。
「隣、空いてる?」
彼は塀の上、わたしの横にぴょんと跳び乗った。確かに横には誰もいなかったが、彼が何をしに来たのか分からなかったのでわたしは何も言わなかった。彼は売店で買ってきたのであろうサンドイッチの包みを破いた。
「
彼は肩をすくめた。少し笑っているような気もした。
「
見てたの?とわたしは言った。
「ここ、君が思ってるより目立つよ」
じゃあ、明日から場所を変えようかな、とわたしは呟く。
わたしは他人のことを見ていないけれど他人はわたしを見ているかもしれない、ということに思い至った。
彼はサンドイッチを食べながら、まだ紙袋の中にあるわたしのお昼ご飯を指す。
「食べないの?」
食べるよ。
そう言ったもののわたしは何もしなかった。実を言うとわたしは喋りながら食べるのが苦手だった、どちらかがおろそかになってしまう。
「邪魔だった?」
そういうわけじゃないの。
わたしはとりあえず紙袋を開いた。わたしのお昼ご飯もサンドイッチで中身はたぶんレタスとチーズとハム。いったいどうやって食べようかと考えていたら、ファイトの視線に気づいた。
見ないで。
「ごめん」
彼が横を向いたのでわたしはサンドイッチにかぶりついた、そうしながらやっぱり彼がどこかよそに行ってくれないかなと考えた。彼はわたしが食べ終わるまで何も言ってこなかった。
先に口を開いたのはわたしのほうだった。
あんた友だちいないの?
彼は声をたてて笑った、とてもいい声だとわたしは思った。
「そっくり同じ質問を返すね!」
その後たいしたことは話さなかったけれど、わたしたちはよくつるむようになった。彼は友だちがいないわけではなかったが、よく観察してみると自分から輪の外側にいるように見えた。転校生だからだろうか。彼は五年生の途中でこの町にやってきたらしい。
彼の苗字はバルテルといった。B-A-R-T-H-E-L、深い藍色、元々はバルトゥシェク(B-A-R-T-U-Š-E-K、バルテルより暗い色だが聞きなれない音があるので曖昧だ)という名前だったのだが、彼の祖父がベーメンからドイツに来た時に名前を変えたのだそうだ。
●注
* „Bim, Bam, Bum(ビム、バム、ブム)“ Ch. Morgenstern
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