景山百香は現れない
第9話
世界は変わらない。
景山百香と二人だけの秘密を持つような親密な仲になっても、世界が輝いて見えたりしないし、くすむこともない。いつも通りの時間に目が覚めて、ご飯を食べて着替えて学校へ行く。変わることを期待していたわけではないが、拍子抜けするほど私の世界は変わらない。
里穂との待ち合わせの場所、一号店に着いて五分。
彼女はまだ来ない。
これもいつも通りだ。
私は昔から約束の十分前には待ち合わせの場所に着いていて、里穂が早く来ることは滅多にない。学校に遅刻しなければ問題ないから、早く来てほしいとは思わないし、里穂が少しくらい遅れてきてもかまわない。
カラフルなのぼりの横で地面を蹴る。
靴底で、じゃり、と海から運ばれた砂が嫌な音を立てて、私は小さく息を吐いた。
そう言えば、一つ変わったことがある。
二人きりのときに限定されるけれど、景山先輩を子どもの頃のように百香と呼ぶことになった。
亜利沙ちゃんを草野先輩と呼ぶことに決めたとき、百香のことも景山先輩と呼ぶことに決めたのに、片方の呼び方だけが振り出しに戻ってしまったことはあまりいいこととは思えない。
はあ、とため息を一つつく。
百香も私と同じように、いつもと同じ朝を迎えているのだろうか。
だとしたら、ちょっとむかつく。
昨日のことは私にとってそれなりに記憶に残る出来事だったから、少しくらいは違う今日を迎えていてほしいと思う。
「いつも通りじゃない百香なんて気持ち悪いけど」
私はもう一度地面を蹴って、空を見上げる。
雲一つない空は青すぎて、目が痛い。
潮風が前髪を揺らす。
でも、暑い。
朝でも容赦のない太陽が腕を焦がそうとしている。
視線を足元に落とすと、聞き慣れた声が耳に響いた。
「おはよう」
声のするほうを見ると里穂がいて「おはよう」と返そうとしたけれど、違う言葉が口からでる。
「……草野先輩」
里穂の隣には何故か草野先輩がいて、釘が打ち込まれたみたいに胸の奥が痛くなる。
「おはよ、多香美。久しぶり!」
草野先輩の明るい声に、何故か百香の顔が浮かぶ。
昨日、私は人に言えば噂になって面倒くさいことにしかならないことを百香とした。草野先輩はそれを知らない。
もし、そういうことがあったと草野先輩に言ったら。
そして、そういうことをするなら草野先輩が良かったと言ったら。
どうなるのかと考えかけて、私は昨日の出来事を記憶の海に沈める。
『里穂は亜利沙が好きで、亜利沙も里穂が好き。私たちが入る隙間なんてない』
昨日聞いた百香の感情のない声を思い出す。
その通りだ。
昨日となにも変わっていないのだから、里穂と草野先輩の関係も変わっていない。だから、昨日あったことを草野先輩に話しても困らせるだけだし、草野先輩が良かったなんて言っても変わったことが起きたりはしない。草野先輩の気持ちを動かせるのは里穂だけだ。
「おはよう」
私はなるべく元気の良い声で里穂と草野先輩に挨拶を返す。
「そこで里穂と会ったから、一緒に来ちゃった」
草野先輩がにこりと笑って、茶色い髪が揺れる。顎のラインで切り揃えられた髪は、太陽によく映えて綺麗だと思う。夏の暑さを春の光のような心地の良いものに変える。
「亜利沙ちゃん、朝ご飯買うんでしょ。早く買ってきたら」
里穂が呆れたように言う。
「急いでも遅刻だし、のんびりでいいでしょ」
「良くないと思うけど。ねえ、多香美」
里穂の言う通り良くはないが、急いでも遅刻というのも事実だ。
草野先輩の高校は、ここからバスで三十分は揺られる必要がある。今からだと絶対に間に合わない。
「朝ご飯は食べたほうが健康にいいと思う」
どうせ間に合わないなら慌てても仕方がない。
私は里穂ではなく草野先輩の味方をする。
「おー、さすが多香美。話がわかる!」
「多香美、亜利沙ちゃんのことあんまり甘やかさないほうがいいよ」
「里穂、もしかして反抗期?」
そう言うと、草野先輩がわざとらしくため息を一つつく。
「反抗してないし。それより、買うなら早く朝ご飯買いに行けばいいじゃん」
「じゃあ、そろそろ邪魔者は消えようかな。二人ともいってらっしゃい」
そう言うと、草野先輩が楽しそうに手を振ってコンビニの中に消える。そして、残された私たちはどちらともなく歩き出す。
「ねえ、多香美」
里穂が大きく足を一歩踏み出して止まる。
「なに?」
「最近、百香と会ってるの?」
「なんで?」
嫌な名前がでてきて足を止めたままの里穂を鞄でつつくと、彼女はのろのろと歩きだした。
「お母さんが多香美の家の近くで百香に会ったんだってさ。百香、多香美の家にいたって言ってたみたいだけど」
「あー」
さすが田舎ネットワーク。
母親が見たもの聞いたものがあっという間に子どもに伝わる。もちろんその逆もあって、子どもが見たもの聞いたものを母親に話せば、あっという間に近所に広まる。
話が早くて助かることもあるけれど、話が早すぎて困ることもある。今日は話が早くて困るほうで、私のこめかみがぴくりと動く。
「会ってるっていうか、会うことになってしまったというか」
「偶然会ったってこと?」
「うん、まあ、そんな感じ」
中学から高校へ。
学校が変われば、近所に住んでいても顔を合わせることが少なくなる。百香と私たちも昔に比べれば縁遠くなっていたから、里穂が私と百香が会っているかわざわざ確かめてくることに不思議はない。
「百香、高校忙しそうだけど」
「テスト期間中で学校終わるの早かったみたい」
「あ、そっか。期末テスト! でも、テスト期間中にふらふらしてて大丈夫なの?」
「大丈夫なんじゃないの。あれで頭いいし」
「わざわざ家でなに話してたの?」
「なにって言うか、世間話してただけ」
「百香と?」
里穂が怪訝な顔をする。
気持ちはわかる。
私だって里穂が百香と世間話をしていると言いだしたら、聞き返したくなる。
「そう」
「ふうん」
里穂が納得してはいない声をだす。
面倒なことになりそうだな。
私は腕をぶんっと振って、里穂を見た。
「そう言えばさ、もうすぐ三者面談あるよね。志望校そろそろ決めないとマズいんじゃない?」
こっちが面倒なことになる前に、里穂が面倒くさがりそうな話を持ち出すことにする。
「マズくない」
里穂が明らかに浮かない声で答える。
「マズいでしょ。里穂、この前の進路希望調査、白紙で出したじゃん。また先生に怒られるよ」
「行きたいところないのに書けないもん。多香美はもう決めてるんだよね」
「うん」
「あーあ、高校なんてこの世から消滅すればいいのに」
里穂は唐突に物騒なことを口にしてまた足を止めると、ばーんっと両手を空に伸ばした。
「消滅しないから、ちゃんと高校決めなよ」
「多香美、お母さんみたい」
私はむすっとした顔をした里穂の背中を押して歩く。
「お母さんじゃないから」
私は里穂の幼馴染みだ。
かわいくて、ちょっと頼りがない里穂のことを大切な親友だと思っている。そして、里穂は早く草野先輩と付き合うべきだと思っている。
二人が付き合ってくれたら余計なことを考えなくてすむ。
だから、早く。
二人が付き合えばいい。
私はそう強く願いながら、里穂の背中を強く押した。
わるい先輩 羽田宇佐 @hanedausa
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