13. それなりに働く男
麗美は八条目大学の正門へと伸びる道を歩いていた。その足取りはひどく重く、どこかふらついている。
目を覚ますと、瑛美がどこにもいなかったのだった。いつもなら、化粧をして髪を巻くため早起きをする麗美より、ずっと遅く起き出してくるはずなのに。制服を着て、鞄を持って、行ってらっしゃいと言う母を背に家を出たけれど、その足はどうしても自分の通う高校へは向かなかった。
朝の空は薄青くこざっぱりとしている。八条目大学へ近づくにつれ、その学舎が化け物のように大きく感じられて、麗美はどんどん憂鬱になっていった。
ふらりとその足が車道を踏んだ。瞬間、彼女のすぐ後ろでクラクションが巨大な音を立てた。
「危ない!」
強い力が麗美の体を歩道へ引き戻す。見ると、その腕を掴んでいたのは三本木だった。ふたりの横を車が走り去っていく。
「あー、危なかったあ。大丈夫? 麗美くん。気をつけなきゃ」
「ごっ……ごめん、なさい」
弱々しい声はまるで別人のようだ。しおらしい様子の彼女に、三本木は訝しげな顔をした。
「どうしたの? 元気ないね。……あっ、もしかして、瑛美くんとなにかあった?」
麗美はしばらく黙って、それから小さく頷いた。三本木は少し考えるように視線をさまよわせる。
「おれでよかったら……話、聞くよ。ここで立ち話もなんだしさ、おれの研究室にでも行こっか」
そう言った彼の姿は、確かに学生たちから慕われるに足る頼もしさと責任感に満ちていた。だから麗美は自分でも驚くほどの素直さでその言葉についていったのだった。
まだ早い時刻だからか、構内は静まりかえっている。ふたりの足音が硬質の床に響いた。三本木が研究室の扉を開けると、室内にいた数人の学生が揃って「おはようございます」と挨拶をしてくる。
「うん、おはよう。さ、麗美くん、座って座って」
三本木が指し示したソファに、言われるがまま麗美は腰かけた。学生たちは壁際の棚やそれぞれの机に散らばって忙しそうに動いているが、何を行っているのかその内容は麗美にはよくわからなかった。
「それで、なにがあったの?」
三本木は彼女の向かい側に座り、まっすぐに顔を見据える。麗美はぽつりぽつりと先週の金曜日の夜のことを語った。話が進むにつれ、その声は嗚咽が混じりそうになるのを必死でこらえているように崩れていく。それに相槌を打ちながらときに深く頷いて耳を傾けていた三本木は、彼女が話し終わると同時にぐっと身を乗り出した。
「あのね、麗美くん。まず謝らなきゃいけないんだけど、最初におれ、瑛美くんが変わった原因はハクタクさんの授業にあるかもしれないって言っちゃったでしょ。あれを訂正させてほしい。ハクタクさんは関係ないです。これに関してはおれがもう全面的に悪い。全部おれの早とちりというか、なんというか、まあとにかくハクタクさんたちにはちゃんと謝っておいたから大丈夫。きみは気にしなくていいよ」
そこで三本木は微笑む。それは見る者にただただ安心感のみを与えるようなものだった。彼はそういう表情がやたらに得意なのだ。
「それでね麗美くん、ここからが大事だ。金曜の夕方、そこの正門で沿島くんと口喧嘩してたんだってね。いや、おれのとこの学生が偶然見かけてさ。でね、そのときさ、瑛美くんの様子がおかしくなったのは宗教サークルの……G.G.H研究会のせいだって沿島くんから聞いたでしょ? 信じられなかったかもしれないけど、あれ、本当なんだ。八条目大学では度々こういう、学生の言動に急な変化が起こるっていうことがあってね。そのほとんどのケースにG.G.H研究会が関与してるってのはもう公然の事実みたいなもんでさ、当然大学側も把握してはいるんだけど、今までずっと完全な解決には至ってないんだ。それがなんでなのかっていうと、G.G.H研究会は、金鏡会っていう宗教団体の、まあ、なんていうかな、下部組織でね、それでまあ、その信者って言ったらいいのかな、それが大学職員側にもいるからってことらしいんだよね。……だからね、たぶんなんだけど、大学になにか訴えても、解決は……見込めない、というか……いや、まあ、難しい……かもしれないんだ」
終盤にかけてだいぶ慎重に言葉を選びながらなされた説明を、麗美は黙って聞いていた。そしてふと顔を上げる。
「じゃあ、あたしが自分で、それのとこ……なんか研究会? のとこ、行きます。で、お姉を——」
「いやっ、だめだよ!」
三本木はあわててその言葉を遮った。
「っていうか、無理だ。宗教っていうのはね、麗美くん、きみが思うよりずっと強いものなんだよ」
「じゃあさあ、どーしたらいいわけ!? なんか、そんな、きもいシューキョーに、お姉が、……お姉……お姉があ……やだよ……なんで……どうしたら、いいん……ですか……」
大声を出した衝撃で何かが決壊したらしく、麗美の目からとめどなく涙が溢れ出す。
「……落ち着いて。大丈夫だよ、麗美くん。おれが協力する。一緒に瑛美くんを助けよう」
芯のある声だった。麗美は頷いた。何度も、何度も頷いていた。部屋には誰の声もなくなる。窓の外から差し込む陽光が、とても優しい色をしていた。
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