9. ああエキセントリック中年男
「それで、伝言というのは……」
舌を火傷したらしく目尻に涙を浮かべる三本木に、ひかるはそう尋ねる。
「うん、うん、そうそう。あのねえ、さっき麗美くんをね、ここに連れてきたでしょ、おれ」
「ああ、はい。たいへん迷惑なことをしていただいて。ハクタク先生もそれはそれは怒ってらっしゃいましたし」
すると三本木は、あっけらかんとした顔で「あーっ、やっぱ怒ってた? まずいなあ」と言った。ひかるは呆れる。
「逆に訊きたいんですが、怒られていないとでも思っていたんですか? 胸ぐらまで掴まれてたじゃないですか」
しかし、三本木はまったくピンときていない様子だ。
「え、あれって怒ってたの? あれぐらいならしょっちゅうじゃない?」
「……。はい。いや、いいです、もう」
「ん? そう?」
ひかるの顔に諦念が浮かぶも、三本木はあくまで気づいていないような表情で話を続ける。
「でね、これ、おれ本当、わかっちゃったんだけど……」
そこで彼は声を潜め、辺りを窺うようにして囁いた。
「……瑛美くんがおかしくなったって話、もしかしたらG.G.H研究会が関わってるのかも」
「……」
「……」
長い沈黙がふたりの間に訪れる。永遠にも思われるような静寂がじっとりと研究室中に滞留したあと、ひかるは重い口を開いた。
「まあ……、はい……。そうでしょうね……」
「えー!?」
三本木は大声をあげて驚く。
「待ってよ! うそ、久保くん、気づいてた? いつ気づいた?」
認識が遅いというべきか、洞察力が低いというべきか、とにかく周回遅れとしかいいようがないその発言に頭を抱えつつ、ひかるは応える。
「いつ、というかですね……むしろ三本木先生、最初に話を聞いたときに気づきませんでしたか? もしかしたらもなにもないですよ。八条目大学で学生の様子がおかしくなったといえばG.G.H研究会関連と相場は決まってるじゃないですか。ハクタク先生のせいであるわけがないんですよ。……というか、まさかそんなことを伝えるためにわざわざまたここにいらっしゃったんですか? ハクタク先生がいなくてよかったですね。いたら今度こそ出入り禁止にされてましたよ。まあ、これ以上無益なことをおっしゃるつもりなら、ぼくが代わって出入り禁止を言い渡してもかまいませんが」
「そ、そんなに言わなくても……いや、そりゃ、おれもまあ悪かったかもしれないけど、でも、でもね? 瑛美くん、哲学科の学生だったからさあ」
ひかるの視線がより冷たくなった。
「だから、ハクタク先生を疑ったんですか? それであの子——麗美さんにあることないこと言って……」
その言葉に、三本木はあわてて両手を振り否定してみせる。
「いやいや疑ったとかそんな、そんなんじゃない、そんなんじゃないよ! あることないことなんか言ってない、あることしか言ってないし……あのね、おれはね、瑛美くんの様子がおかしくなったってことは聞いたけど、詳しくどうなったとかは知らなくて、哲学科っていうのがまずあったから、ほら先入観がさあ。ハクタクさんの教え子って、ハクタクさんに似るし」
必死の弁明をする彼を、ひかるはじろりと見た。
「もしかして、ぼくのこと言ってます? まあ、それはわかりましたけど、そもそもどうして三本木先生が麗美さんをここに連れてきたんですか? 知り合いとかでもないでしょう」
「あ、それはねえ、ほんとに偶然で。一昨日の夕方ぐらいかな、おれ、研究室にいたんだけど、正門のところで麗美くんと瑛美くんが喧嘩してるのが窓から見えて。それで止めに行ったら瑛美くんはどっかに走ってっちゃって、だから麗美くんに話聞いたの。で、哲学科ってことだからハクタクさんのことちょっと話したら、その人のところに連れてってほしいって言われて、でも一昨日ってハクタクさんいなかったでしょ? 来てなかったのかな、早く帰ったのかな、知らないけど。だから日を改めてってことで、それで今日ちょっとさっき麗美くんをハクタクさんのとこに案内したら、まあなんかその、ああなっちゃったわけだけど」
「ははあ……なるほど。そうでしたか」
長い説明を受けたひかるの追求が止んだ隙を見て、三本木はすっかり冷めたコーヒーを飲み干し席を立った。
「じゃ、おれ、帰るね。コーヒーありがと」
それから少し考えるようなそぶりをして、こう付け加える。
「あとさあ、ハクタクさんに、巻き込んでごめんねって言っといてくれるかな。おれ、麗美くんにちゃんとハクタクさんは関係ないって伝えとくから」
「はい、それはもう、よろしくお願いします」
「うん。久保くんも、ごめんね、いろいろ。迷惑かけちゃって」
そして彼はバイバイと手を振りながら部屋を出ていった。嵐が去った後のような心情で、ひかるはしばらくその場にぼうっと佇んでいた。
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