10. 哲学しようよ
時は少し遡り、ちょうど三本木が白澤の研究室を訪れた時刻、沿島は正門の前で麗美に追いついていた。
「ちょっ、ちょっと待って!」
「うっわ。なに?」
振り向いた彼女は露骨に顔を歪める。
「なんで追いかけてくんの。きも。そっちが出てけって言ったんじゃん」
「いや、そうなんだけど、違うんだ、それはごめん、でも違って、その、ぼ、僕らじゃないんだ」
息も切れ切れ、しどろもどろのその言葉に、麗美は鮮やかな音で舌打ちをした。
「はあ? 全然なに言ってっかわかんねー。きしょ」
そして背を向けて立ち去ろうとする。沿島はあわててその手首を掴み、引き止めようとしたが、彼女は強い力でそれを振りほどいた。
「ねえほんときもい。なんなの? お姉にもそーやって意味わかんないこと教えたんですかあ?」
「だから違うんだ。聞いてくれ。お姉さんにおかしな影響を与えたのは僕らじゃなくって、G.G.H研究会っていう怪しい宗教サークルなんだよ。僕らは関係ないんだ」
しかし麗美は聞く耳を持たない。
「あー、なんかうざ。てかそんなんふつーに信じらんないんですけど」
「頼むよ、信じてくれ。僕らじゃない。僕らはただの哲学——」
「てかシューキョーとかテツガクとかって一緒じゃね、まじで。倫理で習ったし。まじ受験生」
まじ受験生とは? 沿島の心に、苛立ちにも似た虚無感が呆れの念を伴って去来する。
「いや、あのさ、一緒って、君……」
「あーもう、しつこ。きも。なんなの。まじで。通報するよ? 逮捕されたい人ですか?」
「どんな容疑で逮捕されるっていうんだよ……とにかく、だったらもうお姉さんに直接訊いてみてくれよ。G.G.H研究会に入ってるのかどうかってさ」
「なんでそんなん言われなきゃいけねーんだよ。てか関係ないとか言ってんならあたしに関わんなくてよくなくないすかあ? ついてくんなまじで」
「僕はただ君のお姉さんが心配なだけだ、G.G.H研究会は本当に危ないから、君たち家族だって……」
「はーい。はーい、はーい、はーい。わかりましたあ。はーい。さよーならあ。まじ無理、しつけー」
「あ、ちょっと、待ってったら」
沿島はまた手を伸ばした。しかし、麗美は先ほどよりも強くそれを払いのける。
「触んじゃねーよ! きっしょいんだよ!」
そう叫んで一目散に駆け出し、そして十メートルほど先で盛大に転んだ。唖然としながらも助け起こしにいこうとした沿島だったが、その到着を待たずして彼女はすぐ立ち上がり、振り向かずに走り去っていった。沿島はしばらく呆然としてその姿が消えていった道の向こうを眺めていた。
やがて我に返った彼は、研究室に戻るため人文学部棟へ足を向ける。エレベーターに乗り五階のボタンを押そうとしたが、ふと、そもそもの元凶である三本木に麗美を説得してくれと頼もうと思い立ち、三本木の研究室がある三階へと行き先を変えた。
三本木の研究室は同階に並ぶどの研究室よりも徹底的に掃除がなされている。白澤の研究室に慣れてしまった者なら、ここは本当に研究室だろうかと疑うほどだ。そうまで清潔を保てる理由は、所属する学生の多さと三本木の人望にある。ひとたび掃除をするとなれば多数の学生が我も我もと手を挙げる。強制的に総動員したところでたった三人のハクタク研究室とはわけが違うのだ。
沿島が訪れたときも、四、五人の学生がなんらかの作業を行っていた。そのうちのひとりがすぐ沿島に気づき、「なにかご用でしょうか?」と尋ねる。
「あの、三本木先生いらっしゃいますか?」
「すみません、今は外しております。伝言を承りましょうか?」
「あ、いや、結構です。そんなに急ぎの用でもないので……すみません、失礼しました」
頭を下げて部屋を出ると、その背後で即座に扉が閉まった。
再びエレベーターに乗り、今度こそ五階のボタンを押す。ゆっくり動き出したエレベーターのモーター音を聞くともなく聞いていると、どっと疲れたような気がした。
五階に到着した沿島が研究室の扉を開けると、ひどくぐったりした様子で頭を抱えるひかるの姿があった。
「久保さん? どうしたんですか」
「ああ、おかえり、沿島くん……いやもう今ね、三本木先生がいらっしゃってたからさあ」
「えっ、三本木先生? ぼく、今、探してたんですけど、会えなくて。ここにいたんですか?」
「うん、いたよ。帰られたのちょっと前だから、すれ違っちゃったのかな。なんで探してるの?」
「あー……その、僕には麗美ちゃんを説得できなかったので、三本木先生にお願いしようかと思いまして……」
「ん、それならさっき三本木先生、ハクタク先生は関係ないってこと彼女に伝えておくっておっしゃってたよ。ぼくもお願いしますって言っておいたから、大丈夫だよ」
「あ、本当ですか。それならよかったです」
それからふたりは部屋の戸締りをし、並んで帰路についた。空に小さな夕月が浮かんでいた。
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