8. たりないふり

 沿島を見送り、ひとりになった研究室で白澤の机を片づけていたひかるは、ふと半開きのままになっている扉の向こうから視線を感じて振り向いた。

 三本木がいる。扉の陰から半分顔を覗かせ、じっとこちらを見ている。

 どうやら気づかれていないつもりだったらしい彼は、ひかると目が合うと大袈裟にびくりと体を震わせた。

「……なにかご用ですか、三本木先生」

 三本木はあたふたした手振りをしながらもちゃっかり室内へ入ってきて椅子に座った。ひかるはため息をつきたいところをグッと抑えてコーヒーを淹れる。

「いやっ、たいした用じゃないんだけどね。ハクタクさん帰っちゃった?」

「はい。末本教授とお食事だそうで」

「あっそうなの。仲いいよねえ、あの人たち」

 三本木はにこやかにそう言うが、ひかるは首をひねった。

「仲、いいんですかね? ハクタク先生と仲良くできる人なんていないと思いますけど」

「そう? 君たちも仲良しじゃん。久保くんも、沿島くんも」

「えっ? ……ハクタク先生とですか?」

 まったく心外だという顔をするひかるに、三本木は口を尖らせる。

「そうよ。他に誰がいるのよ」

「いや別によくないですけどね、仲は……」

 なお、ひかるは先ほどからずっと視線をコーヒーメーカーのほうへ向けている。下手に三本木と目を合わせたくないのである。

「それより三本木先生、ハクタク先生にご用がありましたら、伝言くらいなら承りますが。それ以外でしたらご自分で連絡をお願いします」

「自分で連絡っていってもなあ……そういや、あの人ってケータイ持ってんの?」

 彼の『ケータイ』という言い方は、スマホはどうせ持っていないだろう、との思いを言外に匂わせているように感じられる。

「さあ……ぼくはご自宅の番号しか存じ上げませんので」

 ひかるのその言葉に、三本木は素っ頓狂な声をあげて驚いてみせた。

「え!? 久保くん、ハクタクさんの家電いえでん知ってんの? なんで?」

「なんでと言われましても。まあ、学部生のころからもう十年近くここにいますからね」

 そう答えると、今度はいかにも悔しげな表情になる。

「おれは二十年以上同僚なんだけど! 知らないんだけど! えっ? なんで?」

 その様子はさながら子供が駄々をこねているようで非常に見苦しい。ひかるは、失礼ですがおいくつでしたっけと尋ねたくなる気持ちを必死にこらえ、全身に覆いかぶさってくるような疲労感に襲われつつもなんとか応答する。

「……三本木先生は学科が違いますから」

 すると三本木は地団駄でも踏み始めそうな雰囲気でさらにごねた。

「末本教授なんか学部から違うよ! おれは一緒に飯行ったこともないけど!?」

「いや……もう……知りませんよ……」

「嫌われてんのかなあ。ねえ、どう思う? 嫌われてんのかな、おれ。なんで嫌われてんだろう。ていうかさ、一回くらい飯付き合ってくれたっていいじゃんね。もしかして他の人とも行ってんのかな。おれだけか? 嫌われてんの……」

 この人がハクタク先生と渡り合えるのはこの人自身がハクタク先生と同じくらいかそれ以上に面倒だからなんだなあ、と、もはや薄れそうな意識の中でひかるは思う。この人がそれなりに学生からの人気を得ている理由がわからない、ハクタク先生と似たようなもんじゃないか、いやハクタク先生のほうがなんならマシじゃないか、とも考えるが、それは以前にも述べたとおり彼が白澤に毒されているゆえの思考である。

「まあ、それはともかく、じゃあ伝言を頼もうかな」

 散々暴れておきながら、突如としてさも真人間であるかのような顔に戻るのだから始末に負えない。白澤がいるときはそちらへ矛先が向かうからいいものの、ひとりで応対しなければならないとなると改めて三本木のうっとうしさが身に沁みて感じられる。

 そのときちょうどコーヒーが出来上がったことを知らせるブザーが鳴った。どうぞ、と差し出すと、三本木は「わあ、ありがとうね」と受け取って、口をつけるなり「熱っ!」と喚く。ひかるは今度こそ盛大にため息をついた。

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