ユリの香に

有理

ユリの香に


永倉 侑梨(ながくら ゆり)

階見 蘭(はしみ らん)


※階見は男性女性どちらがやっても大丈夫です


茉莉花…ジャスミン






侑梨M「カンカン鳴り響く踏切の音がずっと嫌いだった。あの日死ねなかった私をずっと嘲笑っているように聞こえるから。」


蘭「おはよ。」


侑梨M「重たい瞼の先には見覚えのある金髪。ああ、私まだ生きてるや、そう実感する瞬間。」


蘭「魘されてたよ?」


侑梨M「魘されないことなんて逆にあるのか。いつもおんなじ夢だって言うのに。」


蘭「朝ごはん。できてるよ。」


侑梨M「そういえば、珈琲とパンの匂いがする。そして、」


蘭「食べよう」


侑梨M「金色の髪の毛から香る、淡い茉莉花が鼻腔をくすぐった。」


蘭(たいとるこーる)「ユリの香に」


……………………………………………………


侑梨M「世の中が嫌いになったのは、いつからだろうか。親が離婚した日。好きな人にこっぴどくフラれた日。ずっと信じていたものが嘘だったと知った日。年をとるたび随分と輪郭がぼやけてしまった。」


蘭「ねえ、明日どっか出かける?」

侑梨M「マグカップを傾けながら、この人は目を細める。」

蘭「遊園地とか行かない?たまにはさ。」

侑梨M「私が首を横に振ると、くすくす笑った。絶対行かないと分かっててわざと聞くんだ。」

蘭「じゃあ水族館は?」

蘭「ふふ、そうしようか。」


侑梨M「宥めるようにそう言った後バターを塗った食パンに噛み付く。金色が揺れる。

私の前には何も塗られていないトーストがそっと置かれていた。」

蘭「珈琲、もう熱くないよ。」

侑梨M「恐る恐る口付けると温いブラック。」

蘭「今日、何時に終わる?迎えに行こうか?」


侑梨M「冷たい指で私の頭をそっと撫でる。朝日に反射する金色はキラキラして喧しい。」

蘭「いいよ。ラーメン食べて帰ろう」

侑梨M「今のこの温い幸せが、私に不釣合いだと言わんばかりに鳴り始める7:56のアラーム」

蘭「…そろそろ引っ越さない?」

侑梨M「両耳を覆ってくれる手が今日も強くて優しくて」

蘭「電車、定刻だね。」


蘭「もう終わったよ」

侑梨「ありがとう」


侑梨M「幸せになりたいなんて、二度と願わないから、どうか神様。私からこの人を奪わないでください。」


………………………………………………………


蘭M「自分の代わりなんていくらでもいる、そう気づいたのはいつだっただろう。実の母に期待外れの烙印を押されたあの日、絶望すらしなかった。変わったことといえば、未来に期待しなくなった。たったそれだけだった。」


侑梨「あ、ストッキング伝線した。」


蘭M「乾かすのが面倒くさいと言って胸まであった髪の毛を急に顎ラインまで切ってきた彼女。寒色ではない黒髪は柔らかくてさらさら揺れる。」


侑梨「パン、あと一口食べて?」

蘭M「差し出されたその食べかけ、一口で入ると思っているのか。」

侑梨「ふふ。リスみたい」

蘭M「意外に入った。」

侑梨「あ、バター塗ってあげればよかったね。」

蘭M「目玉焼きは真っ黒になるまでソースをかけるのに、なぜトーストには何も付けないのか。焼肉もひたひたになるまでタレをつけるのに、なぜサラダにはドレッシングをかけないのか。」

侑梨「優しいの塊かよ。」

蘭M「この矛盾の塊はくっくっと笑った。」


蘭M「明日は彼女の生まれた日と偶然同じ自分の誕生日。普通はお祝いするものだろう。それなのに彼女はこの日を」


侑梨「花買って帰る。明日飾んの。」


蘭M「命日と、そう呼ぶ」


…………………………………………………



侑梨「私、幸せになるの無理なんだよね。」

蘭「うん」

侑梨「だから一緒にいたって、仕方がないよ。」

蘭「うん」

侑梨「…だから、やめときなって。」

蘭「いいよ。」


蘭「誰も、一緒に幸せになりたいなんて言ってないでしょ?」

侑梨「うん」

蘭「一緒にいたいんだよ。」

侑梨「でも」

蘭「一緒に、幸せから逃げよう。」

侑梨「…ちょっとだけなら。いいよ。」


蘭M「好きな人の辛そうな顔を、毎朝7:56に必ず見る。」

侑梨M「好きな人に面倒な自分を、毎朝7:56に必ず押し付ける。」


侑梨M「私たちは、ずいぶん遠回りで」

蘭M「ずいぶん長い逃避行を始めた。」


………………………………………………………


蘭M「どうして踏切の音が怖いのか、聞いたことはない。毎朝震えるくらい怖いなら、もういっそ引っ越してしまえばいいと思う。それでも彼女が首を縦に振らないのは、幸せでいるためにどうしようもない約束を自分としてしまったせいだと思う。」


侑梨M「向いてないんだ、幸せって。手に入れるより失う方がずっと嫌だったし。幸せになりたくてみんな生きてるのに、私と一緒にいることで誰かのそれを邪魔してしまうのは気の毒だった。そう思っていたのに、自分可愛さにくだらない約束をさせてしまった。」


蘭M「嫌なことと言えば唯一名前で呼ばれるのが嫌いだった。ずっと、何かとして呼ばれることに違和感があった。きっと両親がたくさん考えて、幸せを願ってつけてくれたんだと思う。分かってるのに、いくつも代わりのある部品の品番ようで。代わりがきいてしまったこの名前が嫌いだった。」


侑梨M「一度だけ、この人の名前を呼んだことがある。いつも穏やかな金色が一瞬引き攣った。ああ、嫌いなんだなってすぐに分かった。理由までは聞かなかった。今までどれだけ嫌な思いをしてきたんだろうとぼんやり考えた。」


蘭「そろそろ行く?」

侑梨「うん」

蘭「忘れ物ない?」

侑梨「ないよ。」

蘭「そっか、行ってらっしゃい。」

侑梨「いってくるね。」


蘭M「夏の終わる匂いがする。彼女はいつも、寂しい茉莉花の匂いがする。」


……………………………………………………



侑梨「おはよ。」

蘭「おはよ。早起きだね。」

侑梨「うん。嫌な夢見たから。」

蘭「どんな夢?」

侑梨「踏切の夢。」

蘭「踏切もうすぐ鳴るかな」

侑梨「聞こえたら耳塞いで」

蘭「いいよ。」

侑梨「聞かないの?踏切の夢」

蘭「話したくなったらでいいよ。」

侑梨「うん。」

蘭「…聞かないの?」

侑梨「なに?」

蘭「ううん。なんでもない。」

侑梨「うん。」


蘭「まだちょっと薄暗いね、外」

侑梨「うん。花の匂いがする。」

蘭「昨日買ってきたユリ?」

侑梨「そうかな」

蘭「多分ね。」

侑梨「晴れてる?」

蘭「うーん。曇り?」

侑梨「雨降ればいいのに。」

蘭「なんで?去年も言ってたね」

侑梨「バケツひっくり返したような土砂降りがいいな。」

蘭「雨好きなの?」

侑梨「…嫌いだよ。でも、晴れてる方がもっと嫌い。」

蘭「ずっと雨だと、お布団干せないなあ」

侑梨「そうかあ、それは困るなあ」

蘭「雨、降るかなあ。」

侑梨「降るといいな。」

蘭「傘持って行こうか。水族館。」

侑梨「そうだね。」


蘭「すき。」

侑梨「何?急に。」

蘭「なんとなく。」

侑梨「はは。」

蘭「生きててくれてありがと。」

侑梨「死なないよ、そんな簡単に。」

蘭「そっか。」

侑梨「うん。」

蘭「死なないか。」

侑梨「ん。」

蘭「何?」

侑梨「ん。」

蘭「何?」

侑梨「…キスしなよ。」

蘭「はは。」

侑梨「幸せもらったからお返ししてあげるよ。」

蘭「偉そうに。」

侑梨「ん。」

蘭「ん」


侑梨「水族館、何見る?」

蘭「サメ」

侑梨「私クラゲ見に行くから終わったら合流しよ」

蘭「一緒にみてくんないの何?」

侑梨「水族館はね、クラゲ見に行く場所なんだよ。」

蘭「我儘」

侑梨「知ってる。」

蘭「でっかいサメのぬいぐるみ買って迎えに行くからね」

侑梨「えー邪魔だなあ」

蘭「じゃあ一緒にみよ」

侑梨「うーん」

蘭「そんなに悩む?」

侑梨「うん。なや、む、」

蘭「ああ、」


蘭「電車、2分はやかったね。」


蘭「もう終わったよ。」

侑梨「…うん。」

蘭「さ。朝ごはん、食べよっか。」

侑梨「うん。珈琲淹れる。」

蘭「ありがとう。」


侑梨M「天秤のとれた日常が、どうしようもなく心地よくて」


蘭M「泣きそうに笑う彼女の天秤が、いっそ壊れてしまえばいいのに。」


侑梨M「この愛の代わりはこの人以外いない。」


蘭M「常に幸せの罰を望む彼女は今年も鏡に向かって嘲笑う。」



侑梨「おはよう。今年も生きてたよ。」

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ユリの香に 有理 @lily000

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