第38話 そんなことって……。

 瑞稀からの唐突な呼び出しに応じて、私は最寄り駅まで足を運んだ。時刻は夜の十一時過ぎ。終電はまだなので、改札口からは残業帰りのくたびれたサラリーマンや、遊びから帰ってきた若者たちが定期的に吐き出されてくる。淡い照明を放つ自動販売機の横に寄りかかって、ぼーっとしながら待っていると、「あ、いた。ごめんね、待たせて」パタパタパタ、と小走りで瑞稀が改札を抜けてくる。「ありがとね、こんな時間の呼び出しに応じてくれて」


「いや、それは構いませんけど……。その、瑞稀さんの方こそ、大丈夫なんですか?」


 私は覗き込むような所作で瑞稀の顔色を窺う。沙条さんとの別れの哀しみも癒えてはいないだろうに、私と呑気に話なんかする余裕があるのだろうか。だが瑞稀は少々ばつの悪い顔つきで、「え? あー、うん。大丈夫というか、それよりも重要なことがあるというか……」ポリポリとほっぺたを掻いている。なんか、初デートの待ち合わせにやってきたJKみたいな反応だ。


 私は軽い不信感を抱いた。この人って、こんな可愛らしい仕草をする人だっけ? いや、そんなことより、さっきからやけに平然としていないだろうか。心象世界での様子を鑑みれば、沈鬱に塞ぎ込むどころか後追い自殺してもおかしくないくらいには傷心してると思うのだけど。


 ……ああいや、考えすぎかな。この人のことだ。単に適当な演技で韜晦しようとしているだけだろう。気丈そうに振る舞ってはいるけれど、心の中はズタボロに違いない。


「早速で悪いんだけど、ちょっと歩かない? 実は、あんまり人には聞かせたくない話で」


「は、はぁ。それは構いませんけど」


 だから電話で、カナには内緒で一人で来いって言ってきたのか、瑞稀は。でも、人には聞かせられない話って、一体何? 胡乱に感じたけれど、瑞稀の方が歩きだしてしまったので私も大人しく瑞稀の後をついていく。


「あの、瑞稀さん。一つ言わせて貰っていいですか。エアさんの、ことなんですけど」


 瑞稀は何も答えない。駅前の大通りを外れて、人通りの少ない裏道の方へと入っていく。街路灯の白々とした明かりが、夜闇の中に人魂のように浮いている。


「その、確かに瑞稀さんが凄絶な体験をしてきたことは、嫌というほど思い知りました。これまで、私とカナがどれだけ考えなしだったのかも。……でも、やっぱり瑞稀さんのしたことは、酷いと思います。強制的に回収するにしても、ちゃんと、私達に話くらい通してから――」


「そのことだよ」瑞稀が言葉を遮った。その声色は、ひどく冷たい。


「そのことなの。私がこうして、澪のことを呼び出したのは」


「え? エアさんのこと、ですか?」


 それきり瑞稀は何も言わない。まるで人目を憚るかのように、薄暗い脇道へとそれていく。街の奥部。おどろおどろしい闇の支配する路地裏へ、躊躇いなく足を踏み入れていく。夏だと言うのに、やけに寒々とした夜気が頬を撫で付けてきて、私は唐突に不安に駆られる。この人は一体、どこまで行くつもりなのだろう。この人は一体、何をするつもりなのだろう。


「……このへんでいいかな。ここなら、誰も迷い込んでくることはないだろうし」


 瑞稀が足を止める。そこは、老朽化が進んでテナントも入っていない雑居ビルに挟まれた、路地裏だった。色褪せた壁面に切り取られた漆黒の夜空には、月もなければ星もない。申し訳程度に置かれた街灯だけが、ぼんやりと瑞稀の背中を照らしあげている。


 瑞稀は踵を返して私に顔を向けると、出し抜けに突拍子もない事を言ってきた。


「――ねえ澪。もし私が、お姉ちゃんだって言ったら、どうする?」


「……はい?」えーと、この人は大真面目な顔で、何を馬鹿なことを言っているのだろうか。


「いや、何を世迷い言を吐いてるんですか、瑞稀さん。瑞稀さんがお姉ちゃんって……どういうことです? まさか、私の姉だとでも言うつもりじゃないですよね?」


 冗談のつもりだったその言葉に、瑞稀さんは力強く首肯した。真剣な眼差しで私の目を見て。


「……は? いや。いやいやいや。ちょっと、本当にどうしちゃったんですか? 沙条さんの件のショックで、気でも狂っちゃったんですか? 病院行きますか?」


「いや、その必要はないよ。私は本当に澪の実の姉の夜見塚咲……の霊魂よ。今から五年前に他界したね。久しぶり、澪。まあ、実はもう何度も言葉を交わしているんだけど」


 私は唖然とした。脳みそがフリーズして、まともに働いてはくれなかった。


 声のトーンもふとした仕草も、意識してみれば確かに記憶の中のお姉ちゃんそのものだ。そして何より、私は瑞稀にお姉ちゃんの名前もいつ亡くなったのかも、いや、そもそもお姉ちゃんがいたという事実さえ伝えていない。


「……え、瑞稀さんがなんで、そのことを? まさか本当に、私のお姉ちゃんで……いやいやいや、そんなわけあるわけない! か、からかってるんですよね、瑞稀さん。ちょっと、いくらなんでも性格悪いですよ? ドッキリにも、やっていいものと悪いものが……」


「だから、冗談じゃないって。信じてよ」呆れたように口走る瑞稀。その口ぶりはやはりお姉ちゃんのものに酷似していて、私はさらなる混乱に叩き込まれる。


「だ、だって……! そんなのって、ありえないですよ! もしあなたが本当に私のお姉ちゃんだって言うんなら、どういうことか説明してください!」


「うん、別に構わないよ。私はね、今までずっと澪の背後霊になってたの。この五年間、澪の背中にずっとつきまとい続けてた。だけどこの前、ちょっとした心変わりがあってね。それでようやく、澪の前に姿を表したってわけ。エアとか何とか名乗ってね」


「……え? エア、さん? あなた、エアさんなの⁉」


「だから、エアさんっていうか、お姉ちゃんね。ごめんね、今まで黙ってて」


 足元が遠くなるような感覚に見舞われる。お姉ちゃん? 本当にお姉ちゃんなの、この人?


 確かに、私の背後霊になってたっていうんなら視界には入らないから、今まで気づかなかったことには説明がつく。それにエアさんだって、百合が未連だの何だの言っていたけど、どこか怪しげな部分はあったし、だとしたら本当に――?


「……い、いや、待って! もし本当にエアさんがお姉ちゃんだったとしても、どうして瑞稀の身体に乗り移るようなことができたの? 人間への憑依は抵抗が強すぎて、不可能なのに。それこそ、その人の精神がズタズタに砕けでもしてない限り――、あ」


 言っていて、気がついた。沙条さんを自身の手で殺した時点で、瑞稀の心は相当なダメージを負っていた。それこそ、粉々に砕け散ったと言っても過言ではないくらいには。そしてエアさんは、沙条さんと同じ霊具に憑依させていた。私達は沙条さんの霊魂へと魂の出力を変えていたのだから、エアさんが私達の霊魂に干渉するのは不可能ではなくて――


「そのとおり。心が折れて抵抗力が著しく低下してくれたおかげで、私は瑞稀の肉体に憑依することが可能となった。崩壊していく沙条真琴の霊素を取り込めたことも大きかったけどね」


「う、嘘。本当に、お姉ちゃん、なの……?」


 あまりに現実感がなさすぎて、私は一歩、後ずさる。そのままよろよろと尻餅をついてしまいそうになった私を、瑞稀――いや、お姉ちゃんは抱きとめた。


「おっと。大丈夫、澪? まあ無理もないか。死んだ実姉が、他人の身体に憑依していきなり目の前に現れたんだからね。ごめん、驚かせちゃって」


「……お姉ちゃん。本当にお姉ちゃん、なんだ」


 身体は瑞稀のものではあるけれど、私の頭の撫で方も、腰に手を回した時の力加減も、その全てが頭の中に大切に仕舞ってある思い出を呼び覚ましてきてやまない。


「そうだよ、澪。私がお姉ちゃん」その台詞で、限界がきた。私はお姉ちゃんの胸の中に思いっきり顔を埋めて、無様に泣きじゃくった。真澄さんとの電話でのときとは比べ物にならないくらい、大声で。


「お姉ちゃん……っ、本当に、お姉ちゃん、なんだ……っ。私、ずっとずっと、お姉ちゃんにまた、会いたくて……。こんなの、夢、見てるみたいで……」


「ちょっと、あんまり泣かないでよ。これじゃ私、本題に入れないじゃん。困った妹だなぁ」


 よしよし、と言いながら私の背中をポンポンと叩いてくれるお姉ちゃん。……ああ。なんて懐かしい。私が何度も何度も焦がれて、でももう手に入ることはないのだと思いこんでいた、お姉ちゃんからの抱擁。私は完全に感極まって、小学生の時分に戻ったような感覚になる。


「あれ。なんか澪、小さくなってない?」


「え? そ、そんなことない。お姉ちゃんが瑞稀の身体になってるから、小さく見えるだけで」


「ああ、そういうことか。ま、そりゃそうだよね。背が縮むことなんて、あるわけないか。だって澪、昔と比べて凄い綺麗になったしね」


 お姉ちゃんがクスクスと微笑みながら、私の顎のあたりにゆっくりと指を這わせてくる。その少しくぐすったい感覚に私は胸の昂りと、心が安らかになるような落ち着きを同時に味わう。


「えへへ……そうかな?」


「うん。いつも着てるゴスロリもよく似合ってる。プレゼントしたときには、まさか普段着にするほどハマるとは思ってもみなかったけど」


「ううん、そんなの当たり前。だってお姉ちゃんが、可愛いって言ってくれたんだから」


 私はしばし、お姉ちゃんの胸に全体重を委ねながら、ずっと夢に見続けていたお姉ちゃんとの穏やかなひとときを心の赴くままに堪能する。


 だけど、しばらくして我に返った。お姉ちゃんに甘えるのもいいけれど、訊きたいことは依然として山ほどある。私は一度、お姉ちゃんの腕の中から身体を離す。


「あのさ、お姉ちゃん。こうしてまた会えたことは嬉しいんだけど……霊魂のままってことは、何か未練を抱えてしまってるってことだよね? それって、何なの?」


 口にして、胸の奥の方がズキリと傷んだ。私としては、こうして再びお姉ちゃんに会えたことは狂喜乱舞して快哉を叫びたくなるくらいには嬉しいことだ。だけどお姉ちゃんからしてみれば、何か強い心残りがあるせいで成仏できていないわけで、それは決して手放しに喜んでいいようなことではないのであって。


「ああ、それ?」殊更に淡白な口調だった。それから、どこか侮蔑するみたいな眼で私のことを見下して。「……ふぅん。やっぱり、微塵も思い当たる節はないっていうんだ。ま、そんなことはとっくにわかってたことだけど。じゃなきゃ私は、霊魂になんかなっていないし」


 温かみのある優しげな態度が一変した。棘のある、詰るかのような目つきで、お姉ちゃんは私のことを射竦めてきた。私は急に、背筋に氷を突っ込まれたみたいな悪寒に襲われる。お姉ちゃんがこんなにも冷たい眼光を向けてきたことは、一度もなかった。そのあまりの豹変っぷりに、私は最初、目の前にいるのがお姉ちゃんだということを再び疑ってしまったほどだった。


「……え? な、なに? どうしたのお姉ちゃん。急に、そんな怖い顔して」


「ん? ちょっと澪、なに困惑しちゃってるの? 私の目的、未だに思い至らないんだ」


 呆れた、とでも言いたげに肩を竦めるお姉ちゃん。


「――そんなの、あんたに復讐しにきたに決まってるでしょ。この愚妹」

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