終 知られては、いけないこと

 あれから、1年が過ぎた。私達の関係は、というと、それほどに変わった意識もない。今日は朝から緊張した彼と一緒に、大事な日を迎えたのだが。電車を降りて、いざ、というタイミングで、彼がモジモジと何かを言いたそうな顔を私に向ける。


「ねぇ、陽さん。一つ聞いても良い?」

「え?うん」

「何で、あの時。あんなこと言ったの?」

「……あの時?」


 何故か彼は、いつもこうした回りくどい言い方をする。私が年上だからなのか、何のか。


「ほら、あの朝」

「あの朝……ってどの朝?ごめん。どの朝のこと?」


 うぅん、と唸りなが考えるが、一体どの朝なのか分からない。それに悩むくらいは一緒に夜を過ごして来た。あれから、私が彼を『文人くん』と呼ぶようになって、それなりのことをしてきたが。一体どの朝のことか。


「言ったでしょ……私と結婚してくださいって」


 あぁ、そのことか。目的地はもう目の前だというのに、今更そんなことを問うてくる。初めから、ハッキリとそう聞けばいいのに。まぁこの件に関して、彼は母親から相当笑われた。だから何となく、素直に聞くのが躊躇われたのだろう。


「言いましたね。確かに」

「そうだけどさ……どうしてあのタイミングで言ったのかって。僕、ずっと気になってて」

「ずっと?それを今聞く?」


 この1年、その疑問を温め続けていたと言うのか。聞こうと思えば、こんな時じゃなくとも、タイミングなど幾らでもあった。私の反応が面白くなかった文人くんは、ムスッと膨れている。こういう子供っぽい仕草は、あまりしなくなったが、きっと癖なのだ。意識していないと、素で出てしまうのだろう。それはとても可愛らしいが、そう素直に言えばどうせ怒るに違いない。

 彼の言うあの時とは、私達がなし崩し的にセックスをした翌朝のことである。してしまった、というのが正しい表現なのかも知れない。そして私は確かに、彼にそう言った。正確には、「結婚しませんか、私達」だったと思ったが。文人くんは剥れながらも、その答えを待っているようだった。1年も経って今、何故と聞かれても……


「今更、あの時の気持ちなんて思い出せないよ」

「えぇぇ。だって、結構凄いこと言ったんだよ?分かってる?」

「分かってますよ」


 澄ました顔をして誤魔化す。でもきっと、彼は食い下がるのだろう。


「本気だった?茶化したの?僕のこと」

「ふざけてたように見えたの?」

「見えなかったけど、さぁ」

「じゃあ、いいじゃない。きっと、好きだったのよ。あの時も」


 剥れてた頬が、あからさまに緩む。彼の可愛いところは、こういう素直さである。

 あの時のことを、私は忘れた訳では無い。霞んできた記憶を、今、口にしたくなかっただけだ。まだ傷だらけだった私。征嗣さんの記憶が、体にしっかりと刻まれていた時である。それを受け入れられたことが、私は本当に嬉しかった。ただ純粋に嬉しかったんだだけなのだ。でもそれは、彼には伝わらないこと。別に知らなくたっていいのだ。ちょっと上機嫌になった文人くんと並んで、私達は重たそうな扉の前に立った。今日、私達はここで結婚式をする。


「緊張して来た……」

「陽さんでも緊張するんだね」

「何それ」


 キッと睨むと、へへッと文人くんが笑った。

 結婚式と言えど、本当に小さな細やかなパーティである。式なんてしなくていい、と言っ張った私。けれど丁寧にそれを諭したのは、義母だった。綺麗な時にドレスを着ておきなさい。その言葉に義弟の妻も大きく頷いて、そんなものか、と納得した訳だ。そうとなれば、話はもう早い。式場、というのは、緋菜ちゃんが転職した先一択。悩むことも少なかったのだ。

 呼びたい友人も少ない私達のこじんまりとした、小さな小さな祝宴。私は同僚と紗枝、藍ちゃんを呼んだ。皆に祝福されることの喜びは大きい。あの征嗣さんも祝いのメールを送って来た。彼の居るアメリカから、として。きっと紗枝が知らせたのだと思う。陽はもう大丈夫だ、と。


「いよいよ、ですね」


 貸切レストランの入り口の前で、私達は並んで深呼吸をした。その重たい扉に手を掛けて、顔を見合わせる。


「緊張してきた」

「あ、緊張するんだ。2回目でも」

「はぁ?何それ。しますよ、そりゃ」


 私の意地悪に、彼がムスッとする。いつものように頬を膨らませて。

 言わずもがな、彼は2度目の結婚である。だから、大きな披露宴というものを彼の家族も望まなかった。私には家族がなかったし、丁度良かったのだろうと思う。彼の親族にはお正月に丁寧に挨拶をして回り、着物の写真だけ、彼の両親と一緒に撮った。初めて出来た『おとうさん』という存在を妙に意識してしまって、そう呼ぶのに声が裏返った時なんか、義母は手を叩いて笑っていた。成瀬くんとはまた違う、温かな人達。それが、今の私の家族だ。


「あ、待って。あ……」

「何?」

「いや、お義母さんからだ。おめでとうって」

「え?」


 文人くんも携帯を確認したが、彼の所には着ていない。それが面白くない彼は、また剥れ、直ぐに母親へ電話を入れる。そう言うのは息子に送るもんじゃないの、と。もうそれが可笑しくて、店の入り口の前で腹を抱えている私。今から綺麗にお化粧をして、ウェディングドレスを着るだなんて何だか信じられない。


「え?えぇ……分かった。陽さん、はい」

「え?」


 不機嫌そうに、携帯を私に差し出した彼。より増して剥れているが、笑っても良いのか分からない。


「はい。陽です」

「あ、陽ちゃん。おめでとうね。それからね、有難う」

「え、えっと……」

「一度結婚に失敗した男よ?ソイツに何か原因が無いとも言えないじゃない。文人を選んでくれて、本当に有難うね」


 穏やかな声で、義母はそう言った。

 彼女はとても優しい人だ。田舎の人付き合いは分からないが、義母と同居しながら、男の子3人を育て上げた。逞しくなければ、やって来られなかったのだろうと推測している。文人くんは『ガサツな母』と形容するが、私はそうは思っていない。そうならざるを得なかっただけだ。付き合い始めて一番最初に、彼の実家へ挨拶に行った私達。それを誰よりも喜んでくれたのは、義母だった。小声で何度も、文人で良いの?と聞いて来たことを昨日のように思い出す。キッチンに立てば、お料理も教えてくれる。母とそうした時とはまた違う。緊張と楽しみがそこには在った。


「お義母さん。これからも宜しくお願いします」

「いえいえ。こちらこそね。さぁ、楽しんでらっしゃい」


 明るい義母の声に背を押され、私は口角を上げた。文人くんへ代ろうと思った電話は既に切れ、また彼は頬を膨らませる。

 ここのところ、こういう展開が実に多い。最たるものは、プロポーズを私がしたことだったか。女の子がハッキリそう言えるのはかっこいいわねぇ、と義母が言ったのが面白くなかった彼。あの日も酷く不貞腐れていた。だからさっきも、それを思い出して濁していたのだろうと思う。


「ねぇ、今の僕の家族だよね」

「え?ふふっ、そうね。あ、でも今は。私の家族でもあるんだけど」

「あぁ……そうだった」


 その事実を改めて告げれば、彼はすっかり機嫌を良くする。簡単な男だな、なんて思っちゃいけない。それだけ、私と家族になることを喜んでくれることに感謝しなければ。

 私がプロポーズをしてから1年。知られてはいけない、大きな秘密を解放した私は、晴れて先日、婚姻届を出した。正式に夫婦になった私達。小川陽、改め、成瀬陽。それが私の名前である。

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知られては、いけないこと。 小島のこ @noko_kojima

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