第55話 桜が咲いた
コトコト小さな音を立てて、鍋で味噌汁を作っている。久しぶりに作る、2人分の朝食。もう何年ぶりだろうか。男の子は、母とは食べる量も違うだろうな。それからまた見るお布団の中には、すっぽりと収まって、まだ寝息を立てる彼が居る。
朝になって、今日もまた現実を確認した私。征嗣さんとは別れられた。それでも、鏡に映る体には相変わない。夕べのことを思い出し、それを擦る。思わず流れ落ちた涙を、シャワーで誤魔化した。それから何度も下を向く気持ちを持ち上げて、無心に作る朝食。彼は、パンの方が好きだろうか。あぁだとしても、味噌汁を作ってしまったから、おにぎりで我慢してもらおう。
「あぁっ」
急に後ろから聞こえて来た声。驚き目をやった先で、軽くパニックになっている彼が居た。布団から起き上がり、パンツ1枚の状態を見たのだろう。あぁそんな反応をするんだな。昨日のことは、事故みたいなもの、なのか。そうか……
「あ、おはよう」
「おは、ようございます……」
いつも通りに微笑み掛けたつもりだ。彼があまりにも動揺しているから。それがショックだったか、と聞かれれば、胸がチクッとしたくらいだ。シャワー浴びる?と聞く声が、ただ少し上擦っていた。
ただの気紛れで、彼は私を抱いた。事故なんだ。男と女が酒を飲みながら、2人きりで部屋に居た。それも、2日続けて。もう仕方のないこと。それに、私は後悔していない。
「私、もう済ませたから」
「あ、じゃ……じゃあ」
「ちょっと待って。タオルとか用意するね」
そう言って、洗面所へ逃げた。
今日は月曜日。土曜日に征嗣さんとお別れをして、昨日は花見だった。緋菜ちゃんと昌平くんは、喧嘩になりながらも、向き合い手を取り合った。きちんとお付き合いを始めた2人を祝福して、桜を見て、4人でここで酒を飲んだんだ。沢山飲んで、お開きになって、3人で帰ろうとした成瀬くんを流石に呼び止めた。ようやく付き合いだした2人。それは、2人きりで帰りたいだろう。彼らを帰し、私達は躊躇いながらも、2人で飲み直したのだが。昨日の夜、私と成瀬くんは――――
「成瀬くん、コーヒー……」
そう言いかけて止めた。征嗣さんを思い出したからだ。いつかは忘れなければいけない。分ってはいても、流石にこんなに直ぐは無理だ。十数年一緒に居て、今や彼しかこの部屋に来ない。思い出さないはずがなかった。
「もう一杯くらい飲む?」
その気持ちに遣り過ごしながら、彼にそう誘ったけれど。彼は今、2人しかいないこの空間の気不味さを感じているようだった。今日だって桜の下で、自分の気持ちは変わらない、と言ってくれた成瀬くん。それは嬉しいが、正直どう向き合えば良いのか分からない私。2人だけの空間で、ぎくしゃくするのは当然だった。
「いやぁ……でも」
「ほら、ワインもつまみも残ってるし」
無理矢理に新しいグラスを彼に持たせていた。1杯だけなら、と言う彼は、渋々それを受け取った。それでも、私の何かに気付いたのだろう。フワッと後ろから手が回り、私を抱き締める。少し苦しそうな顔をして。
「大丈夫。焦らないで。時間は掛かっても、いつかは思い出になるから。それが良いか悪いかは別だけど、過去のものにはなるから。ね」
「ごめん……」
その優しさに、身を委ねた。トクトク、と彼の音が聞こえる。久しく感じていないような心地良さ。静かに目を瞑って、少しだけ彼のシャツを握った。
征嗣さんの記憶は、私の中に山積している。干支が一回り以上する程、一緒に居たのだ。それは仕方のないことなのだろう。今更後悔などしていない。ただ別れられて思うのは、その長い時間に失われたものの大きさだった。その為に、私は前を向いて歩みださねばならない。やりたいことは、沢山ある。紗枝や藍ちゃんとの友情を、再構築すること。緋菜ちゃんと昌平くんの未来をサポートすること。今まで征嗣さんを思って躊躇ったこと全て、何でもやってみたい。そう力強く思っても、フッと現れる征嗣さんの残像には苦しむのだろう。それは目を瞑らず、自戒を持って受け入れなければいけない。これからの自分の為にも、そうやって昇華しなければ。そしてこうして、傍に居てくれる彼の為に。
「よし。飲もう。ね」
出来る限りの笑みを作って、彼を引き剥がした。釣られて笑う成瀬くんが、また胸を締め付ける。彼の気持ちに応えられないのなら、きっちり線を引かねばならない。もう大丈夫だよ、と彼と離れなければいけない。私はどうしたいのか。まだ頭に、心に、体に、征嗣さんが染み付いている。それでも私は、考えなければいけない。
それから他愛もない話をして、ケラケラ笑って。一杯だけだったはずのワインも、結局全て無くなっていた。気付けば、成瀬くんはワインを飲み終え、瓶をクルクルと回している。何かを躊躇っているようだった。帰るタイミングを逃したまま、もう夜も深い。これ以上引き留めてはいけない。私も、残ったワインを飲み干した。
「ねぇ、陽さん……コーヒー飲みたいって言ったら、淹れてくれる?」
「えっ、あぁ。うん……分かった」
あぁそれを考えていたのか。さっき、コーヒーに何かがあると気付いたのだろう。それは仕方ない。私の誤魔化しが下手だっただけだ。
征嗣さんとの一番の思い出はコーヒーだった。成瀬くんに頼まれ、了解はしても、心は少し抵抗する。道具を揃えて、豆にこだわって。征嗣さんと過ごした淡い時間も、もう思い出だというのに。もう征嗣さんとコーヒーを飲むことは無い。これが、一番怖かったことだ。1人になったら、絶対に淹れられない。
「何か取るの?」
「あ、カップをね。上の棚にあるんだけど」
「いいよ。僕が……」
私が手を伸ばした後ろから、彼も同じように手を伸ばした。
その時だ。ストンとシャツとセーターが滑り落ち、伸ばした腕が露わになった。微かに未だ赤黒く、征嗣さんの記憶が残されている腕。前腕だからそこまでではないが、慌てて隠す。誰かに見られてはいけない物。特に成瀬くんには……絶対に見られてはいけない。
「見せて」
「えっと、いや……それは」
強く手首を取った成瀬くんを振り解き、袖を思い切り伸ばして、必死に抵抗する。絶対に、見られてはいけない。成瀬くんの顔が怖い。何とか逃れるように、後ろ手を回し、キッチンにもたれ掛かった。詰め寄って来る彼が怖い。少女のように怯えた私の抵抗を、彼は何度も解こうとした。逃げて、目を逸らして、止めて、と訴える。いつの間にか零れそうになった涙を見ても、彼は受け入れてくれなかった。
諦めたように見えた彼が手にしたのは、見せまいと頑なに握り込んだ裾ではなかった。シャツの裾を、グイっと持ち上げたのである。あぁ、と小さな声が漏れ、露わになる前腕よりも酷い腹。そこには無数の赤黒く残った、征嗣さんの噛み跡がある。
「……見ないで。お願い……止めて」
蚊の鳴くような情けない声だった。成瀬くんは何も言わない。ただ目も背けず、そのままジッとそれを見るだけ。
震える声は、何度も何度も「見ないで」と訴えた。これが消えてなくなるまで、私は恋など出来ないんだ。征嗣さんと別れてもまだ、あの人の束縛は続くのである。涙で歪んで見える成瀬くんの顔。そこには、さっきまでのキリキリと音の立つような怒りは消え、苦しさで泣いてしまいそうな彼が居た。同情なんてされたくない。可哀相だなんて思わないで欲しい。過去の私を否定しないで。止めて、止めて……私の血の気が引いていく。
僅かだが、長い時間が過ぎた。目を見開いたままいた成瀬くんは、フッと視線を落とし、私のその跡にキスをした。征嗣さんの記録を舐めるように、何度も何度も。何だか彼も泣いているようだった。時々、鼻をズッと啜るのだ。何も考えられずに居た私の唇に、彼のそれがふんわりと重なる。優しいキスだった。
「……痛かったね」
「成瀬くん……」
怒りを見せるでもない。慰める訳でもない。彼は、ただ私の痛みに寄り添う。そしてその言葉は、いとも簡単に、私の中の堰を壊していった。
ボロボロと溢れる涙は、次から次へと止めどなく零れ落ちた。成瀬くんはそれを親指で拭って、また軽く唇に触れる。それから……もう言葉はいらなかった。丁寧だったキスが、乱れ始める。二度、三度。そして熱を帯びた彼の指が、私の腹を撫で始める。いつかの、その時のように。
それでもまだ私の頭は、くだらなくごちゃごちゃと考え続けた。まだ征嗣さんの記憶がある。気を抜けば直ぐに思い出してしまう程に。この跡が消えるまで、私は恋など出来ない。成瀬くんとは、まだお友達。こんなことをしちゃいけない。何度も言い聞かせ、冷静さを保とうとする。それなのに。力を込めて引き剥がそうとしても、彼の愛撫は止まらなかった――――
友人なのに、と思っていたのか。それとも、彼のことが気になる自分を認めてはいけないと思ったのか。そもそも本当に、彼を引き剥がそうとしたのか。
結局、今考えたところで何も分からないのだ。その時の気持ちなど、その瞬間しか捕らえられない。一つだけ分かっていることは、友人のままの彼と一線を越えてしまったが、今の私に後悔はないということだけだった。
「どうしたの、項垂れて」
洗面所から戻ると、成瀬くんが酷く項垂れている。大きく首を垂れ、背を丸めているのだ。
「あぁ、いや。……あのっ」
「ん?」
「その……」
あぁ、後悔してるんだ。そう思った。何も気付いていない顔をしているつもりだけれど、出来ているだろうか。ちゃんと出来ているかな。悔しくても、泣かない。スゥッと息を吸い込み、私は少し口角を上げる。
「成瀬くん。謝ったりはしないでよ」
「え?」
「今、冷静になって。しまった、って思ってるんでしょ」
「そ、そういう訳では……ないです」
「気にしないで、いいの。忘れて、とは言わない。忘れようとも思ってない。謝ったりだけは、しないで。下世話な感情じゃなくて、そこにあなたの気持ちがあったんだって、私は思いたい。だから、謝ったりしないで」
成瀬くんの前へ歩み寄りながら、一気に言い切った。謝っては欲しくない。一時の気の迷いだとしても、構わない。ただ、謝られたくなかった。間違ってそうしてしまったと、彼が認めるようなものだから。無理に微笑んだ私の頬に、そっと大きな手が伸びる。彼の本心を聞くのが怖い。それも、見透かされているようだった。
「それでも、僕は謝らなくちゃいけない。だって、まだ告白はしないって言ったばかりだったのに。舌の根も乾かないうちに、僕は陽さんに触れてしまった。それは謝らないといけない。ごめんなさい」
そう言って、結局彼は謝り、首を垂れた。本音を聞きたい。でも、怖い。両極端で揺れる私の臆病な心。「でもそこに……」と言い始めた声が、微かに震えている。
「そこに愛はあった、のよね」
恐る恐る聞いたこと。成瀬くんは、何かに驚き、私にキスをした。ちゃんとあるよ、と小さな声で囁いて、そしてまたゆっくりと唇が重なった。これは一体、何のキスだ?離れた彼は、眉間に僅かな皺を寄せ、苦しそうに見えた。
「陽さん。嫌、だった?」
小さく首を振って、それを否定する。「……怖かったけど、大丈夫」と絞り出した声は、さっきよりは少しだけ、そこに意志があった。成瀬くんが、私を抱き寄せる。まだ苦しい顔をして。
「大丈夫だよ。いつかは消えるから」
「うん……」
そう言って彼は、私の髪を撫でる。征嗣さんがしたように。だけれども、それよりもずっと優しく。醜い私の体を、彼は何も言わずに受け止めた。それがどれほどに嬉しいのか、きっと成瀬くんには伝わらない。ゆっくりと空気を吸い込んだ私に、征嗣さんとは違う匂いが届いた。
心の中には、色々な感情があった。成瀬くんと恋が出来たら、という希望。薄汚い女だと気付いてしまった彼に、嫌われていく不安。いつかは消えるから、と言ってくれる成瀬くん。もしも、そんな彼と新しい時間を構築出来るのならば、少女のようなもどかしい恋などしていられない。1人置き去りにされる恐怖との背中合わせ。諦めて求めないのか。それとも、手を伸ばすのか。
「結婚……」
「え?何?」
「結婚、しませんか……私達」
思わず出た言葉に、彼は目を丸くする。そりゃそうだ。いくら何でも、現実的ではない。きっと彼は言うだろう。焦らなくていいんだ、と。
征嗣さんを強制的に消し去りたい思いが、全くない訳ではない。勢いだけで言っているのか、と聞かれれば強く否定も出来ないだろう。私の罪は消えていない。アンバランスな心情が表に出て来てしまった。嘘、嘘、忘れて。そう笑えば、なかったことに出来るだろうか。
「あ、えっと……」
「……う」
「よ、宜しくお願いします」
「え?」
頭を掻きながら、彼はそうはにかんだ。それから、あまりに驚いている私を見て、「え?嘘だった?冗談?」と慌て始める。それが可笑しくて、ホッとして……私は、笑った。目尻に涙を溜めながら、笑った。
2020年3月23日の朝。私の無計画のプロポーズは、まさかの成功を収めた。それはロマンティックでも何でもない、私の部屋で。パンツだけを穿いて、寝ぐせだらけの成瀬くんと。お味噌汁の出汁の匂いに包まれて。
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