第54話 そして、私達は
「失礼致します」
紗枝が、静かに客室の扉を開ける。さっきまで私の知っている紗枝だったけれど、彼女は直ぐに女将という肩書の女に戻った。流石、と言うべきか。凄いな、と妙に感心している。
「成瀬くん。あの……彼女は、ここの女将の山下……今の名字って何?」
「カドタ、だけど。良いわよ、そんなの」
「そっか。えぇと、彼女は私の……」
「そこ、躊躇わないでよ。陽の親友の紗枝です。大学時代の友人でね」
そうだけれど。そう呼んでも良い物か、と躊躇いがあった。へへ、と頭を掻いて、やり過ごす。
「成瀬さん、ですね。小山田先生から色々伺っておりました。さっきは嘘を吐いてしまってすみませんでした」
「え?嘘、だったんですか?」
嘘、というのは、実際にどんなものだったのだろう。成瀬くんはきっとそれを信じて、ここへやって来た。紗枝のことだから、上手くやったに違いない。
「ふふ。ごめんなさいね。陽は前もって連絡はして来ていません。暗い顔をして、ここへ来ただけです。どうしてもあなたに来てもらわねばならなかったから、嘘を吐きました」
そして、紗枝は頭を下げる。綺麗に結われた髪。立派な女将になった彼女と、つい自分を比べて下を向いた。征嗣さんと過ごしてしまった時間。社会との関りを絶った訳では無かったけれど、失った物は多い。それをまざまざと見せつけられたような気がしていた。
「成瀬さん。先生のことは、私がしっかり叱っておきましたので。どうか今夜は、のんびりお過ごしいただけませんか。お金はちゃんと先生に請求しますから。お気になさらず」
「え?いや、それは」
当然の如く、紗枝の言うことを断った成瀬くん。すると彼女は目を丸めて、「あらぁ、良い子ねぇ。陽」と私へ向かって振り返る。手招きするような片手を添えて。随分とそれが似合う程、私達もおばさんになったのか。「ちょっと、紗枝ったら。もう止めてよ」とは言ったけれど、ようやく笑みが零れた気がした。
「そう?私はお邪魔なのかしらね。ふふふ。あとは陽、自分で説明なさいよ。成瀬さん、ごゆっくくお寛ぎくださいね」
入口の方へ向かう紗枝に、うん、と頷くけど、ちょっと強張る。成瀬くんは、理解しただろうかと、振り向くのが怖い。怒っているだろうか。不安になった時、紗枝がクルッとこちらを向いた。
「成瀬さん、陽を見つけてくれて有難う」
彼女が心から言ってくれたのだと信じている。思わず下唇を噛んで、泣きそうになった。紗枝は微笑みを絶やさぬまま、部屋を出て行く。また2人、静寂が部屋に訪れる。
「えぇと……これは、どういうこと?陽さんは、何処から知ってたの?」
ふぅ、と小さく息を零すと、成瀬くんから疑問がぶつけられた。彼はまだ、状況を整理しきれていないようだ。私は、彼の座る所へ歩み寄る。
「いや、私も何も知らなくて。征嗣さんが旅行に誘ってはくれたけれど、こんなことを企んでいたなんて。今、サエから色々聞いたの。もしかしたら、この計画はあの子が考えたのかも知れない。とにかく、ごめんなさい。成瀬くんを巻き込んでしまって」
一先ず頭を下げ、今紗枝から聞いたことを成瀬くんへ伝える。きっと、これは彼女の企てたことだろう、と。
「陽さん。一つ聞いても良い?」
「えぇと、はい。何でしょうか」
「その……教授とは別れられたってこと?」
ここまで話しても、成瀬くんはまだ疑っているようだった。おずおずと私にそう問い、あの扉から征嗣さんが出て来るのではないかとでも思っていそうだ。私だって、未だ信じ切れてない部分があるけれど。
「はい。征嗣さんとはお別れしました」
「本当に?本当に?」
「あっ、えっと。はい。ちょっと私も信じられなっ」
言い終える前に、ガタンと椅子を倒して、成瀬くんが飛びついて来た。私を抱き締める腕に力が籠められる。そして徐々に、終わったんだ、という感情が湧いて来るのだ。私達は、目を合わせて笑い合った。ようやく、心からの笑顔で。
暫く、そうしていたと思う。私は、征嗣さんと別れた解放感というよりも、ここまで成瀬くんが喜んでくれることが嬉しかった。ただすれ違うだけだったはずの私達。数ヵ月前まで、本当に知らない人だった彼。そんな人が、私の不道徳な関係が終わったことを、こんなにも喜んでいる。単純にそれだけが、今私を笑顔にさせていた。
それから、紗枝が征嗣さんに付けさせた高級な食事を食べ、お酒を飲んだ。その間ずっと、私は笑っていられた。こんなに笑って、誰の視線も気にすることのない誰かと2人の食事。新鮮で、満たされて、何よりちゃんと美味しい。私は、幸せになれるかも知れない。一瞬、そう過ってしまった。彼と別れたとしても、自分の罪は消えないというのに。
それに、私の体には征嗣さんの跡が山ほどある。それが全て無くなるまでは、私の生活は変わらない。成瀬くんに彼女が出来たとしても、それを祝福する。今ここで笑ってくれている彼は、あくまで友人。今は、それ以上の関係でもなんでもないのだ。それに気付いたのは、部屋に戻った時だった。
「あ……」
食事を終え、部屋に戻った私達。目に入った光景に、思わず絶句する。そこに並んでいるのは、2組の布団。ぴっちりとくっ付いている、ふかふかの布団。
「あ、えっと。僕は、向こうで寝ますから」
「い、いや……」
呼び止めようとしたが、流石に急に彼と並んで寝るのはハードルが高い。紗枝が仕組んだことだろうけれど、このわざとらしく隙間のない布団は、私達には少し刺激的過ぎた。
「本当はね。一緒が良いなって思ってる」
「え?」
立ち尽くした私達の沈黙を破ったのは、成瀬くんだった。ここで一緒に寝られたら、と。その一言で、私は耳まで赤くする。成瀬くんは私に告白をしてくれた。でもそれは、不倫という行為を止めさせたいから。どこかでそう思っていた。けれど……それだけでないことも分かっている。
「でも僕は、向こうで寝るよ。陽さんが嫌だとか、そういうことじゃない。これは僕の問題」
「成瀬くんの?」
「だって、僕は陽さんが好きだよ?その彼女が、ようやく彼と別れてくれた。そんなのって、さ」
成瀬くんは、モジモジと言葉を濁した。こんな私にまだ、彼はサラリと好きだと言ってくれる。それがこれまで以上に心に届いて、思わず彼の手を握った。それがどういう意味を持っているのかを、何も考えないままで。
「あ、有難う」
「う、うん」
緊張していた。多分、彼も。
「あ、えっと。でもね。直ぐに別の部屋に行くのは寂しいから、もう少しだけ一緒に……飲まない?」
私は、彼と別の部屋で寝る選択をした。もしも、と考えた時に、自分の体の醜さを思い出したのである。征嗣さんと別れられたとしても、これは誰にも見られてはいけない。部屋にあった缶ビールを開けて、それを大事に大事に飲んだ。結構飲んでも一つも酔えないのは、この空間に緊張しているからか。きっと離れて布団に入ったら、それが緩んでスッと眠りに付けるのだろう。
「陽さん」
「ん?なぁに」
「ん、何でもない」
彼はこれを何度も繰り返した。酔っているのか、いないのか。良く分からないけれど、私を少し微笑ませる。これまで一生懸命に寄り添ってくれた彼。何があろうと、私は彼を離してはいけない。恋だとかそういうことではなくて。ただ、友人として。
「成瀬くん、寝ようか」
「あぁ……うん。そうだね」
名残惜しそうにしてくれるけれど、もうビールはどちらもない。それに彼は眠そうに、ウトウトしているのだ。何だか子供みたいに。
「陽さん」
「ん?」
立ち上がった彼が、私をフワッと抱き締める。それから額にキスをして、微笑んだ。おやすみ、と言って隣の部屋を開ける彼。その背に心臓をバクバクさせながら、おやすみ、と呟いた。
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