第53話 真実を
私の目の前には、やたらかっちりとした服を着込んだ成瀬くんが居る。征嗣さんではない。ここにどうして彼が居るのか。今のところ、私には何一つ分かっていない。彼を案内した仲居が去れば、ただ静寂が流れた。微かに水のせせらぎだけが、2人の間に漂っている。これは、一体……
「陽さん」
「ご、ごめんなさい。どうして成瀬くんがここに?これは……え?どういうことなの?征嗣さんは?ねぇ……征嗣さんは何処なの?」
「どうして陽さんは、ここに居るの。あの男と、旅行に来たつもりなの」
「そ、それは……違うよ」
旅行のつもりで来たわけではない。けれど、一瞬だとしても、その誘いを私は喜んでしまった。彼の怒りに、真正面から向き合うことが出来ない。
「違うって何?別れるって言ったよね?それなのに、旅行に来る?普通。別れる気、なかったんでしょ」
「違う。違うの」
別れる為に、私はここに来た。けれど、怒りに満ちた彼が、冷静にそれを聞いてくれるだろうか。「じゃあ何で、ここに居るの。どうして……」と大きく項垂れた成瀬くん。そこには怒りではなく、落胆の色が在るように見えた。
「ごめんなさい……」
それしか言葉が浮かばなかった。きっと正直に説明をしたとて、今の彼はそれを信じてはくれない。征嗣さん、どうしてこんなことをするの。私が別れようとしたことが面白くないから、こうして私と成瀬くんが断ち切れるように仕向けたの?わざわざ、私の誕生日に。
「でも、どうして成瀬くんが、ここに居るの」
気持ちを落ち着けて、何とかそう問うた。彼は今も、苛立ちを隠せない顔をしている。
「それは……あの男に言われらからだよ」
「あの男?征嗣さんってこと?」
「……そうだよ」
成瀬くんは、私のことを下から睨み付けるような目で見た。そして、とても小さな鞄に手を伸ばす。茶色の洋封筒。それが私に向けて、差し出された。「あの男からだよ。君に……陽にって」と。
恐る恐る、それに手を伸ばした。かなりの分厚さの封筒である。
「これ……」
しっかりと糊付けされた後に、綺麗に封蝋がされていた。それは、私達がまだお付き合いを始めた頃。お日様の下を一緒に歩いて、出掛けた時に買った物。こんな物、もう捨ててしまったと思っていたのに。
ゆっくりと封を開ける手が震える。こんなにあの人は、何を書いて寄越したのだろう。それをわざわざ、成瀬くんに託すだなんて、一体何を企んでいるんだろう。
『小川陽様
陽、君がこれを読んでいるということは、成瀬くんと無事に会えたということだろう。良かった。いいかい?陽。今夜、僕はそこへは行かない。家族で映画でも見ようか。それとも娘と風呂にでも入ろうか。僕は離れた所で、きちんとお父さんをしているだろう。酷いやり方をして、悪かったね。すまない。
君にこんな手紙を書く日が来ようとは、夢にも思わなかった。本当はもっと早く、こうせねばならなかったのに、僕にはその勇気がなかった。綺麗ごとでしかないが、君を失うのは本当に怖かったんだ。でもそれは、あくまで僕の気持ちである。陽のことを考えて、と山下に言われた時、僕は何も返すことが出来なかった。あの子の真っ直ぐに僕を睨む瞳を、見ることすら出来なかった。疚しい、咎められるような関係だと、自分で解っていたからだろう。
陽、今まで本当にすまなかったね。終わりにしなければならないことを解っていながらも、僕は踏み出すことが出来なかった。情けない話だが、山下に会わなければ、こうすることは出来なかったと思う。あの子は本当に陽を想っているよ。僕らの関係に気付いていたが、それを正せなかったことを悔やんでいた。そのうちに陽と連絡が取れなくなって、何年も心を痛めていたようだ。それを聞いて、ようやく踏ん切りがついた。僕には妻子がある。君も山下と田中、それから成瀬くんやお仏壇屋の子もいる。陽、君はもう一人じゃない。僕がいなくなっても、きっと大丈夫だ。
僕が居なければ、君達は徐々に距離を縮めるのだろう。それを見越して、僕からの最後のプレゼントだ。陽への最後の誕生日プレゼントのつもりだ。
陽は彼のことが気になっているね。好き、なんだろうな、と思っている。彼の話をする時、君は楽しそうに見えた。きっと君は、隠していたつもりだったんだろうが。
そこに彼を届けるまで、僕はこれから沢山嘘を吐くだろう。成瀬くんは、怒って、君を責めるのかも知れない。だから、誤解を解く為に、その女将を呼びなさい。残りは彼女が説明してくれるはずだ。
陽、今まですまなかったね。それから、有難う。玄関が開いて君が笑ってくれるのが、本当に幸せだった。僕は本当に君を愛していたよ。同封してある手紙を、成瀬くんに渡してくれ。良い誕生日になるといいが。36歳おめでとう。
征嗣』
「……え?」
これはどういうこと?征嗣さんの方から、別れる決意をしたってこと?それから、山下って。
「あの……成瀬くん。これ」
「僕?」
彼に向って、征嗣さんが渡せと言う封筒を差し出した。中身は何が書かれているのか、全く分からない。
「征嗣さんが、あなたにって」
「どうして?僕はさっきあの男と話をして来た。これ以上は」
「お願い。読んで貰えませんか」
「いや……」
「お願いします。私、ちょっとフロントへ行って来ます。ごめんなさい。直ぐに戻るから。待ってて貰えますか」
受け取ってくれない彼にそれを押し付け、私はもう一度頭を下げた。お願いします、と。渋々、本当に渋々と出された手が、ようやくそれを受け取る。きっとぎこちない顔で微笑み掛け、私はフロントへ走った。
「すみません。女将、いらっしゃいますか」
フロントに居た男性にそう声を掛け、暫く待った。食事の時間。女将というのは忙しいのだろう。それにしても、その女将を呼べば分かる、というのはどういうことか。どうして、紗枝のことが急に書かれていたのか。あれこれ考えても、結局何も妙案は浮かばない。
「お客様」
「あ、あの……ん?」
緊張しながら見つめた相手。それは、どう見ても私の友人だった山下紗枝だ。ニコニコとして、私を暫く見た彼女は、いきなり私の耳を抓った。
「いたっ、ちょ、ちょっと」
「もう、いいから。こっちに来なさい」
私は紗枝に耳を摘ままれたまま、フロントの前のソファに座らせられる。彼女がここに居る。そして征嗣さんの手紙には、彼女が全て知っている、と書いてあった。つまりは、紗枝は私達のことを知った上で、今日こうして居ると言うことだ。
「さぁ、全部話して貰いましょうか。先生とは、いつから付き合ってた訳?というか、昔聞いたわよね?それを陽は誤魔化した。それで」
「連絡を取らなくなった」
「そう。そうよ。もう……心配したんだからね」
「え、あぁ……うん。ごめんね」
紗枝――竹下紗枝は、私の大学時代の親友である。
卒業して私達は、ばらばらになった。私は東京、紗枝は名古屋。藍ちゃんは京都を出なかった。離れても関係は変わらなかったし、時間を作って会ったりもした。3人の関係はそれだけ強固だったし、無くなることなんて想像出来なかったのに。その関係が崩れたのは、藍ちゃんに子供が出来た時だ。しかもそれが、征嗣さんが結婚してしまった直後のことだった。素直に祝福出来ない私に、紗枝は気付いていたのだと思う。その時だ。彼女が一度だけ、私と征嗣さんの関係を問うたのは。紗枝にしてみれば、私の誤魔化しなど、ただの見え透いた嘘だったと思う。でも彼女は、何も言わなかった。言わないでいてくれた。それなのに。私は徐々に藍ちゃんから離れ、紗枝とも距離を置いた。幸せになっていく友人に、合わせる顔がなかったから。そして勿論、悔しかった。
「陽。私が先生に会ったのは、去年のことよ。たまたま南禅寺に居た所を見かけてね。陽のことが気になってたから、私は先生を呼び止めた」
「そう、だったんだね。去年か……」
「そ、秋だったな」
秋か。緋菜ちゃんと会ったのは、ギリギリ秋のこと。あの頃は、征嗣さんはどうだったっけ。昌平くんと居る所に嫉妬して、彼は私を噛むようになった。その頃だろうか。
「それから何度か、1人でこっちに来てね。思い出に耽ってたりしたのかしらね。分からないけど。うちにも泊ってくれて。あ、勿論1人でよ。それで、つい我慢ならなくなって」
「問い詰めたんだ、ね?」
「あぁ、まぁそうだね。先生、陽どうしてる?って。初めはしらばっくれてたけど」
紗枝は苦笑いして見せた。大体、今の話でどうなったのかは想像が付く。学生の時から、征嗣さんは紗枝が苦手だった。彼女の強さが、元来臆病な彼は接しにくかったのだと思う。だからきっと、その時も紗枝は詰め寄ったのだろう。そして紗枝は、全てを聞き、現在に至る。征嗣さんを嗾けたのも、成瀬くんがここに来る為の罠を計画したのも、紗枝。征嗣さんはそのシナリオ通りに、今日はやっただけ。それに私達は、まんまと乗せられてしまったのか。
「何度も先生を説得して、力になるからお願いって頭下げた」
「紗枝……ごめん」
「元々は先生が悪い。だから本当は許せないんだけどね。でも……先生は、陽のことをちゃんと愛してたと思う。それだけが救いだった」
「愛?してたって?そんな訳……あるわけない」
彼女が何故そう言うのか分からない。でも、愛なんてなかった。私達の関係は、ただの虚しい馴れ合いでしかないんだ。
「陽。悔しいんだけどね。先生は、ちゃんと陽のことを想ってたよ。家族のことは聞いたことがないから、私は分からない。でも、陽のことは、ちゃんと想ってた」
「そんな……そんなはずはない。せい、先生はだって……」
惨めに捨てられた時を思い出す。俺結婚したから、と言われたあの時。征嗣さんが私を想ってくれていたら、こんなことには……ならなかった?違う。征嗣さんは、私を1人にしないようにしてくれただけ。研究者としての自分を守る為に結婚をした彼。私のことを捨ててしまっても、彼のその後の人生には関係はなかったはずだ。それをしなかった。旨味を全て捨てきれなかったのかも知れないけれど。出来なくさせたのは、結局は私なんだ。
「紗枝、全部私が悪かったんだ。1人になるのが怖くて、結婚した先生の手を離せなかった。だから、せい、先生が私を想ってくれていたとしたら、ただの同情。可哀相な奴だからって、1人にしなかっただけよ」
薄っすらと涙が出るのは何でだろう。零れていかないくらいの涙が、私の視界を歪ませる。そこには、同じような目で私を見つめる友の顔。彼女がゆっくりと口を開く。それは違うよ、と。
「先生ね。私の気持ちと向き合って、それから陽のことを考えて。別れなくちゃいけないことに、ようやく納得をして。それならば、陽の誕生日にしてくれないかって」
「誕生日……」
あの人が、覚えていたんだ。いつだって、月を跨いでから思い出していたくせに。
「先生、ちゃんと覚えてたんだよ。陽の誕生日。でも、いつも祝ってあげられなかったって。帰る時に寂しそうな顔をする陽を見るのが辛かったって」
「せ……征嗣さん、が?」
「征嗣さん、か。そう、だね。そんなに苦しそうに言う位なら、結婚しなきゃ良かったのにって、何度も叱ったんだけどね。まぁそれもほら上の人達っていうか、その界隈での政治があるでしょう。選んだのは先生。だから後悔なんてすんじゃねぇってブッ叩いてやった」
徐々に、紗枝が顔を出す。この子は、浅草生まれの江戸っ子。直ぐにカッとなる。その勢いが、こうして私達の別れに繋がったのだろう。ずっと互いに踏み出せなかった一歩を、懇切丁寧にレールを敷いて、背を押してくれた。今後一生、私はこの子に頭が上がらない。
「陽、別れたかったのよね?私、余計なことした?」
「え?ううん。そんなことないよ。きっと私と征嗣さんは、お互いに見えていたはずのものに手を伸ばせなかった。多分今後も、出来なかったと思う。でも、彼には妻子があって、このままでは居たらいけないから」
「そうよね。お節介だったかも知れないけれど、良かったってことでいい?」
うん、と頷くと涙がようやく零れた。友人が今も私を大事に思ってくれていたこと。それから、ようやく別れられた喜びも。
「よし。それじゃ、成瀬くんのところに戻らないと。彼にも説明をしないといけないの、私」
「そ、そうか。何か色々ごめん」
「本当よ。まぁでも、この件は先生からしっかりいただいてるので。ふふふ」
紗枝がそうほくそ笑んだ。一番高い部屋。料理にオプションも、全て付いているのだろう。抜けがないのは、紗枝らしい。私達は、学生の頃のように笑い合って、あの部屋へ急いだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます