第52話 私は、何を

「はぁ……」


 また溜息を零したら、鶴が一つ出来上がった。小さな、小さな折り紙をピシッと折り目を付けながら、作り上げた鶴。それの羽を広げずに、私は次の折り紙を手にした。もうこれは何羽目か。今はただ無心になる為に。その小さな紙を、また三角に折り始めるのである。

 窓の外は、高速で景色が流れていた。富士山が見えてシャッターを切る音が聞こえたが、それを見る気にすらならない。私は黙々と、鶴を折っているのだ。何やってるんだろう。そう、ずっと思っている。でも、ここから立ち上がって、途中下車する勇気もない。私は、何をしているのか。鞄の中で携帯が、ブブブ、と揺れた。ゴクリと唾を飲み込み、胸が気持ち悪くドキドキと音を立てる。誰からなのか。それが酷く不安だった。


「あ、緋菜ちゃん……」


 連絡をして来たのは緋菜ちゃんだった。『明日、先に昌平と二人で会いたい。いいかな?』と、書かれたメッセージだ。4人で合流する前に先に昌平くんに会って、これまでの話をする。彼女がそう決めたと言うことだ。前を向いて、きちんと明日を見ている緋菜ちゃん。それに比べて私は……



――あれは数時間前のこと。征嗣さんから、昨日の返事が着たのだ。私が送ったメッセージ。『ごめんなさい。私、行けません』の、返事である。分かってくれればいい。祈るような気持ちで確認をした私。けれど彼は、すんなりと私の意を汲んではくれなかったのである。


『そうか。ならば、行動を起こすまでだ』


 そこには、そう書かれていた。

 一体、何をする気なの?慌てて電話を掛けても、征嗣さんは出ない。何度鳴らしても、延々とコール音が響くだけ。『何をする気?変なことはしないで』と送ったが、既読にはならなかった。征嗣さんは、今、何をしようとしているのか。彼がいつもの征嗣さんに戻っているのなら、本当に何をするのか分からない。一番怖いのは、成瀬くんに何かをしてしまうことだ。最近は少し穏やかではあったが、成瀬くんに対する苛立ちは、何度も聞いていた。流石に、社会的地位を投げうつようなことはしないだろうが、どうなるのかがまるで見えない。その恐怖が、私を一瞬で襲った。

 小さな引き出しから、使い掛けの折り紙の袋を取り出した。無駄で、気を紛らわせられるものが欲しかった。何も考えないように鶴を折りながら、征嗣さんの声を待った。探しに行こうにも、何処へ行ったら良いのか分からない。私まで無闇矢鱈に動いてしまってはいけない。ようやく彼から返事が着たのは、不安になりながら10羽の鶴を折り終えた時だった。


『変なこと?どういう意味だ』

『あぁ、なるほどな。やってみるか』


 血の気が引いた。何もしないで。危険なことはしないだろうけれど、嫌がらせの類のことなら、彼はきっとやる。とにかく、成瀬くんを守らねば。そして私は、決意したのである。京都へ行こう、と。

 十年以上関係を続けて、初めて誘われた旅行。こんなに直前に、簡単に断れると思ったのが馬鹿だった。それに、これできちんと別れるのならば、面と向かって話をしなければいけないだろう。それが苦しくても、怖くても。11羽目の鶴を折り上げて、思わず握り締めた。逃げてはいけない。両頬をパチンと強く叩いて、私は立ち上がった。


『分かりました。今から行きます』

『だからどうか、何もしないで』


 そう返事をして、大きな旅行用のバッグを手にする。いや、これは旅行じゃない。私はそれを離し、出張用の鞄を持ち直した。それに最小限の荷物を放り込んで、下着の引き出しを開ける。日帰りで帰ってくるつもりだが、今から行って間に合うか微妙だ。話が拗れれば、どこかに泊まることになるだろう。勿論、征嗣さんとは違うホテルに。

 瞬時にそう判断をして、着ていたワンピースを脱ぎ捨てた。いつもここで着ている服ではダメだ。キチッとした服で行こう。征嗣さんと居て、変な目で見られないように。それから、遊び出来た訳では無いと彼が感じるように。私は決意を固めて、部屋を出た。テーブルの上の折り紙を無造作に詰め込んで――



「ん、あ……Do you want?」


 視線を感じて目をやれば、外国の子供が私を見ている。正確には、私というよりも折り鶴を、であるが。彼はニコッと微笑んでから、大きく頷いて見せた。通路の向こう側で両親だろうか。少し心配そうにこちらを見ている。


「Here you go.」

「Thanks!」


 無意識に折っていた鶴を3つ、彼に手渡す。私の気を紛らわせるだけのものなのに、とても喜んで受け取ってくれる。あぁ何だか申し訳なくて、力ない笑みしか作れない。

 そんな私と少し微笑み合った後、彼らは名古屋で降りて行った。次の停車駅は、京都。16時くらいには着くだろうか。あぁ気が重い。けれど、これを乗り越えれば、私は自由だ。そしてこれ以上、誰も傷付けることはない。その希望だけを支えに、私はまた黙々と鶴を折った。何かに、祈るように。


「京都、京都」


 どんなに躊躇っていようとも、新幹線は予定通りに目的地へ到着する。重い気持ちのまま烏丸線に乗り換えた。懐かしい人々の雰囲気に飲まれながら、待ち合わせた旅館までは30分ほど。ここの扉を開けるのは、気が重い。


「おこしやす」


 高級であろう旅館。入口には仲居が数名おり、その中の1人が私の鞄へ手を伸ばした。色気のない、真っ黒い仕事用の鞄。重たい気持ちそのもので、顔がなかなか上げられない。


「お名前頂戴してよろしいでしょうか」

「お……小山田です」


 そう言われて躊躇いながら答えた名。チラッと相手を見れば、『あぁ、あの』とでも言いたげだった。しかし、それはスッと仕舞い込まれ、微笑みと共に迎えられる。それが何とも気不味くて、もうその顔すら思い出せない。

 通された部屋は、続き間の付いている絶対に高い部屋。征嗣さんは、ここに何度も来ているのかも知れない。1人だったのか、それとも家族が一緒だったのか。そんな場所に私を呼びつける神経を疑いながらも、こんな高級な所に泊まれるようになったんだなぁ、と変に時の流れを感じていた。


「偉くなったもんだな……」


 フッと薄い笑い声を上げて、庭を見渡すように置かれた椅子へ腰掛ける。静かな木々の中に、池の水面が風に微かに揺れる音が届く。住んでいた所とは全然違うのに、あぁ京都へ帰って来た、と思えるのだから面白い。久しぶりの京都。街へ出れば、征嗣さんとの記憶ばかり思い出すだろう。だから私は、何も見ずに真っ直ぐにここへやって来た訳だ。久しぶりに覗きたい店もあったけれど、仕方ない。


「征嗣さん、まだなのかな」


 そう気にしているのは、帰宅時間のことを加味しなければならないからである。征嗣さんが来て、ちゃんと話をして。私はここを出なければいけない。どこかホテルが空いているだろうか。どうなるかも分からないから予約も取れないし、最悪、帰れるところまでは帰ろう。京都でなくたって、征嗣さんと離れていられればどこでもいい。

 部屋のポットで湯を沸かし、茶を淹れる。コーヒーもあったが、何となく庭園を眺めながら飲むのは日本茶のイメージだった。あぁそうだ。征嗣さんとお別れしたら、私、コーヒー飲めるかしら。どうでもいい心配が頭を過る。


「馬鹿みたい」


 そう零して、また鶴を折り始める。こうすることが、根本的解決に繋がるとは思っていない。ただ一時の感情から目を背けるだけだ。その時はいずれ、やって来る。電源を落としたままの携帯を、鞄から取り出す。新幹線に乗る時の習慣で、ついそうしたままだった。もしかしたら、何か連絡が着ているかも知れない。


『そろそろ着いたか』


 冷たい画面を見て、ギュッと唇を噛み締めた。もう少し、優しい言葉を掛けてくれてもいいのに。急遽ここまで来た私を、彼は何だと思っているのだろう。今日、を静かに過ごしたかった私のことを。


『さっき着きました。部屋に居ます』


 結局私も、色気のない返事をする。やっぱり私たちに愛はないのだ。改めてそう思えば、無意味な関係を続ける必要のないことに気付かされる。


『分かった。もう少しで着くと思う』


 珍しく直ぐ返って来たと思えばこれだ。どうせ、あの人は夜まで来ないだろう。適当に私を宥めて、家族の時間を過ごしてから来る。いつもそうだ。こうやって私は無表情のまま、待ち惚けしている人生でだった。

 そしてまた、何羽目かの鶴を折る。まだならば本を開きたいところだが、きっとページは進まないだろう。今は何も考えずに、これを折る方が良いのだ。あぁどうしてこんな日に。そう思いながら、ひたすらに折った。南禅寺や平安神宮、それから八坂神社の方へ久しぶりに行ってみたくとも、彼が着いた時に居なければそれはそれで厄介なことになる。仕方がない。


「征嗣さん、どうして今日なの」


 1人呟いた。答えなど、当然返って来ない。

 征嗣さんとの初めての旅行。恍惚な時間に、行くと言ってしまった私が馬鹿だったのだが。まさかこんな日に、彼が予約をしてくるとは思わなかった。だって、今日は私の誕生日。彼はきっと忘れてしまっているであろう、私の誕生日。こんな日に、別れ話をしなければならないのは、これまでの自分の行いのせいだろうか。それとも、誕生日だと分かっていて、今日ここを予約してくれたのか。


「そんな訳ないな」


 悲しいかな即座に自ら否定が出来る。これまで何度もあった私の誕生日。大抵は忘れられている。論文を書くのに没頭してた、とか。次年度の用意で気付けば終わっていた、とか。4月になってハッとした征嗣さんが、申し訳なさそうに詫びるのが常だ。あぁもう最近は、そんな顔すらしなかったかも知れない。

 とにかく、綺麗な思い出などないのだけは確かだ。彼が結婚をする前からずっと、私の誕生日はただの、ありふれた3月21日だっただけ。だから今更、征嗣さんがそんな優しさを見せるはずなどないのだ。絶対に、そんなはずなどない。私は、黙々と鶴を折り続ける。自分の深部が、を期待しないように。淡い期待など、持たぬように。


「失礼致します。お連れ様がお見えになりました」

「はっ、はい」


 どれくらい経っていたのか分からない。仲居の柔らかな声が、急に耳に届いた。時計を見れば、もう18時半。目の前には山のように鶴が折られている。襖が少しずつ空き始めると、私は大きな唾を飲み込んで、目を瞑った。深呼吸。これから戦いが始まるのだ。征嗣さんとではない。私自身の弱さとの、戦いである。


「こちらでございます」

「有難うございました」


 有難うございました?まだ目を瞑ったまま下を向いていた私は、疑問符を並べた。征嗣さんが、そんなこと言うはずがない。それに、この声。征嗣さんよりも、ずっと若くて、柔らかな声。恐る恐る顔を上げ、その主を捉えた私は目を丸める。


「な、るせくん……?どうして」


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