第51話 私はどうしたいのか

 一昨日、征嗣さんがの書き残したメモ。それを見つめて、私は自分に問うている金曜の夜。お前はどうしたんだ、と。そこに書かれているのは、明日の待ち合わせのこと。行ける時間が定かでないから、先ずはホテルで落ち合おう。彼はそう言って、ホテルの名を書いて行ったのだ。花見の予定は、日曜の夜。仮に泊っても、間に合わないこともない。

 予約をしたという旅館は、南禅寺の辺りだった。そこは、私達が過ごした場所の程近くである。それだからか、懐かしさが更に私の背を押してしまうのだ。行こう。行ってしまえ、と。行ったって、楽しいはずがない。終わりにするのなら、このまま思い出など増やさない方が良い。分かってる、分かってる。それに、彼には今も大切な妻子がいるじゃないか。ダメだ、ダメだ。他人が見たら、苛々するような押し問答を繰り返している。関係が不道徳なものになってからというもの、私達は日の目を浴びるようなところへ出掛けたことがない。ただひっそりと、私の部屋で会うだけ。すれ違う幸せそうな恋人達を横目に、そう長く過ごしてしまった。だからだろうか。行きたい気持ちが、沸々と湧いてしまうのだ。ここを飛び出して会う、ということが、急に罪の意識を重くさせると言うのに。誰にも言えない。言えるはずのない感情が、確かに存在している。


「……ダメだ。ダメ」


 ハッキリと言葉にしないと、迷いが断てない気がした。たとえその声が、微かでも、震えていても。何度も何度も、ダメだ、と繰り返した。堂々と一緒に歩きたい。征嗣さんを想う私が顔を出しては、そう悪魔のように囁く。ダメだ。頭を振って、携帯を握る。今のうちに征嗣さんに連絡しなければ。

 立ち上げた画面には、成瀬くんからの着信記録。あぁ、全然気が付かなかった。表示されている彼の名をじっと見つめ、私はそのまま発信ボタンをタップしていた。


「……あ、成瀬くん。電話いただいてたみたいで。気付かなくて、ごめんなさい」


 あぁ、馬鹿みたい。何の迷いもない様な、平気な声が出る。こんな時に、何年も疚しい関係を続けている女だな、と変に実感してしまう。


「あ。あっ、うん。良かった。忙しかったよね、大丈夫?」

「えっ、あ。うん。大丈夫」

「本当に?」

「え?うん。大丈夫だよ」


 見透かされているのかと思った。ただ、仕事が忙しいことを心配してくれているだけ。それなのに、何かを迷っていることを見抜かれた気がしてしまったのだ。大丈夫、大丈夫。私は上手くやれている。


「そっか……うん。それは良かった」


 何かを気に掛けた彼の声は、本当にホッとしたように聞こえた。心配してくれて有難いと思えば、勿論胸は痛む。早く征嗣さんとのことを解消しなければ、彼をどんどん傷付けてしまうのだろう。それが出来ないのならば、私は彼と縁を切るべきなのだ。でも、それも今の私には出来なかった。征嗣さんと別れるのに、成瀬くんも緋菜ちゃんも昌平くんも、誰一人居なくなって欲しくない。友人が居るという心強さだけが、今私を支えてくれているから。身勝手なことだとは分かっているけれど。


「それで、月曜日のお休みってどうなった?やっぱり仕事になっちゃった?」

「え?あ、あぁ。えっと……いや、お休みにしてもらったよ。うん。折角皆で会えるしね。私だけ次の日仕事って、1人だけ楽しめない気がしちゃって」


 あぁ最低だ。私は成瀬くんに会う予定を取り付けて、自分の衝動を堰き止めようとしている。卑怯だ。けれど、そうでもしないと京都へ行くのを止められないそうにない。

 そんなことなど何も知らない成瀬くんの、「そうだよねぇ」と言った柔らかい声。それが酷く私の胸を掴んだ。1人仕事に行かねばならぬ私を想像して、不憫に思っただけなのか。それとも、下手に笑う私を疑っているのか。


「あ、じゃあさ。お休みだったら、ランチ……とかさ。どう、だろう?」

「そ……そうだね。何か美味しい物食べに行こうか。えぇと……年度終わりだから」

「何その理由。ふふっ、でも良かった。また断られるかと思ってた」

「あ、ごめんね。忙しかったから」

「いえいえ。ちょっと拗ねたけどさ。まぁ仕事だもん。仕方ないよ」


 子供のように、剥れた声でそう言う成瀬くん。その無邪気さが可笑しくて、ホッとする。後ろめたい思いを持ちながら今日も、私は彼に救われていた。

 会わなかった時間、彼は私を疑ったと思う。そう思われても仕方のないことを、ここのところずっとしている。緋菜ちゃんのことを言えなくて、隠して来た。当然、征嗣さんへの想いだって。成瀬くんの知らぬところの話を何もしなければ、私に感じる違和感全て、征嗣さんにあると思うだろう。それは仕方ない。今更、成瀬くんに良い人に見られたいだなんて思わない。どうせ、私の薄汚さを彼は知っているのだから。


「ねぇ、陽さん。緋菜ちゃん、どんな感じ?」

「緋菜ちゃん?いやぁ……普通だったけど」


 不意にそう問われてしまうと、元気にしてるよ、なんて言ってしまいそうになる。あと少しだけ、この嘘は続けなければいけない。彼らは驚くだろうな。それはちょっと意地悪だけれど、楽しみにしていたりする。


「日曜日は、緋菜ちゃんお仕事なんだよね?」

「あぁ、うん。そう。定時に上がるから、十九時には上野公園へ来られるって。何か久しぶりで、ワクワクしちゃうよねぇ」

「そうだね。陽さんは大丈夫?緋菜ちゃんと会うの」

「え?あ、あぁ。うん、大丈夫よ。気にしてないもの」


 そうだった。私は罵られたまま、彼女に会っていないということになっている。やっぱりこういう隠し事は、得意じゃないな。征嗣さんのことを隠すのは、得意なのに。

 私は、彼との会話をそのままに、征嗣さんへメッセージを打ち始めた。屋台も出てるかなぁ、なんてどうでもいい話をしながら。『ごめんなさい。私、行けません』と打ち込んだ。いいんだ、これで。征嗣さんは、優しそうな奥さんと可愛い娘がいる。

私との思い出なんて、増やさなくていい。成瀬くんと文房具の話を始めながら、私はそのメッセージを送信した。


「そうだ。日曜日ランチ食べたら、また散歩しない?上野じゃない所の桜とかさぁ」

「……あぁ、うん。そうだね」

「桜じゃない方が良い?」

「え?あっ。桜、良いんじゃない?天気が良かったら、公園で本とか……あ、いや。散歩して、お茶しよう。それから文房具も見たいな。新しいインク欲しいんだよね」


 公園で本を読むのは、征嗣さんと昔したことだ。忘れていたあの時のこと。京都を思い出していたから、つい口を吐いてしまった。ダメだな。思い出される、幸せだった頃の征嗣さんと私。もう忘れなくちゃいけないことだ。


「インクかぁ。いいね。今色々あるよね」

「うんうん。そうなんだよね。春色の、可愛らしいの欲しいなぁ。まぁそんなに使うこともないんだけれどね」

「あぁでも、コレクションしたくなるよね。結構、瓶も可愛かったりして」


 文房具の話に彼が乗って来ると、私は大きな安堵を得た。このまま話を続けて、終えたら直ぐに風呂に入ろう。それから携帯は見ずに布団に入って、静かに目を瞑ろう。どうせ征嗣さんは、この時間にはメッセージを寄越さない。明日、征嗣さんから返事が来るだろう。そうしたら言うのだ。もう終わりにしましょう、と。

 どうせ、私に対する愛なんてない。伝えるのが面倒でも、別れなくちゃいけないんだ。別れる為の近道はない。遠回りしても、この関係ははっきりと終わりを見つけなければいけない。何処まででもズルズル出来てしまう関係。バレなければいい、と続いてしまうのが不倫なのだ。こんな不毛な関係は、きっと互いに良くないはずなのに。


 私は、どうしたいのか。征嗣さんと一緒に居たい気持ちは、残念だけれどまだ存在している。でもそれ以上に、清算しなければいけないと強く思っていた。ヒヨコ色のリュックを背負ったあの子を見た日から。その気持ちはずっと強くなっている。何度も右往左往して躊躇ったけれど、もう終わり。あの子を不幸には出来ない。

 大丈夫。この決断は、間違っていない。きちんと別れを伝えて、それから成瀬くんに会いたい。お日様の下で。堂々と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る