第50話 開花宣言は直ぐそこに

「昌平くん、納得してくれたかなぁ……」


 根津の改札を出て、私は薄暗い道を歩き始めた。少しだけ足取りは軽い。

 今日は緋菜ちゃんと休みを合わせて、お洋服を買いに出掛けた。花見の時に着る物、みたい。彼女はこの挑戦を決めてから、部屋を綺麗に片付けた。派手そうな服や鞄、靴、その全てを手放し、本当に必要な物だけを残したようだった。つまりは、自分を良く見せる為に纏っていた鎧を、全て手放したのだ。気が楽になったろうが、久しぶりに好きな人に会うには、心許無かったのだと思う。

 そしてそんな帰り道、今度は昌平くんから連絡が着た。緋菜ちゃんと連絡を取った私に、彼女はどうしていたか、と。いつも通り。大丈夫だよ。そうとしか返せないのがもどかしかった。今のところ私の感覚では、彼もまた気持ちが変わっていない、と思っている。あのことを、成瀬くんは昌平くんに話をしたろうか。自分のことばかりで、全くそんな話になっていなかった。花見の前に、確認だけはしておいた方が良いかも知れない。今年の桜の花は、予定よりも早く咲くようだ。ぼんやり4月、と言っていた予定は、急遽3月22日へと変わった。それはもう、直ぐそこまで来ている。


「はぁぁぁ……」


 浮かれてばかりいられなかった。急いで帰らねばならないのだ。今日行く、とだけ連絡してきた征嗣さんの為に。あぁ情けないな。別れようと決めているのに。彼が来る、という理由だけで、足取りが跳ねている気がしてしまう。そんな機嫌の良さに相反して、今度は絶望に近い大きな溜息が勢いよく飛び出す。今はそのくらい、私は両極端な意見を持っていた。

 成瀬くんに確認されて、身を引き締めていたのに。パブロフの犬のような条件反射が、私の中に出来上がってしまっている。十年以上の時間をかけて蓄積、形成されてきた、何一つ、誰にもも誇れない実績である。こんな状態で、私は彼と別れられるのだろうか。別れた後はどうなるのだろうか。最近の私は、そんなことばかり考えている。仕事をしても何をしても、合間合間で顔を出す。未来への憎き不安が、私の頭を占領していた。


「あっ」


 出来るだけ早く帰ったつもりだったのに、既にマンションの前にある姿。大きな背を丸めた後ろ姿。近づく程に見えて来る、癖のある襟足。それを見て私は、今日も安堵している。残念ながら、私の中ではまだ『喜び』が勝っているのだ。それに気付けば、悲しくて虚しくて、奥歯に力を込め、絶望するのだ。それだけ私は、長い間彼に依存して生きて来たのだ、と。


「こんばんは」


 そう小さく、征嗣さんへ声を掛ける。合わせた視線は1秒にも満たない。いつもの虚しい習慣である。静かな部屋の鍵を開け、明かりを付ける。バッグから携帯を出し机に置くと、直ぐに鳴るインターホン。もういつもと同じ。何食わぬ顔をした征嗣さんが、モニターに映っている。


「陽、俺」

「うん。どうぞ」


 この短いやり取りに愛はない。無感情で淡々と執り行われている。

 彼は、私に愛情など持っていない。確認などしたことはないが、そう思っている。他の人との結婚を選ばれた時点で、そうする権利を失ってしまったのだ。それに、そう思っていなければ、私はこの先が怖かった。愛されていると錯覚し、それを求めたまま、手を離してしまったら?きっと戸惑い、狼狽え、死んでいくのだろう。井の中の蛙大海を知らず。私は蛙そのものだった。

 あぁそれなのに、カウントダウンをするのが止まらない。彼が部屋の前へ来るまで、あと5秒。こんな計算しながら玄関で待っている事など、征嗣さんは知らない。


「征嗣さん」

「あ、おぉ。急にごめんな」

「ううん。どうぞ」


 馬鹿みたい。まだ可愛い顔をしようとしてしまう。酷く呆れているはずなのに。大抵そういうものは、こういう時には顔を出さなかった。


「コーヒーで良い?それとも、今日は飲んじゃう?」


 そうだなぁ、と悩んだ征嗣さんを横目に、私は母の写真を倒す。自分で不道徳さを理解している、と示すように。

 頭の中で色んな計算をする彼を見ながら、ちょっとだけホッとしている。征嗣さんは少しずつ、元に戻って来た気がするのだ。結局彼の悩みは、何だったのか。私には知る由もない。つまり、自分が中途半端な存在であることを突き付けられてしまった。これから先、共に生きる訳でもない。仕事の相談をする相手でもない。私は彼の何なのだろう。そんな疑問が、いつだって私の虚を衝いていた。


「今日は少し飲もうかな」

「本当?じゃあ、ちょっと長く居られる?」

「うぅん、そうだな。ちょっとだけな」


 尻尾を振っている自分にハッとする。直ぐにそれを苦笑いに変えて、彼にビールを手渡した。

 何かつまみになる物をと、私は冷蔵庫の中身と睨めっこする。可愛らしい物があれば、と思うのだが、ここにあるのは悲しい三十路女の寂しい作り置きだけである。仕方なく、ナッツと金平、ピクルスを出した。他は椎茸を焼いて、それから何を作ろう。


「陽。俺、久しぶりにあれ食べたいんだけど」

「あれ?あぁポテトサラダ?」

「そう。作れる?」

「うん、大丈夫。ちょっと待ってね」


 私の料理の中で、彼が一番初めに食べた物。それは、キュウリが沢山入ったポテトサラダ。何だか成瀬くんとは正反対で、ちょっと笑ってしまうけれど。


「ん、どうした?」

「あぁ、いや。久しぶりだなぁと思って。ふふ。懐かしいね」


 あの頃を思い出すのは、私だけなのかな。若かったあの頃。何をしても、何を食べても、2人なら楽しかったあの頃を。

 ポテトサラダなんて、作り方は普通で、そんなに変わった物ではない。けれど征嗣さんは、それをとても気に入ってくれた。私はそれが嬉しくて、得意気になって征嗣さんに作り方を教えたりしたっけ。彼はきっと忘れてしまっただろうな。可愛かった若い私を思い出して、つい懐かしんだ。


「陽。成瀬くんとは会っているのかい?」

「ん、成瀬くん?会ってないわよ。1月に会ったきり。彼も忙しんじゃないかしら」

「ふぅん。そうか」

「あ、でもね。日曜日のお花見には、彼も来ると思うから。その時には会うんじゃないかな」


 そう、花見はもう直ぐそこだった。成瀬くんに会うのは、今も気が重い。本当は桜が咲く頃には、征嗣さんと別れているはずだったのに、何一つ近付いていない。合わせる顔がないが、彼はどう思うだろう。それでも、笑ってくれるのだろうか。


「本当は、成瀬くんと2人でするんだろ?」

「は?何言ってるの。皆一緒よ。ほら、年越しを一緒に過ごした子たちと一緒。2人でなんて行く訳ないじゃない」

「ふぅん、そうか」


 不機嫌な様子ではない。興味がないだけなのかも知れない。でも、征嗣さんが成瀬くんを意識しているのは、間違いないと思った。もう少し、きっともう少しだ。私はキッチンに立って、僅かに口元に力を入れた。

 旅行に行くか、と征嗣さんは少し前、確かに言った。そんなことは今まで、一度だって言われたことがない。馬鹿な私はそれに喜んだけれど、きっとアレも口だけ。だって、よく考えれば行けるわけがないもの。家族に何て言って出掛けるつもり?だから、それは実現しない。別れの方が先に来るのだろう、と思っている。


「はい、出来たよ。もう少し寝かせた方が美味しいけれど、今日は良いよね」

「おぉ。有難う。久しぶりだなぁ。京都に居た頃さ、しつこく教え込まれたよな。今も作れるかなぁ」

「え?」

「何だよ」

「覚えてるの?」

「忘れてないよ。あの時の陽、嬉しそうだったし。俺も楽しかったから」


 胸がキュッとなった。トゥクトゥクって音を立てて、私をざわつかせる。征嗣さんが覚えてた?忘れてしまっても仕方のないことを?恥ずかしくなって、上目遣いに見た彼。あの頃のように、美味しそうな顔をして、キュウリの沢山入ったポテトサラダを頬張っている。


「そうだ、陽。旅行、なんだけど」

「えっ」

「ん?行くんだろ?」

「あ、えっと……良いの?」

「約束しただろうが。何言ってんだ」


 さも当然のような顔をして、私の頭を撫でる。いつもの彼は、こんなことはしない。もっと無慈悲で強引で、意地悪な人だったはず。そう思っていたのに。別れる、別れる。その気持ちは変えない。でも……


「急なんだけどさ。宿取ったんだ」

「え?もう予約したの?」

「あぁ。予定も聞かずにごめんな」


 どうしよう。嬉しい。フルフル、と首を振るのが精一杯。動揺している心は、半分以上喜びだった。


「そっ、い、い」


 いつ?と聞こうと慌てた私の口を塞ぐように、携帯が鈍い音を立てて震えた。ゆっくりと目をやり、私を現実に引き戻すポップアップ。


『陽さん。もし月曜日休むなら、会えませんか?』


 そう書かれている。送信者は、成瀬文人。征嗣さんと一緒に最も見てはいけない相手。何も言えず、動けもせず。ただただ、冷や汗が出始めていた。


「陽、月曜休んだのか」

「え、あ……うん。有休も余ってたし。今年は仕事にも余裕があったから」

「そうか。じゃあ、京都で少しゆっくりしないか」

「え?宿、今週末に予約したんだ」

「それとも、成瀬くんとデートを選ぶか?」


 目を見開いて固まる私を、征嗣さんは「冗談だよ」と意地悪に笑う。それのどれが冗談なのか、私には判断が付かない。週末に宿を予約したこと?京都に行こうと言っていること?それとも、成瀬くんを選ばせようとしていること?今、どんな顔で彼を見ているのか。私にはそれすら、まるで分らなかった。


「征嗣さん、それは……ど」


おどおどしながら確認しようとする私を、陽、と優しい声が遮った。

その目はじっと私を観察している、あの蛇のような目。

睨まれて、逃げることが出来ない。

あんなに優しい声で私を呼ぶのに、その目はまるで私をかみ殺すような勢いだった。


「陽は、成瀬という男のことをどう思っているんだい?」

「どうって。どうも思ってない。ただのお友達の一人っていうだけ。彼に特別な感情なんて、持ったこと、ないわ」


 息を吐くように嘘を言わなければ、征嗣さんに見透かされる。焦ってもいけない。動揺もしない。ただ呆れたように、何言ってるの、という顔を見せるだけだ。それをじっと征嗣さんが見ている。じっとりと、蛇のような目のまま。成瀬くんに感じた淡い心なんて、絶対に気付かれてはいけない。


「なぁ、陽」

「ん、なぁに」

「でも、嫌いな訳じゃないんだろう?」


 蛇のような目を隠して、今度はぼんやりと私を見ていた。嫌な訳じゃない、か。仮に征嗣さんと別れられたとしても、やっぱり私は成瀬くんの隣には並べない。この関係が清算出来たとて、私の犯した罪が洗い流される訳では無いのだ。征嗣さんの手に自分の手を乗せ、少し微笑み掛けた。何だか彼が、泣いてしまう気がしたから。無慈悲で嫌味なのが征嗣さんだけれど、そう思える程だった。泣いている所なんて、想像ですらしたことがない。だから、絶対に泣きはしないけれど、そんな疑念が拭えなかった。


「そうね。嫌いではない。ただのお友達だけれどね」

「なるほどなぁ。あとは仏壇屋の子だっけ?」

「あ、緋菜ちゃん。そう可愛らしい子でね。ふふ、好きな人もいてね。今日も一緒にお買い物して、恋愛相談なんてしてくれるんだよ。私に」


 楽しそうだな、と私の頭に大きな掌が乗る。優しく数回撫でた手は、そのまま私を抱き寄せた。そしてゆっくりと唇が重なる。徐々に熱を持ったキスは、静かな部屋にいやらしい音を響かせた。頭を撫でていた手は、スルッと私の服の中へ忍び込む。静かに私を押し、唇は離れる。あとはもう、甘美な押し殺した声が漏れるだけ。いつものように時折噛みつきながら、彼は私を抱くのだ。そこにはもう、愛はないだろうに。


「陽……今週末、京都。いいね?」


 私は少しずつ恍惚に溺れながら、頷いた。二人で行こう、と彼が耳元で囁く。それに何度も首を動かし、応える。征嗣さんはそれを見て、微笑んでくれた。穏やかに、嬉しそうに、微笑むのだ。馬鹿げている。本当に、馬鹿げている。けれど一瞬、幸せを感じてしまった。愛されていないのに、愛されていると錯覚したのだ。自分本位な解釈をしながら、私は少しずつ快楽に溺れていった。

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